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山乃茶屋

作者: 丹羽美幸


その廃墟は、鶴間公園内の雑木林の中に建っていた。園内は、花壇、ヒマラヤスギの並木道、日本庭園など、どの場所も手入れが行き届き、人が行き交っている。なのに、雑木林に佇む廃墟だけ、誰からも見向きもされず、ただ風化に身を任せているように存在していた。廃墟の正面にはベランダ席が設けられていて、長椅子と木製のテーブルが二セット配置されている。出窓には小さなカウンターがあり、色褪せたコカコーラのシールが隅に貼ってある。昔は出店として機能していたのだろう。外壁は年期の入った汚れで灰色と化し、屋根は青いトタンで出来ている。裏に回ると勝手口が有り、その脇にガスボンベと瓶ビール用の黄色のラックが無造作に置かれている。そして、楷書体で「山乃茶屋」と書かれたプラスチック製の看板がぽつんと外壁にもたれるような姿で置き去りにされていた。


私は鶴間公園を日課のように散策しているけれど、その廃墟を眺めるだけで通り過ぎる。幽霊屋敷のようで、薄気味悪い。なぜこの園内で、「山乃茶屋」は撤去されずに放置されているのか不思議でならない。山乃茶屋を囲む雑木林も、太陽の日差しが僅かしか届かず、鬱蒼としている。この区画だけ、隔離されているかのようだ。私はザクザクと落ち葉を踏みながら、雑木林の中をあてもなく歩く。一呼吸置き、大木の幹にもたれ、耳を傾ける。「ゴウゴウ」という音が聞こえ、樹液が幹内を動いている様子を想像する。こうやって、「聴く」という作業に集中しなければ、私を取り巻く音は、微かに鼓膜を揺らすだけで通過してしまう。「見る」ことも「喋る」こともそうだ。意識を集中させなければ、目に映るものを脳に残さないし、口から音を発する事もしない。生きるために必要最低限のエネルギーしか消費しなくなると、呼吸は非常に浅くなる。体内に十分な酸素を取り入れなければ、五感は薄い膜を張ったように弱くなる。世間を離れ、あらゆる感覚に蓋をした私は、鶴間公園、とりわけその雑木林に足を踏み入れると気持ちが落ち着いた。私は山乃茶屋を眺めながら何周も歩く。活気のある山乃茶屋が、ゆっくりと衰退する日々。そんな物語を想像しながら歩くことが習慣になっていた。


春の訪れを告げるような、柔らかで静かな雨が降る夜。私はベッドの中でひたすら雨音を追いかけていた。目を瞑りながら耳を澄ませると、街路樹がさわさわと揺れる音が聞こえる。そして、いつもの雑木林を散策する光景が浮かぶ。雑木林を抜けると池が有る。風に揺れる水面を覗くと、寂れた小屋が写る。それは山乃茶屋のようだけど、出窓の形が少しだけ違う。誰からも見向きもされず、ゆっくりと朽ち果てていく廃墟を、自分と重ね合わせる。水面に顔を近づけると、像はぼやけてしまう。やがて私はコンセントを抜かれるように、ストンと眠りの世界に落ちた。


夢と現実の狭間で見た廃墟が、私に何かを伝えているような気がする。とても曖昧な感覚が頭から離れず、明朝雑木林を訪れた。夜中に降っていた雨が落ち葉を濡らし、強い土の香りがする。濃霧に包まれた山乃茶屋は、一層寂しく見えた。私は山乃茶屋のベランダに行き、サッシに両手をかけて、深呼吸をする。こんな風に大きく息を吸い込むと軽い眩暈が起きる。木々の合間から朝の白い光が差し込み始めた頃、私は勝手口へ移動した。不意に銀製のドアノブに触れ、時計回りに動かす。それは「ギイ」という鈍い音を立てて、ゆっくりと動く。私はぎょっとして思わず後退った。まさか施錠されていないなんて。扉は拳が入るくらい開き、中の様子が私の目に飛び込んできた。小さなダイニングテーブル、食器棚、ガスコンロ…。がらんどうでは無く、家具が配置されたままであることも、信じられない。ここを使用する人間が、未だにいるのだろうか。予想外の出来事に、動悸が速くなる。中に何があるのか、知りたいという衝動と、危険を回避せよという感情が入り乱れ、私はぐるぐると山乃茶屋の周りを歩く。以前、出店として活躍をしていた山乃茶屋の残骸を見ることに怯えながらも、私はもう後戻りが出来ないくらいその空間へ足を踏み入れたくなっていた。


扉を開けると、埃と薬草が混じったような空気に包まれ、思わず息を止めた。視界は薄い膜を張ったように、白く濁っている。それはよく見ると、空気中の埃の粒子が朝陽を浴びながら舞っている姿だった。山乃茶屋は十坪も満たない狭さで、空間が襖によって二つに仕切られている。中央には、二人がけくらいの小さなダイニングテーブルと椅子が配置されている。テーブルの上には、味噌のような汚れがこびりついた木製のケースが有り、その中には爪楊枝と割り箸が無秩序に入っている。出窓の真下に作業台があり、セロハンテープを抜かれた状態のテープ台が置かれている。その右隣に水道のシンク、左隣にガスコンロが二台設置されている。ガスコンロにガス栓は繋がっていない。壁には、学校の教室にあるような無機的な時計がかけてあり、「二時一六分」を指した状態で止まっている。その真下に食器棚があり、白い陶器の平皿が大小様々なサイズで重なられている。また、下の方の棚には、プラスチック製の平皿や、竹皮を模した包み紙が置かれている。この場所で人が動き、簡単な料理が作られていたことを物語る品々。それらは手を加えられないまま、雑然と残されている。私は、椅子に座り、テーブルに視線を走らせた。木目の間に、パンくずのような粉が挟まっている。不思議と、山乃茶屋に抱いていた薄気味悪さが徐々に消えていく。朝の光が差し込む中、私は時の経過を忘れてその空間に佇んでいた。


ひとりぼっちの山乃茶屋に共鳴したのか、私は図書館で借りた本を持参して、山乃茶屋で過ごす時間が増えていった。誰も扉を開けること無く、時間の流れが完全に止まった空間で過ごすと気持ちが安定する。部屋の中央のダイニングテーブル、もしくは襖で隔てられた北向きの部屋に置かれた勉強机に肘をついて、無心で読書をする。照明が無いから、自然光に頼るだけの薄暗い空間で文字を追うと、物語の深部に浸るような感覚が生まれる。春の霞んだ空気が漂う中、私は山乃茶屋と共に小説の世界で呼吸をしていた。


その日は、ドストエフスキーの著書「カラマーゾフの兄弟」を読んでいた。古本屋で購入したもので、薄いシャープペンシルの字で、登場人物の名の横に棒線を引いた跡が数カ所見られる。この作品は、膨大かつ複雑な名を持つ登場人物の把握と共に読み進まなくてはならない。その為、印を加えながら読みたいという過去の読者の気持ちが理解出来る。そして私も印を付けたく、筆記用具を求めた。勉強机に付随する三段式の引き出しの上段を開けると、角が丸くなった鉛筆やシャープペンや消しゴムが無造作に入れられていた。消しゴムのかすは、引き出しの隅に溜まったままだ。二段目を開けると空洞になっていて、一番下の、底が深い引き出しを開けると一冊のノートが置かれていた。B5サイズの水色の大学ノートで、深い引き出しの奥からひっそりと現れた。思わず手に取り、中を覗くと、丸みを帯びた可愛らしい文字が並んでいて、随所に「…月…日」という表記がある。日記か?私はノートを伏せ、また元の場所に仕舞った。


あの部屋で、誰かが行動をしていた記録を目にするとは思っていなかった。宝物を見つけたような高揚感と、それを見ることに後ろめたさを感じ、私は落ち着かない気持ちでベランダへ出た。雑木林に細かな霧雨が降り注いでいる。新緑が芽吹きそうな、柔らかで湿度を含んだ空気が私を包む。一呼吸すると心のざわめきが止み、枝が凪いだように気持ちが鎮まった。あのノートは、誰かが手にすることを待っていたのかもしれない。都合の良い解釈だ。だけど、私は日記を手に取り、誰かの「心の声」を垣間見る自分を止めることが出来なかった。初めて山乃茶屋の扉を開けた日と同じように、頭で考える以前に、体が動いていた。


二月二十三日 

ベランダのパンジーの花が、ちらほらと開いて綺麗。まだ寒いのに、あの子達はしっかり根を張って準備をしていたんだ。春を先取りしているみたいで嬉しいな。私はまだストーブの前から動けない。アコさんに小言言われる前に、串差ししないと。キャベツもゴロンとしたまま、私を見ている。


二月二十六日

田楽味噌の大量仕込みが始まる。この匂いを嗅ぐと、ちょっとブルー。お花見でわんわん人が来るけれど、私なんか豆腐ばっかり見てイヤになる。みんな、桜じゃなくて、食べ物目当てだよ。花より団子って言うし。


二月二十七日 

今日は朝からずっと眠い。私は教室で授業を聞いていないから、みんなよりマシかもしれないけれど。雨音を聴きながら、ケヤキや池を眺めると、時間が止まったかのよう。お店も静まりかえっていて、味噌の匂いだけが動いている。


そのノートから、十代の女の子の声が聞こえる。この茶屋で働いていた、若い女の子。彼女の声を聞き、私は興奮を止めることが出来なかった。彼女は、アコさん(店主だろうか)の視線を横目で感じながらこの小さなダイニングテーブルで、黙々とお団子や肉を串に刺したり、キャベツをみじん切りにしていた。五行ほどの短い日記は、毎日書かれていない。彼女は、何かの事情で学校へ行かず、一日の多くをこの部屋の中で過ごし、店の内職作業をしていた。私は、二月二十七日の日記を読み終え、ノートを閉じた。この廃墟に一滴の水彩絵の具が溶けて、空間が色味を帯びる瞬間に出会ったよう。私は、出窓から差し込む陽に温もりが増したことを感じながら、山乃茶屋を出た。


翌日、また山乃茶屋の勉強机に座り、日記を開く。彼女の声を聞きたい。彼女は、山乃茶屋でどんな時間を過ごしていたのか。私は好奇心の赴くまま、日記のページを捲る。


三月二日

桜のつぼみが膨らんでいる。春の訪れとは嬉しいけれど、お花見の時期は嫌だな。だけど、今日は久しぶりに、東屋の彼を見つけた。昼の二時を過ぎた頃、彼はふらりとやって来た。東屋に腰をかけ、ぼんやりと池を眺めている。まだ六限が始まった頃なのに、授業サボりかな。相変わらず、横顔かっこいい。どこの学校なんだろう?私はずっと視線を送っているけれど、林を隔てた視線に気付くはずがない。


三月三日

桃の節句。まだ肌寒いけれど、なんとなく外の空気が吸いたくなって、ベランダに出てスペシャルトーストを頬張りながら本を読んだ。アコさんがいない隙に、パンにチーズをたっぷり乗せてトースターへ。仕上げはマヨネーズ。この組み合わせ、大好き。今日彼は東屋に来ていない。こんな日に顔を見ることが出来たら嬉しいのに。今日は調子に乗って、陽に当たり過ぎて肌が痛い。油断した。


三月七日

晴れたと思ったら曇ったり、小雨が降ったり、気まぐれな春の天気だ。スペシャルトーストを食べた日から、発疹が止まらない。たった数十分、陽を浴びただけなのに、体中がヒリヒリと痛い。前より症状が重くなっている。ずっと日陰の下で、コウモリみたいに生きていかなきゃいけないんだ。この窓から見える景色も、自分にとっては絵はがきと同じ。木漏れ日も、池の美しい光の反射も、距離をおいて眺めるだけ。視線を手元に落とすと、豆腐達がのっぺりとした顔で私を見ている。白くてブヨブヨしていて、私みたい。


日記を閉じ、出窓から外の景色を眺める。昔は、目の前に広がる雑木林から数百メートル離れた場所にある、池と東屋がはっきりと見渡せたのだ。現在は、無造作に広がった木々が視界を遮り、その合間を縫うように東屋の様子が分かる程度だ。彼女はこの場所に立ち、東屋を見ていた。木漏れ日を視覚で捉えても、それを浴びることが出来ない。東屋にふらりと訪れる男の子にときめいても、遠目で見ることしか出来ない。「絵はがき」のように見える景色とは、どんな風に映るのだろう?私は目の前の欅を注視する。ゴツゴツした幹から小枝が伸び新芽が生まれていた。雑木林の地面を見ると、誰かが読み捨てた週刊誌がだらしなくページを開いたまま、落ち葉の中に埋もれている。彼女は、こんな何気ない光景を、一つ一つ拾い上げ、フレームを模る様に目に焼き付けていたのだろうか。もっと彼女の言葉に触れたい。一気に読めば、一日で読み終える文量だけど、私は一語ずつ咀嚼するように、ゆっくりと文字を追う。日記を閉じた後は、山乃茶屋のダイニングテーブルで頬杖しながら、出窓から見える雑木林を当てもなく眺めて過ごす。


深い夜の闇に包まれながら、私はまた池に映る廃墟を眺めている。多分、夢の中なのだろう。夢を見ていると自覚出来る。ゆらゆらと揺れる廃墟から微かな灯りが漏れている。私はその像を覗き込むと、足が岸辺のぬかるみに取られて、体ごと水の中へ溺れてしまった。その池は水深が深く、冷たい。口や鼻から水が入る。手をばたつかせても、体が沈む一方で、呼吸が出来なくなる。もがき苦しんでいるのに、視界はクリアで、頭上の星の瞬きや、上弦の月を見ている私は、幽体離脱をしているかのよう。水の中から見える夜空は、万華鏡のようにキラキラしていて、幻想的だ。苦しみと美しさを両方感じながら、体が沈んでいく。手足が鉛のように重くなり、意識が朦朧としたその時、誰かの両腕が水の中に降り、私をすくい上げようとする。その腕は陶器のように白く、人の腕とは思えないくらいだ。私は必死になって、その両腕に捕まろうとする。思い通りに動かない体をばたつかせると、白い腕が私の脇を捉えた。強い力で引き上げられ、そのまま顔を水面から出して思い切り息を吸い込んだ瞬間、夢の世界は終わった。カーテンの隙間から、夜明け前の淡い陽の光が四角の部屋に差し込む。溺れていた時の苦しさが残っていて、私は仰向けの状態で呼吸を整えた。池に映る廃墟、星の光、白い腕、それらの像は、私の脳に残したままだ。私を助けてくれた人は誰なのだろう?顔を見ることが出来なかった。毎夜、薬の作用で深い眠りに落ちていたから、夢と現実の境目が曖昧になっている。私は、水中にいるような浮遊感を伴いながら、薄暗い壁に目を泳がせる。


あの日記に出会い、私の中が少しずつ変化をしている。私は日記を書く彼女のことを想う。彼女は、自宅から山乃茶屋までどうやって通っていたのだろう。陽の光を浴びないように、全身を服で覆うのだろうか。どんなきっかけで、アコさんと出会い、山乃茶屋の手伝い始めたのか。こんな風に、誰かのことを「知りたい」という欲求が、私を戸惑わせる。


三月十一日

久しぶりに彼が東屋に来た。まだ昼前なのに、一日学校サボりかな。ベンチに座るなり、本を取り出してずっと読み耽っている。何を読んでいるの?文字を追う姿も、見入ってしまう。ネギをみじん切りしながら、外を見ていると指を落としてしまいそう。


三月一二日

今日も彼が来てくれた。二日連続で会えて嬉しい。また本を取り出して、熱心に読んでいる。私の唯一の楽しみは、君の姿を見ること。毎日アコさんと世間話するか、野菜や豆腐に囲まれているばかりだから。横に流れる前髪がサラサラで、鼻筋が通っている、クールな雰囲気な男の子。どんな瞳をしているのかな。何となく奥二重っぽい。脚を組みながら肘をついて小説を読む姿もカッコいい。


三月一三日

リョウくん。何だか身近に感じたくて、勝手に名前つけてしまった。今日はリョウくんに会えなかった。きっと明日の準備で忙しいよね。リョウくんは沢山チョコレートをもらっているから、今日はクッキーの買い出しの日。学校はサボりがちだけど、カッコいいから友達も多いはず。そんな風に想像してしまう。


三月十四日

昼前からリョウくんが来た。今日はホワイトデーだからびっくり。リョウくんはぼんやりと池を眺めた後、本を開いて読み始める。私は、ここから席を立ち、東屋まで駆け出したくなるけれど、我慢する。私がずっとここからリョウくんを見ていることを楽しみにしていると、伝えたい。学校が辛い場所だって、リョウくんも思っているの?みんなの顔色を見て過ごし、みんなに合わせないと輪から外される。私はこの顔だから仕方ないけれど、リョウくんも何か抱えているの?今日は何を読んでいるの?私は「放課後の音符」を読み始めたばかり。先月発売された山田詠美の新刊だよ。こんな宝石みたいな恋愛が出来たら、私、なにも要らない。


鶴間図書館に入り、山田詠美の「放課後の音符」を手に取ってみる。まず最初に、初版発行日を確認する。一九九二年二月。私の頭にずしんと衝撃が走った。あの日記は、二十六年前に書かれていたのだ。二十六年。その年月の長さを測るものは無いが、その当時、山乃茶屋は動いていた。やがて廃業し、彼女の日記は闇に封印されたかの如く、引き出しの奥で眠る。「放課後の音符」をペラペラと捲ると短編集になっていて、どれも女子高生が主人公の物語になっているようだ。私は目を通すことをやめ、図書館を後にする。私の頭は、多くの物事を受け止めると、動きが鈍くなってしまう。「放課後の音符」を借りたけれど、鞄の中にしまったままだ。二十六年前、鶴間公園の東屋にクールな顔立ちの男の子がいて、本人が知らないところで「リョウくん」と名付けられた。リョウくんを出窓から眺めることを唯一の楽しみにしている少女。だけど、彼女は外に出られない。そんな風景を想像するだけで、胸が痛くなる。


三月一八日

「放課後の音符」を読み終えた。その中の「クリスタルサイレンス」が一番好き。マリという子が、耳の聞こえない男の子と恋に落ちる話。マリは小麦色の肌を持ち、白いTシャツとデニムの短パン姿、そして足首に金のアンクレットを付けて、颯爽と歩く。想像しただけでカッコいい。マリは周りの女の子と群れたがらない。私も茉莉。なのに、生きる世界が違い過ぎる。マリは沖縄のはずれの島で、その男の子とじゃれ合う。私は、男の子と手を繋いだ事が無い。この先、一生、手を繋げないと思うだけで、涙が出る。「クリスタルサイレンス」は好きだけど、読み終えた後、悲しくなった。


三月二一日

今年は暖かい気候が多く、春の訪れが早い。桜のつぼみから、ちらほらと花弁が顔を出している。お店のお客さんが増え、アコさんは、昼からずっとガス台から離れない。私も呼吸を合わせて田楽に味噌、お団子にたれを付ける。私でも、出来る仕事があって嬉しい。こうやって動いているときは、頭が楽になる。だけど東屋にリョウくんが現れた瞬間、胸が苦しくなる。嬉しいけれど、姿を目にすると、お喋りしたくなる。それが出来ないから辛い。


三月二二日

もし、願い事が叶うなら。たった一日でいい、普通の女子高生にして欲しい。そして、東屋へ行き、リョウくんの隣りに座ってお喋りしたい。欲張りだけど、一緒にパフェを食べに行きたい。山乃茶屋じゃなくて、もっとおしゃれなお店へ。パルコに行ってみたいな。一日限定で満足。そんな奇跡起きないかな。起きるわけ無いけれど、想像がとまらない。


三月二三日

昨日の日記を見て、悲しくなる。「普通の見た目」なんて、絶対に想像しては駄目だって、言い聞かせて生きてきたのに。喋ることも出来ない男の子に夢中になるなんて。ほんとにバカ。ここにいるときは、一生懸命山乃茶屋の仕事をする。なのに、余分なこと考えて私は大馬鹿者だ。


三月二四日

最近泣きすぎて、目が痛い。涙が肌を刺激して、ヒリヒリする。泣くことすら制限される体なんて、神様はヒドい。そもそもなんで私みたいな体がこの世に生まれたんだろう?神様が、色を付けることを忘れた絵みたい。黒炭で、骨格だけ描かれた絵なんて。そんなキャンバス、誰も見向きもしない。


三月三〇日

リョウくんが山乃茶屋に来た。思わずニット帽を目深にかぶった。心臓が飛び出す。東屋からこちらに向かって歩いてくる姿を見て、逃げ出したい気持ちと興奮する気持ちが衝突して、めまいがした。アコさんがガス代で田楽を焼いていたから、接客をするのは私だ。今日初めてリョウくんと向かい合った。ちらと私を見て、

「みたらし一本ください。」

初めて聞く声は、ちょっとかすれている。リョウくんの瞳、奥二重じゃ無くて、くっきりとした二重だった。口元にニキビが二つ。緊張で頭がおかしくなりそう。私の顔を見ても、全然驚いた表情をしない。色素が無い顔に、薄赤の虹彩。帽子からはみ出る白髪。誰だってじろじろ見るのに、リョウくんは何とも無い表情でみたらし団子を受け取る。私は、うわずった声で、何とか御礼を伝えた。リョウくんは私の目を見て、丁寧に頭を下げて山乃茶屋を去る。


四月一日

今日も山乃茶屋にリョウくんが来てくれた。これ夢じゃないよね?エープリルフールだけど、本物のリョウくんが来てくれた。ニセ者のリョウくんなんていないけれど、夢みたいだ。

「みたらし団子とホットドッグください。」

私の目を見て、そう言う。一昨日より言葉数が多い、たったそれだけで、舞い上がる。トレイを手渡すときに、また目が合う。私は周りから妖怪女って言われるけれど、リョウくんは大丈夫なの?勝手にリョウくんって呼んでいるけれど、君の名前を知りたい。私はアルビノで、陽の光に弱い。みんなの視線に耐えられなくなり、学校へ行かず、山乃茶屋で手伝いをしている女子高生。このまま、誰とも笑い合うこともなく、世間の端で生きていくかと思うと絶望的になる。だけど、私だって、人を好きになることがあるんだよ。君が東屋に来て本を読む姿を見ることが好き。ぼんやりと池を眺める姿を見ることが好き。かすれた声も、ぱっちりした目も好き。君の名前が知りたい。いつか名前を聞ける日がくるのかな?くるといいな。君の名前を呼べたらいいのに。私は茉莉。こんな日が来るなんて、思わなかった。私がこんなに熱い気持ちになるなんて。君に会えて幸せ。ありがとう。


「茉莉。」

何度もその名前を口にして私はうずくまる。頬を濡らす涙に驚いた。掌で拭うと、かすかに温かい。自分の感情を堰き止めていたダムが決壊したかのように、涙が溢れ出す。滲んだ視界を通して出窓からの風景を眺めると、夕陽が雑木林の梢を染めている。あの、ド・ゴール空港の吹き抜けの天上と同じ、淡いオレンジ色だ。


添乗員だった私は、年間のほとんどの時間、海外を飛び回っていた。私はどこへでも飛べる、万能な羽根を持っていると信じていた。パリから帰国する日。出国手続き前に、私の鞄から忽然と消えたエアチケット。失うはずがない。だけど、鞄をひっくり返しても紙切れは出てこなかった。慌てている私を不安げに見るツアー客達の視線は、だんだん非難の色が濃くなる。やがてタイムリミットが訪れる。私の中でカチカチと音がしていた爆弾は、容赦なく破裂した。ド・ゴール空港の真ん中で、大の字になって天を仰ぐと、私の顔に夕陽が降り注いだ。やりがいのある仕事もキャリアも、全て自分が勝ち取ったことだ。だけど、私は途方も無く疲れていて、逃げ出したかった。


感情の振り子は止まり、私は抜け殻になってしまった。廃墟と化した山乃茶屋の、古びた勉強机の引き出しの奥に眠る一冊の日記が、振り子を揺らしてくれた。茉莉の日記は四月一日で終わっている。ノートの半分以上が空白だった。


茉莉。あなたは今どうしているのだろう?あれから二十六年。四十代になった茉莉は、今、隣で笑い合える人がいるのだろうか。リョウくんの名前を知ることが出来たのだろうか。私は茉莉に比べて、自分に自信があった。だけど、あらゆるものを失った。そもそも、何も持っていなかったのかもしれない。仕事の重圧に耐えきれず、自身を粉々にしてしまった私は、茉莉よりもずっと臆病で弱い。自分と向き合えなくて、こんな風に涙を流すことすら無かったのだから。茉莉は誰よりも孤独を感じていたけれど、この場所で、前を向いていた。誰かを想う気持ちを持って生きていた。私は、もう誰とも関わりたくなくて自分の殻に閉じこもっていたけれど、茉莉の声を聞いて、少しずつ動き出すことが出来た。


とめどない感情の波を吐き出し、頬を濡らしたままベランダに出た。木々を揺らす風音に耳を澄ます。あの夢の世界で、水の中で溺れる私を救ってくれたのは茉莉だったのか。施錠されないままの山乃茶屋は、雑木林を彷徨う私を迎え入れてくれたのか。全てが根拠の無い出来事だ。だけど、それらが繋がっていると信じることが、私の心に灯をともす。数メートル先の欅に視線を移すと、鮮やかなオレンジとヒスイの羽根を持つ鳥が、枝の上に佇んでいた。

「カワセミ。」

思わず呟く。初めてカワセミの姿を確認したけれど、以前から生息していたのだろうか。私の視野が自然に広がり、美しい鳥の姿を捕らえることが出来るようになったのか。そんな小さな奇跡も、茉莉が用意してくれたのかな。ベランダの椅子に座った茉莉が、

「そんなことないよ。」

と言って、笑いかけてくれる姿を想像する。私の声に呼応するように、カワセミはこちらをチラと見て、茜色に染まる空へ飛んで行った。私は、鮮やかな羽根をもう一度見たくて、陽が差し込む雑木林を駆け抜けた。



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