『戦血』
「お嬢様、どうかそのままで。その姿ではろくに走る事が出来ないはず」
ヴィサゴの手が肩に触れる。
間違いなく、そのまま自分を連れ去ろうとしていると、エミイは分かっていた。
それでも体を動かすことができない。
オリセにこの姿を見られるくらいなら、とすら考えてしまう程、エミイは意気消沈していた。
しかしそれも一瞬の、気の迷いだと気づく事ができた。
「離れなさい!」
ヴィサゴを払いのけ、獣の瞳で睨みつける。
「はあ、まだ抵抗しますか……」
エミイはふらふらと立ち上がる。
身体のバランスが崩れ、まっすぐ立つことができず、その上ヴィサゴが必ず『蟻』と同時に視界に入るよう位置取っているせいで、恐怖心から足が竦み、更に直立を阻害する。
蟻から視線を逸らすついでに、オリセの様子を確認する。
蟻の足元で大量の血を流しながら力なく呼吸している姿が、あまり時間が無いと伝えている。
それを見たヴィサゴは妙案を閃いたと言わんばかりに、ぽんと手を叩き、蟻に指示をする。
すると蟻はオリセから足を離し、軽く蹴飛ばした。
「っ……オリセ!」
「そんなに彼が気になるのでしたら、彼も連れて行くというのはどうでしょう」
「なんですって?」
「魔人会の拠点ならば、彼の治療もできます。お嬢様からの頼みであれば、ボスも彼の身柄の安全を確保するくらいの事はできるでしょう」
「……はっ、馬鹿馬鹿しい。その代わり魔術テロに協力しろって言うんでしょう?」
「貴方がた、亜人解放組織と同じ事です。我々もまた『次の時代』の為に戦っている」
「それこそ馬鹿らしいわ。魔人会はほんとに魔術の時代が帰ってくると思っているの?」
「……お嬢様、これが最後です。彼を救いたければ、大人しく」
「……」
エミイは怯えながらも、果敢に抵抗する。
その一方で、仮にトラウマを乗り越えたとして『バランス感覚が乱れている自分にはオリセを連れて逃げることすらできない』という現実が苦しい。
時間にして、三秒。
二人が睨み合い、木々が燃え崩れる音だけが響く。
「「土――!」」
二人同時に詠唱を開始する。
魔術詠唱にも手際という概念がある程度存在する。
この点に関して、魔術使いとしての年の功を上回るには生まれながらの才能が必要となるが、現在エミイはそれを持ち合わせていない。
それ故に、魔術の打ち合いが同時スタートになった時点でエミイに勝ち目はない。
そう思っていたのは他でもないヴィサゴ自身だった。
「硬いのよ、頭が!」
「!?」
エミイは詠唱を続けなかった。
腕が翼に変形した今でも破れていないもう片方の袖から取り出した小さな棒状の物を、ヴィサゴの目前に放り投げた。
そして突如、強烈な光が放たれる。
「ぬお……っ!?」
「こういう時にって仲間に貰ってたの。ずっと使わなかったから名前は忘れたわ。これが『科学』、だそうよ!」
目を抑える男の横を通り抜け、急ぎオリセの下に駆け寄る。
そしてそのまま彼を連れて戻る事ができれば、それが一番良かった。
しかしそれを許すほど、敵も甘くはない。
「それ以上行かせるな!」
「……っ!」
指示に従い、蟻の巨大な足が不気味な音を経てながら、エミイとオリセを纏めて踏み潰さんと迫ってくる。
走ることすらできないエミイは、それを止める手段はない事を悟った。
ずしん、と大きな音がする。
「しまった……つい乱雑な指示を……あの男はどうなろうと構いませんがお嬢様の無事は……っ!?」
慌てて蟻の足元を見たヴィサゴは、まだ少しぼやけるその視界を疑った。
蟻の足は血で赤くなっているというのに、灰と土の混じった煙の中には、エミイとオリセが生きている。
血は蟻自身のものだった。
不可解なこの状況の答えは、エミイがオリセを覆うように開いた背中の片翼にある。
「………………そうか、そういう事でしたか……!それが、ボスが今になって、貴女を探した理由……!そうでしたか、やはり貴女が『継いで』いたのですね……!」
コウモリの翼には存在しない。
存在するはずのない、無数の『棘』。
触れるだけで全てを傷つける程の鋭利な棘が、エミイの翼からびっしりと生えている。
突然、これに関してはエミイも知らない。
蟻の踏みつけに対し必死に抵抗しようとしたら、結果的にそうなっただけなのだ。
心当たりは、すぐに思い浮かんだ。
「この棘……あの異獣の……?」
エミイの初任務、迷路の森にある洞窟の調査。
そこでエミイ含む渡り月の4人が戦闘した、針山の様な巨大モグラ。
激しい命のやり取りの末、トドメを刺したエミイはその刺の鋭さを忘れる訳がなかった。
「でもどうして……」
「それが!!!お嬢様のお力なのです!!!」
「!?」
困惑するエミイとは対照的に、知っているからこそ興奮を隠せないヴィサゴが、抑えきれずに大声を上げる。
「それこそ!ボスの欲した力!魔術書が存在せず、血によって継承されるアバロムの秘伝!特別な血に触れた時、その力を吸収する、古式魔術、『戦血』!」
「私が、古式魔術を……?」
「その棘のように、強き者を殺せば殺すほど生き物として強くなる。まるで合成獣。『混ぜもの』の貴女によくお似合いだ……!」
「っ……」
エミイのコンプレックスが、更に重みを増す。
亜人のなりそこないである自分が、更に化け物味を帯びてゆく。
押しつぶされそうな心の痛みと共に、何かたかが外れたような感覚すらある。
「合成獣……ふふ、そうね……もう、それでいいわ」
エミイには魔術の使い方が、感覚で分かっていた。
片翼だけでなく、腕や頭にも棘を巡らせる。
(敵が蟻だろうと人だろうと関係ないわ。全部見なければいいもの。ただ、獣の様に――)
目元を棘で覆いながら、エミイは立ち上がった。
もう全てを見られてしまった以上、オリセの隣も彼女の居場所では無くなってしまった。
だからせめて、『人生』を殺してでも最後にオリセを守りたいと思った。
しかしそれはエミイの自己満足に過ぎない。
エミイの視界が全て覆われる直前、棘が刺さるのも気にせず、エミイの肩に触れる者がいた。
「……行く、な……エミイ……!」




