第二章(file1)
訓練場は昨日とはうって変わってまるで整地されたばかりの埋め立て地のようだった。
美咲と綾乃は、誤って湾岸の空港建設予定地に空間座標移動してしまったのかと思ったほどだ。ところが、そこには大気適正化システムどころか建造物などは何一つ見えず、遠くに生い茂る森や大きく波を打つ丘が見えるだけで、地面は単色の土でできたコンクリートに思えた。ただひたすらに広く、遮るものは何もない。関東平野から全ての人工物を消し去ったら、こんな風景になるのだろうか。絵に描いたような雲が、少しずつちぎれながら流されていく。
しかし地上に風はなく、気温は桜の季節と言ったところだろう。あるいは小春日和か。少し湿気を帯びた冷たい空気を感じる。普段着では少し肌寒く感じるかも知れない。だが美咲も綾乃も、既に聖道士の防護服である純白の長袖ワンピースに身を包んでいる。
修練生時代には見慣れた場所だったが、二人ともにずいぶんと久々であり、正体不明の違和感があって落ち着かなかった。訓練場は昔からどういう訳か聖道士の間ではキャンプ場と呼ばれていて、テントやタープこそ張りはしないが、ほぼ一日中を青天の下で過ごしたものだった。
もっともこの空間はプログラムされた条件の組み合わせで作られる一種の仮想空間であり、世界の構成はいとも簡単に隅から隅まで変更可能だった。ただそれがコンピュータ上の電脳空間ではなく、物質化された本物の亜空間であるという点が決定的に違っていた。
この空間が用意された本当の理由を美咲達は知らなかった。それは佐多とカイエンの謎の掛け合いのような取引から妥協案として導き出された結果だった。カイエンは聖界によって一挙手一投足を監視され、魔力の行使を制限される。それを前提に、二人の未熟な聖道士長にとっては集中しやすい特訓の場として提供されたのだ。そのことに二人は気づく機会はなかったし、疑問を持つこともなかった。そのため昨日の時点でカイエンが「いまから訓練場を使う」と説明を始めたときも、それほど不自然とは感じなかったのである。
ただひとつ気懸かりだったことは、独立系とは言え、魔道士が聖界の一部である聖道士専用の亜空間内に一日中身を置いて平気なのか? ということだった。
このような素朴な疑問について、その日、綾乃が顔を合わせるより早くカイエンに質問をした。おかげで美咲は心に決めていた質問をし損なってしまった。
「まさか昨日からずっとここにいたの? 灰になっても知らないわよ」
するとカイエンは背筋を伸ばしながらウィンクして答えた。
「ここは俺専用の空間になっている。聖界の波動はほとんど感じないだろう? 問題ないさ。君達が心配する事じゃない」
俺専用、と言った意味はなんとなく分かるな、と美咲は思った。本来のキャンプ場はこれほどまでに寒々しく、殺風景ではなかったし、それは経験した全てのバージョンに言えることだった。昨日二人がこの空間を抜けてからも、カイエンは準備があると言って一人残っていた。
つまりこの空間は、本来の訓練場をベースにカイエンがデザインしたのだ。
「用意はいいか? 二人とも。昨日も話したとおり、状況は一変した。実戦訓練も大切だが、君らの上長や先輩達の邪魔をすることはできない。集中して特訓に励むために、まだ兵隊にさえなれなかった頃の訓練方法を再度なぞることにする。但し、さらに本格的に、十倍ほど上乗せして、各所に魔道士の修行法を取り入れていく。だが、君達が昨日のたった一日の間に学んだことも、決して少なくないはずだ。俺にも予想外なことや、偶然が重なって思惑通りではなかったが、逆に期待以上の成果が得られたんじゃないか? メカ野郎どもと薬中の魔道士、三体ものサンプル捕獲は、それだけで二階級特進ものだ。俺なら名誉大聖道士の称号を授与するね」
いつものにやけた表情はなく、やや厳しい顔つきのカイエンに綾乃は再び訊いた。
「他の聖道士達は、何か物的な情報を得られていないの?」
「そのようだな。まぁ、“挑戦者達”は本物の“狂信者達”とは違って、ただ追い返せばよいのだからな。つまり、本丸にぶち当たったのは強運なことに君達二人だけだった、というわけだ」
恩着せがましくそれは何を隠そう俺のおかげだぞ、とでも言いたそうだった。
「これからは君達の経験したことを分析して、実際の対策に有効な手段を織り込むだろう。訓練が終わる頃には相当進展しているかも知れない。そこに君達は下士官として投入されるんだ。それに見合った力を身につけておく必要がある」
「その下士官、って言い方、やめて欲しいわ。私達は軍隊じゃないのよ」
「いずれは軍隊の性質を帯びることにもなりかねない。まぁ、そのへんは俺の関与することではないけどな。オーケー、ミス綾乃。敬意を表して聖道士長と呼ばせて頂こう」
「あなたのことは?」
「え? 美咲、何だって?」
「あなたをなんて呼べばいいの? あなたもいまは聖界の命令系統の中に職位があるんでしょう?」
「俺は堅苦しいのが嫌いでね。聖界で言えば聖道監クラスらしいが、それはあちら側の基準だからな。結論から言うと、カイエンでいい」
それを聞いた綾乃がすこし驚き、ああやはり、という顔つきになった。聖道監は大聖道士長よりも上の階位になる。言われてみれば、カイエンは千年以上を生きているのだ。
美咲はカイエンの回答が気に入らなかったが、何も言い返さなかった。階位制度の重要性というものは自分達で理解していればよい。人間界ではほぼ不老不死に限りなく近い聖道士も、魔界との直接的な接触は危険を伴う。決していつも優位ではなく、闇の波動に負けることがあれば、それは他ならぬ消滅を意味する。それ故に魔に対して組織で対抗するには厳格な命令系統が必要であり、そのために階位制度が存在するのだ。
それに対して魔界にはおよそ統制された階級というものはないらしい。まして魔道士はそれぞれのボス達によって管掌されており、カイエンに至ってはそのボスさえ存在しない。
「いいわ、じゃあカイエン、私達は準備オーケーよ。本日のメニューは?」
美咲が凛として言った。
「まずは軽く昔の訓練とやらを思い出して貰う。こちらの世界で言うモーニングセット程度から始めよう。この際、君達には無意味な体力増強や反射神経強化の訓練は省略する。言っている意味は分かるな? ディナーを楽しみにしておけよ」
そう言ってカイエンはようやく、にやりと口を歪ませた。
修練生時代の訓練というのは、まず精神力を鍛えるところから始まり、ジムノマンシーのコントロールを経て、魔界について学ぶというものだった。これを毎日繰り返す。教官は決して鬼軍曹などではなく、聞くに堪えない罵詈雑言で怒号を飛ばし、口うるさく規則で縛りつけ、尻を蹴飛ばすといったこと等は一切なかった。ただ、厳しいなどという一言では到底表現しきれない精神鍛錬の連続であり、普通の女の子であった美咲や綾乃にとっては涙も涸れた上に人格が変貌するほどの成果をもたらすものだった。
美咲は人間であった頃、ごく普通の大学生だった。ブランドものに憧れ、アルバイト先の男の子に惹かれたこともあった。日常のくだらないことで女友達と話が盛り上がり、カラオケでストレスを発散していた日々。マリファナこそ手にしたことはなかったが、一度くらいはタバコを吸ったこともあったし、大学生ともなれば成人する以前に酒を飲む機会は幾度もあった。
政治や経済などに興味はなく、暗いニュースよりも好きなアーティストが登場する音楽番組にかじりつき、新聞記事などには目も通さない。恋愛小説や漫画を読んでは、毎日代わり映えのしない平々凡々とした人生に不満を抱いて、テレビドラマのようにドラマティックな事件が起きることのない、こんな人生は何て不幸だろう、と思う自分自身に酔いしれていた。
そんな自分がどうして聖道士として選ばれたのか、美咲は何度考えても答えが出なかった。唯一思い当たることは、あの廃墟でカイエンに言われたことくらいか。
恨まなかったこと。
それしか思い当たらない。いまではやっと冷静に思い出せるようになったあの日のこと。執拗に自分につきまとっていた男にナイフで全身を刺され、絶命した夜のことだ。
確かに自分はその時、死ぬ間際まで相手を恨まなかった。憎しみも、怒りも、悲しみさえもなかった。
それが何故なのか、その時は分かっていたような気がするのに、どうしても思い出す事ができないのだ。
そしてそれは修練生時代によく見た夢に関係しているような気がしてならなかった。
記憶がぼやけているのは死ぬ寸前の思考だけで、それ以外の事は、はっきりと覚えている。自分はこのキャンプ場で強くなった。自分の存在意義に自信が持てるようになった、と言うべきだろう。それに人間は一度死ぬと、割り切って自分を見つめ直す事が容易になるものだ。
自分自身を観察する。それができなくて、どうして魔道士を見極められるだろうか。
いい機会だ、と美咲は思った。あの夢の意味も含め、自分という存在を深く掘り下げて熟考するには最適な場所と言える。
美咲はカイエンに質問しようと思っていたことを保留することにした。もう少し様子を見てから、チャンスを伺う方がよい。
綾乃もいる前では、カイエンも本当の事は言わないと思ったからである。
美咲が最初に望郷心に震えそうになったのは、幻影空間での孤立式心理攻撃対処訓練で、一番目の予想が的中した時だった。
魔道士がよく使う幻影空間では、人の心が試される。二人に用意された新しいプログラムは代表的なものから外れることなく、なお且つ精神崩壊の危険性などは全く考慮されていないとも思える、極めて最悪なパターンを具現化したバーチャルリアリティだった。
幻影空間はその特殊な波動を意識にまで潜入させ、一種の催眠状態を作り上げる。その中では顕在意識が現実と非現実を明確に分別判断しているとの自覚はあるのだが、悪夢は現実として既知感覚を騙し続けるのだ。
訓練は急遽、中止された。
カイエンの指示により、キャンプ場から跳んだ二人は、児童養護施設に急いで戻った。
子供達が部屋で遊んでいる。ボロボロになった絵本を開く子、おもちゃに戯れる子、ぬいぐるみを抱きしめて離さない子、カリキュラム通りに勉強に励む子、等々。
これはあとで気がつくのだが、子供達を面倒見ているはずの後輩達がいない。その上、誰ひとり帰ってきた二人の方を見向きもしなかった。
そんな事にも構わず、用務室から無邪気な天使達を見守る。いつものように。
あれだけ青天だった空が雨雲の侵略を受け、照明が必要なほど薄暗くなったので、二人は干してある洗濯物を取り込むため忙しなく屋上に駆け上った。バスケットを両手に持ちながら、白い防護服を着たままだと気がついたとき、ついに豪雨が乱気流とともに落ちてきて、雷鳴が轟いた。
稲妻は施設の庭先を直撃した。下を見下ろすと、燃え始めた芝生の上にずぶ濡れの男が立っている。昨日、魔界に帰ったはずの魔道士のひとり!
魔道士がゆっくりと上を向き、二人と目が合うと残虐な笑みを浮かべた。その刹那、子供達のいる部屋に飛び込んだではないか!
美咲は声にならない叫びを上げると、すぐさま一階の部屋に座標移動した。子供達に見られてしまうが、構うものかと思う。綾乃もこれに続いた。
既に何人かが、魔道士の餌食になっていた。
何てことを!!
美咲は早くも半狂乱になりそうだった。血だらけになってぐったりと倒れる子供達を抱き起こすが、ジムノマンシーを駆使しても治癒不可能なことは一目瞭然だった。
これが魔道士の本性なのだ。幼い命を塵ほども思わない。まさに悪魔そのものだ!
綾乃がサテライトと実体を重複させながら魔道士に突進するも、空気のように通り抜けてしまった。一方で魔道士は子供達を左右の手でそれぞれ鷲掴みにして吊り上げ、美咲を見るとこう言った。
『どちらかを助けてやる。選ぶがいい』
(選ぶことなど、できるものか!)
『ならば、全員殺す』
美咲は魔の隔壁をジムノマンシーで擦り抜け、子供達を魔道士の両手から座標移動させると、瞬時に魔道士の頭上をヘヴンズ・ドアの白光に変えた。
魔物の断末魔は空間を歪ませながら、混沌の彼方へと吸い込まれ、完全に消えた。
座標移動させた二人の子供は、美咲の腕の中にいた。息をしていない。首の骨が折れ、心臓は停止していた。
美咲は目を見開き、悲しみの嗚咽を漏らした。大粒の涙が、動かなくなった子供の頬に落ちる。
全てを否定する美咲の悲鳴が、幻影空間の果てまで響き渡った。
出し抜けに景色が入れ替わったのは、それから数秒後だった。
同時に催眠状態は解かれ、意識が現実空間を正確に認識する。
それでも美咲と綾乃は、あまりの衝撃に立ち上がれなくなっていた。美咲は膝で立ったまま動けず、綾乃はへたり込んだ状態で呆然となっている。
全てはその日の朝に見たキャンプ場の風景に違いなかった。
これが、幻影空間の訓練だ。
そう思い出したとき、自分達は修練生時代から一体何をもって成長したと言えるのかと、自分を責める気持ちでいっぱいになった。
この訓練は、いかにうまく対処できるかのテストではない。対象者の弱点を巧みに突く悪魔のシミュレーションにより、心を完膚無きまでに痛めつけることで、熱した刀を金槌で叩きつけるがごとく精神力を鍛えることを目的とする。
だがこれは修練生時代のものとは格段にレベルが違う。質が異なるものだ。いま体験したフェイクの記憶は、魔道士であるカイエンならではと言える冷酷な仕掛けだった。
これが、毎日続くのか……。
カイエンは美咲と綾乃の間に立つと、腕を胸元に組んで言った。
「まだ始まったばかりだぞ。さぁ、立つんだ、二人とも。こいつは自分の不甲斐なさを恥じることが目的ではない。強靱な精神力を保持する魂の剛性を築き上げるためのものだ。君達のガラスの心を、オリハルコンにまで叩き上げてやる。さぁ、立て!」
それからというもの、美咲と綾乃は魂の修行という精神鍛錬に睡眠中の夢の中まで追い回される毎日を送った。カイエンはいつも朝から晩まで二人の側にいて、姿を見せない時でも必ず余すところなく全てを見ていた。
美咲はそのことが自分達を安心させていると同時に意外なほど緊張させるものだと知り、もう少し肩の力を抜くようにと指摘されると、焦燥感だけが先を歩いて心のバランスを崩しかけている状況に自らを追い込んだ気分になった。
もしもこれが人間だった頃や、修練生になりたての自分だったなら、とっくに気が狂っていただろうと、美咲は毎晩眠りにつくとき考えるようになっていた。
美咲から見て綾乃は意外なくらいに不平不満を漏らすことなく、カイエンの指示に素直に従い、次第に言葉が少なくなってきていた。
訓練が始まって十日が過ぎた頃、異世界の夜空を二人で見上げながら、防護服を脱いで静かな時間を過ごしていた時、綾乃がふいに「あっ」と言って短いトランス状態になった。
間もなくカイエンがやってきて綾乃を呼んだ。
「こんな時間だが、聖界の上長から指令があった。松村聖道士長、君の所にも届いたと思うが、サイコセラピーによるカウンセリングをするそうだ。聖界はずいぶんと君達を甘やかすことが好きらしい。今日の訓練は終わった。行ってこい」
綾乃はうなずくと防護服を着て、別の空間に移動した。
「美咲、君にもあとで指示が来る。カウンセラーが一人しかいないらしく、順番待ちなんだそうだ。ところで、いいかな?」
カイエンは小さな丘の上に座る美咲の横を控えめに指さし、返事を待った。
「どうぞ。聖界の監視カメラの電源を落とした方がいいかしら?」
美咲が冗談交じりに返した。実際には物理的な監視装置など何処にもない。この閉鎖時空間を最初に造った者が管理者であり、それが誰であるのかは知らなかったが、聖道士である美咲は一時的に監視の目を遮断する術を知っていたのだ。それが管理者に許可されたらの話だったが。
カイエンはいつもの自信たっぷりな構えとは違って、何かに迷っている様子で慎重に近づくと、美咲の横顔を眺めながら腰を下ろした。
「誤解するなよ。別に口説こうとは思っていない。ちょっと、話がしたくてね」
「そう。それでカウンセリングを聖界に持ちかけたのね。私と二人きりになりたくて」
その言葉にカイエンは嬉しそうに驚いて見せた。
「君が名探偵だったとは聞いていなかったが?」
「だって、聖界があなたのやり方にケチをつけるなら、初日に警告してくるはずだもの。あなたは事前に綿密な打ち合わせを済ませていて、私達にとって過酷であるけれど、ぎりぎりの線で精神が破壊されないようなプログラムを設定している。十日もすれば慣れてくるし、それくらいは分かる事よ」
カイエンは夜空の星々に目を向け、苦笑しながら頭を掻いた。
「正直、君と綾乃には驚嘆しているよ。聖道士になる前に僅か二十年間、ごく普通の人間の女として過ごしていたとは思えない。俺はこっちに来てからこの世界の人間達をつぶさに観察して回ったが、この先に聖道士候補なんていなくなるだろうと感じたね」
「聖道士も、時代とともにあるってこと?」
「この世界じゃ、生粋のジムノマンサーは生まれてこないからな。転成者の素質を持った人間を選ぶしかない。かと言って、そうそう上層三次元から人事異動させるわけにもいかないだろうし、あの警部補みたく生きている内に唾をつけておくしかないだろう。聖界も、やっていることは魔界と似たようなものなのさ。そう思わないか?」
「私に魔界の論理を説くためにこんな手の込んだことをしたの?」
「いいや……そうじゃないんだ」
「質問していい?」
「え? ああ、構わないさ」
「あなたの目的は、何?」
ついに訊いてしまった、と美咲は思った。綾乃がいなかったから、というのもあるが、カイエンから感じる優しいオーラと、ちりばめられた星々の輝く夜空に包まれ、感傷的になっていたのかも知れない。美咲は膝を抱えて潜るように俯いた。横目でカイエンをちらりと見る。
カイエンは黙っていたが、意を決した様子で美咲を見て答えた。
「君に、会いたかったんだ」
「嘘」
「嘘じゃない、闇夜の星々に誓おう」
「答えるまでに一呼吸の間沈黙した時は、嘘をついた証拠。あなたの癖よ」
カイエンは悲しい表情になり、また黙ってしまった。美咲にはカイエンとの間に見えない空間隔壁が幾重にも重なって、二人の意思の疎通を阻んでいるかのように思えた。
こんなに近くにいるのに。その隔壁は、どちらが作っているのだろう?
答えは、どちらとも、だ。
美咲は、カイエンに今度こそ君の推理は間違っているよ、と言って欲しい自分の想いを否定できなくて、何とも居たたまれなくなった。真実を知りたいわけではなく、己の望む答えが欲しいだけなのではないか。でも、もしそれが真実だとしたら?
カイエンが再び口を開くまで、十数秒の静寂な時が流れた。
「俺も、逆に質問していいか?」
「え? ああ、構わないわ」
「どこまで、思い出している?」
カイエンも、尋ねるべきかどうか考えていた事を、やっと決断して切り出した。明確にではないものの、聖界との、いや、マーラムとの契約に抵触するかも知れないと思ったが、いずれははっきりさせておかなくてはならない。それはマーラムも、またゼノも分かっているはずだ。
「何も」
美咲が答える。
「嘘は良くない。ジムノマンシーが使えなくなるぜ?」
「嘘じゃないわ。どうしてそんなことを訊くの? 私が死んだ時に何を思っていたかなんて、あなたには関係ないじゃない?」
「違う、その事じゃない……」
カイエンは、分かっているだろう? という風にまた夜空を見上げて言った。
美咲は前屈みの姿勢から上半身を起こし、カイエンと同じく星々を眺めた。
「……気がついて、いたのね。どうしてもっと早く訊いてくれなかったの……」
「君の記憶を故意に呼び戻してはいけない契約になっている。だが、君が俺と会うことで自然に思い出す分には、罪を免れる」
そう言って、カイエンは自分の言葉に疑問を持った。免罪符に一体どんな価値がある?
「なんだ、結局私とカイエンの知りたい事って、同じだったのね」
美咲は完全に魔道士であるカイエンに心を許していた。それが自分に対する答えであるとは、美咲自身気がつかないままだ。
「同じ、とは?」
カイエンは、本当に分からない、という面持ちで訊いた。
「その質問に私が答えると、あなたは契約違反になるかも知れないわよ」
そのいたずらな微笑みがカイエンには満月のように輝いて見えた。美咲は誰かを抱きしめる仕草で、自分の膝を抱え直す。
「魔道士を手玉に取るのかい? 君は、まるで"魔女"だな」
その言葉を聞いて美咲はまた俯いて両脚に顔を埋めた。綺麗な髪が垂れ下がって横顔を隠す。小刻みに震えているようだ。カイエンは、自分が魔道士になって以降初めてとも思えるほど狼狽し、心底慌てた。
だがそれが泣き声ではなく、くすくすと笑う幼子のような声であることが分かると、命拾いした気分になった。
美咲は小悪魔のような顔つきで太陽の笑みをカイエンに向けて言った。
「私があなたに出会ったことで、自然に前世の記憶を甦らせる分には、問題ないわけね?」
「ああ、そういう契約だ」
「じゃあ、こちらの世界であなたに出会う前の話からしましょうか……」
美咲は、心の奥底で鎖に吊された鉛のようになっている記憶の断片を語り始めた。
修練生時代に見た夢。それは二種類あった。それらは、どちらにもカイエンやゼノと思われる人物が登場しているという点で共通していた。
初めに見た夢は、比較的鮮やかな映像だった。いまのようにカイエンと思しき人物と向き合って話をしている。あるいは見知らぬ異国の街を二人で歩き、森の奥や、湖の畔で幸福な時間を共にする。
時折、他にも何人か出てくるが、それはほとんど覚えていない。そして最後にゼノと、魔道士に違いない男が目前で対峙する。そこからは次第に映像がぼやけ始める。
自分はおそらくその場でゼノに加勢するのだ。カイエンが現れて、自分の名を叫んでいる。自分は別の名で、その綴りはいつも目が覚めると同時に忘れてしまうのだった。
「でもね、ゼノもあなたも、夢の中の人物に間違いないかと訊かれたら、百パーセントの自信はないのよ。根拠はないのだけど、もうひとりの自分が、そうだ、と言っているの」
カイエンは愛おしい者を見る眼差しで美咲の横顔を凝視し、
「俺の記憶が根拠になるだろう」
とだけ言った。それ以上の言葉は、契約違反になると考えたのか。
「無理に答えなくてもいいけど、よかったら聞かせて。千年前、あなたには、恋人がいたのかどうか……」
「それなら答えられるさ。いたよ。俺がまだ人間であった時、命懸けで護るべき人が。結局、護れなかったがね」
何ともどかしい問答だろうと、二人は思った。それでも二人は、知りたいことを得たと確信するに至った気がしていた。
「やっぱり、私はそこで死んだのね。聖道士として」
カイエンは答えない。
「でも、ゼノやあなたが、いまどうして魔道士なのか、それが分からない。それを尋ねることは、やはりいけないことなの? ……ねぇ、答えて」
「済まない。答えられないんだ」
「素直なのね」
「これから、独り言を呟く。それを聴くか聴かないかは、君の自由だ」
カイエンは再び星空を見上げた。
「俺の愛した人の名は、セレーネと言う」
その名を聴いても、美咲は何も思い出せなかった。なんとなくだが、夢の中ではそんな名前だったかも知れない。歯がゆくて、苛立たしくなる。
「いまはまだ思い出さなくてもいいんだ。君が天使になれた時、思い出せるさ」
「ずいぶんと、未来の話ね。その頃にはきっと宇宙の形まで変わっているわ」
「ところで、無理に話さなくてもいいが、もう一つの夢というのは?」
「それが、よく覚えていないの。覚えていない事だらけよ。なのに、恐怖心だけが明確に残っているのよ……」
俯きながら美咲は夢の内容を語りだした。
美咲はもうひとりの自分を通してその世界を見ていた。夢が始まったとたんに、どういうわけかゼノに警戒心を抱き、今度は自分がゼノと対峙しているのだ。近くには、やはりカイエンがいて、自分の方を見ている気がする。ゼノは知らない言語で何かを唱えているようなのだが、それは夢の中では意味のある文章で、その言葉が見えない力と共に自分の中に入り込んでくる感覚に電撃を感じ、汗びっしょりになって朝を迎える。
「変でしょう? 片やゼノに味方して、もう一方では敵なのよ。昔は、夢なんてそんなものだって思っていたけど。それが単なる悪夢じゃないと知った以上、私は、思い出したい。私は、自分を知りたいのよ」
「気持ちは分かるが、焦ることはない。俺なんか千年も待ったんだぜ」
「だったらどうして!」
急に大声を上げた美咲に、カイエンは少なからず驚かされた。それまで笑顔だった美咲の表情が一転して愁いに変わっている。
「ごめんなさい……」
「いや、いいんだ。やっと君を見つけ出した俺が、どうしてこんなにも平然としているのか、と訊きたいんだろう? 正直、俺にも自信がなかったのさ。君は、顔も、髪の色も、声までも、セレーネとは違っている。不可解なことに、魂が放つ波動の色さえも僅かに異なっていた。まるで別人を装っているかのようなんだ。それでも、俺には分かった」
「何故?」
「俺には“番人の眼”という能力が備わっているんだ。この拡散時空検索術のおかげで、君を正確に判別することができた。これでようやくと思ったら、そこは聖界のテリトリーだった、ってわけさ」
「その力で断定できたのなら、どうして自信がなかったの?」
「それは答えられない」
「ズルいのね」
「文句なら君の上長に言ってくれ」
「上長、って?」
しまった、とカイエンは思った。
「そうか、そうよね。聖界がどうして私の前世まで知っているのかなんて、考えもしなかったけど、本来なら知るはずもないわ。と言うことは、もうひとり、いるのね、私の過去を知っている人が、聖界の中に!」
二人の会話はマーラムに筒抜けであっただろうに、聖界から咎められることもなく、カイエンは内心ほっとしていた。訓練は予定通りに続いた。更に数日が過ぎ、美咲と綾乃はカイエンから見てもはっきりと分かるほど精神の強度という面で成長していた。しかしそれは単純な心理攻撃に対する免疫のようなもので、聖道士に限らず普通の人間であってもいずれは慣れてしまう性質のものである。それは本当に、強くなった、と言えることではない。単に打たれ強くなっただけでは、精神力が向上したことにはならないと、カイエンは考えていた。
これはカイエン自身が、魔道士となるべく修行をした時の基本的な精神理論だった。総合的に精神力を増強し、心に隙を作らないようにするためには、何段階もの異なる修行を積まなければならない。それにはあまりに時間がなかった。もとよりたった三週間ではどうすることもできはしないのだ。
訓練の中には、知識の習得と、思考力の鍛錬も含まれている。豊富なデータ群をベースに、自分で考え、疑問を持ち、一度は持論を批判し、解を証明して答えを導き出す力だ。
あるいはそれこそが最も重要かも知れないと、カイエンは考えていた。心の強さは思考力の強さである、と。
ある時、綾乃がジムノマンシーをコントロールする訓練でなかなか思うようにいかず、それでも無我夢中で挑戦し続けていたところへ、カイエンは痺れを切らしたように言った。
「コントロールというものは、何歩も先を見据えて行うものだ。枝葉に分かれた複数の予測される結果から、最も適した選択をするんだ。それも連続でだ。君はいつも次に行うことだけしか頭にないらしい。複数の制御と結果それぞれとの関連性を理解しろ。何故、そうするのか、何故、そうしてはいけないのか、考えるんだ!」
訓練も中盤になると、カイエンは二人に異なるメニューを与えるようになっていた。基本的な能力が向上するに従い、不得意科目が目立ってきたからである。綾乃には、物質化現象の他、複数の各々性格の違う空間波攻撃の混合という技法修得が課せられていた。
綾乃は、それまでおとなしい従順な生徒だったが、この時ばかりは久々に噛みついた。美咲にはそれが、これまで我慢していたがついに爆発した、という風に見えた。
「これでも一生懸命頑張ってるんだから、少しは良いところも見て欲しいわ。少しずつだけど、進歩もしているのよ」
それに対して、カイエンは顔色一つ変えずに弟子を諭すような口調で応えた。
「努力だけを、いったいどうやって評価しろと言うんだ? 一生懸命頑張るのは、当たり前の事だろう。努力は、結果が伴って初めて評価の対象となるものだ。成果が全てだ」
「気持ちの問題よ。ちょっとでも褒めてもらえれば、やる気が出るし、いい結果にも繋がると思うわ。いまさらカイエンの指導法に文句を言うつもりはないけど、訓練の効率性と心理学の活用について議論しているのよ」
「ではもう一度カウンセリングを受けるか? 松村聖道士長、君はそれをやらなければならないことは既に知っているはずだ。ならば成し遂げてから提言しろ。うまくいったら、褒めてやる。なんだったら、褒美をやってもいい。俺の秘技を一つくれてやろう。もっとも、君がこの訓練をものにして、細大漏らさず聖の力に波動変換できたらの話だがな」
綾乃は不満を顔に出しはしなかったものの、カイエンを睨みつけて言った。
「結構よ。ここを卒業した暁には、自分にご褒美を贈りますから」
それを聞いたカイエンは大声で笑った。芝居がかったような豪快な失笑だった。
「何よ!」
「自分で自分に労働対価を支払うのかい? この世界ではずいぶんと画期的で退廃的な経済システムを採用しているんだな。いいか、君達は聖道士長に昇格した。だがそれは特例中の特例なんだ。君達は跳びも走りもしないで金メダルを与えられたようなものだ。頑張ったと言うだけでメダルを首に掛けるつもりかい? それも自分で用意して? よく聞け。自己評価するのは悪いことではない。だがそれは自己分析が目的であり、焦点は絶対評価ではないんだ。評価とは常に第三者がするべきものであり、褒美とは評価すべき地位にある者によって、顕然たる数学的な成果に基づいて授与されるべきものだ。自分の苦労を誰かに理解して欲しいなどという考えは、単なる甘えに過ぎない。よし、今日のジムノマンシー・コントロール訓練はお終いにする。このことについて、議題の多面性を考慮しながら客観的に自分の論理を考究してみろ。別の答えを想定してみるんだ」
美咲はこの様子を少し離れたところで聞いていた。綾乃の概念について、美咲は同じ考えを幾ばくも持たないわけではなかった。しかしカイエンの説法は決して一方的ではなく、ある物事について多くの視点から考えることの意味を教えようとしているのだと感じた。
綾乃はその日の夜、ここに来てから習慣となりつつある月見に心身を癒やされながら、美咲の背中でため息を漏らした。
二人にとってお気に入りの小さな丘の上に座り、背を合わせて互いに反対方向の宇宙を見ている。作られた空間の成層圏には、初めから銀河の絶景を妨げる物質はニュートリノ一つ分さえ存在せず、いつまでも眺めていたくなる満天の星空だった。
美咲は、綾乃のため息をこの美しい天の川のせいだと思い、豪華なパノラマに感嘆の声を発した。
「綺麗ね」
綾乃が応えない。二度目のため息が聞こえ、美咲はようやくそれが憂愁の吐息であると気がついた。
「綾乃、気にすることないわよ。カイエンのいつもの口調じゃない。もう慣れたでしょう?」
美咲はできるだけ優しく言った。
「別に、気にしてないよ。カイエンの言うことは、私も正しいと思う。ただ、自分が弱いのが情けなくて……」
綾乃は思ったより普通の声で本心を語り出した。
「なんか、疲れちゃったのかも。本当にカウンセリングでも受けようかなぁ。あ、勘違いしないでね、リタイアなんてしないから。絶対に!」
最後の一言は、元気なオーラを伴っていた。美咲は、それでこそ綾乃だ、と思った。
「二人で約束したから、なんて臭いことは言わないけどさ。天使になるんだって、いまでも本気で思ってるんだ。だって、もう子供の頃に夢見たお伽話じゃないんだから」
綾乃が美咲のうなじに頭を乗せながら言う。代わりに美咲が俯く。
「そうね。私は子供の頃、魔法使いになりたかったな」
「なってるじゃない?」
「でも、思っていたものとは、全然違ってた」
「あはは、確かに。呪文なんて、唱えないしね。もっと楽に何でも叶えられると、思っていたよね。やっぱり、現実はそうはいかないものだわ」
「綾乃って、凄いと思う」
「えっ!? 何で?」
「だって、自分の短所を、ちゃんと認識しているんだもの。自分自身と正面から向き合うなんて、そんな簡単にできるもんじゃないわ。強くなければ、できない」
綾乃は無言で後ろを振り向き、体を反転させて膝を立てると、両腕を後ろから美咲の細い首に絡ませた。胸元まで抱きかかえるようにして、頬を美咲の髪に押し当てる。
「美咲の方が、ずっとずっと、強いよ。ちゃんと自分と向き合うことを覚悟しているし、実は恐ろしいかも知れない自分の過去を突き止めようとしている。私なら、努めて忘れることにすると思うわ。だって、恐いもの」
美咲は魂の友を体温で感じて、綾乃と二人で本当に良かった、と胸奥で至福の感を覚えた。
訓練中とは言え、こんな時間があってもいい。時々、人を愛するという気持ちを忘れそうになることがある。例え聖道士であろうと、心には多少のゆとりが必要なのだ。そう考えた美咲は、自分も疲れているのかな、と思った。
綾乃が自分の体重を乗せないようにして、いきなり美咲の耳元で囁いた。
「訊こうと思って機会を逃していたんだけど……ね」
「何?」
「私がカウンセリングを受けている間、カイエンと何を話したの?」
「それは……」
どこから話して良いものかと考えあぐねていると、綾乃がまた囁いた。
「声に出さなくてもいいよ……そう、そういうことだったの……」
綾乃は一瞬で美咲の思考を読み取った。技術が格段に進歩している。
「ねぇ、綾乃。思念波を読み取るコツを教えてくれない?」
綾乃は美咲からそっと離れると、明朗な声で答えた。
「相手を、好きになる事よ」