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第一章(file5)

 美咲はその者に話しかけるタイミングを計っていた。

 立ち竦んだ魔道士は親の敵でも睨むような目をして、黄色い歯を強くかみしめ、いまにも飛びかかってきそうにも見える。その反面、攻撃を躊躇い、無意識に距離を取っているようでもあった。

 美咲達はこれまでに何体もの魔道士と対峙してきたが、裸体でしかも獣のような姿の魔道士を見るのはこれが初めてであった。それが闇の中ではなく、晴れ渡る炎天下の実像なのだから、これはもう異様という他はない。それは怪異であるという感覚を越えて、むしろ滑稽であるとも思えた。それが美咲達の恐怖心を少なからず減少させることになった。

 この魔道士には、自分達がどのように見えているのだろうかと綾乃は思った。怪物に見えているなら、瞬時に襲ってきたはずだ。自分のボスや魔属の幻であれば、跪くか逃げるかしているに違いない。やはり多少なりとも聖界の使者に出くわしてしまったという認識があるのだ。魔道士が最も恐れることは、魔力を封じられることである。光の攻撃それ自体は準備さえしていれば恐れるに足らない。歪み空間に対しても魔道士なりの対処法を有していることだろう。しかしそれでもやはり聖の光は魔道士にとっては猛毒であった。

 ここで聖の光を見せることは逆効果だと、二人は結論づけた。

「私達は、あなたの罪を問いません。あなたが爪を立てない限り、私達も光を発することはありません。騙したりはしません。危害を加えることが目的ではないのです。ただ、あなたと話がしたいのです。答えてくれますか?」

 綾乃の目配せで美咲がまず導入部分を担当した。修練生時代の訓練を、自分でもよく覚えているなと思う。もっとも、こちらのほうが本来の仕事なのだが。

 魔道士は美咲の声が聞こえているのかいないのか、特別な反応を示そうとはしない。こちらを向いてからまだ一分と経ってはいないのでよく変化が掴めない。強いて言うならば、少しずつ震えが大きくなってきていることくらいか。

 更に五秒間、返答を待った。魔道士が再び唸り声を上げる。

 急に震えが全身に行き渡ったようになり、それは次第に痙攣へと変化した。いままで二人の聖道士を睨みつけていた目がうつろになっていく。両手で頭を抱え、何かに苛立っているような感じだ。

 最初、綾乃は幻覚がひどくなっているのかと思ったが、すぐにその推測を訂正した。

 禁断症状が始まっているのだ、と。

 幻覚剤の効用時間は長くない。カイエンの調査が正しければ、ネクロマンサーが人体にもたらす神経作用には三つの段階があるという。初めは全ての苦痛が嘘のように消え去り、多幸感が広がる。体が軽く感じて恐怖心もなくなり、気が大きくなっていく。次に幻覚を見るようになり、その頻度が高まって精神に異常を来すのだ。やがて薬が切れてくると効用のリバウンドが一気に押し寄せて、全感覚は脱力感と無力感に置き換えられる。

 人界のドラッグは見事なまでに魔道士にも作用するらしい。カイエンもアルコールに酔っていた。この最下層三次元では思いもよらぬところに物理法則の縛りが及ぶのだ。

 明らかに第三段階に移行している。いま彼は美咲の問いかけに答えるだけの思考能力がないと考えていいだろう。それは事前に用意した二つの保険が不要になったことを意味していたが、そんなことは、もはやどうでもよいことだった。

「綾乃、これでは折伏も追放も不可能だわ。カイエンを呼ぶわよ」

「その方がいいみたいね。私は聖界に連絡をとるわ」

 魔道士がついに膝を突いて崩れる。まだもがき苦しむまではいかないようだが、それも時間の問題に思われた。二人はとりあえず多重性歪空間のダクトを解除すると、それぞれの仕事に取りかかった。

 空間波通信は正確には亜空間波伝播通信と言う。通常の空間波は電波だが、亜空間波は亜空間それ自体に波の三つの要素、振幅、波長、波形の性質を与え、信号を伝搬させる。

 周波数帯域は無限に幅広く、使用する亜空間を自分専用に限定すれば混信も傍受もあり得ない。それだけに通信相手とはあらかじめ細かく条件を設定しておく必要があるが、それよりも問題はカイエンがこの方法を得意としないことだった。しかしここで精神感応は使えない。思念波は無指向性だ。特定の者だけを受信者として思念波を飛ばすには、ジムノマンシーによる工夫が必要となる。こんなとき普段の精進の怠りが自分に返ってくるものだなと、思わず舌打ちしそうになった。

 美咲はブラジルの森林地帯に隠していた自分のサテライトを十五分の一秒で呼び返し、カイエンを捜させた。そのほうが確実で早いと判断したのだ。

 綾乃はいつもの慣れた方法で手際よく連絡を終え、魔道士の身柄を確保するために分身のサテライトを魔道士の体の中に送り込んだ。

 もうひとりの綾乃は無色透明な状態から、数十年前にまだ走査線が五百本程度しかなかった時代のTV画像のように姿を見せ、案外すんなりと魔道士の体の中に溶け込んだ。

 サテライトは一旦自分の外に出してしまえば独立した精神体になるとは言え、自分にそっくりな魂の分身が獣人の肉体に入り込むというのは、あまり気分の良いものではない。

 綾乃は少しばかり不愉快な表情を見せながら、慎重に獣人の側に近寄っていった。

 心構えのない魔道士の体をジムノマンシーの塊が通り抜けるということは、魔力を封じることを意味している。それも根刮ぎだ。うまくいけばその魔道士にはしばらくの間、魔力の欠片も残らない。そして綾乃の試みは実際にうまくいったのである。

 魔道士は凍りついた人工の大地に完全に横たわってしまった。

 その様子を確認した美咲は、まだ自分のサテライトがカイエンに接触できていないことに焦りを感じていた。あの店にはもういない。何処に行ったのか? こんな時に!

 そう憤慨しつつも心から嫌いになれない自分に気づき、美咲は元々得意ではない危険感知のレーダー網がほとんど機能しなくなっていることに気が回らなくなっていた。

 綾乃は目の前に死体のように転がる魔道士に注意を払っている。その僅かな平行した時間が、二人に危険な隙を作らせていたとは知らずに。

 海風が止まった。

 鳥たちの鳴き声が聞こえない。

 美咲と綾乃は、ウジ虫が襟首と背中の至る所を這いずり回る感触に襲われた。ぞっとする寒気が両腕に鳥肌を立たせる。

 音に例えるならば、豪華客船の巨体が真っ二つに折れて海に沈む金属的な轟音とでも言うべきか。だがそれは空気の振動としてではなく、空間の激震現象として発生したのだ。

「綾乃っ! よけてぇっ!」

 声帯の血管が切れるほどの叫びだった。空間座標移動で綾乃を抱えて火星まで飛べば良かったと、喉に痛みを感じてから思いつく。

 空間の歪みがその場の分子構造をことごとく破壊し、プラズマを生んだ。発生した暗黒の中心では原子それ自体が崩壊し始め、大量の放射能を含んだ中性子を尺玉の花火のように爆発させた。

 冷静に見れば、空間の歪みそのものの規模はそれほど大きくはないことが分かる。

 それよりも圧倒的に邪悪な妖気が連なってほぼ同時に出現したことが、二人の聖道士の行動を鈍らせ、恐怖心を増大させたのだ。

 強烈なイオンの爆風が倒れた魔道士の至近距離にいる綾乃を軽々と吹き飛ばした。五重に備えた防御空間のおかげで物理的な損傷は一切ない。何よりも空間ごと弾かれたという事実が緊急事態であることを物語っていた。

 美咲が瞬歩で綾乃に駆け寄り、素早く且つ優しく抱き起こす。その間に、現れた四つの影は鮮明な像となりつつあった。

 鮮明であるはずなのに、その影はいずれも混沌としており、燃え上がる烈火の向こう側にいるかのごとく、その赤い双眼だけが気味悪く明瞭な輪郭を示している。

 その像は連なって、蜃気楼の宙に漂う四つの頂きをもった黒い山脈にも見えた。

 多重性歪空間のダクトを消したのは正解と言えた。ヘヴンズ・ドアは不意打ちが最も効果的だ。二人のコンビネーションは思考の共振現象と呼べるものだった。

 二人は同時に立ち上がると、光の波動を超新星のごとく放射した。

 そこに現れた四人の魔道士達の濁った両眼には、さながら誕生したばかりの二つの太陽が、天から舞い降りたように映し出されたのである。

 闇が恐怖であるように、闇にとっては光こそがこの上なく恐れるべき対象となり得る。

 美咲と綾乃の二人は、ひたすらに純粋な心で自分達の使命を全うしようとしていた。

 自分達は天使の代理人なのだ。この低次元な戦いを担う、人間に少しだけ特殊な能力が備わっただけの小さな存在である自分達に、いまできることをするしかない。

 綾乃が燃えるオーラの白い炎を媒体にして、とても穏やかに言葉を発した。

「一分間だけ、あなた方に時間を差し上げます。その間だけ、時間を止めましょう。目を瞑り、沈黙を保ちましょう。それでも私達は、ガラスを透してあなた方を見ています。あなた方がガラスを粉々に砕いたら、私達がそれを元に戻します。もしも全てを消し去ったなら、無から有を生むでしょう。涙を流す勇気があるのなら、私達は喜んでそれを見守り、手をさしのべます。未来を見るのです。何が、見えますか?」

 いつの間にか、美咲の声も重なって自然なコーラス・アンサンブルを奏でていた。

 応えは、何秒かを待つことで聞くことができた。

 予想通りに低い雑音を帯びたその声は、想像を裏切る意外な言葉を投げてよこした。

「若き聖道士達よ。我々はそなた達が持ち得る無垢な力に抗う術を持たない。我々はしばしの間、故郷に戻ることにした。故に、光を向けるな。見つめるな。何も語るな。お前達はただ、風を見たのだ。枯れ葉を宙に舞い上がらせることが精一杯の風を」

 精神感応だった。強いエコーのかかった重たい声が、二人の脳に軽い痺れをもたらす。

 苦痛ではないが、圧迫感に満ちた衝撃波だった。

「問いに答えよう。我々も、未来を見たいのだ」

 敵意がない。これだけ破壊的な波動を髪の毛の先まで感じているというのに、美咲にはスーパーノヴァのごとき光子力の鎧を身に纏う自分達の方がよほど攻撃的であるように思えてならなかった。しかし、圧されているのは間違いなく自分達の方だと思えた。

 力の差がありすぎる。いや、正確にはそうではない。

 経験値の違いが天文学的に桁外れなのだ。それでも相手はこちらを恐れている。

 自分達がどれほどの力を持っている? 機械化されただけの狂信者にあれだけ手こずり、五十人もの純真な魔道士達をただのひとりも救うことができず、いまは腰が抜けて一歩も動けないではないか。

 違う。彼等が恐れているのは、自分達などではない。

 聖界と全面戦争になることを避けようとしているだけなのだ。それは本来こちら側の祈りであるはずなのに。魔道士達の思惑は魔属の介入を是が非でも阻止することにある。彼等は自分達を通して聖界全体を見ているのだ。これではまるで自分達は子供の使いだ!

 問いに答えた魔道士は、魔力を失って倒れたまま意識のない獣人を大きな手で鷲掴みにすると、現れたときよりもずっと穏やかに歪み空間の切れ目へと身を溶かし始めた。

 美咲は焦り、必死の思いで声を絞り出した。

「待って!」

 本当に声帯を振動させることに成功したのか自分でも疑問なほど、情けない叫びだったろう。それは無意識のうちに己の発する波動に直進性と指向性を持たせ、特別な精神波となって立ち去ろうとする魔道士達の耳に突き刺さるように照射された。

 魔道士にはその懇願が下命に聞こえた。不思議なことに心は怯え、膝を震わせ、何もしようとはしないたった二人の低級な聖道士達であるというのに、逆らうことのできない高圧的なエネルギーを感じて、とっさに自己防衛の判断を下した。

 美咲と綾乃の足下に獣人の巨体が地響きを立てて落下した。

 魔道士は掴んだばかりの手を離し、盾にするように放り投げたのだ。二人は避けようともしなかったが、もはやこれ以上。彼らに問いかけるだけの精神力は残っていなかった。

「取引だ、これで見逃せ。そいつは自由にするがいい。但し、二度と魔界に返すな」

 今度は聴覚神経を通じて聞こえた気がした。

 信じられないほど静かな声だった。

 四人の魔道士達は急激に魔の波動を縮小したかと思うと、クラインの壺に吸い込まれるように巴を描いて、空間の中へ消えていった。

風が戻ってきた。

 なんとなく機械油の臭いがして、美咲と綾乃は我に返った。とたんに、肉の焦げたような異臭に変わり、完全に冷静さを取り戻したときには、海風は覚えのある潮の香りを取り戻していた。

 鳥たちの姿が見えなくなっている。太陽は頂点にまで昇りつめ、真上から見下ろしていた。航空機や車の騒音も聞こえない。風の音だけがただ通り過ぎていく。

 綾乃が魔道士にそっと触れ、項垂れるように目を瞑る。そして押し黙ったまま、顔を上げて美咲を見つめた。眼を赤くし、涙袋に雫をためながら、綾乃が声を震わせた。

「まだ、生きてるわ」



 美咲がカイエンを捜すことを諦めて自分のサテライトを体内に呼び戻すと、綾乃と二人で維持していた周囲の防御仮想空間壁を解除し、同時に白い服を脱ぎ、聖界に指示を求めようとした矢先に、半ば強制的とも言える空間波通信が送りつけられ、二人は無重量状態の転送空間に自動的に押し込まれた。

 それは二人にとって実に意外な呼び出され方であり、非常招集のような緊迫感を覚えたので、てっきり上長から厳重注意、もしくは大罪行為と見なされてなんらかの処分が待ち受けているのではないかと気を重くした。

 感覚的には三秒ほど経過してから、自分達が懐かしい風景の中にいることの意味が理解できず、ジムノマンシーの防護服を再び身に纏うべきかどうか悩んだ。

 そこは壮麗な草原の中心だった。

 それまでも広大で荒涼とした埋め立て地に立っていた為か、後ろを振り向くことによって目に入る景色が変化したという程度の感覚でしかなかった。実際には、遠く目を凝らしても人工の建造物はひとつとしてなく、人工的な音も人工的な光も存在しない。虫の息の獣人は別の場所へ移動されたらしく、そこには美咲と綾乃の二人しかいなかった。

 足下には豊かな緑の海が広がり、天の青と二色しかない空間には生臭い海風の代わりに甘露以外には不純物を一切含まない完璧な空気があった。

 修練生時代に毎日のように見ていた、時間流制御亜空間のデフォルトデザインである。いくつかのバージョンがあり、それらは教官の目の動き一つで世界が回転するように入れ替わったものだ。聖界の波動をほとんど感じないところを見ると、ここに限っては独立した閉鎖時空間であるらしいことが分かる。空間周波数がほんの百分の一程度ずれているのだろう。

 間もなくいつものようにどこからともなくカイエンが姿を見せ、やはり普段通りにジーンズのポケットに両手を突っ込んだまま快活に話しかけてきた。

 美咲は何故に自分のサテライトでカイエンを捜せなかったのか、その理由を遠回しな説明の中に見いだすことができた。

 彼はその時、この空間にいたのだ。彼自身も呼び出しを受けていたからである。見つけられるはずもないのは当然だった。それでもカイエンは二人の身に起きた一部始終を知っていて、いつでも馳せ参じる用意はあったと強調した意志をわざとらしく添えて見せた。

 少しばかり落ち込んだ様子の二人を察したカイエンは、状況の急激な変化と、いま人界で起きている美咲達の知らない事件の話を織り交ぜながら、「君達に罪はない」と、慰めるような言葉をかけてきたので、二人は驚きと安堵の表情を同時に隠そうと努力して、益々混乱しそうになった。

 これから何かが始まりそうだと、美咲は感じていた。新しい展開、決して小さくはない変動、そして自分のやるべき様々な事、等々。

 この二日間、いや正味で言えば数時間程度の出来事の中で、まるで中性子星みたいに高密度な体験をしたように思えた。人は一度に多くの情報があらゆる神経を伝わって脳と体中の細胞に流れ込むと、情報処理の飽和状態に陥り、許容量を超えた生理的電流の記録整理作業がリアルタイムな目前の事象に追いつかなくなり、眼球の裏側で過去を再生しようとすると通常の時間感覚を大幅に損ねてしまう。

 同じ重力の下においては、時間の流れる速さは他の物理的作用に一切の影響を受けない。

 ところが、脳神経がある条件下で満載の情報を雪崩のごとき規模で一気に引き受け、これを上手い具合に役割分担し、効率よく交通整理してそれらを経験値という結果データの形で出力すると、認識できる範囲の時間感覚は一気に天文学的単位で狂ってしまうのだ。

 この他人事のような違和感をひとたび自分自身に起きている心理学的且つ脳神経外科的な思考として捉えると、とたんにもうひとりの沈着冷静な自分がいることに気づく。

 その存在に自分は見られているようでもあり、そんな自分を見ている側のようでもある。相反する二つの超越した意識が在り、同時にいま私はここにいると思っているのだ。

 心の存在位置をどう定義するのか? それは空間座標で表現でき得るものなのか? 三本の指の延長線上に一点を定めて、指し棒の先端を当てられる性質を持っているというのか? 仮に意識体が波動の塊だとして、なんらかの特殊な測定器あるいは実験機材でその存在を明らかに認めることができたとしても、その内容まで読み取ることができるだろうか? 最近流行の光速RAMのチップをスライスし、数ゼタバイトの埋もれた記憶や深層データを解読するのとは訳が違う。

 時間感覚などは主観的なものであり、一定速度の時間流の中に漂っているわけではなく、自分がそう感じているからこそ、時間経過という概念があり得るのだと、美咲は思っている。いや、そんな考えを持つこと自体、意味があるのだろうか?

 この世界の記憶の中で、人間として二十一年間を生きた。そして地球生命体として死を迎えた。聖道士になって6年と少し。カイエンが現れてから約三週間。劇的な変化に焦点を絞ること遡ってほんの数十時間。それは美咲にとって紛れもなく確かなことだった。

 だと言うのに、この不安感は、時間感覚の喪失はいったい何だろう。果たして自分は本当に存在しているのか、自信が持てなくなっている。意識が別世界に飛んでいるみたいだ。

 コンピュータの画面にエラーの文字が隙間なく俵積みで並んでいるかのように、認識能力が著しく低下していると、脳の奥底から静かに注意信号が発せられている感じがする。

 肉体的には、浮いている感覚に近い。それも意識体だけが。これほどまでにはっきりと触感を覚えるというのに。視覚も、聴覚も、嗅覚さえも!

 カイエンがふいに近寄ってきた。いつものように戯けた表情だ。不思議と気を許せる。

 鼻をつき合わせるほどの至近距離で精悍な美しい顔が自分を見つめると、頬から顎に沿ってカイエンの大きな手に愛撫された。

 それは美咲にとって驚いたことに、快美感として脳内で処理されたのだ。

 美咲は左脳で「綾乃が見ているのに」と考えた自分が信じられず、一気に非現実感をかなりの明確さを持って認識し始めた。これは現実ではない!

 そう思った瞬間であったか、はたして目覚めてから確信したのか。

 美咲はゆっくりと目を開き、自分が横になって寝ていることを現実として認識した。

 聖道士の眠りは目を閉じて、そして開く、それだけだ。人間と同じように夢を見ることもある。だが目覚めたあとも眠気が消えないということはない。

 機械仕掛けの人形の動きで上半身を持ち上げる。瞼が重かった。疲れている感じはしない。疲労感など、ジムノマンシーで帳消しにできる。ましてや、一晩休んでいるわけだから、肉体的には問題ないはずだ。そう思いながらやたらと重たく感じる頭を慎重に左右に振ると、美咲はいつもの自室のベッドから滑り落ちるように立ちあがった。

 昨日までと何も変わらない殺風景な自分の部屋がある。

 ほとんど座ったことのない、実は合成樹脂で作られた木目のカジュアルデスクにマグネシウム合金製の椅子。画家が持つ雲の形をしたパレットのようなデザインの机上にはノートパソコンが一台あり、ここ何年も電源は入れていないことを思い出す。大理石張りに磨かれたフローリングの床には清掃ロボットと標準よりは大きめなオーディオシステムが置いてあり、アイボリー色の壁を見るとフィルムテレビが広げたままになっている。それら以外にポスターやカレンダー、絵画などは一つも飾っていない。

 まったくもって女の子らしくない部屋だ、と思う。それも当然なことだ。可愛らしくしようと思ったことなどないのだから。そんな洒落気は人間だった頃の自分と一緒に朽ち果ててしまっていた。別にそれでよいと思っている。

 美咲はパジャマを着ていることに気がついた。どう見ても若い女性しか着られない柄である。これはこの部屋の模様とは違って、間違いなく自分が選んだものだ。なんだか矛盾しているな、と自己分析してみる。でも、いつ着替えたんだろう?

 あの夢は、何処までが昨日の歴史で、どこからが脳内仮想空間の出来事なのか、しばらく考え込んでもなかなかその境目に線引きすることができなかった。

 再結合を急ピッチで進める脳神経シナプスの働きと、脳内を駆けめぐる微弱電流に加えて、多種多様な生理的化学物質の分泌と抑制のバランスが細胞レベルで万全となることで、記憶は徐々に復活していく。 ようやく美咲はこの二日間の出来事を正確に再生することに成功した。

「……着替えなくちゃ」

 今日から本格的な訓練だ。美咲はわざと声を出して自分に気合いを入れた。



 今日もよく晴れて暑かった。台風シーズンだというのに、今年はまだ関東はおろか九州地方でさえ一度も直撃を受けていない。数日前のテレビで、ある学者が台風は大気の汚れを浄化するために発生するもので、その減少は大気適正化システムの効果を実証していると力説していたが、おそらくはテレビ向けの発言であったに違いない。最近の科学者は、ずいぶんと神懸かり的な発想をするようになった。皮肉なことに、魔界の住人であるカイエンの方がはるかに自然科学的な理屈の元に考察していると思えるから不思議なものだ。

 美咲が思い出した昨日の出来事は、まさに超常現象と人界の物理学の狭間で微妙に針を揺らす天秤計量器のようなものだった。

 その夢は始まりの部分までは現実と重複していて、美咲は聖界によって完全に管理された亜空間の中で実際にその日の午後を過ごしたのだ。

 美咲はカイエンの話を思い出していた。最も初期に人界へ侵入した野望を持つ狂信者達は何らかの理由で魔界に戻っていった。ボストン・テクノロジィズ社にはまだ五十人ほどの魔界の科学者達がいて、魔の契約の元で研究に没頭している。聖界はこれに直接関与する予定はなく、但し監視を続けるという。第二第三の魔界からの来訪者達は纏まりがない上に、ネクロマンサーへの依存度は最古参よりも更にひどく、まじめな科学者達を力で支配して全てを任せているらしい。

 狂信者達は、灰になって消えた魔道士達の言う通り魔属に目をつけられることを何よりも恐れていて、魔界と人界との頻繁な往来や、聖道士との接触を極力控えている。魔属をボスに持つタイプの魔道士にとって使い魔はお目付役でもあるため、彼等はある特殊な方法で自分達の使い魔を一時的に封じるか、独自の仮想空間に押し込んで魔属の目を盗んでいるらしいが、その特殊な方法というのは判明していない。 推測できることは、使い魔を機能不全にしている間は魔界とのパイプラインがストローのように細くなり、長期の滞在は肉体の維持に膨大な体力を消費させることから、最古参の狂信者達が魔界に戻った “何らかの理由”とは、十中八九そのことが原因と考えられる、とのことだった。

 ゼノも同じ理由で使い魔を冬眠させているのだろうか? これは何とも推論できない。美咲は思い返して、なるほど最初の機械化された魔道士達以外は使い魔の姿を見せなかったな、と基本的な部分を見逃していたことで、あらためて自分の注意力不足を反省した。

 人界でろくな作戦もなしにやりたい放題の魔道士達については、実際のところボストン・テクノロジィズ社との繋がりは不明で、その多くは独自のルートでやって来た挑戦者達だろうとの見方が強い。それでもネクロマンサーによる異能者実験は人界から見えない所で現在進行形であり、上位の聖道士達はその対応に奔走し、それは日本だけではなく世界的な現象となりつつあって、ついに昨日、ロサンゼルスで魔道士の所業が大勢の目に触れてしまう事件が起きてしまったと言うのだ。

 これらの事態を前提に今後起こり得る事を予測して、もしもボストン・テクノロジィズ社に身を置く狂信者達が機は熟したと動きだし、あるいは魔界より再び第一波が舞い戻った際のことを考慮して、ある程度長期的な戦略を講じる必要があると、聖界は判断を下したのである。

 その結果が、美咲と綾乃の実習教育プランの変更だった。期間は短縮しないものの、その手順と度合い、そして場所を変えて飛び級に相応しい特訓メニューが用意されたのだ。

 ところが、指導員だけは変更されなかった。引き続きカイエンがひとりで担当し、二人を受け持つことになっていた。このことについては綾乃も文句を言う気配をなくしており、美咲もそうであるべきだと思うようになっていた。現実問題として上級の聖道士達は常に出払っていて、海外の聖道士でさえ緊迫した状況になりつつある中で、やはりカイエン以外に適任者を選ぶことは難しかったからである。

 美咲にとっては、本心からすればそれだけではなかった。カイエンと一緒にいられることがどういう訳か楽しいと思えるようになっていた。顕在意識においては、自分がどうしてカイエンに好意を持つのか、修練生や初等聖道士時代に見た既視感的な夢の意味はまだ解読できないでいる。いや、その何かが明白になる事が恐いのかも知れない。

 それに反して、潜在意識にいるもうひとりの自分は全てにおいてカイエンの味方だった。深層部分の非常に人間の女の子らしいと思える複雑な心理は、理解こそできないがどうしても抑えきれない感情となって溢れそうだった。想えば想うほど脳内の思考に止まらず、心臓の鼓動に大いに影響を与え、体温を上昇させ、涙腺の制御を一時不能にさせた。

 これではいけない、と美咲は精神抑制に努めた。自分はもはや人間ではないのだ。人間と全く同じ構造と仕組みを持つ肉体ではあっても、光原子で構成された異なる波動の存在なのである。たとえ何億年かかろうとも、自分は天使を目指すのではなかったのか?

 いまは修行に集中しよう。それしかない。あとたった三週間足らずで、カイエンは聖界との契約を履行し終える。そうなれば、何かしら状況は変わるだろう。

 本当にそうだろうか? カイエンへの報酬は人界への自由な渡航だ。相変わらず施設に現れては自分を口説き、それがずっと続いたとしたら? いくら人界に影響を与えなくても、聖界はそれをいつまでも放ってはおかないだろう。カイエンは独立系魔道士だ。使い魔を持たない以上、闇のエネルギーを補充するため頻繁に魔界に戻る必要がある。それでも、明くる日にはまたやってきて、恐らくは自分と綾乃以外の聖道士達によって、予定調和で追い返されるのだ。

 そうやって状況は何も変わらないかも知れない。人界に深刻な悪影響を及ぼそうとしない限り、いかに強大な魔道士といえども、抹殺したり時空の終焉に追放したりといった極刑処置を聖界がとることは考えられないからである。

 あるいはそれこそが、自分の希望的観測かも知れない……。

 そんなことを延々と考えてしまう自分はいったい最後に何を望んでいるのか? 聖道士になって以来、自分が聖道士であることにずっと疑問を持ち続けてきた。だから無理矢理にでも目標を作り、自分をごまかしてきたように思えてならなかった。

 また、マイナス思考に陥りそうだ。美咲は目を閉じ、リセットするように頭を振った。

 考え過ぎかも知れないけれど別の可能性を憶測してみよう、と美咲は思った。ジンは使い魔ではないが魔界と繋がりを持っているのだとしたら(いまは嶋田に貸出中だが)、カイエンは魔界人として常に充足していることになる。もしもそうだとすれば、カイエンはわざわざ魔界とを往来する必要はなくなる。となれば、人界に潜伏することで聖界の監視を逃れ、自由行動をとることなど造作もないだろう。そもそもどうしてこの人界に長居する必要があるのか? 自分に会うためだけとは考えにくい。カイエンほどの魔道士の目的としては希薄すぎるのではないか。目的が私? そんなはずはない。そんなことは……。

 きっと他にも隠された理由がある。これについては素直に質問しても問題ないだろう。魔道士とは嘘をつく生き物だ。しかし真意を隠し通せば重大な契約違反となることはカイエンも十分承知しているはずである。

 美咲は早速、今日その事をカイエンに訊いてみようと心に決め、再び思考をリセットして気合いを入れ直し、この季節に最も一般的な服装に着替えると、施設の二階にある自分の部屋から階段で一階に降りていった。

 本来であれば、昨日から訓練場に連日連夜寝泊まりのスケジュールだったが、美咲も綾乃も、一度施設に帰って子供達の顔を見たいと要望したところ、あっさりと認められたのである。本当は子供達の中に混ざって添い寝したかったのだが、綾乃と二人が追加されるとだいぶ狭くなり、誰と誰の間で寝るのかでいつも年少組が喧嘩になるため、やむを得ずそれぞれ自室に引き上げたのだった。美咲は長い廊下を通って用務室に向かうと、大勢の人の気配を感じた。更に近づくと、子供達と綾乃の声が聞こえてきた。

 用務室の扉を開けて中に入りながら、子供達の寝室兼勉強部屋兼遊び場を見て、自分が少しだけ寝坊したことを知った。

「あ、おはよう、ございます。松村先生」

「おはようございます、藤森先生。よく眠れた?」

「うん、赤ん坊みたいにね」

「おねしょ、しなかったでしょうね?」

 綾乃は寝坊したことを一言も言及することなく、普段通り冗談を言ってみせた。にこやかに元気な保母を演じながら年少組の着替えを手伝っている。いつもの風景だ。

 着替えを終えて朝食を待つばかりの何人かが美咲の両脚にしがみつき、「先生、先生!」と言って離れようとしない。そんな子供達の純粋な笑顔を見ていると、悩んだり考え込んだりしていた自分がなんだか馬鹿馬鹿しくなり、気が晴れてすこぶる穏やかな気持ちになることができた。

 この施設の子供達は、全員が魔道士の残虐非道な振る舞いによる犠牲者だった。直接的または間接的に魔道士の嗜好で乱射された魔力によって殺害された人間達が、死に際に自分の命と引き替えに守り抜いた大切な宝であった。聖道士の力及ばず、護るべき人間を死なせてしまったのは紛れもなく聖界の責任であると言えた。

 美咲は前任者達からこの施設でいまの仕事を受け継ぎ、聖道士としてだけではなく一人の単なる保母として、命を賭してでもこの子達を護り、やがて里親に引き取られていくまではこぼれんばかりの愛を注ごうと決意していた。当初からは半分以上が入れ替わっていたが、一人残らず愛おしくて仕方がない。そんな我が子のような天使達の顔を、三週間も見ることができなくなるということが、想像を絶するだろう厳しい訓練などよりもずっとつらいことに思えた。子供達もそれを察してか、いつもより不安げな様子で接してくる。これまで丸一日いないことはあっても、二日を越えて不在になることはなかったのだ。

 今回は自分達の後輩やその時に手の空く聖道士の誰かが交代で世話をしてくれることになっている。今日の当番は昨日から泊まり込みで、既に朝食の準備に余念がないらしい。支度が完了するまでは子供達にできるだけ触れさせてあげて、たくさん話をしてあげたいと思った。

 美咲は同じ目線の高さで、飛びついてくる子供達ひとりひとりの頭を優しく撫で、額や頬にキスをして微笑みかけながら引き離すと、急いでエプロンを着け、着替えに苦戦している年少組の一人に駆け寄って手伝おうと手を出した。

 するとその子は「自分でやる」と言って美咲を拒否した。それは幼いながらもその子にとって精一杯の虚勢であり、反抗であり、心配を掛けたくないという暗黙の意思表示だった。先生なんかいなくても大丈夫なんだ、そう言いたげであった。

 それが分かるだけに美咲は少し寂しい気持ちになり、健気で強気なその子に自分の情けなく弱い心を指摘されたような気分にもなったのである。

 年長の子供達に布団の片づけをさせ、年少の子供達の世話を指示し終えると、食堂から朝食の用意ができたという後輩の声が響いて、数分後には賑やかな時間が始まっていた。

 聖道士は食事を必要としない。魔道士が魔界と繋がっている限り暗黒の負のパワーを絶え間なく給油し続けるのと同様に、美咲達は常に高次元空間からのエネルギー補給によって生命活動を維持し続けている。

 人間と同じように食べようと思えば食べることは可能だったが、美咲と綾乃は子供達が食事中、この幸福な時間を永遠のものにする為に目に焼き付けておこうと思い、部屋の隅に並んで立って見ていた。

 子供達が夢中になって食べ、お互いに話をして、不器用に手を動かす様を見守りながら、綾乃は美咲を見もせずに小さな頭を寄せて言った。

「大丈夫?」

 美咲は驚いたように綾乃を見る。

「え? 何が?」

「テンション下がってるよ。思念波は漏れていないけど、乱れているのは分かるわ。昨日の聖道士宣誓の時とはまるで別人」

 まいったな、と美咲は思い、気持ちを切り替えようと短く深呼吸した。

「大丈夫よ。考えることが一度にたくさんできただけだから。独りでうじうじするのは、私の流儀じゃないもの。ありがとう、綾乃先輩」

 最後の台詞はわざと戯けて見せた。そうだ、ひとりで鬱ぎ込むことはない。自分の悩みなんて幸福の裏返しそのものではないか。

 そんな前向きの意気込みをオーラの変化で感じ取った綾乃は、満面の笑みで美咲を見た。

 美咲もつられて歯を見せ、久しぶりに二人とも声を出して笑った。



(第一章 了)

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