フルパワーでラン
ふんわりと広がるドレスの裾を揺らしながら、準備運動と呟いて腿上げをし出した目の前のお嬢様。頼むから、早く誰か止めてください。
エレナの執事であるクラウスは、バタバタと動く主を見ながら遠い目をして心の中でヘルプを出した。
お嬢様は、こんな人では無かったはずだ。
ドレスを着ながら全速力で走るからタイムを測ってくれとかいう意味のわからない、バカらしいことを言うような人ではなかった。
お嬢様がおかしくなったのは本当に、つい最近。多分、四日ほど前だろうか?
最初の違和感は食事の時だった。あの、完璧令嬢と謳われる彼女の食事マナーがどことなく砕けていた。いつもはゆったりと、美しく食べる朝食を所作はそのままに、スピードがとてつもなく早くなっていた。どうやら普段キッチリしているマナーを気付かれない程度に省いたりしていたっぽい。というのは次の日の夕御飯でじっくり観察して、判明した。
そして、その違和感が確定してしまったのが二日前のお嬢様土まみれ事件。いつも部屋で静かに本を読んでいるはずのお嬢様がいない、さらにはお昼ご飯も食べていらっしゃらない!と使用人全員で必死に探し、五時間ほど後に発見されたらしい。発見者であるメイド曰く、お嬢様は鳥を捕まえたかったらしい。しかし、あのお嬢様が土まみれになっていたことから特別な意味があったのではとか、何かの儀式をしていたのではないかとか、色々と噂されているが、真偽は分からない。
……だが、俺は見てしまったのだ。地に這いながら鳥へと手を伸ばし、鳥が飛んでいく姿を呆然と眺めるお嬢様の姿を。
さすがに、悪い幻覚だろ思って無視していたのだがどうやら本物だったらしい。
そして今、目の前のコレである。
この屋敷は、迷子になるとその人をなかなか見つけ出せなくなるくらいには広い。たまに、使用人である俺ですら地図を見なければ迷いそうになる事があるほど。
そして、そんな広い屋敷の形を活かした、真っ直ぐに伸びる長く広い廊下も多くある。
そんな素晴らしい廊下で、俺は時計を持ちながら立たされている。
なぜ、こんなことになったのだろうか。記憶を辿ったってよく分からない。いつも通り今日の予定を伝えて、紅茶を入れて、部屋を出ようとしたら時計を握らされたのだ。無言で。
そして、ただ一言。
「今から全力で走るから、測ってちょうだい」
そう、いつもの無表情と抑揚のない声で言われたのだ。
うん。分からない。
そして徐に体操をしだしたので聞いてみれば、「準備運動」と呟いただけ。
今はどうやらヒールを履くかどうかを迷っているらしい。履いたり脱いだりしながらその場で足踏みをしている。
……ヒールは無しでいくらしい。まあさすがに、走るには厳しいと思ったのだろう。しかし、そうなるとつまりは裸足。
あの、厳格で真面目で美しいお嬢様は何処に行ってしまわれたのだろうか。本当におかしくなってしまったのだろうか。もしくは、何か意図があるのだろうか。できればそうであってほしい。
「終わりが分かりやすいように、あなたをゴール地点とするわ」
そんな俺の葛藤も露知らず、そう言ってお嬢様は走り出した。既にそこでも全力らしい。ドンドンと音を立てながら勇ましく去っていく彼女の背中は距離的には小さくなるはずなのに、大きく感じられる。そのくらいのやる気が漏れ出ている。と、感じたのは気のせいではないはずだ。多分。
向こうに着いたらしいお嬢様は俺の伸ばした手のひらくらいの大きさになっていた。距離的にはだいたい五十メートルほど。
お嬢様が遠くで手を上に上げる。これが始まりの合図である。
俺は時計を見て、次に走り出したお嬢様を見た。
気持ち、ちょっとガニ股気味で、手はチョップをする時のようにピンと揃えて立てている。姿勢は綺麗だし、足もしっかりおへその辺りまで上がっている。そのせいか、顔は変わらず無表情なのに、段々と近付いて来る姿は謎の圧に溢れている。
お嬢様はそのままの勢いで時計を見る俺の横を通り過ぎる。シュンと遅れてやってきた風が、どことなく実家で飼っていた犬を思い出させた。ああ、ホームシック。なんてことはどうでも良くて。息を切らせたお嬢様がこちらを振り向く。
結果は九秒ほど。
記録を伝えたお嬢様の顔は不満そうだった。私はもっと速くできるぞとでも言いたそうな雰囲気を感じた。
「もう一度やりますか?」
恐る恐る聞いた俺に、お嬢様は間髪入れずに頷いた。
――どうやらドレスが悪かったらしい。
メイドに指示をしてドレスを膨らませる為に入れているパニエやら、ネックレスなどの邪魔な飾りを取らせたらしいお嬢様は、スッキリとしたドレスの両裾を取って結んでいる。はしたない。
メイドも慌てて止めてはいたが、お嬢様が何も言わず、メイドに目もくれずただひたすらに結ぼうとするという無言の抵抗をしたため諦めざるを得なかった。かわいそう。
しゅんとしたメイドはせめてもの足掻きとして、俺と共にお嬢様を見守ることにしたらしい。
二人で、小さくなっていくお嬢様の背中を見つめる。
ふと気になったらしいメイドは不思議そうな顔をしながら俺に言った。
「これ、何ですか?」
「私も分かりません」
俺に聞かないで欲しい。むしろ俺が知りたい。
そんな俺の返事に苦笑いを返したメイドからは明確な憐れみの感情を感じた。
そんな我々の事など気にもとめず、お嬢様はまた手を挙げて合図する。俺は時計を見る。秒針の位置をしっかりと覚えて、走ってくるお嬢様を見る。
真剣な顔で、全力をで走るお嬢様はやっぱりちょっとガニ股気味だが、さっきよりもチョップの手を強めにブンブンと振り回している気がする。足の上げ具合も、先程走ったばかりだとは思えないほど、ちゃんと上がっている。
正直、いいとこのお嬢様なんだからもっとお淑やかに走ってくれ。と思ってしまうのも許して欲しい。というか割と常識的で、切実な願いであると思う。
正面に結んだドレスの結び目がぴょんぴょんと揺れて不格好だ。だが、確実にタイムが上がっている。
先程同様、その勢いのままにお嬢様が走り抜ける。先程よりも強く感じる風がタイムを縮めたのだというのを明確に表していた。隣のメイドも思わず拍手をしている。
秒数は、七秒ほど。
それを伝えようとしたが、勢いがよすぎて止まれないらしいお嬢様はそのまま走り去ってしまう。そんなお嬢様の背中へ、大声で叫ぶ。
「七秒です!!!」
そんな俺の叫びを、片手を軽く挙げて応じたお嬢様の背中はやっぱりたくましかった。