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第二章(file3)

 最後の一週間は、更に過酷さを増した。嶋田が訪れてきた翌日の訓練から、カイエンはキャンプ場そのものを大幅にプログラム変更し、仮想魔界空間を設定して美咲達に新しい試練を与えることにしたのである。

 それは幻影空間の中に造られるミニチュアとは異なり、二人には宇宙それ自体が魔界と化してしまったかのように思えたほどだった。

 もはや太陽などはなく、荒涼としてはいたが次第に美しいと感じるようになっていた自然の景色さえどこにもない、殺伐とした死の空間。そこは月面や火星の表面に近い風景だった。光源はないのだが、何故かジムノマンシーで暗視せずともよく見えた。空にはびっしりと厚い雲が蓋をしていて、いくつもの雷が走っている。硝煙の臭いが立ちこめ、そこだけを見れば金星のようだとも言えた。三人は高さ数キロメートルはあろうかという断崖絶壁の上から、その乾ききった世界を見下ろせる場所に立っていた。

 いくら見渡しても草木一本の生命すら感じない。美咲と綾乃は圧倒的な孤独感に襲われ、絶望という名の冷たい空気を吸うことに躊躇した。

 カイエンは二人の前に立つと、自然体で訓練の説明を始めた。

「ここは別の惑星ではない。俺が知っている限りで、最も最下層三次元世界に近いだろう魔界の一部を切り取った仮想空間だ。次元の境目にやや曖昧なところがあるので、思念が物質化現象を起こしやすく、しかもそれはすぐに固有の意志を持って勝手に動き出すんだ。強い精神力と聖なる心を持っていなければ、自分が生み出した思念によって、あっという間に取り殺される。実に刺激的で遊び心に富んだ亜空間さ」

 そこまで嬉しそうに言うと、カイエンは右手をジーンズのポケットに突っ込んだ。

「ところで、君達が空間座標移動で記録した最大距離は? どこまで行ったことがある?」

 突然に話題を変えたので、美咲も綾乃も面食らって答えることを忘れた。

「銀河系を出たことはあるかい?」

 再度カイエンに訊かれると、綾乃が先に答えた。

「ずっと以前の訓練で、火星にまで跳んだ事ならあるわ。でも別に、距離感は感じなかったけど」

「それはそうだろう。映画のフィルムに例えるなら、シーンの繋がりを別の場面に飛ばして編集するようなものだからな。映画の登場人物からすれば、突然に景色が変わったようにしか感じない。つまり君達は、座標移動を使う時、知らずに時空ごと移動しているんだ。自分の周囲の空間だけを操作しているつもりが、自分が存在した時間をも切り取っているというわけだ。このような考え方を君達がしないのには訳がある。それは聖道士の魔法の使い方が魔道士とは違うからだ。君達は呪文を唱えず、イメージだけでそいつを具現化してしまう。過程を事細かに理解している必要がないんだ。それに対して俺達魔道士は呪文を唱える。呪文には意味があり、それはプログラムを実行させるコマンドに似ているが、実際にはプログラムを書き換えながら処理しているんだ。だから具現化や森羅万象のメカニズムに精通していなければならないのさ。ところで美咲は? どこまで跳んだ?」

「私は、金星まで。一度行ってみたかったから。もう、行きたくないけど」

「オーケー、分かった。君達はまだ銀河系はおろか、太陽系さえ飛び出ていないんだな。それでも君達は一度も行ったことのない場所へも座標移動できる。ならば、宇宙の果てに行ってみたくはないか? 君達なら宇宙が膨張していくスピードにも追いつけるだろう」

 さもそれは容易いことだと言いたげな口調だった。あるいは博士号を持つ学者が小学生に科学の講義をしている様子に近かった。綾乃はいつものごとく講師に反発した。

「カイエンは行ったことがあるの?」

 講師は即答した。

「行こうと試みたが、できないことを知ったよ」

 それを聞いて二人は驚きを隠せなかった。興味がわいたからである。

「厳密に言うとだな、果ての寸前までは行った。ただその向こう側を見ることは叶わなかった。どうしてか分かるかい? そこには空間も物質も、何も無かったからさ」

 カイエンはにやりと笑うと、左の手もポケットに差し込んだ。

「空間も物質も無いということは、いかなる波動も存在していないということだ。当然、時間も存在しない。その“完璧な虚無”を越えることは何者にもできないが、次元を越えて別の宇宙に行くことはできる。例えば俺は数千もの世界を旅してきた。空間的に繋がりがないのに、どうして往来が可能なのか? この地球と火星や金星は宇宙空間で繋がっている。だが俺や、美咲の前世の故郷までには、物理的な距離を測定することができない。何故ならこの宇宙のどこにも存在しない時空だからだ」

 それを聞いた綾乃は一瞬どきりとした。思わず美咲を横目で見たが、当の本人は全く気にしていないように見える。綾乃にはいまの二人の関係が不思議でならなかった。

「さて、これらの事を踏まえて、ちょっと考えてみよう。俺や他の魔道士達は、どうしてこの世界に移動できるんだ? 藤森聖道士長」

「三次元は、四次元に包括されるから」

「その答えは義務教育レベルでは百点だが、修士論文では通用しないな。これを理解しない限り、君達は亜空階位にはなれない。つまりは時空操作術などとても修得不可能ということになる」

 カイエンは左手をポケットから出すと、小声で呪文を唱えた。振り上げられる手の先に横長な長方形の画面が宙に浮かび、さながら映画のスクリーンのように動画を映し出した。

 それは見慣れた景色だった。次々と場面を変える街の風景は、日本各地の有名な場所を映し出していた。

「こいつは記録映像じゃない。通常空間に窓を開けて、いま実際に空から見ているんだ。通常空間とこの閉鎖時空間とは、物理的に繋がっていない。一方で、超時空的にはこの窓を通して空間の狭間を共有している。これを可能とする手段は? 松村聖道士長」

「えーと、空間の狭間で波動を変換しているから?」

「見事だ。ここで想像して貰いたい。君達はくつろいでテレビを見ているとする。番組は何でもいい。つまらない時間潰しの信号だ。君達はチャンネルを声で指示するかリモコンで操作して切り替える。何百もあるチャンネルを転がすように変えていくんだ。映し出される映像は、それぞれが別々の世界を持つ。個々に次元が違うわけだ。ところが君達はその異なる複数の世界をジョグダイヤル一つで切り替えることができる。人類の叡智だな」

 カイエンは空中のハイビジョンを消し、講義を続けた。

「それは時空を行き来する方法に似ているんだ。電気信号は周波数を違えることで別の番組と混信することなくその世界を独自に保つことができる。ほんの少しずらすだけだ。それだけで別の時空になる」

「要するに、空間周波数を合わせることで、次元移動が可能になるということ? それなら今すぐにでもできるわ」

 美咲が疑い深く質問をする。カイエンはまた嬉しそうな顔をした。

「そう思って次元の彼方に放り出され、二度と戻って来られなかった奴を、俺は何人も見ているぞ。難しいのはここからだ。君達は自分自身の存在周波数、換言すればその波動を維持したまま、異なる波動の中に移動する必要があるんだ。そうでなければ、相互干渉、つまり“混信”して世界は崩壊してしまう。もしくは、別の波動をそのまま崩すことなくこちら側の波動の世界に移し替えるということだ。できるかい?」

 美咲と綾乃はその理屈に混乱した。しかしそれが単なる回りくどい表現に過ぎないと分かった時、さほど頭を悩ませることなく、そのからくりに気がついた。

「分かったわ。カイエンの例えを借りるなら、あるテレビチャンネルの中で、別の番組を画面の端に割り込ませるようなものね?」

「美咲はある程度理解したようだな。だがそれでもまだ不十分だ。そこで見るマルチビジョンは、“現在”でしかない。異なる複数の波動を同時存在させるだけでなく、その波動の過去と未来をひとつのファイルに閉じこめることが重要だ。これが聖道士と魔道士共通の時空操作術の基本となる。分かったかね、先輩?」

 カイエンは綾乃を軽く指さして言った。

「理論ではとっくに理解しているわ。それをどうやってジムノマンシーで実現するのかが問題なのよ。別の空間をただ観賞するだけなら波動変換で事足りるわ。でも物質と空間を共有するという前提で“時間”をも操作するとなると、その世界そのものに記録された時空の記録を切り取って、編集しなければいけないじゃない? 同じ波動を持つ宇宙の中で座標移動するのとは訳が違うわ」

 それを聞いたカイエンは鼻を鳴らして笑った。

「大変結構だ。どうやら、君の脳みそをレッドゾーンにまで引き上げてしまったようだ。もうアクセルを戻して回転数を下げてもいいぞ。もう少しだけファンタジックな例題に替えて考えてみよう。松村聖道士長が言うところの時空の記録とは、すなわち〈アストラル光〉に例えられる。あの廃墟で見た残留思念が実にいい例だ。そこから手元に具現化される物体や現象は、〈人工のエレメンタル〉ということになる。時空に刻まれた記録を自在に取り出し、これに手を加える作業は、君達の次元で言えばビジョン・レコーダーによる録画編集みたいなもんだ。俺達はそれをデジタル処理ではなく呪文で操るわけだが、さて、ジムノマンサー諸君はどうするのかな?」

 再び自然体になったカイエンは、近くにあった腰掛けるには丁度良い大きさの岩に座って、居心地良さそうに両脚を投げ出した。

 綾乃は眉間に皺を寄せ、手を忙しなく動かしながら自分の考えを纏めた。

「ええと、つまり……別の空間に記録されたデータを読み取って、その中から必要な時間だけをコピーするか切り取るかして、持って行きたい先の時空に貼り付けたり、プログラムの元データとして使用したりする、ってこと? ううん、別次元の空間をカットアンドペーストするのは感覚的に分かるけど、時間はどうやって読み取るの? 私は時間という特質に触れたこともないし、肉眼で見たこともないのよ」

 困ったような顔の綾乃に美咲は同調した。小さく頷いてカイエンの回答に期待する。

「時間はそれだけで見れば一次元的な性質を持つ。だが、事象の歴史というものを考えるとき、決して一次元の存在に限定して論じることはできない。時の流れは常に空間と共にある。あるいは物質と共にあるんだ。時間という概念だけに囚われるな。〈アストラル光〉から時間を取りだして操作するということは、それと共に空間も切り出すということなんだ」

 カイエンは何処までも続く岩と砂だけの死臭漂う大地を眺望し、その景色に二本の指を突き立てた。今度は少し長い呪文を唱えると、遙かなる地平線の彼方から、見渡せる陸地の幅そのままに、大津波が猛スピードで押し寄せてきた。山脈で一斉に起きた雪崩のような洪水は見るうちに海を造り上げたのである。新たに創造されたその大海は黒く淀んで、まるで原油のようだった。大波が静まると、カイエンは立ち上がって言った。

「この空間のモデルとなった土地は数万年前、暗黒の海だったんだ。時空の記憶を呼び起こして、その時代の空間ごと持ってきてみた。これは時空操作の基本中の基本だ」

 美咲と綾乃は何も言葉がなかった。それが単純な物質化現象などではないことがはっきりと分かったからである。

 カイエンの講義の内容について、どうして座標移動の話から説明したのか、綾乃でさえも修練生時代の学習を思い出すことでそれらを繋ぎ合わせることができた。

 三次元の観測者からは、過ぎ去った時間を見ることはできない。未来も同様であり、現在という点にしか存在できない。ところが、時間軸という世界の構成要素を含む四次元の観測者から三次元を見ると、時の始まりから終わりまでを同時に見渡すことができる。まるで広げた映画のフィルムを見下ろすかのように。

 超時空連続体においては、時間という観点でそもそも現在という概念がない。過去に相当する時間を現在と同時に“見る”事が可能だからだ。

 要するにそこには時の始まりから全ての事象が超時空連続体に記録されており、消え去ってはいないのである。時間とは空間や物質、つまりは全ての波動の変化そのものであり、変化がなければ、そこには時間も存在しない。時空には波動変化の様が克明に記録されているのだ。これは〈アカシックレコード〉と呼ばれる。

 その記録を感じて、読み取り、操作する。過去の改竄は不可能だが、その記録を現在に持ってくることで、編集が可能となる。覗き見るだけなら、もっと簡単ということなのだ!

 当然ながらそれはデータに過ぎず、しかしカイエンは遠い過去から大海を呼び出した。

 これはどういう事なのか?

 綾乃は自分が空間座標移動を覚えたときのことを思い出していた。

「あの黒い海は、読み取ったデータの波動をもとにその波動を時空ごと具現化、つまり、波動の再構築と増殖によって造ったんだ。時空操作術は空間と物質に限定で、残念ながら魂の波動や人の記憶までは再現できないがね。それができたら、素晴らしいんだが……時空操作術を覚える一番の近道は、時空が歪んだ混沌の世界に心身を一体化させることにつきる。習うより慣れろ、だ」

 カイエンの声は穏やかだった。千年の昔を思い出すかのように。

 近い距離だろう、雷鳴が地を這って轟き、凄まじい光が黒い海を打った。一瞬シルエットになったカイエンは、魔道士の波動を弱々しくも遠慮せずに放出している。その美しく妖しい容貌を見て、綾乃は初めてカイエンに恐怖心を持った。

 やはりこの男は魔道士に他ならない。教官としては絶対の信頼を置くことにもはや何の躊躇いもないが、美咲の事について真の目的であると語った言葉は丸飲みしてはならないと思い直していた。

 カイエンの「何か質問は?」という問いに対して、美咲と綾乃の二人は質問も意見も口にする以前に何も思い浮かばなくなっていた。自分達は小学校の新入生に等しいと思えるようになっていたからである。

 最終キャンプは、無言から開始された。

 環境の異なるその仮想空間は、とてもキャンプ場とは言えないものだった。美咲と綾乃は唯一、既に可能としていた時空操作術である〈ヘヴンズ・ドア〉のおさらいから始まり、時間と空間の複雑且つ単純な関係を理屈と神経感覚の両方で理解し体得するべく、より次元の敷居値が高い空間で訓練を続けた。

 同じ亜空間でも空間周波数や波形が異なるため、自分達を存在させることそれ自体にも注意を払わなければならなかった。最初のキャンプ場の時間流は聖道士に配慮したプログラムだったのに対し、この疑似魔界は全ての要素が異質な時空になっていたため、それなりの工夫が必要だった。

 まるで固有の周波数を持たないかのようにあやふやな帯域として存在する疑似魔界は、外部から侵入した別の波動を持つ存在に敏感に反応し、総掛かりで干渉しようとした。

 異なる存在周波数を許さないとでも言うように、この世界の波動に引きずり込もうとする自然の力が故意に働いているのだ。そこには邪な意志があるかのようだった。

 二人は慣れるまでに三日以上を必要とした。そして、理論は横に置いても、体感的に超時空に触れていると思えるようになった頃には、ここの空間が持つ周波数の“引きずり”にも完全に対処できるようになっていた。

 自分自身をしっかりと持って自己制御しない限り、時空そのものに取り込まれ溶け込んで消えてしまいそうになる。そんな形而上学的な誘惑から容易に逃れる術を、二人は身につけていった。それは最初のキャンプ場での精神鍛錬の効果と言えるだろう。

 この世界には昼夜の区別がなかった。厚い雲に覆われた灰黒色の空には太陽を見ることができなかったからだ。

 それでもカイエンは、最初のキャンプ場同様にあらかじめ定められた一日のメニューを終えると、二人には休むよう指示を出し、必ず睡眠の時間を設けていた。そしていつもその日の訓練を終えると同時に姿を消し、翌日には再び活気に満ちたオーラを放ちながら陽気に登場するのだった。

 そのことについて綾乃は美咲に話をしたが、カイエンの語った[当初の計画]については話す機会を見定めようかと考え、話題に上がらないよう努めたのだった。

「ここって、いまはカイエンに改造されて疑似魔界の状態にあるのに、どうして毎晩いなくなるのかな?」

 夜の時間帯は鬱蒼とした森の中にある湿った洞窟の中が休憩場所になっていた。奥まった所で比較的柔らかい地面を選び、毛布に身を包んで横になる。ジムノマンシーで清らかな野原やベッドを作り出そうと何度か試みたが、どういう訳か持続せず、五分と経たずにまた元に戻ってしまうのだった。それでもローソクに火を点すという原始的な方法だけは不思議と許されているらしく、綾乃が克服した具現化の技術によって洞窟の暗闇をアロマキャンドルが煌々と照らしている。

「それでもここは聖界の一部であることに代わりはないわ。空間を似せているだけで、実際には魔界と繋がっていないもの。ジンもいないし、定期的に魔界に戻らなければ、毎日あれほど意欲的にはなれないんじゃない?」

 美咲は抑揚を抑えた口調で答えた。

「ずいぶんとクールなのね。もうカイエンに興味はなくなったの? だとしたら私は嬉しいんだけど」

「いまはとにかく訓練に集中したいだけよ。カイエンの行動については聖界から何も言ってこないわ。だったら私達はただカイエンに従って研修期間を無事に修了して、聖道士長としての初仕事に望む体勢を整えることが重要でしょう? 私の個人的な自分探しなんか、そのあとでゆっくりやればいいんだもの」

「そんなに割り切れるものなの? 自分に嘘をついてはいけないわ。美咲の思考を読んだとき、そんな簡単にモードを切り替えできる話じゃないって思った。もっと素直になってもいいんじゃない? 不思議なのは、カイエンが教官に徹しているということよね」

 綾乃はそこまで言って自分の口を手で塞いだ。それに気づかずに美咲は答えた。

「この訓練が終わったら、綾乃にたくさん相談するわ。私がこのまま聖道士であるべきかということも含めて」

「ちょっと! 何を言っているの? 聖道士として高みを目指すために、こうして訓練しているんでしょう? 聖道士であるべきかなんて、言わないでよ!」

「わかってる。だからこそいまは割り切りたいの。幸か不幸か、この二週間の精神鍛錬がそれを可能にさせたのよね。私はいま千年前を生きているんじゃない。未来に生きているんだって、思いたいのよ」

 その言葉に、綾乃は独り言のように低い声で呟いた。

「私達は、いつも未来に生きている……」

 それは聖道士の合い言葉のようなものだった。いつ誰がどの世界で言ったのかは知らなかったが、それは未来永劫に不変である恒久式に似ていると綾乃は思っている。それは人間にも通じるものだとも考えていた。美咲の言うことは正しい。そして強い。綾乃は自分もこの事を考えるのは控えようと決断した。

「そうね。もうすぐ研修期間も終わるし。終わっても人界では課題が山積みだしね。これからの千年を考えなければ、いけないのかもね」

 綾乃はアロマキャンドルの照明度を幾分か下げて、この時は早々に話を切り上げて眠ることにした。しかしその夜、千年前の事実についてあれこれと思いを巡らし、なかなか眠りにつけなかったのは美咲の方だった。



 ……また、あの夢だ。

 美咲は不明瞭な意識の中でそう思った。

 初めはモノクロで、関連性のない様々な場面が数秒ごとに入れ替わる。やがて色彩を持ち始めた景色は、自分の知らない異国だった。

 そこは、清らかなるものしか存在しないように見えて、それが何故か忌むべき事のように思えた。全てを厭う自分が、いまここにいる。

 その自分を人々が恐れおののき、逃げ惑うのだ。

 喉が乾き、焼けるようだ。このままでは体が干涸らびてしまいそうだと感じる。

 長いこと忘れていた食欲が蘇り、何かを食したいという欲求にかられた。

 その何かを探して、引き寄せられるようにある場所を目指した。

 彷徨い歩くその先に、白い服を着た白髪の男が立ちはだかる。

 敵だ。

 根拠などない。ただ、そう思えるのだ。

 その敵が、自分に何やら話しかけてくる。

 言葉が分からない。少なくとも日本語ではない。しかし、何を言わんとしているのか、不思議にも伝わってくる感じがして、それが自分に対する攻撃に他ならないと直感した。

 決して自分を恐れない目の前の男とは別に、恐怖で動けなくなっている別の人物が視野の隅に映る。

 ……カイエン?

 どことなく、違うようにも思える。

 真正面に向き直った。

 ……ゼノ?

 やはり雰囲気が少し異なるようだ。

 ここで初めて、自分自身を見下ろす。

 血まみれだった。

 人々はこの姿を見て逃げたのだろうか?

 光が迸った。

 例えようのない恐怖感が襲ってくる。

 熱い。燃えてしまいそうだ。

 枯渇しきった体から、濁流のように汗が噴き出る。

 精神的な焦燥感が、物質的な不快感へと移り変わっていく。

 美咲は、ようやくそれを悪夢だと認識して、跳ね上がるように飛び起きた。

 全身が汗で濡れていた。聖道士防護服が水を被ったように肌に張りついている。

 隣では綾乃が静かに寝息を立てて、うなされた美咲に気づいた様子はない。

 久しぶりに……見てしまった。

 こともあろうに、より最悪な方の夢を。

 美咲は両手で顔を覆い、嘆くように大きく深呼吸して高ぶる心を静めようとしたが、再び眠りにつく頃には、夜に相当する休憩時間も、もうすぐ終わろうとしていた。



 そこは陽の光が全く届かない深海のようだった。暗く、冷たく、そして重たかった。

 雲に切れ間が生じて日が差すように一筋の明かりが闇に紛れ込もうとしていた。真っ暗な部屋のドアが半分だけ開かれ、その先には光が覗いていたが、速やかに閉じられた。

 カイエンは蹲ったまま、暗く冷たい深海に漂っている。それは液体のように見えたが、物理的には気体の性質に近く、カイエンが浮かんでいるのはこの閉鎖時空間に重力が存在していないためだった。上下という概念は無意味だったが、あるはずのないドアから入ってきたその男は、まるで万有引力が地面を定めているかのごとく、見えない通路を辿って歩き出した。

 その男は佐多であった。カイエンの側まで歩み寄ると、両手の拳を軽く握りしめながら思念波を飛ばした。

(カイエン、もう限界なのではないですか? 魔界でもこのような独立した閉鎖時空間を造れるでしょう。どうしてそう無理をするのです?)

 佐多は心を痛めていた。目の前にいるのは亜空では名高い屈強の魔道士だ。それが生まれ出てさえいない赤子のように小さくなって、息も絶え絶えの醜態をさらしている。

(よう、マーラム。この空間に入ってこられるのは、お前くらいなものだ。昔から女っ気がないと思っていたら、そんなに男の裸が見たかったのかい?)

 カイエンの思念波は佐多には非常に弱々しく感じた。佐多はこの秘密の閉鎖時空間に入室するのは初めてだった。カイエンが聖界の監視を逃れて造った空間を独自に探し出し、聖道士である自分がそこに入り込むにはさすがに相当の時間を要したからである。

 佐多は目を瞑って小さく頭を振った。これが亜空の貴公子と謳われた独立系最強魔道士の現在の姿か。

 佐多は目を瞑ったまま会話を続けた。

(灰になってからでは、あなたを救うことはできない。魔道士のまま朽ち果てれば、魂の行く先は我々にさえ知ることはできないのですよ。いまのあなたは、命綱どころか何も持たずに糸の上を綱渡りしているようなものです)

(聖道士が魔道士の行く末を案ずるというのかい? 聖の心というものは、なんと愚かで幼稚なんだ。あんたはきっと天階位にまでなれるだろうさ)

(あなたを案じるだけではない。この状況が続けば、あなたの真の目的を疑わざるを得なくなります。そうなれば、あなたは聖界の意志によって人界から永久追放されるのですよ)

(俺は何と言ったかな? ああ、そうだ。二人の聖道士長を立派に育て上げたら、自ら回成を望むので聖道士にして欲しい、だったか? はっ! それは無論のこと嘘だ。魔道士になるための条件である自分との契約は、回成では解消できないことをお前は知ってると思っていたがな?)

 佐多は目を開いた。カイエンは眠ったまま膝を抱えて宙を漂っている。

(そうではない。カイエン、あなたは美咲を魔道に堕とし、魔界に連れ込むことを考えていた。あなたの自分との契約のことは知っていましたが、その内容までは知りようがありません。しかしあなたが人界に来た目的が美咲に関係していることは間違いようのない事実です。だが、美咲を捜し出すために盗んだという〈番人の眼〉の為に、もはや二度と魔界には戻れないのではないのですか? 一度でも戻れば、人界は魔属の標的になる。だからいまもこうして狂信者達のように回復術で心身を癒やしている。いったい何を目論んでいるのですか!?)

 カイエンはうっすらと目を開け、佐多の方に向けて眼球を動かした。

(マーラムよ、聖界から俺を匿ってくれるのはありがたいが、必要以上に関わるのはやめてくれ。俺は俺のやり方でやる。それだけだ)

(セレーネをどうするつもりなのですか!?)

 佐多は感情を抑えきれず、美咲のことをセレーネと呼んだ。

(マーラムよ、セレーネを護りたいという気持ちは分かるぜ。充分すぎるほどな。だがな、これだけは言っておく。あんたにとっては罪滅ぼしかも知れないが、俺にとっては千年を生き、地獄に堕ちるだけの価値を持っているんだ)

(そのために灰になることさえ辞さないと? 正気とは思えない!)

(正気さ。あるいは千年前から狂気のままなのかも知れない。でもな、旧友よ。愛に生きるなんてことは、常に狂気の沙汰なんだよ。狂った魔道士に邪な心はないんだぜ? そうさマーラム。俺は美咲を奪いたかった。あんたはそれを知っていて俺を教育係に任命したんだ。それは取りも直さずいつでも俺を止められると考えたからじゃないのかい? 俺の様は見ての通りだ。安心しただろうが!)

 佐多はむっつりと黙り込んでカイエンから目を逸らした。カイエンは再び目を閉じて眠ったように思念の伝搬波を消した。

(……もはや回成するしかありません。カイエン、教えるのです。自己契約とはいったい何ですか? 【もうひとりのカイエン】と話をさせてはもらえませんか?)

 カイエンは答えなかった。

(いいでしょう。無言があなたの答えなのですね。ならば、美咲に真実を語ります。私の口から、直接に)

 語尾に込められた思いは、呪文の結句のように力を伴っていた。闇の中でぼんやりと光っていた佐多の長身がより強く輝きだして、その世界を照らした。

 佐多の放つ光がカイエンには不可解にも心地よく感じて、今度は佐多の方を見ることなく目を開けた。それが合図となり、佐多は闇の閉鎖時空間から静かに去っていった。

 充電は完了した。決して満タンにはならない制限付きの充電である。それでもカイエンは漲ってくる一時的な魔力を内側から確かに感じていた。

 カイエンは昔の事を思い出していた。

 自分が魔道士になったとき、マーラムは既に聖道士となってセレーネの魂を追っていた。マーラムは最初からセレーネがジムノマンサーとして転生すると確信しており、聖界に身を置けば必ず見つけることができると言っていた。

 そして、その通りになったのだ。だがそれは結果論だ。あのとき、セレーネは聖道士として死んだというのに、魂の行き先は誰にも分からないままだった。だから聖界ルートはマーラムに任せ、自分は亜空間と人界を探すために魔道士になった。なんの能力も持たない単なる上層三次元の人間が魔属と契約せずに魔道士になるには、決定的な条件を設定するしかなかった。それも二重の縛りを。目的を貫徹しない限りは、絶対に解かれることのない、二つもの呪いを! それ以外に方法があったと? いや、ありはしなかったのだ。

 もうひとりのカイエンが、むくむくと起きあがって、目を開ける。

【マーラムが間違った事を言っていると思うか?】

 その言葉に対して、魔の人格であるカイエンが静かに答える。

[間違いでも、正解でもないさ。あいつとは、そもそも生きる次元が違うんだ]

 そうとも。あいつとは目的が異なる。そこに秘めたる想いも。

 これでいいんだ、とカイエンは自分に言い聞かせた。



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