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リリトと夢の中を歩く屍者

作者: 川越敏司

コバルト短編小説小説新人賞投稿、落選。


中世フランスのユダヤ人街を舞台に、ラビの娘が活躍する伝奇ミステリです。

「リリトは髪が長く……」(BTエルヴィーン一〇〇b)


「夜の女悪魔で、人間の顔をし、翼を持っていると考えられている」(BTニッダー二四b)


「男は家では一人きりで眠るべきではない。家で一人きりで眠る者は誰でもリリトに取り憑かれるからである」(BTシャバット一五一b)



 一


 ランプに照らされたほの暗い階段を一歩ずつ踏みしめながら、サラは自室から階下に向かった。この時代の典型的な商人の家と同じくサラの家は四階建てで、寝室は三階にあった。

 身重の身体では足元がはっきりと見えず、何度か足を踏み外しそうになって冷や冷やした。ようやく階段を降りきり、二階の広間に着くと、奥の台所の方で物音がする。

 使用人たちはとうに屋根裏部屋で寝静まっているはずの時間だった。だとしたら、いったい誰が? 恐れで身体中を震わせ、大きなお腹を抱えるようにしながら、サラは台所へと向かった。

 ランプを照らしながら恐る恐る中を覗き込んでみる。テーブルの上にはコップに入った水とパンの塊がある。ゆっくりと視線を移すと、誰かがテーブルに腰をかけて、パンをかじっているその背中が見えた。

「誰?」

 震える声でそう尋ねると、その人影が立ちあがり、振り返ってサラをじっと見つめた。

「そんな!」

 サラは思わず絶句した。そこで見たものは、数日前に亡くなったはずの人物の顔だった。だらりと垂れ下がった前髪の間から、まだ生々しく感じられる血の跡が、額から頬にかけてくっきりとついているのがはっきりと見えた。サラは驚きと恐怖のあまり、その場で気を失った。



 二


 事の起こりはその一週間前に遡る。

 出産を間際に控えたサラの元を、幼馴染のミリアムが見舞いに訪れた時のこと。ミリアムとサラは同い年で、共にこのトロワ市にあるユダヤ人街の学校で学んだ仲だった。

「ミリアム。わたし、怖いのよ」

 ベッドに横になっていたサラは、ちょうど摘みたての花を花瓶に生けたばかりのミリアムに、そう打ち明けた。

「もうすぐ九ヶ月目でしょう? もし出産に不安があるのなら、おばあさまにまた来ていただいてもいいのよ」

 そう語りかけながら、ミリアムはサラのベッドのそばに腰を下ろした。

 ミリアムの祖母は産婆であった。そして、ミリアムもまた、将来は産婆になるべく、修行のため祖母の手伝いをしていた。サラのもとを訪れたのはそのためでもあった。

 ミリアムが産婆になりたいと願うようになったのは、母が妹のラケルを産む時、その出産に立ち会ったのがきっかけだった。そのとき、ミリアムはまだ幼かったが、どうしても母の出産に立ち会いたいと祖母に願った。お湯を沸かしたり、母の汗をぬぐったりしながら、夜通し祖母の手伝いをし、生まれて初めて新しい生命が誕生するという神秘を目の当たりにしたミリアムは、それ以来、将来は自分も産婆になりたいと願うようになったのだった。

「出産に不安があるわけじゃないの。この間も、ミリアムのおばあさまに診ていただいて、順調だと言われたから。だけど......」

「だけど?」

 サラの不安げな表情を見つめながら、ミリアムは尋ねた。サラは話すのをためらっているようだった。ミリアムはそっと彼女の手を握った。

「ねえ、サラ。よかったら、あなたを不安にさせているものが何か、あたしに教えてくれない?」

 サラはコクリと頷くと、意を決したような表情でミリアムに事情を話し始めた。

「実はね、うちの家政婦のハガルのことなんだけど......最近、何だかわたしを見つめる視線が怖いの。それでね、召使のモルデカイに彼女のことを尋ねてみたの。ハガルは今はやもめでうちの家政婦をしているのだけど、以前亡くなったご主人との間には不幸にも子どもを授からなかったみたい。だから、わたしに子どもが生まれることを妬んでいるんじゃないかと思うのよ」

 邪視(じゃし)を恐れているんだ。ミリアムはサラが抱えている不安をそう了解した。邪視は災いをもたらすもの。邪視は妬みから生じる。ユダヤ教の聖典タルムードにもこう記されている。


『もし第一子が娘ならば、それは続いて生まれる男児にとって好都合である。彼らに邪視が及ばないからである』


 だが、ミリアムの祖母の見立てでは、サラのお腹に宿っているのは男の子だ。だから、なおさらサラは、家政婦から投げかけられる邪視を恐れているのだ。

「わたし、最初の子は女の子がいいわ」

「どうして? 最初の子は男の子の方がいいに決まってるでしょ!」

 サラはミリアムの剣幕に思わずたじろいだ。それを見て、ミリアムは知らず知らずのうちに大声を出していた自分に気づいた。

「あのね、サラ。うちは女ばかりの三姉妹なの、知ってるでしょ? でもね、父さんはきっと後継ぎになる男の子が欲しかったに違いないの。だからね、サラには元気な男の子を産んでほしいのよ」

 ミリアムには幼い妹のラケルの他に、すでに嫁いで家を出た姉のリベカがいたが、男の兄弟はいなかった。

「ごめんね、ミリアム。あなたの家の事情なんか何も考えずに無神経なことを言って。でもね、わたし本当に怖いのよ......」

 ミリアムは改めてサラの美しいその顔を眺めた。彼女は、シャンパーニュ地方で随一の大市が開催されるこのトロワ市において、絹織物商人である現在の夫に見染められ、十五歳で嫁いでいったのだった。

 時は十一世紀。教皇ウルバヌス二世が聖地奪還のため、十字軍遠征を宣言して間もない頃。まだユダヤ人への迫害がはじまっていないこの時代、トロワ市のユダヤ人街は商いで活況を呈していた。

 サラの夫は絹の買い付けや取引のため、頻繁に家を留守にしており、家にはサラの他には召使と家政婦が一人ずついるだけだった。それだけに、夫のいない不安な夜を過ごしているサラのことがミリアムには思いやられた。

「きっと子どもが生まれる頃にはその不安も自然に解消していると思うわ」

 ミリアムはサラの手をもう一度強く握って励ました。部屋を出ると、ミリアムは背中に鋭い視線を感じた。

「誰?」

 だが、ミリアムが振り向いた時には、そこには誰の姿も認められず、先ほどの気配もすでに消えていた。

「気のせいかしら?」

 怪訝そうに首をひねりながら、ミリアムは階段を降りて出口に向かった。

「全能の主よ、どうかサラとその赤ん坊をお守りください」

 そう祈りを捧げると、サラを一人で残していくことに一抹の不安を感じながらも、ミリアムはサラの家を後にした。



 三


 自宅に戻ったミリアムは、この日サラから聞いた話を父に打ち明けて助言を乞うことにした。

 ミリアムの父ベン・イサクは、トロワ市でただ一人の律法学者(ラビ)であった。プロシアの律法学校(イェシバ)を優秀な成績で卒業したベン・イサクは、この時代でもっともすぐれたタルムードの解釈者としての評判を得ていた。

 タルムード――それは、ユダヤ人の祖先をエジプトの奴隷のくびきから解放した偉大な指導者モーセがシナイ山で主から授かった十戒をはじめとする律法の教えを、先達のラビたちが解き明かした註釈書であった。

 トーラー、すなわち、モーセ五書と呼ばれる五つの文書――創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記――に散在的に記された主の律法の教えは、ユダヤ人たちがローマ人によってエルサレムの神殿を焼かれ、故郷を追われて流浪の(ディアスポラ)となった時、ミシュナという形で集大成された。それは、ユダヤ人の生活のあらゆる事柄を規定する文字通りの法律であった。そして、このミシュナに関する解釈を示したのがタルムードであった。

 だが、ヘブル語で伝承されてきたタルムードの教えは、この時代、次第に理解されなくなってきていた。なぜなら、エルサレムを追われて世界各地に散らばったユダヤ人たちは、土地の人々との交わりの中で、自分たちの故郷の言葉、ヘブル語を忘れてしまっていたためであった。

 ベン・イサクにはヘブル語に関する深い知識があった。その上、タルムードの難解な教えを簡潔に解き明かす才能も併せ持っていた。そのため、ベン・イサクはラビとして特別な尊敬を受けており、毎日のように訪れてくるこの市のユダヤ人たちの相談に無料で答えていた。

 その教えを父から受けて育ってきたミリアムもまた、困っている人を助けないではいられない性分だったのである。


「それはきっと女悪魔リリトに違いないのよさ! 家政婦のふりをして妊婦に近づき、子どもが生まれたら、こっそりさらっていくつもりなんだわさ」

 腰まで届く艶のある長い黒髪を母に梳かしてもらいながら、妹のラケルが舌足らずな声でそう言った。もつれた髪が櫛にひっかかって引っ張られるたびに、ゴム毬のようにその顔がユーモラスに変形される彼女の姿を見て、家族全員が笑みをかみ殺していた。その様子に気づいたラケルはむくれて言った。

「むぅ~! そんなに人の顔をじろじろ見て笑うのは失礼なのよさ!」

 それから彼女は、タタタと部屋を横切り、暖炉のそばに寝そべっていた、自分の身長の倍はあろうかと思われるオオカミの背中に飛び乗り、後ろからその首にしがみついた。

 ラケルには、物心ついたときから不思議な霊力が備わっていた。決して人には懐かないこのオオカミのガブリエルでさえ、たやすく手なずけてみせた。だが、他の面ではまだまだ幼い子どもであり、そのちぐはぐさが彼女の魅力でもあった。

「ラケル。むやみに人を悪霊憑き呼ばわりしてはいけないよ。それに、アダムの最初の妻だとか、サタンの母だとか言われているが、リリトは伝説の中だけの存在なのだから。生まれたばかりの子どもを探し求めて夜の世界を飛び回り、襲ってきたりはしないんだよ」

 ベン・イサクはやさしくラケルを諭すと、書斎に入って、小さな紙片を取って戻って来た。

「ミリアム。これを今度、サラの所に持っていくといい」

 父が渡してくれたのは、聖句が書かれた紙片であった。それは、魔除けの呪文としてユダヤ人の間でよく用いられている詩篇九十一編五節の聖句であった。


『ロー・ティラー・ミパハッド・ライラ

 メヘッツ・ヤウーフ・ヨマム

(夜、脅かすものをも

 昼、飛んで来る矢をも、恐れることはない)』


「ありがとう、父さん。今度行った時にサラに渡して一緒にお祈りしてみるね。それで彼女の不安が解消されるといいんだけど......」

「サラの実家は先祖の教えに忠実な信仰深い家庭だったから、主がきっとお守りして下さるよ」

「そうね......父さんの言うとおりね」

 ミリアムは父の励ましに感謝していた。でも、ハガルが本当にリリトだとしたら? そんな不安にかられて、ミリアムの心は一向に晴れなかった。

 そんなミリアムの顔を心配そうに見つめていたベン・イサクは、テーブルの上にトーラーの写本を開き、ミリアムとラケルを手招きした。

「さあ、タルムードの学びを始めよう」

 ベン・イサクの導きに従いながら、はじめに知恵を授けてくださる主なる神を讃える祈りを捧げると、ミリアムの心からは次第に不安が薄れていった。ラケルも、今日はどんな新しいことを学ぶことができるのだろうかと、期待に目を輝かせていた。

 そんなラケルの様子を見ていると、ミリアムは自分が幼い頃、トーラーの教えを学び始めたばかりのことを思い出した。まだ読み書きができなかった彼女がヘブル語のアレフ・ベートを教わり始めた時、父はまずトーラーの写本の上に干しレーズンやナッツをばらまいたものだ。たちまちテーブルの上には甘い香りと香ばしい匂いが充満しはじめた。貧しいラビの家庭に生まれたミリアムにとって、これほどふんだんにおやつがふるまわれたことはなかったから、うれしくて思わず父に尋ねたものだった。

「ねえ、父さん。今日はどうしてこんなにお菓子があるの? 何かのお祝い?」

「そうだよ。今日はおまえがトーラーを学び始める最初の日だから」

「じゃあ、これ、あたしが全部食べてもいいの?」

「ああ、もちろんだよ」

 トーラーの教えは蜜のように甘い。人生に喜びを与えてくれるものである。トーラーを学ぶユダヤ人はみな、ミリアムと同様に、トーラーを学び始める際、目と耳だけでなく舌を通じてもその真理を学ぶ。そして、学習を続ける動機付けを得るのだ。

 ラケルがひとしきりトーラーの音読とアレフ・ベートの書きとり練習を終えると、いつものようにベン・イサクは、タルムードを解き明かすために知恵を働かせる訓練として、ラビが弟子との問答で用いる問題をラケルに出題することにした。

「さあ、ラケル。よく考えて答えるんだぞ」

「いつでも来いなのよさ!」

 そう言って、ラケルはベン・イサクの言葉を一言も聞きもらすまいと耳を澄ました。だが、瞬きもせずずっと息を止めているものだから、だんだんと息が苦しくなってその顔が青ざめてきた。

「ほら、ラケル。ちゃんと息をしなくちゃだめじゃない」

 ようやく口を開いてぜいぜいと激しく肩で息をしているラケルの背中を、ミリアムは優しくさすった。ベン・イサクはそんな彼女の様子を見て愉快そうに笑った。

「じゃあ、ラケル。はじめるよ。二人の男の子が一緒になって煙突掃除をした。仕事が終わって外に出てくると、一人は煤で真っ黒な顔をしていたが、もう一人の顔は汚れておらずきれいだった。二人のうちどちらが顔を洗おうとするだろうか?」

「う~んとね、顔が汚れてる子でしょ?」

 あんまり簡単な問題なので拍子抜けしたのか、ラケルは即答した。その答えを聞いたベン・イサクは無言で首を振った。

「あれ、あたしの答え、間違ってた?」

 ラケルが不安そうにそう尋ねると、ミリアムが父に代わって説明をした。

「ええ、違うわ、ラケル。よく考えてみて。二人とも自分の顔を見ることはできないのよ。だとしたら、顔が汚れている子は、顔が汚れていない子の顔を見て自分の顔もきれいなのだと思うんじゃない? 逆に顔が汚れていない子は、顔が汚れている子の顔を見て自分の顔も汚れていると思うでしょう。だから、顔を洗うのは顔がきれいな方の子のはずよ」

「ああ、そうか! よくわかったわ。今度は絶対間違えないのよさ!」

 そう言って小さい胸をそらせたラケルの姿をほほえましく思いながら、ベン・イサクは再度ラケルに出題した。

「では、もう一問。二人の男の子が一緒になって煙突掃除をした。仕事が終わって外に出てくると、一人は煤で真っ黒な顔をしていたが、もう一人の顔は汚れておらずきれいだった。二人のうちどちらが顔を洗おうとするだろうか?」

「むぅ~、さっきと同じ問題じゃない! あたしをバカにしてるな。答えは、きれいな顔をしている子の方なのよさ」

 その答えを聞いたベン・イサクとミリアムが互いに見つめ合いながらほくそ笑んだ。「な、なんで二人とも笑っているのよさ?」

「ごめんね、ラケル。あなたがあんまり素直に答えるもんだから……あのね、答えは二人とも顔を洗う、なのよ」

「ええっ! なんでなのよさ?」

「いい、ラケル、よく聞いて。二人とも自分の顔を見ることはできないから、顔が汚れている子は、はじめは顔が汚れていない子の顔を見て自分の顔もきれいなのだと思い込んでいるでしょ。一方、顔が汚れていない子は、顔が汚れている子の顔を見て自分の顔も汚れていると思って顔を洗う。すると、その様子を見た顔が汚れている子は、自分の顔が汚れていることに気づくはずよ。だって、顔が汚れていない子が顔を洗ったのは自分の顔が汚れているのを見たからに違いないと、顔が汚れている子は考えるはずだから」

「むぅ~そんなの屁理屈なんだわさ。だいたい、二人で煙突掃除したのに、片方の顔だけきれいだなんてありえないのよさ!」

「ハッハッハ、これは驚いた。ついに正解にたどり着いたな。ラケル、おまえはきっと素晴らしいラビになれるぞ!」

 父がそのように手放しでほめても、ラケルには何のことやらよくわからなかった。

 ベン・イサクはラケルの両手いっぱいにおやつを握らせると、その頭をなでて、今日の学びが終わりであることを告げた。ラケルは受け取ったレーズンやナッツを口いっぱいにほおばると、暖炉の前で伏せているオオカミのガブリエルの方へと向かって行った。

 しばらくラケルの様子を愛おしげに見つめていたベン・イサクは、ミリアムの方に向き直ると、トーラーの写本を閉じ、代わりにタルムードの写本を開いた。

「では、今度はおまえの勉強をはじめようか、ミリアム」

 それから一時間あまり、ミリアムは父と問答形式でタルムードを学んだ。こうして頭を使うのって本当に楽しい。いつしかミリアムは、サラの家で感じた不安を忘れてしまうほど、タルムードの学びに熱中していた。



 四


 家政婦のハガルが死亡したという知らせが届いたのは翌週のことだった。ちょうどミリアムがサラの家を訪問する予定でいた時だった。戸がノックされる音がすると、オオカミのガブリエルが毛を逆立て、低い声でうなった。

「こら、ガブリエル。静かにしなさい」

 ミリアムが戸を開けると、サラの家の召使であるモルデカイがそこにいた。サラが呼んでいるので、すぐに来てほしいとの伝言を伝えに来たのだ。

 道すがら馬車の中で、モルデカイはミリアムにハガルが数日前に事故で亡くなったことを告げた。話によれば、彼女が市場に買い物に出かけた際、後ろから勢いよくやって来た馬車をよけようとしたところ、橋から足を踏み外してコルド川に転落したらしい。遺体は見つからなかった。きっと下流に流されていったのだろう。あの高さから落ちればとうてい無事ではないだろうし、おりしも冬が近づいたこの季節、たとえ無事だったとしても、この冷たい水の中では、下流まで流されている間に凍え死んだに違いないということだった。

 話を聞いて、ミリアムは複雑な心境だった。ハガルが亡くなったことは不幸なことだと感じたが、その一方でサラがもはや邪視を恐れなくてよくなったことにほっとしてもいたのだ。


 ミリアムがサラの家に到着すると、血相を変えた彼女がミリアムの腕に飛び込んできた。

「ミリアム、ミリアム! ああ、どうしよう。わたし、昨夜、本当に怖い思いをしたのよ」

「いったい、どうしたの?」

「出たのよ! ハガルの幽霊が! ミリアム、わたし、怖くてもうこの家にいられない!」

「ねえ、落ち着いて。詳しく事情を話してよ」

「あのね、昨夜遅くのことなんだけど、階下の台所で物音がしたの。そっと覗いてみると、そこに人影が見えたの。その人はテーブルでパンを食べていたわ。思わず声を上げたら、わたしの方を振り返ったの。そうしたら、その人はハガルだったのよ。身の毛もよだつようなその顔といったら! あまりにびっくりして、わたしはその場で気を失ってしまったのね。気が付いたら、このベッドの上に寝かされていたの」

「ご主人か、召使があなたを運んだんじゃないの?」

「いいえ、夫は商品の買い付けのために出張していて十日前からずっと留守にしているし、モルデカイはぐっすり眠っていて何の物音も聞いていないと言ったの。だから、全部夢の中の出来事だったんじゃないかって、彼は言うのよ」

 ミリアムは考え込んだ。一体どういうことだろう。死んだ人が生き返るはずはないし。ユダヤ教の教えでは、死者の復活はメシアが到来して新しい世をこの地にもたらす時だとされていたので、ハガルの死体が現実に歩き回ることなど、ミリアムには考えられなかった。

「やっぱり、夢なのかしら? でも、夢にしてはやけに生々しい夢だったわ。ねえ、ミリアム。死んだハガルが蘇って戻って来たってことはないでしょうね? 夢にしても、死んだ人が夢に出てくるなんて気味が悪いわ」

「ねえ、サラ。聞いて。死者が夢に出ることは決して悪いことではないのよ。『家の中に死体がある夢を見ると、家の中に平和がもたらされる。死者が飲み食いするならそれは良い前触れだ』 そうタルムードにちゃんと記されているの。だから、安心して」

「ねえ、ミリアム。あなた、どうしてタルムードについてそんなに詳しいの? 女の子なのに」

 それを聞いて、ミリアムは一瞬しまったと思った。トーラーの教えでは、女性がタルムードを学ぶことは禁止されていた。主の教えを学ぶことは、当時、男性のみに許された特権であった。

 だが、ある晩、ミリアムと姉のリベカがタルムードの知識を授けるに十分な知性と情熱を持っていることを知ったベン・イサクは、こっそりと娘たちにタルムードの教えを伝授することにしたのだ。だが、これは誰にも明かしてはならない秘密であった。

「と、父さんに以前教えてもらったのよ。あたしが前にとっても怖い夢を見た時に」

「そうなの? 高名なラビであるあなたのお父様が言うのなら本当なんでしょうね。でも、やっぱり怖いわ。死人が家の中をうろつきまわっていると思うと」

「じゃあね、これを肌身離さず持っていて。父さんからいただいた魔除けの呪文なの。今度怖い夢を見た時は、このお札をしっかりにぎって呪文を唱えるのよ。さあ、あたしと一緒に唱えてみて」

 そう言って、ミリアムは呪文の言葉をヘブル語で唱え始めた。ヘブル語を解さないサラははじめ戸惑っていたが、ミリアムが繰り返し唱えるのを見て、次第にサラも呪文の唱和に加わった。それは二人で奏でるデュエットのようであった。


『ロー・ティラー・ミパハッド・ライラ

 メヘッツ・ヤウーフ・ヨマム』


「ありがとう、ミリアム。わたし、少し勇気が出てきたわ。どうか、お父様にもお礼を言っておいてね」

 ミリアムは元気を取り戻したサラの様子を見て少し安心した。だが、何だか胸騒ぎがする。今夜にも何か事件が起こるかもしれない。

「ねえ、サラ。その呪文があれば大丈夫だと思うけど、念のため、今晩はあたし、ハガルさんの幽霊がまた出てこないかどうか見張ることにするわ」

「まあ、うれしい! そうしてくれるとありがたいわ」

「でも、こっそりと見張りたいから、家の鍵を貸してくれる? みんなが寝静まった頃にまた来るわ」

 そう言って、ミリアムはサラの家を後にした。



 五


 サラの家から戻ったミリアムは、先ほどサラから聞いたことを父に話した。

「ねえ、父さん。今夜わたし、もう一度サラの家に行くわ。ハガルさんの幽霊が本物かどうか、確かめたいの」

 ベン・イサクは娘がただならぬ危険に飛び込もうとしているのではないかと危惧していた。だが、ミリアムの目をじっと見つめて、彼女の決心が堅いことを見てとると、そっと書斎に姿を消した。しばらくして再び居間に姿を現すと、二つの小さな黒い箱を携えてきた。

「では、これを持って行きなさい」

「ありがとう、父さん」

 そう言って、ミリアムは父からそれらのものを受け取った。その二つの小さな箱は経札(テフィリン)。その中には羊皮紙に記された主の聖なる御名と御言葉が収められている。敬虔なユダヤ教徒が祈りの際に身につけるものだ。これを額と左腕に付属の紐で結び付ける。額に付けるテフィリンは頭の後ろで結び、左腕に付けるものは紐を腕に七回巻きつけて固定する。


 真夜中になると、テフィリンをかばんに入れ、身支度を整えたミリアムは、再びサラの家へと向かった。家の一階が絹織物を販売する店舗になっているが、その裏口からそっと入り、二階の食卓の陰に隠れて、台所にハガルが現れるのを待った。

 夜も更けた頃、台所で物音がした。長い間暗闇の中にいたので、すっかり目が慣れていたミリアムは、ランプの明かりがなくても台所の様子が見て取れた。確かに、彼女はハガルだった。ミリアムは短く主の加護を願う祈りを捧げると、その身を乗り出し、思い切って彼女に話しかけた。

「ハガルさん、こんな時間にここで何をしているんですか?」

 ハガルは飛び上がらんばかりに驚いた。が、怯えることなくじっと自分の方を見つめているのがミリアムだとわかって、ハガルは心を落ち着かせて話し始めた。

「ミリアムさん、でしたね? いつも奥様のことを心配して下さって感謝しています」

「あなた、幽霊じゃないわよね?」

 念のためミリアムは尋ねてみた。

「ええ、わたしは生きています。あいつの魔の手から奥様をお守りするためなら、死んでなんかいられません」

「あいつ? あいつって、誰のこと?」

「召使のモルデカイのことです」

 あの善良そうなモルデカイさんがサラの命を狙っている! それは、ミリアムにはにわかには信じられないことだった。

「あいつは、先代からこちらにお世話になっているにもかかわらず、とんでもない恩知らずな男なのです。わたし、偶然聞いてしまったのです。あの男が旦那様の出張前に御者にお金を渡して旦那様を殺害するように命じているのを。

 旦那様がもうかれこれ一週間以上も帰って来ないので、いよいよあいつが計画通り旦那様を殺害したのだと知り、わたしはあいつを問い詰めたのです。そしたら、あいつは平然と今度は奥様を殺すつもりだと言ったのです。ただし、それは奥様が子どもをお産みになった後なのだと。というのは、あいつは、両親のいないお子様の後見人となって、この屋敷の財産を牛耳ろうという計画を持っていたからなのでした。

 わたしはなんとかその計画を阻止しようと思い、警察に訴えてやると叫びますと、あいつはそばにあったお盆でわたしを殴りつけました。

 それからのことはよくわかりませんが、気を失ったわたしを馬車に乗せ、コルド川に投げ込んだのでしょう。幸い、わたしは泳ぎが得意でしたので、かろうじて川岸に泳ぎ着いて九死に一生を得ました。

 わたしは奥様のことが心配で、いてもたってもいられず、急いでお屋敷に戻りました。日はすっかり暮れてもう真夜中でした。ただ、空腹で仕方なかったので、台所でパンをいただいているところを、偶然奥様に目撃されてしまいました。気を失った奥様を部屋までお連れしたのはわたしです。

 それから、わたしは隠れた場所からあいつが奥様を襲いに来ないか毎日見張りました。そして、あいつが寝静まった真夜中になるとここに来て、一日に一度の食事を取ることにしていたのです」

 これが家政婦の幽霊騒動の真相というわけだ。ミリアムはほっと胸をなでおろした。

「でも、それならそれで、サラに本当のことを話せばよかったんじゃない?」

「いいえ、あいつは実に狡猾なやつですから、適当にごまかしてしまうに違いありません。ですから、決定的瞬間をとらえないといけないとわたしは思ったのです」

「あたしはあなたの話を信じるわ。あたしも一緒について行ってあげるから、今のことをサラにもちゃんと話してあげて」

「わかりました。そうして下されば、わたしも安心です」

 彼女は立ちあがって、両手でミリアムの手をしっかりとつかんで笑顔を見せた。

 と、その次の瞬間、ハガルが眉根をよせて不快そうに顔をゆがめると、その口から塊のように赤黒いものを吐き出した。

「ハガルさんっ?」

 突然をひざをついた彼女をミリアムはとっさに抱きとめた。

「お、奥様を、たのみます......」

 それだけつぶやくと、ハガルはミリアムの腕の中で息を引き取った。彼女の背中に回したミリアムの手が何か堅いものに触れる感触がした。見ると、ハガルの背中に短剣の柄が飛び出していた。

「!」

 ミリアムは驚いて飛びのいた。

「誰がこんなことを?」

 そうつぶやいたミリアムに闇の中から答える声がした。

「その女は知りすぎたのだよ」

「モルデカイさん?」

「そして、あんたもな!」

 ミリアムは後ずさった。だが、すっかり闇になれた眼でも、モルデカイの姿を認めることはできなかった。いったいこの声はどこから聞こえてくるのだろう。

 ふいに空気を切る音が聞こえて、とっさにミリアムは身体を避けた。右腕に鋭い痛みが走る。左手で抑えると、生温かいものが流れ出す感触がした。ナイフで切られたんだ。あたしも殺される! ミリアムの心に恐怖が押し寄せてきた。

 早く逃げなくちゃ。でも、いつの間にか、台所の扉は閉じられていた。出口はどこ? 息の詰まるような暗闇と静寂の中、獣に追い詰められた兎のようにミリアムは身体を震わせながら、必死にドアの取っ手を手さぐりで探し求めた。

 再び空気を切り裂くような音がしたかと思うと、ミリアムは大きな声で叫んだ。今度は右脇の辺りが鋭く痛み、ミリアムは思わずその場に倒れ込んだ。

 次は絶対殺される! 心臓が早鐘のように激しく鼓動している。ミリアムが最後の一撃を予期して目をつむって俯いていると、遠くから祈りの声が聞こえてきた。


『ロー・ティラー・ミパハッド・ライラ

 メヘッツ・ヤウーフ・ヨマム』


 この声は! サラがミリアムの教えた祈りの言葉を繰り返し唱えているのだ。

 ミリアムは主の御言葉を聞いて、身体に力がみなぎってくるのを感じた。急いでかばんの中からテフィリンを取り出し、額と左腕に結び付ける。そうしてミリアムは、サラと心を合わせて祈りの言葉を唱和しはじめた。

 そのとき、暗闇の中に光が射した。それは、ミリアムの額に結び付けられたテフィリンから発せられたものだった。突如として発せられた光の前にモルデカイはたじろいだ。ミリアムは祈りの言葉を絶やさないようにしながら、ゆっくりと彼に近付いていった。

「うわっ! 目が、目が……」

 モルデカイは手で顔を覆いながら必死に光から目をそむけようとしていた。後ずさりながら、しきりに喉のあたりをさすっている。そのうち、彼の息遣いが激しくなり、その場に膝をついた。やがて、苦しそうな顔をして胸を押さえながら、モルデカイは床に倒れ込んだ。ミリアムがそばに駆け寄った時にはすで彼は息絶えていた。異様なほどに見開かれたその目は、ほとんど白い部分もなく真っ黒で不気味だった。ミリアムは手を伸ばしてそっと彼のまぶたを閉じた。


 サラの祈りはいつの間にか止んでいた。ミリアムは、テーブルの上にあったランプを灯した。床には二人の遺体が横たわっている。悲しい出来事だったが、これでもうサラが幽霊に悩まされることはないだろう。サラが出産を迎える日まで、これ以上怖い思いをしなくてすむようにとミリアムは願った。

 それからミリアムはサラの部屋へと向かった。軽くノックをしてドアを開くと、サラはベッドに横たわっていた。

 祈り疲れてもう眠っちゃったのかしら? そんなことを考えつつミリアムが部屋に足を踏み入れると、見知らぬ長い黒髪の女性がサラのベッドのそばに立っているのが目に入った。

「誰?」

 だが、その女は無表情で沈黙したままだった。

「あなたがモルデカイさんを操ってあんなひどいことをさせたの?」

 ミリアムがそう問いかけると、女の目が赤く光った。とたんにミリアムの全身が凍りついたように身動きがとれなくなった。だが、次の瞬間には女の姿は見えなくなっていた。

 ――彼女がリリトなんだわ!

 ミリアムは、サラからはじめて幽霊話を聞かされた日に感じたあの鋭い視線の正体を知って、身体の震えが止まらなかった。



 六


 事件から一週間後。夕暮れが迫る頃、ミリアムはサラのもとを再び訪ねた。

「夫の遺体は、先日郊外で見つかったそうよ」

「お気の毒に」

 これから子どもを抱えて未亡人として暮らすサラのことを思って、ミリアムは表情を暗くした。それに気付いたサラが言った。

「でも、夫が残してくれた財産があるから、生活には困らなくて済むわよ。それに、この子もいるし。夫が残してくれた大切な宝物だから、大事に育てるわ」

 子どもの頃はおとなしく、いつもミリアムの後ろに隠れていたサラのことを思うと、母になるということは、こんなにも人を強くたくましくするものなのかと、ミリアムは感慨深く思った。

「わたし、やっぱり女の子がほしいと思うの」

「まだそんなこと言っているの? 早く男の子を産んで、店の後継ぎにしないとだめじゃない」

「店のことはもういいの。それよりね、ミリアムみたいに頼りがいのある女の子を育ててみたいわ。名前ももう決めているのよ」

「やめてよ、ミリアムだなんて」

「うふふ」

 サラはほがらかに笑ったが、ミリアムの表情は暗かった。

「どうしたの、ミリアム? あなたが見た女悪魔リリトのことを気にしているの? そんなものは迷信なんでしょう? 仮にリリトが存在するとしても、あなたのお父様が下さったお守りがあるから、もう心配はないはずよ」

 確かに改めて振り返ってみると、あの晩見たあの女性は、極度の緊張と興奮のために見た、ただの幻だったのではないかとミリアムは思い始めた。だが、それ以外にもミリアムには気にかかることがあった。

「サラ。どうしてモルデカイさんはあんな恐ろしいことを企てたのかしら? あたし、まだどうにも腑に落ちないのよ」

「なんだ、そんなこと。あのね、お金のためだったら、人は何でもするものだわ。この家に嫁いできて商売にかかわるようになると、わたしにもそのことがよくわかるようになったわ」

「でも、あたしにはどうしてもモルデカイさん一人で計画した犯行とは思えないのよ」

「じゃあ、あなたの考えを聞かせてよ、ミリアム」

 大きなお腹を抱えながら起き上がったサラは、ミリアムと向かい合うような形でベッドの端に腰かけた。

「ハガルさんの話では、モルデカイさんはご主人を殺害し、子どもが生まれてからはあなたも殺害するつもりだった。そうして残された子どもの後見人になるつもりだったということだけど、それは無理だわ。ご主人には身寄りがないとしても、サラ、あなたのご両親は健在だし、この家の召使であるモルデカイさんが生まれてくる子の後見人になることはありえないはずよ」

「それで?」

「だから、生まれてくる子があなたとご主人の子であるかぎりは、モルデカイさんが財産目当てでご主人を殺害する理由がないわ。でも、ハガルさんの証言が真実だとしたら、そこから導かれることはただ一つ。生まれてくる子どもはモルデカイさんの子だということよ。それならば、つじつまが合う」

 ユダヤの伝説によれば、リリトは夢の中で男性を惑わし、自分の子孫を作るように仕向けるのだと言われている。モルデカイがリリトに操られていたとしたら、彼がサラとの間に子をもうけようとした可能性は十分ありうる。リリトの存在を疑っているサラの前では黙っていたが、ミリアムの内心では、この点でもサラのお腹に宿っている子がモルデカイの子である根拠があるとにらんでいた。

「じゃあ、あなたは、わたしとモルデカイとの間で肉体関係があったと疑っているのね?」

「サラ。あなたのご主人は買い付けや何かでしょっちゅう家を開けていたわ。そんなあなたの心の寂しさにモルデカイさんが付け込んだということもありえるし……」

 ミリアムのその言葉を聞くと、サラは大声で笑い出した。

「ハッ! このわたしが召使ごときに言い寄られて子どもを身ごもったとでも言うの? 笑わせないでよ!」

「サラ?」

 突然目つきが変わったサラの様子に、ミリアムは戸惑いを隠せなかった。

「わたしなのよ、モルデカイにわたしと寝るように仕向けさせたのは!」

「でも、どうして……」

 これがあのおとなしかったサラなのだろうか? 目の前にいるサラの様子を見て、彼女が幼い頃共に学んだ友人と同一人物であるとは、ミリアムには信じられなかった。

「しかし、驚いたわね、ミリアム。まさか、あなたがそんなに簡単に真相を見破るとは思わなかったわ。あなたの言う通りよ。この子はモルデカイとの間にできた子だわ。わたしはこの家に嫁いできてしばらくは子宝に恵まれなかった。そのことではずいぶん心を痛めたわ。世間体もあるしね。最初はわたし自身に問題があるんじゃないかと思ってた。でもね、本当は夫の方に問題があったの。うちの夫はね、子どものできない身体だったのよ。でも、あの人はそのことを認めなかった。子どもができないのは全部わたしのせいだと言ったのよ! 次第に、あの人は出張の旅先で知り合った女を連れ帰っては公然とわたしのことを辱めるようになった。いい気なものよね。子種がないものだから、相手を妊娠させてトラブルになることなど心配しなくていいもの。わたしは悔しかった。なんとかしてあの人に復讐しようと思った。それで、あの人が留守の間にモルデカイを寝室に引きこんだのよ。あいつはすぐに喜んで協力してくれたわ。ほんと、わたしが妊娠したと知った時の夫の驚きようといったら!」

 サラは残忍な笑顔で高笑いした。そんな彼女の姿をミリアムは心底恐ろしく感じた。きっとサラもその夫も、そしてモルデカイも、みんなリリトの呪いにかかっていたのだ。

「サラ、あんまりだわ。生まれてくる子どもがかわいそう……」

「ふん! 夫のような男が父親なら、いない方がましだわ。子どものためによくないわよ。家庭も顧みず、仕事ばかりで。おまけに子どもができないからって妻以外の女と浮気して!」

「だからって、ご主人を殺すことはなかったんじゃない?」

「ばかね! わたしは夫を殺そうなんて思っていなかったわよ。わたしは夫が不能であることを思い知らせて辱めればそれでよかったの。ところが、モルデカイのやつが財産に目がくらんで夫を殺してしまったのよ。それから、わたしはあいつをどう始末しようかと、ずっと考えていたわ。モルデカイにはいい加減うんざりしていたところだったから。いい気になって、夫がいない夜には決まってわたしの寝室に降りてきて愛人気取りで。まったくただの召使のくせに! それでね、わたし、あの日、モルデカイをあなたの家に呼びにやったときに、あいつの部屋にあったワインのデキャンタに薬を仕込んでおいたの。ベラドンナの花から作られた目薬をね。以前夫がイタリアから愛人への土産として持ち帰ったものをこっそり失敬しておいたんだけど、これを飲むと瞳がぱっちりと開き、喉が渇きはじめ、やがて息が苦しくなって死に至るそうよ。あいつは毎晩就寝前にワインを飲んで眠る習慣があるから、きっとあの晩もそれを飲むと思ってね。あいつがいつ死んでくれるのかと思って寝ずにずっと待っていたけど、やっと死んでくれてほっとしたわ。ねえ、驚いた? わたし、自分の力でこれだけのことをやってのけることができたのよ。ミリアム、わたしはもう、あなたの後ろに隠れて怯えているような子どもじゃないのよ」

 ミリアムは悲しさのあまり涙があふれてくるのを止めることができなかった。幸せな家族の絆をズタズタに引き裂いたリリトが許せなかった。それ以上に、サラがこんな恐ろしい罪に手を染めるほど追い詰められていることに気づかずにいた自分が許せなかった。

「お願い、サラ。警察に自首しましょう」

 ミリアムはサラの手を握って必死に訴えた。しかし、サラは乱暴にその手を払いのけた。

「いやよ! 警察に捕まればわたしは死刑よ。ねえ、ミリアム。生まれてくるこの子から母親を奪う気? あなたにはこの子から母親を奪う権利があるの? ねえ、どうなの!」

 ミリアムはサラのその言葉に衝撃を受けた。確かにその通りだ。何の罪もないこの子から母親を奪う権利は自分にはない。ミリアムは自分の無力感に打ちひしがれながらサラの部屋を出た。すっかり日が暮れて、暗くなった階段を下りていくミリアムの背を、勝利に酔いしれるサラの高笑いがいつまでも追いかけてきた。



 七


 サラの家の玄関を出ると、目の前に立つ人影を見てミリアムはハッと息を飲んだ。

「リリト! あなた、まだサラとその子を狙っているの!」

 サラの家の門柱にはベン・イサクによって魔除けの呪文が封入されたお守り(メズザ)が飾られていたので、リリトは中に入ることができないでいたのだ。

 リリトは無言でミリアムを見つめた。恐れでミリアムは後ずさりした。背中に門柱が当り、ミリアムは追い詰められた。だが、あいにく今日はテフィリンも護符も持ってきていなかった。リリトはそんなミリアムの目の前にその右手を差し出した。リリトの目が赤く光る。

「いや、来ないで!」

 リリトがなおもミリアムに迫ってくる。その存在感がミリアムを圧倒した。それだけではない。ミリアムの手には何も触れてもいないのに、何か強い力が勝手にミリアムを動かそうとしていた。

「やめて、何する気?」

 小刻みに震えるミリアムの手が門柱に飾られたメズザに触れた。ミリアムは必死に抵抗したが、信じられないほど強い力に操られ、ついにミリアムの手はその意志に反して勢いよくメズザを柱から引きはがした。

 そのとたんにリリトが目の前から姿を消した。ミリアムがとっさに顔を上げて振り仰ぐと、その目には、軽々と三階の高さまで飛び上がり、開かれたサラの寝室の窓から中に入っていくリリトの後姿が見えた。

「あなた、誰!」

 そう問いただす声が響いた次の瞬間、サラの甲高い叫び声が轟いた。ベッドの上で暴れ回る音が窓からもれ聞こえてくる。

「サラ!」

 ミリアムは慌てて家の中に戻り、階段を駆け上った。地獄の苦しみにさいなまれるように煩悶するサラの声が聞こえる。激しく鼓動する胸を押さえながら、ミリアムは必死にサラの寝室へと急いだ。だが、ミリアムがようやくサラの部屋の前に到達した瞬間、サラの断末魔の叫び声が聞こえた。ミリアムがドアに身体ごとぶつかるようにして部屋に飛び込むと、ベッドの上で血まみれになって横たわっているサラの姿が目に入った。

「サラ! ああ、なんてこと!」

 急いで階段を駆け上がったためか、それとも恐怖のためか、ミリアムの膝は震え、立っていることができなくなった。その場にへなへなと崩れ落ちると、身体中から気持ち悪い汗が吹き出し、喉の奥から酸っぱいものがこみ上げて来て、思わずその場で吐いた。

 ミリアムが肩を震わせて泣いていると、赤ん坊の泣き声が聞こえた。ミリアムが涙と汚物でぐしゃぐしゃになったその顔を上げると、大きく開け放たれた窓際にリリトが立っており、その両腕には血の産湯を浴びた小さな赤ん坊が抱かれていた。

 ミリアムは、玄関からずっと手に握りしめたまま持ってきたメズザをリリトに向かって力いっぱい投げつけた。リリトは不気味な笑みを浮かべながら身を翻し、窓の外へと飛び立っていった。

 ミリアムが何とか立ち上がり、よろよろとサラの身体が横たわっているベッドまで近づいていくと、サラがうっすらとその目を開いた。

「サラ! 生きていたのね。よかった……」

 だが、サラの腹部はリリトが赤ん坊を取り出す際に真っ二つに裂けており、そこから止めどなく血が噴き出していた。ミリアムはシーツで必死に傷口を押さえて何とか止血しようと試みたが、それは絶望的な試みであることがミリアムにはわかっていた。

「ミリアム、ごめんね。あなたをこんな事件に巻き込んで……」

「サラ、もう話さないで。すぐにお医者さまを呼ぶから!」

 そんなミリアムの必死の呼び掛けに、血の気が失せて真っ青な顔をしたサラが首を振った。

「わたしはもういいの。ミリアム、リリトは本当にいたのね。わたし、あなたの言うことを信じていなかった。その上、モルデカイを始末するためにあなたを利用し、傷つけてしまったわ。死んだはずのハガルが現れて最初は驚いたけど、すぐに彼女が生きているってわかったわ。でも、幽霊が出るって騒げば、モルデカイをあなたの家にやる口実ができると思ったのよ。それに、ハガルのことだって……彼女は必死にわたしと赤ん坊を守ろうとしてくれていたのにね。わたしと同じように子どもができずに苦しんでいた彼女が、わたしにとって最大の味方のはずだったのに。そのことに気づけずに、むしろ邪魔者扱いして。挙句の果てに、モルデカイのようなろくでもない奴とわたしは……わたしは、地獄(ゲヘナ)で永遠の火に焼かれても文句は言えないのよ。バカな女だと笑ってくれていいわ……」

「そんなことない! サラはいつだって、いつまでだって、あたしの大切な幼馴染なんだから!」

 だが、そんなミリアムの叫びは、もはやサラの耳には届いてはいなかった。ミリアムはまだ温かいサラの身体の上に突っ伏して、いつまでも声を上げて泣き続けた。


(了)

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