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第一章(file4)

 そのカフェテラスはビジネス街にあって南国の島だった。

 幕張新都心に密集する最近流行の複合マイクロシティ。一辺が駅の一区間ほどもあるピラミッド型の巨大建造物は、ゼロGで合金精製されたアモルファス・メタルの骨格で人工プレートの上に浮かんでいる。 地質学だけでは説明できないその地面は、アスリートのバーテンに最大級のサービスでシェイクされても、その姿を恋心で見つめる観客に似て微動だにしない構造を誇っていた。

 M8クラスの直下型地震でさえも、近くを乗合バスが通る程度にしか感じさせないことが売りになっている立体の街。その中で最も海よりに位置する黒い四角錐の底辺に、そこだけ亜熱帯気候にプロデュースされた屋外喫茶店が静かに営業している。

 太陽光自動追尾式パラソルが、貴婦人の持つ日傘の角度で、円卓に座る三人を灼熱の赤外線から護っていた。

「あのね、カイエン。朝っぱらからビール飲んで、それでも教育係のつもりなの?!」

 テーブルを叩いていまにも椅子まで振り上げそうな勢いで怒ったのは、カイエンに指示されるままに空間座標移動で運転手役を務めた綾乃である。

 カイエンは休憩すると言ってこの店を指定し、昼時間前で暇をもてあましていたウェイトレスに、レッドビールを三杯も注文していたのだ。

「この世界は喉が渇く。体もかったるいしな。まったくもって三次元1%制約というのは忌々しいものだ。ビールの一杯くらい、服務規程違反には相当しないだろう」

 既に九割が飲み干されていたジョッキの中身は、すぐさま白く儚い泡だけになった。

 この世界を訪れる魔道士にとってどれだけ気怠く感じるのかは、初めからこの人界で生まれ育った美咲と綾乃には理解できないことだった。生まれついての聖道士達からは、月で生まれ育った者が成人してから初めて地球の大地を踏むくらいの苦行だと聞いていたが、地球育ちの二人には想像し難いことである。

「三杯も注文したくせに! やっぱりあなたは魔道士よ!」

「残りの二つは君らの分だ。ひと仕事の後のレッドビールは格別だぜ。これだけはこの世界で最高の発明だと思うね。魔界にすらない、まさに魔法の酒だ」

「酔わないと話ができないとでも言うつもり? 私達は、アルコールは飲まないわ」

「美咲までそんなふくれっ面をするなよ。修道女みたいなことを言わないでくれ。どうせ君達は、酔うことのない耐性を持った体なんだ。単なる泡の出る飲み物だと思えばいいだろう」

「そんな呑気なことを言ってる場合じゃないでしょ! だいたい、あの狂信者達を使い魔の食事にしちゃうなんて、重大な契約違反よ! いまに聖界から使者が来るわ!」

「君はいつも怒ってばかりいるな、綾乃。天使は怒りを知らないはずだがな? それと、君達は思い違いをしているらしい。ジンは魔界きっての美食家だ。あの不味そうなメタル・デブリに舌鼓を打つほど、酔狂じゃあないぜ。魔道士はな、魔属と同じで契約は守るんだ。そこが人間とは違うところさ。狂信者達は俺の知り合いの聖道士にクール宅急便で送っておいたよ」

「……あなたって、本当に腹黒いのね!」

 まともな会話は成り立たないと、綾乃は観念してジョッキを掴み、その勢いで口元に持っていたが、臭いだけで拒絶反応を起こしてしまった。聖道士にとって、毒となる薬物は全て無効となるプログラムが全身に組み込まれている。そしてアルコールに関しては体内の化学反応の如何に関わらず、飲む以前に受け付けない体質になっていた。

 綾乃はアヒル口で対抗し、美咲は唇を強く結んだ。

 カイエンの指示や行動には全て理由がある。それについては綾乃も次第に気づき始めていた。ただ、事前に何の説明もないことに不満があったのだ。

 アジアの血が混じったアングロ・サクソン系白人が日焼けしたような肌色のカイエンが、日陰の中でさえほんのりと赤みを帯びてきたように見える。

「もう酔ってきたみたいね。ろれつが回らなくなる前に本題に入ろうかしら。それとも、ビールが自白剤の代わりになるのなら、私の分もどうぞ」

 そう言って美咲が重たい硬質ガラスのジョッキをカイエンに進呈する。Tシャツの袖を肩までまくり上げた魔道士は、差し出されたその手の指先に淫靡を感じて、本当に酔ったのかも知れないなと自分に苦笑した。

「あまり俺を責めるなよ。君達のことを思って黙っていただけじゃないか。優しい嘘も罪になるのなら、俺は百万回も投獄されなければいけない。君ら聖道士も悪意のない嘘なら破門されないと聞いてるぜ」

「閉鎖時空間への幽閉は免除するわ。その代わり、聖道士二人に拷問されるというのはどうかしら?」

 綾乃が美咲を見た。大胆なことを言う、と思った。

「美女二人に陵辱される魔道士か。悪くないね。取引に応じよう」

 カイエンは美咲が握ったジョッキを貰い受けようとしたが、その左手が空を切った。

 美咲はジョッキを自分に引き戻し、口を付けて呑むふりをする。クリーム状の泡はナノメートルの距離で艶めかしい唇との接吻に失敗した。いたずらな目線でジョッキをカイエンに再び差し出す。

 カイエンはわざとらしくウィンクしてジョッキを受け取ったが、ジョークを言う余裕を失うほど驚愕した。

 氷のごときガラスの上端部に、うっすらと口元の痕跡が浮かび上がっていたのだ。

 カイエンは美咲の眼に釘付けになり、やむなく無言でジョッキを半回転させ、右手で掴み直し、的を絞って口元に運んだ。このときカイエンは、見つめ合うだけの会話方法について、科学的理論を唱えた学者が何故いなかったのかと不思議に思うことになる。

「あのぉ、私は蚊帳の外ですかぁ?」

 綾乃が一歩下がった位置から自分の存在を訴え出た。

「そう卑屈になるな、綾乃。君も人数に入っているさ。極めて数少ない〈転成者〉の一人なんだからな」

 カイエンは二杯目のビールを貴腐ワインのように楽しむと、冷たい声で言った。

「既に狂信者達の興味は促成栽培の異能者からメタトロンの子供達へと移った。しかし、非常識によって常識が成り立っているこの世界で、まともに聖道士と渡り合うのはリスクが大き過ぎると奴らは考えている。俺達魔道士は、他人に命令されることを極端に嫌う。魔属に従うのは、次元が二つ三つ違う圧倒的な差があるからだ。聖道士軍団に立ち向かうための徒党を組むにはそれなりの主導者が必要だが、一発当ててやろうなどと考える三ピン連中にそんな器はいやしない。ところが、闇の信者は人界のマフィアよりちょっとばかり大人だったんだ。操られるのは好まないが、操ることにかけては努力を惜しまない」

 オープンカフェの客はまばらだった。歩道を行き交う人もどこか別の世界を歩いているように見える。その代わり、車道はとてもせわしなくて賑やかだった。三人の会話は何処にでもある騒音にラッピングされて他の誰の耳にも届かない。

「それって、どういうこと?」

 美咲はミニスカートから伸びる健康的な脚を組み、前屈みになって片肘をつくとその手の甲に細い顎を乗せて訊いた。

「ボストン・テクノロジィズという社名は聞いたことがあるだろう。ハーバードとMIT出身の研究者がうようよいる最新技術のショッピングモールみたいな化け物企業だ」

「知ってるわ、名前だけなら。私が人間として死んだ時に移植されたプロトタイプの人工骨髄液を作った会社だから、覚えてる」

 綾乃があっけらかんとして言った。悲壮な自身の死も今では思い出、と言った感じだ。

「そこの日本法人が、ここだ」

「えっ? ここ?!」

 綾乃は辺りを見回した。

「カフェの経営まではしてないぜ。新世代ビールの研究くらいはしてるかも知れないけどな。この黒いピラミッドの約8割がボストン・テクノロジィズ・ジャパンだ。ここでは空間物理学、分子工学をはじめ、宇宙力学から異能力の研究まで手広くやってる。人間の遺伝子をゼロから組み上げる技術の開発が当面の目標らしい。笑えるだろう?」

「まさか、ここで狂信者達の研究が行われているとでも言うの? いつ調べたのよ?」

 自分の前に置かれたジョッキを邪魔者扱いして、カイエンが飲み干したジョッキに押しつけながら綾乃が会話に参入してきた。

「俺は過去感知と遠感知能力には自信があってね。トレジャーハンティングは十八番芸なんだ。半日で見つけられた。まぁ、それだけここには魔界の臭いが充満していたってことなんだけどな。感じるかい? あの廃墟で覚えた感触を。どうやらこの日本という島国は魔界の出口になっているらしいな。きっと獣道になっているんだろうよ。狂信者達は淫魔界の出血大サービスによって取締役連中と悪魔の契約を締結することに成功した。魔道士の知識という旬の食材と、小さじ少々の魔力を手みやげにね」

「じゃあこの建物のずっと上の階では、人間と狂信者達が手を握り合っていると言うの? だったら私達が感じるより先に、感じ取られちゃうじゃない?」

「綾乃の言う通りよ。ジムノマンシーをセーブしている私達は別として、あなたはあまりに無防備だわ。それともわざと宣戦布告するために来たの?」

 二人の聖道士が矢継ぎ早に質問を浴びせると、カイエンはついに二杯目のビールを飲み干して言った。振り下ろされたジョッキが重たくテーブルを叩く。

「俺を見くびるなよ。同じ魔界の住人に気配を悟られるほど間抜けじゃないぜ。それなら昨日のうちにもう見つかっているさ」

「だって、魔の波動を消してないでしょ」

 思念波を読み取ることが得意な綾乃は、波動感知にも長けている。カイエンはアルコールのせいか僅かに不安定になってはいたものの、魔道士のオーラをいつもと変わらず漂わせていたのだ。

「俺は目立たないんだよ。森の中に少しばかり色の違う葉っぱが紛れ込んでも、見分けはつかない。聖道士からすれば俺の体波動は核爆発に見えるだろうが、同じ魔界の住人からは目を凝らしてもただの空気にしか感じないのさ。だがその逆もしかり。君達はそろそろ総レベル抑制の小道具を身につけた方が無難だろうよ」

「!?」

 美咲と綾乃は同時に眉をひそめて緊張した。細心の注意をはらってそっと周囲の波動をチェックする。 空中に飛び交う電磁波やクォークを探知して拾い集めるような地道な作業だったが、進捗が五割に達した時点でそれらを分析しようとは思わなくなった。

 想像を超えた闇の波動を束で感じたのだ。魚群探知機であればディスプレイが光の点で埋め尽くされるほどの密度である。しかし一つ一つの点は、非常に弱い反応だった。

「まるで、囲まれているみたいだわ……」

「この一帯におよそ百人の魔道士達が潜伏している。魔の気配を極限まで消して、おとなしくしているんだ。完全に人間達に紛れているので聖界にも気づかれていない。その上、お互いに干渉し合わないという暗黙の了解があるらしい。奴らの目的が何であるのかは分からない。そこで、君達の出番となる。さっきの戦闘は余興、こちらが本番だ」

「百人も?」

 綾乃は眉間に皺を寄せた。魔道士達の世界年間来訪者数を大きく越える数字だったからだ。普段であればそれだけ魔道士達にとってこの世界は魅力がないと言える。それが一時期に、しかも同じ街に百人という数はかつてない異常事態だった。

 美咲がもう一つの議題を取り上げた。

「目的は私達なんでしょう? わざわざ広げられた網の中に身を投げる意味がどこにあるの? それに、彼等を片っ端から強制退去させたところで、根本的な解決にはならないわ」

 美咲達が最初から魔道士達を別の次元に飛ばすつもりで臨めば、例え百人に囲まれても応援は必要ない。それだけの自信は二人とも持っている。しかし、それは無駄なことだ。追い返しただけで、もう二度とこの世界には足を踏み入れまいと思わせなければ、彼等は何度でも現れる。カイエンの場合がよい例だった。ましてや狂信者達には、彼等が崇高であると思いこんでいる一攫千金の目的があるのだ。

「誰も白兵戦を演じてこいとは言ってないぞ。奴らがこの狭い地区にどうしてなりを潜めて眠たい行動をとっているのかを調べてこいと言っているんだ。例の幻覚剤も、どうやらここで密かに製造されているらしい。人間の警察のためにも役に立つじゃないか」

 次第にカイエンの身振り手振りが大きくなっていく。

「それも訓練なの? それより、このままピラミッドの頂上に登って発掘調査する方が、意味があるように思うけど」

 綾乃の意見には美咲も賛成の様子である。これにカイエンは異を唱えた。

「それは得策とは言えないな。それこそ大戦争が勃発するぞ。寝ている獅子を叩き起こすのかい? 狂信者達は君達を恐れているんだ。だから、表だって無茶な行動はとらない。それも目的達成のためだ。そこに君達が旗を振り回して邪魔しに入ったら、奴らは何をしでかすか分からないぜ。ボストン・テクノロジィズのことは聖界に報告だけしてあとは先輩連中に任せろ。ただ君達は多種多様な魔道士達の思考や行動を読み、対処する訓練に没頭していればいい。いまは新米の下士官にできることをするんだ」

 太陽の角度が垂直に近くなり始め、パラソルの真下に座るカイエンが影の中に埋もれる。

 美咲がいままで見てきた魔道士はいつも闇を連れて歩いていた。生まれながらにして暗黒というガラス箱に閉じこめられているかのように。

 明るい日射の下では気がつかなかったが、光線を遮った陰に溶け込むカイエンを観察すると、やはり魔道士なのだな、と感じざるを得ない。それはとても寂しいことのように思えた。慈愛ではなく、個人的感情に近かった。それも極めて人間的で、悲しくも、女性的な。

 自分はどうしてしまったのか、と美咲は自問した。こんなにも心を揺さぶられるなんて。

「修行が足りないのかな……」

 思わず口に出してしまった美咲の吐息を、カイエンは言葉通りに受け取った。

「そうだ。この世界を護る聖道士は、どうしても魔道士と対峙する回数が非常に少ない。経験は知識に勝る。聖界が何故、魔道士の俺を監督にしたのか、分かっただろう?」

 そう言いながらカイエンは足を組んだ。と同時に美咲が組んだ足を降ろす。どこからともなくいつもの伊達眼鏡を取り出すと、俯きながら両手で小さな顔に被せた。

 それを見て綾乃も七芒星のピアスをビデオの早回しのように素早く装着する。振り子の原理は綾乃の頭がカイエンに向き直るまで、そのピアスには適用されなかった。

 ジムノマンシーは、魔力のように呪文を唱えなくても発現される。イメージするだけで具現化できるその強大な力は、時として諸刃の剣となる。聖道士は各自、これを制御するためにカイエン曰く小道具として総レベル抑制というアクセサリーを身につける。

 美咲は飾り立て専用の伊達眼鏡であり、綾乃の場合はお気に入りのピアスだった。これらは二人がそれぞれ選択し、その機能を設定している。体に密着させている間は、決して無意識にジムノマンシーは発現されない。

 魔道士は聖道士の持つ光の臭いを嗅ぎつけるが、それは微かに漏れるジムノマンシーのエネルギー波を感じ取るからであり、これをシャットアウトすることにより普通の人間として振る舞うことが可能となるのだ。百人の人間に扮した魔道士達の目を眩ませるためには変装が必要だった。

「カイエンは例のごとく、後ろで見てるだけなのね?」

 綾乃が少し首をかしげながら訊いた。答えは分かっている。

「優秀な教え子を持つと、師匠は楽をできる。もし君達が窮地に陥ったら、その時は酔拳をひっさげてかっこよく登場するよ。それまでは酔っぱらった魔道士に出番はない」

「魔道士って、お酒に酔うのね。初めて知ったわ」

「勉強不足だね、綾乃君。もちろん、自在に変化できる俺達魔道士は、いかなる化学薬品にも反応しないように体を作り変えることが可能だ。だが、こんなにも楽しい気分になれるというのに、それを拒否するなんて、馬鹿げたことはとてもできないね」

「あなたには、八岐大蛇に呑ませた魔法の液体を樽に入れてプレゼントしたいわ」

 美咲は立ち上がってカイエンを見下ろすように言った。パラソルの守備範囲から外れて日光にさらされた上半身は、ジムノマンシーのオーラがなくとも輝いて見える。

 完全なる計画的設計図の景観を持つ新幕張の街は、見慣れているようでどこか非現実的に二人の目には映った。点在する金属とコンクリートのピラミッド。強化ガラス製の円筒型超高層ビル。気品の欠片もない西洋の城の形をした工場。この景色を作り上げた人間達よりも、異世界に属する魔道士達の方がずっと自然な存在に思えてならなかったのだ。

 炎天下の街を精神の視覚で一瞬にして一回りした美咲は、微笑みながら言った。

「ちょっと、ウィンドウショッピングに行ってくるわね」



 これほどまでに電磁波が鬱陶しいと思うことはなかった。FMからSHF帯域まで、実に様々な電波が暴風雨みたいに街を舐めている。高学歴な評論家達が蔑んで呼ぶところの“最近の若者達”は、内耳に埋め込んだチューナーとチップアンプで何も身につけずに垂れ流される音楽を聴き、古びた大人達の常識よりも壁一つ向こうの最先端を歩いている。

 脳の中枢に一時的な麻薬作用を及ぼすトリップウェーブに至っては、法律で禁止されてからも目に見えるほどに飛び交って止むことがない。

 綾乃は闇の波動を捉えようとして、超感覚範囲をうっかり広げすぎてしまった。こんなコントロールミスは久々で、それが平常心の崩落にあることは自分でも気がついている。

 美咲と綾乃の二人は、無機質な街の外れに向かって歩いていた。買い物客などの人通りは東京の中心地に比べれば半分以下であり、元々この地区ではオフィスワーカー以外の人種を発見するのは難しい。三十年ほど前に多くの企業が東京を中心とする地区の新築ビルに流出して一時期は過疎化した時期もあったが、都心の建造物が再び老朽化すると、企業と労働者の数は三倍になってこの幕張新都心に舞い戻ってきたのだ。

 駅周辺やピラミッドの中に入れば二人のように涼しげな服装の買い物客を見ることは簡単だったが、平日では昼間人口のほとんどが建物内に閉じ籠もっている状況において、視覚的な意味で今の彼女達は目立っていると言えた。

「こっちの方に、数人……うーんと、もっといるかな」

「いつか綾乃にきちんと教わろうと思っていたんだけど、こんなところでツケが回ってきたわ。ごめん、私には感じないかも」

「いまのうちだけ、眼鏡を外したら? 意識して光の波動を抑えれば大丈夫よ」

 大丈夫よ、とはつまり魔道士達には感づかれないだろうという意味だ。綾乃はピアスを指でしきりにいじっている。ピアスに触れるだけで一部の能力だけを引き出しているのだ。この器用さも美咲にはまだ真似のできないことだった。

「カイエンは、私達に何を教えようとしているのかしら? 法術の向上は訓練のメニューにはないらしいわね」

 美咲は綾乃に言われた通りに眼鏡を外しながら言った。

「昼間からお酒なんか呑んで、本当に指導する気があるのかな?」

 抑揚のない美咲の台詞は綾乃にはどこかわざとらしく聞こえた。

「多分、だけどね。カイエンはうちらの知らない魔道士の姿を見せようとしているんじゃないのかな。ほら、魔界は想像を絶するほど深くて広いと言うでしょ? カイエンみたいに風変わりな魔道士や、自分を機械化する狂信者とか、聖界の常識を越える実態を教えようとしているのかも」

「それは分かるけど、順序が違わないかな」

「たった三週間の間に、彼にしかできないことをやろうとしているんだと思う。聖道士の教官では決して教えられないようなことを。多分よ。ちょっと、そう思うだけ」

「ふーん、ずいぶんとカイエンのことを弁護するのね。あれだけ怒っていたのに」

 美咲が意地悪そうに笑いながら言う。

 綾乃は美咲のこんな表情を見るのは何日ぶりだろうかと思った。美咲はクールな一面を持つものの、普段は明るく、綾乃とは良くはしゃいだり冗談を言い合ったりする仲だ。

 でも、いまは無理をしている。そう直感した。

「ねぇ美咲。心の波動と言動がズレてるよ。はっきり言うわ。カイエンのことをどう思っているの? カイエンが現れてから……とくに昨日からよ、様子がおかしいのは。それと、さっきの無言の見つめ合い。私、美咲のことが分かんなくなってきた」

 二人は次第に背の低い建造物が建ち並ぶ方へと進んでいた。年代的に古い再開発計画区域だった。車道も狭くなり、車の騒音が遠くなっていく。

 綾乃の指摘に対して美咲は意外なくらいに素直な反応を示した。

「好きよ。多分、だけどね」

 綾乃は思わず立ち止まって美咲を見た。ある程度予想はしていたが、あまりにあっけなく言われてしまうと言葉に詰まるものだ。一度、息を止めてみる。それでも噴出する感情を完全に抑えることはできなかった。

「本気で言っているの? 彼は魔道士よ!」

 つられて足を止めた美咲は少し考えてから言葉を返した。不思議なくらいに全天が晴れ渡ったような顔をしている。

「ねぇ綾乃。前世の記憶ってある?」

 今度は予想していない反応だった。綾乃は美咲が何と言ったのか聞き返すことさえできずに、真っ直ぐと美咲の潤んだ眼を見るしかなかった。

「聖道士に転成してから、時々だけど不思議な夢を見るようになった。私よく話してたでしょ。決まっていつも同じ夢だったって……私ね、修練生時代に教官に訊いたことがあるの。そしたら、それは恐らく前世の記憶だろうって言われたわ。聖道士は生まれながらにしろ、転成者にしろ、前世の記憶の一部が甦ることがあるんだって。とても朧気で、霧がかかったみたいなんだけど、奇妙な現実感を伴うのよ」

「その夢の中に、カイエンが登場したの?」

 綾乃は恐る恐る訊いた。

「ううん、はっきりとは分からない。顔とか、覚えてないし。でも、初めてあったとき、ああ、この人だ……そう思った。そう思いたかっただけかも知れない。でも、それがついさっきね、確信に変わったのよ」

「つい、さっき?」

「うん。カイエンに腕を掴まれて助け起こされたとき、見えたの」

「何、が?」

「カイエンの過去の記憶が、見えたのよ。私が見た夢と、そっくりだった」

「そんなの、カイエンが記憶操作したか、幻術を使ったに決まってるじゃない!」

「私もそう思ったわ。でもね、もしそうなら、あのタイミングで見せる必要性はないはずでしょう? 彼が現れてから三週間、いくらでもチャンスはあったわ」

「それが策略かもしれないじゃない?」

「カイエンだけじゃ、ないのよ」

 美咲は思い出したように再び歩き始めた。

「え? 何?」綾乃も美咲を追うように歩き出した。

「私の試験官だった魔道士ゼノ。彼も、カイエンと一緒に夢に現れていたの。カイエンに訊いたわ。ゼノとは知り合いだったのよ。しかも同じ世界の出身だった。ね、綾乃、これでも私は冷静さを欠いていると思う?」

 綾乃の目に映る美咲は一瞬にして遠い存在になったかのように思えた。まだ信じられなかった。きっとこれは何かの誤りに違いない。

「カイエンは、美咲が思い出したことに、気づいている?」

「気づいていないと思う。私だって、はっきりと前世の記憶を思い出した訳じゃないし。彼とどういう関係だったのか、何があったのか、ゼノは私と会って何も感じなかったのか、いまは何も分からない。でも、知るのが恐いというのが、本音かな……」

「どうして、好きだ、という感情なの? どんな夢だったの?」

「待って。それは今度ゆっくりと話すわ。いまは訓練中でしょ。いまの私達、無防備よ」

「訓練中だから訊くのよ。一つだけ答えて。とても言いにくいことを訊くわ。いい?」

 美咲は二、三歩進む間、口を噤んだ。そして微笑みながら言った。

「いいわ。もし、私が綾乃だったらきっと納得いかないと思うし」

「じゃあ、訊くわ。美咲、まさか〈闇の浸蝕〉を受けてないでしょうね?」

 二人は交差点に差し掛かり、信号待ちになった。

 どの方向に行くのかはレーダー能力を備える綾乃に選択権があったが、この問答を終えない限り信号機の色に意味はない。

 美咲は綾乃に向き直ると、右手を自身の胸に軽くあてがい、自然体で語り始めた。

「私は光に属し、宇宙を敬い、天使を目標とし、その聖なる恩恵を常に感謝します。もしも聖の道を歩むことを忘れ、闇に染まり、悪意を持って虚言を口にし、自らの魂を暗黒の淵に堕としたその時は、聖道士としての全てを放棄することに一切の異存はありません。聖道士長第二席・藤森美咲、私は闇の浸蝕を受けていないことをここに宣誓します」

 まるで街全体に反響するような透き通る声だった。

 美咲は外した眼鏡を折りたたむと小さな手で握り、もう一方の手をその上に軽くかざした。眼鏡が光を放ちながら手の中に吸い込まれると、より大きな光の塊が美咲の掌を覆い尽くした。

 光が消えると、そこには一昔前のスマートフォンのような物体が現れていた。充電状態を示すレベルメーターに似た表示があり、十段階のうち三段階まで赤く点滅している。

「なかなかのデキでしょ? 闇の波動探知機よ。物質化能力なら、綾乃にも負けないわ」

 高位の聖道士であれば、無から有を生むこともできる。

 いまの美咲の力では何かしら核となる密度の高い個体をベースとして、周囲の気体とジムノマンシーそれ自体を必要な分子に元素置換するのが相応の方法だった。原子を分解して原子核を組み替え、再び融合し、瞬時に安定を与えてから高分子を作り上げ、イメージ通りの物体を具象化する。

「美咲……ごめん」

「なんで謝るの? 疑われても仕方なかったわ。でも私はこの通り、ジムノマンシーを使える。心に嘘はない証拠よ。さっき言ったことは、正直な私の気持ちなの。魂の中心も、そして表面も」

 ジムノマンシーは決して聖道士個人が持つ力ではない。全ては天使によって与えられている。心に闇があれば、その力は急激に衰える。もしも悪意を持って虚言を口にすれば、全て発動しなくなる。暗黒の波動の影響によって闇の浸蝕を受けた聖道士は聖の心を喪失する。それはジムノマンシーの力を永久に失うことを意味していた。

 聖道士としての宣誓の直後において難易度の高い法術の成功は、宣誓の内容に嘘がないことを証明していた。更に、物質化現象の際に放出される目映い光は闇の使い手には決して模倣することのできない聖道士の証でもあった。

「誰かが見ていたらどうするのよ。まったく、ドジなんだから」

 綾乃は泣きそうになりながら言った。

「聖道士は空間操作術を得意とします。大丈夫よ。回りからは、二人ともただ立って話をしているようにしか見えないから」

「やるじゃない。でも、やっぱりドジよ。それだけ派手にジムノマンシーを使ったら、魔道士達に気づかれるわ。遅いとは思うけど、やっぱり眼鏡をかけてよ」

 綾乃はどうして涙がでるのか、自分でもわからなかった。泣きながら美咲の手元を見る。

 探知機のレベルメーターは、五段階まで上昇していた。

「ほら、やっぱり見つかっちゃった」

「まだそうと決まってないでしょ。とりあえず反応の強い方に行ってみましょうよ。ねぇ、なんで泣いてるの?」

 そう言うと、美咲は探知機を四方へ向けて調べ始め、ちょうど信号が青に変わった方向で動きが止まった。

「こっちよ」

「正解。どうして本人が苦手な能力を物質化できるのか、本当に不思議だわ」

 二人はそれまでより三割程度速度を上げて歩き出した。

 五分と立たないうちに、二人は目に映る前方の景色以外に変化を感じ始めた。

「綾乃、おかしいと思わない? こっちの方で何かイベントでもあるのかしら?」

「この先はただの空き地よね。少し離れてるけど大気適正化システムが並んでいるから、見学かな? そんな風には見えないけど」

 それまでほとんど見かけなかった通行人が、二人を追跡するように十人、二十人と次第に増えていたのだ。半分は背広姿の中年男性、四分の一は地味な私服の若い青年、残りは老人と年配の女性であり、各々入り交じっている。

 建設されてまだ数年の大気適正化システムは、週末ともなれば観光客の見学コースに必ず含まれて大いに賑わう。だが今日は平日であり、歩行者達はどう見ても観光の途中とは思えなかった。

「探知機のレベルメーターが振り切ってるわ。やっぱりそうかしら? 綾乃の言う通り、私ってドジね」

「……違うわ。もし全員がそうだとしたら、左斜め後ろの女性はうちらが店を出てから、ずうっとついて来ている。最初からバレていたのよ」

 美咲の手の中で小さく空間が歪むと、探知機は白く光って見えなくなった。

「探すつもりが、探されていたってわけか」

「カイエン、あいつ知ってたのよ、きっと。やっぱり腹黒い」

「で、どうするの、先輩?」

「望むところよ。このまま真っ直ぐ」

 妙な感じだった。二人を囲むように歩く一見して普通の人間に見える通行人達が魔道士だとしたら、ただ同じ方向に歩いているだけで他のアクションは何もないのだ。美咲達二人を睨みつけるわけでもなく、殺気もまるでない。典型的な魔道士の体波動が強くなっていくのをただ感じるだけだった。

 二人はしばらく黙ったまま、道の先にある空き地を目指して歩いた。総レベル抑制を外して座標移動を使おうかとも考えたが、それではジムノマンシーの波動を狂信者の隠れ家までわざわざ送り届けることになってしまう。

「綾乃、さっきはなんで泣いたの?」

 美咲が突然に口を開いた。

「え? ここにきてその話題? わかんないわよ。自分でも」

「私がジムノマンシーを失っていなかったから? それとも、カイエンを好きになってしまったから?」

「だから、わかんないって言ってるでしょ。もう忘れてよ」

「綾乃の涙を見て、ふと思ったの。聖道士は、悪意のある嘘をつくとジムノマンシーが使えなくなる。魔道士は涙を流すことで浄化されて灰になる。それって誰が決めたのかな、って」

「誰がって……自然の摂理でしょう? 宇宙の物理法則よ」

「物理法則なんて、世界によって違うのに?」

「美咲、いったいなんの話をしているの? こんな時に! 緊張を解すためなら、重すぎる話題だわ」

「練習してたのよ、思念波の受信を。まとまった集団の思念波なら、私でも読みやすいわ」

 そう言って、美咲は立ち止まっていきなり後ろを振り向いた。

 綾乃はまだ早いのにと思いながら続いて振り返り、愕然となった。

 五十人はいるだろう人々が集まって、二人を見ているではないか。

 人数に驚いたのではない。

 集団催眠のように統一された思念波が一気にのしかかってきたからである。

 それはまるで叫びだった。


 宇宙の真理を!

 未知の探求を!

 選択の自由を!

 永遠の安寧を!

 世界の解放を!


 まるで宇宙の果てにまで響きそうな、それでいて非常に静穏な訴えだった。

 綾乃は自分が予想していたより遙かに危険な状況なのではないかと考え、素早くピアスを外し、戦闘モードに突入した。つむじ風が吹くと、それは白い服を呼び寄せた。

「美咲、真後ろ三百メートルに空間座標移動。彼等を引きつけて」

「了解」

 その瞬間、二人の姿が消えた。

 座標の移動先に降り立った二人は、海風に潤いある髪を遊ばれた。美咲も聖道士の戦闘服を気まぐれな風の流れに任せている。

 東京湾を埋め立てたその空き地は、国際級の空港を作ってもなお余るほど広い。

 通行人達はすぐに跡を追ってくると思ったが、三百メートル先の街の外れから一人残らず姿を消したまま気配も消していた。美咲が注意深くゆっくりと辺りを見渡して言う。

「あの集団、なんだと思う?」

「さぁ、うちらのおっかけじゃないことは確かね」

 綾乃も同様に辺りを見回す。美咲が正面を真っ直ぐ見て感想を述べた。

「敵意は感じられなかった。まるで何かを訴えようとしているみたいだったわ」

「ちょっと嫌な予感。まるでうちらの方がここに召喚されたような気分だわ」

 背筋が寒くなる感覚に、綾乃の声は低くなっていた。目線の先が広大な地平線から、砂利と雑草だらけの地面に落ちる。美咲の頭も足元を見るように垂れていく。

「来たわ。気配、感じる?」

「うん、北極の中心に立っているみたいよ」

 黒や赤茶色の土の中からまばらに生える草が、緑から白色に変化している。やがて地面全体が氷山の崩れるような音を立てて凍り始めた。生暖かかった海風も冷たく肌を刺し、教科書に載るくらい典型的な魔の体波動が下からせり上がってきたのだ。

 二人は申し合わせたように空間防御を自分達に施した。五重に構えて更に光の攻撃を最大限に発揮できるよう、いつもより特別に細かく空間フィルターを設定する。

 最初は一人だった。

 性別が判断できないくらいに不明瞭な人影が地面から頭を出し、垂直に浮かび上がってきたのだ。

 墓場から甦る生ける屍とは異なり、作られた大地に物理的変化はない。

 歪み空間のトンネルに出口ができ、舞台装置が人影を吐き出しているように見えた。

 また一人、二人と、青白く、あるいは黒い影が次々と生えてくる。その現象は加速していき、瞬く間に美咲達が座標移動する直前の光景を再現していた。

 五十人もの人影は、まるで映画のエキストラのようだった。

 輪郭が明瞭になったかつての通行人達は、もはや人間を装うことをやめていた。姿形は何一つ変わらないのに、美咲達二人から見れば、明らかに魔界人の様相を呈していたのだ。

 美咲は唇を強く結んだ。集団からは思ったより強い体波動を感じる。飛び抜けてパワーのある魔道士は見あたらなかったが、綾乃と二人で相手にするには少々気が重かった。

(美咲、いざとなったらヘヴンズ・ドアを使うのよ)

 二人の間だけに通じる空間波通信が綾乃から発信された。美咲の緊張が更に累乗して高まる。まずは、観察だ。朝一番の経験から学んだことを生かさなくてはいけない。

 ヘヴンズ・ドアは最後の手段だ。相手をよく見る。裏側まで感じるんだ。手の内を読む。それからでも遅くはない。美咲は自分に言い聞かせ、気を落ち着かせた。

 天国への扉。

 それは強制退去の術法の一つである。対象となる空間を時空の彼方へ飛ばす荒技であり、二人にとっては空間だけでなく時間軸をも操作できる覚え立ての技だった。まともにはコントロールされないため、二人でさえ皆目見当もつかないほど遠い時空間まで吹き飛ばし、二度と往来できないようトレースを不可能にしてしまう。

(そうよ、あくまで最後の手段。但し、見極めに迷いは禁物よ)

 綾乃は念のため通信を切った。一番前に立つ背の高い中年男性がにじり寄って、自分達の顔を交互に覗き込むように凝視していたからである。

 その男はジャケットを着ていたが、ワイシャツの代わりに古めかしいオープンシャツを着て、ネクタイはしていなかった。とても科学者には見えない。同時に魔道士にも見えなかった。それでも闇の世界特有の気味の悪さや、炎天下の気温を一気に下げる冷気は、典型的なマイナスの波動だ。中年男性はゆっくりと後ずさりで戻った。

 他の者達は仮面でもかぶっているかのように無表情で、じっとして動かない。

 目つきの鋭いその男は、ほんの少しだけ顎を上げると、息を吐くようにして意外なほど人間的な声を発した。

「呪文を唱えない魔法使い達よ、我々を、助けて欲しい」



 美咲と綾乃の二人がオープンカフェを出発した直後、次の行動予定を少しばかり酔った脳で手際よくまとめ、重い腰を上げようとした時、カイエンは背後に人の気配を感じた。

「こんな所にお出ましとは、思ったより上層部も暇と見える」

 カイエンは後ろを振り向きもせずに椅子に座り直し、背後に立つ者に対して言った。

「座ってもよろしいか?」

 日光を背にしたその影は男の声でカイエンに尋ねた。

「もちろん。雇い主を立たせたままにはできないさ」

「あなたを雇ったのは私ではない。もっと上の、天階位の指導者です」

「だが俺の契約相手は、あんただ。佐多聖道次監殿」

 男は美咲が座っていた椅子に腰掛けると、足を組んで更にその上で両手を組んだ。

「そんな呼び方はここではしないで欲しい。昔の名前で構わないですよ、カイエン」

「では遠慮なく。わざわざ服務規程違反を注意しに来たのかい? マーラム。そんな時間があるなら、少しは弟子達の面倒でも見てやったらどうだ?」

「それほど時間はとらせません。私もこのあとすぐに、次期聖道士候補に会う予定がありますから」

「あの警部補か……言っておくが、男の教育係は御免だぜ」

 カイエンが椅子に寄りかかりながら言う。

「……思ったよりつらそうですね。私の弟子達も心配ですが、それよりあなたのことが気になるのですよ」

 佐多はカイエンの顔色を伺うように言い、顎を引いた。

「よせよ、気持ち悪い。俺にはそんな趣味はないぜ。これこの通り、ピンピンしてるさ」

「知っているのですよ。あなたが魔界に戻れない事情を。いまのあなたにとって魔力の補給は干ばつに雨乞いをするような状況でしょう。それだけではない、忠告も兼ねているのですよ。あなたの美咲に対する態度は実に素直だと思っています。しかし全てをあなたに任せたとは言え、もしこれ以上美咲の心に入り込むのであれば、私はあなたを解任せざるを得なくなる。あなたのリビドーが呪わしい欲望である事に変わりはないからです」

 カイエンは鼻を鳴らすように軽く笑った。

「じぁあなんで俺を彼女に会わせたんだ? 自分が出て行って記憶をくすぐるよりも危険だとは思わなかったのかい? 俺で試したんだろう? いまさら何を言ってるんだ、マーラム。あんたは臆病なだけじゃないか」

 佐多はカイエンを真っ直ぐに見ながら、少しばかり寂しげな表情になった。

「それは誤解です。こんな状況では、教育係はあなたしかいなかったのです。あなたは美咲の特進試験官を断った。やむなく奇しくも同時期にこの世界に現れたゼノに依頼するしかありませんでした。となれば、そこに加えて私が美咲の目の前に姿を見せるわけにはいかなかったのです。だからと言って、永久に隠し通すわけではありません。時期が来くれば私の口から美咲に話すでしょう。ですが美咲にとって、いまはまだその時ではない」

「止めようと思えば、いつでも止められる、って思ったわけだ……理屈は分かったよ。でもな、奇しくも、だと? 俺とゼノが偶然にこの世界を訪れたとでも思っているのか? だとしたら、ずいぶんと脳みそがお花畑だな」

「分かっていますとも。ですが、やはり、奇しくも、なのですよ」

 佐多にはカイエンの双眼が妖しく灰白色に光ったように見えた。声が威圧的になる。

「……どういう意味だ」

「あなたはゼノに、美咲がこの広い宇宙で地球の日本にいることを教えましたか?」

「言うわけないだろう……何だって?」

「そうでしょう。あなたは例の“番人の眼”の力でしょうが、しかし彼は、この世界の中から見事に場所を特定したのです。結局、美咲を彼に引き会わせたのは私ですが……ゼノは単独でこの世界を見つけたとしか考えられません。勿論のこと、聖界の意志介入でもありません」

「美咲がこの世界にいることを知り得たのは、俺の独力だ。番人の眼は、正確に位置を把握するために使っただけだ……まさか美咲が、俺達を呼び寄せたとでも、言うのかい?」

「人の魂は根底となる時空連続体ではひとつの意識の海になっていると言います。彼女は早い段階から記憶を取り戻しつつある。自分でも気がつかないうちに、潜在意識が次元を越えて精神感応現象を起こしたとも考えられます。全ては強引な仮説に過ぎませんが」

「ゼノは俺が通った次元トンネルをトレースして来たんだ。この世界に来てからは、確かに美咲のことを話したよ。ただそれだけのことだ……おいマーラム、俺に釘を刺しに来たんだろう? 高次元物理学の講義なら彼女達にしてやれ」

 カイエンはすっかり酔いが覚めたというように機敏に立ち上がって言った。険しい顔つきの中に青い眼だけが異様に光っている。

 佐多はカイエンの放つ闇の波動を肌で感じた。座ったままでカイエンを見上げて凝視し、静かに、そして強い口調で返した。

「最後につらい思いをするのは、あなたではない。美咲なのですよ。ゼノはそれを分かってもう会わないと言っています。魔道士に嘘はつきものですが、恐らく本心でしょう」

「約束は、あと三週間だ」

「教育係を辞めろとは言いません。こちらも手一杯ですし、何よりあの二人の成長のためですからね」

「言いたいことは、分かったよ」

 カイエンは背を向けてゆっくりと歩き出し、左手を軽く上げて言い返した。

「悪いが、勘定たのんだぜ。必要経費だ」

 佐多は音も立てずに素早く立ち上がると、カイエンの背に向けて言った。

「カイエン、待って下さい。もう少しだけ時間を割いて頂きたい。私と一緒に、来てもらえませんか? 提案があります」



 東京湾から流れ込む不規則な気流は、寒暖の差がある風を交互に送り出している。

強い風ではない。五メートルと離れていない距離での会話に支障を来すほど荒々しくはなかった。回りには風が音を生む物理的要素は何ひとつ見あたらない。

 それでも綾乃はその男が発した言葉に耳を疑い、風のせいだと思いたくなった。

「なんて、言ったの? あなたは誰?」

 綾乃は勇気を振り絞って訊いた。もはやあだ名をつけている余裕などありはしない。

 これから競艇にでも出かけそうな恰好をしたその中年男性が深刻な面持ちで答える。

「我々魔道士が聖道士に助けを乞うなど、前代未聞であることは百も承知。どうか事情を聞いてほしい。私の名はフェンライ。使い魔はいない」

 個々の単語は良く聞き取れる発音だったが、たどたどしい話し方で、中国人が覚えたての日本語を話すようだった。

 美咲は綾乃と顔を向き合わせた。罠だとしても、とりあえずすぐさま攻撃してくることはないだろうということで無言の意見は一致した。今度は美咲が口を開く番だ。

「話を聞かせて。私達にどうしてほしいの?」

 フェンライと名乗った男が心の底から安堵したという顔をして笑みを浮かべる。美咲はその波動からこれは演技などではないな、と感じた。

「率直に話す。狂った魔道士達を浄化してほしい。我々はもうすぐこの世界を去る。だから聖道士の退去勧告には素直に従う。でも、あと少しだけ時間が必要」

「言ってる言葉は理解できるけど、いまいちよく飲み込めないわ。どういうこと?」

 綾乃が一歩前に出て訊いた。まだ罠かも知れないという疑いは晴れていない。

「我々の目的は知っていると思う。我々は、その調査と研究のためにやってきた。それは純粋に学術のためで、欲望を満たすためではない。ただ、真実を知りたいだけ。我々とは違う種類の魔道士達は、欲望のためにやってきている。奴らは、ただ力が欲しいだけ」

 そう言うと、フェンライは悲しげな顔になった。

 美咲と綾乃は再び顔を見合わせた。まさしく魔道士側の勝手な事情に過ぎない。それでも全てを聞いてみる価値はあると二人は思った。これは訓練でもある。カイエンの指示は状況把握だ。内容によってはカイエンを呼ぶか、聖界に連絡を取ろうと考えた。

「あなた達が戦闘タイプではないことは分かったわ。ひとつ訊くけど、あなた達の中に体を強化している者はいる?」

「体を強化? そんなことはしていない。我々は聖道士と戦うつもりなど全くない。だから人間になりすましていた。我々は皆、研究者なのだ」

「研究者? ここに集まった人達、みんな仲間なの? どうしてこの街に?」

「仲間ではない。ただ、目的を同じくするだけだ。この街には人間達が用意した研究施設がある。我々はそこを使用している。あと半分、いる」

 フェンライが自分の後ろに弧を描いて並ぶ者達を一瞥して答える。先ほどまでの一致団結したメーデーの行進は一体何処に行ったのか、静まりかえったままだ。

「あなた方が狂信者ではないという証拠は?」

 綾乃がマニュアルを読むように言う。

「私達の肉体を、化学走査分析すればわかる。我々は、自分自身に薬を投与していない」

「薬? それって、ネクロマンサーのこと?」

「そうだ。奴らが人間達の提案で作り出した薬。神経を流れる電流の波動を変え、人間の生体エネルギーを解放する薬。それを奴らは自分自身にも投与し始めた」

「そんな……ウソでしょ……」

 危うく警戒心を失いそうになった綾乃は慌てて自分を持ち直した。

 魔道士は素直に答えた。

「嘘ではない。我々は事実を言っている。魔道士が嘘をつくのは自分の身を護るため。我々は自分達を護るために本当のことをいま話している。魔道士はその魔力が強いほど、この最下層三次元での滞在時間にも制約が生じる。長い期間の滞在は想像を絶する苦痛を伴う。その都度、魔界を往来していてはボスの魔属に目をつけられる。奴らは三次元1%制約の苦痛から逃れるため、あらゆる魔力を自分自身に施したのに効果はなかった。だから奴らは、この世界の化学の力を借りた」

 淡々と語る口調はどこかの博物館で流れる解説音声に似ていた。頭が薄く禿げ上がった中年太りのその男は、アラブ人のように日焼けした顔に中途半端な口髭を蓄えており、それが綾乃には詐欺師を思い起こさせた。フェンライの後ろにずらりと並ぶまさしく人間の皮を被った魔界の者達は、マネキン人形を連想させ、実際に気配を絶っている。

 整地されてどれくらい経つのか、マリン・フロート技術の粋を集めた人工の地上には夏だというのに霜が降り、関係者以外は立ち入り不可能な空港建設予定地に、白い服を着た女性二人とそれぞれ共通性のない人だかりが向き合って動かないでいる。この状況を別の者が見れば、異様としか表現しようがない光景だろう。

 無論、二人の聖道士は対策に抜かりはなかった。直径五十メートルの仮想空間を実体化し、外側から見える光景を無人に見えるよう空間操作していたのだ。

 空き地の両側には巨大な大気適正化システムの建造物が建ち並ぶ。どちらが吸気口で、どちらが排気口なのかはここからでは判別できない。

 遠くの空をジェット旅客機が横切り、その反対側ではプロペラの音が辛うじて聞こえるくらいの距離に国防軍のヘリが縦列して飛んでいる。東京湾に最も近い所から上空を眺めると、太陽の白熱光に圧されて低空飛行する海鳥たちが何かに怯えた様子で鳴いていた。

 沈黙が続いた。

 いまこのとき、この状況で声を発するためには誰かの許可がいるのではないかと思えた。

 綾乃の眼が青みを帯びた宝石の緑色に染まり、ほのかな光を発している。その小さな頭を旅客機が通った方向に向け、やがて不思議そうに見るフェンライに視線を転じた。

「とりあえずいまの件を聖界に報告させて貰ったわ。で、最初の話に戻るけど、狂信者達を浄化して、あなた達には何の得があるというの?」

 両眼をいつもの茶色混じりの黒い瞳に戻した綾乃は、眼に光のない男に訊いた。

 フェンライはここまで言ってまだ理解できないのか、と言いたげに少し苛立って、これまでよりも感情のこもった声になった。

「奴らは、魔界のボス達には極秘で行動している。魔属はこんな最下層三次元世界になど全く興味を持っていない。かつてこの世界で起きた二つの大戦があったときでさえ、魔属は誰一人として目を向けなかったほどだ。しかし、もしもいま奴らが考えていることをボス達が知ることになれば、魔属は否応なくこの世界に関心を持たざるを得なくなるのだ。そうなれば、どうなると思う? この世界は間違いなく、魔界と化すだろう。私の、いや、我々の研究活動はどうなる? 真理の追究のため、永遠の生命を手に入れるために魔道士となった私の、私達の……!」

 その心の底からの訴えは完遂を阻止された。

 高密度な精神の波動を隈無く周囲一帯に張り巡らし、僅かな危機にも感知するよう細心の注意を払っていた二人の聖道士達でさえ、そのあまりに突然の空間変動は予測不可能な超常現象であった。

 紫外線を適度に含んだ鮮やかな晴天の一角に突如として轟音が鳴り響き、大音響且つ重低音を発するスピーカーユニットが前後激しく振動するように空間が歪んだ。

 渦巻いた黒い窓。気象衛星が捉えた地球規模のハリケーンの映像。口径が数メートルにも及ぶ大砲の内側を芸術的に飾る螺旋の溝。それは荷電粒子ビームの砲撃がライフリングを赤く灼き溶かすように、古代火山の噴火口のごとく迸る暗黒の火花と化してその場を瞬く間に支配した。

 地上十数メートルに出現した黒い次元ホールは、さながらヴェスヴィオ山のようであり、天からこぼれ落ちる火球を呆然と眺める闇の科学者達はポンペイの市民を再現していた。

 蒼穹の回廊に火炎の塵灰をもたらした者が、いま、姿を現す。

 それは魔界の神託を形取った稲妻だった。

 血に飢えた神をも冒涜して止まない、狂った摸倣者。

 それが魔属などではなく、一介の狂えるたった一人の魔道士と分かったのは、惨劇と表現するにはあまりに安易過ぎる真紅の地獄絵図が展開されたあとだった。

 ジムノマンシーを最大限に放射する二人の聖道士は、逃げ惑う純粋なる魔道士達を救うべく、空より墜ちる一体の魔道士にありったけの空間波攻撃を仕掛けようとした。

 その意気込みは光よりも早く儚い塵と消えた。

 ある者は暗黒の炎を纏う溶岩石の直撃でゼラチンのように飛び散り、ある者は頭部を叩き潰され、また別の者は胸部をまるごと吹き飛ばされた。

 体の上下を分断される者。細かな弾丸の火球に全身の至る所をえぐられる者。急降下した炎の魔道士の直接襲撃により、溢れ出る涎でいやらしく濡れる強靱な牙に首を掻き切られる者。惜しげもなく打ち上げられる真夏の花火のように、鮮血の噴水が群青の空を爆発的に彩った。酸化鉄を十分に含んだその液体の色は、人間のそれと区別はつかなかった。

 それはピアノの連弾によって一小節だけを披露する余興の演出で、全てが突然に起こり、同時に処理され、一斉に終わった。研究者達は一人残らず屍と化したのである。

 死屍累々とは、まさにこのことを指して言うのだろう。

 この世界の聖道士は戦士ではない。正面切っての激しい肉弾戦を演じたことは皆無に近い。これほど残虐な行為を許したこともなかった。いや、それだけ脅威となる魔道士と対峙する要務に就いたことがなかったのだ。目前に広がる散らばった肉塊と血の海は、聖道士の精神力を持ってしても正視に耐えない惨状だった。生暖かい風に乗って血の臭いが充満し、食事を必要としない内蔵からでさえ、黄色い胃酸がこみ上げてくる感覚に襲われる。唯一の救いは、先に死を迎えた者から順に灰となって風に融けていく回帰崩壊現象だった。

 ごろりと転がったフェンライの首はまだ何かを訴え、叫ばんとしているように見えた。それもたちどころに霧の粉雪となって大地を這っていく。永遠の時間を手に入れたはずの彼等は、死体としては僅かな寿命しか得られなかったのだ。

 彼等の灰は片方の大気適正化システムの方へ螺旋を描いて流れていく。きっとそちらが吸い込み口なのだろう。人類の叡智で果たして浄化は可能なのか? 鎮魂歌は風と海鳥の悲鳴だけだ。あまりに酷い、と美咲は思った。

 それでも二人の聖道士は目を逸らすわけにはいかなかった。

 音を立てて大地を踏んだ魔道士は、息を荒らして低く唸っている。白い髪は腰あたりまで長く、空洞の眼は赤く灯り、全身裸のようだった。

 美咲と綾乃は、少なからず恐怖心を抱いて身構えた。何もできなかった自分に不甲斐なさを感じて、あまりの力不足を恥じた。

 その悔しさを反転させたタイミングは、二人とも同時だった。

 冷静を取り戻す。数万分の一秒が命運の分かれ道となるのだ。

 美咲の脳裏にカイエンの言葉がリフレインする。

(……いまは新米の下士官にできることをするんだ……)

 カイエンを呼ぶか? 聖界に支援を求めるか? そんな時間はない。何らかの手を打ち、そのいずれかを選ぶべきかも知れないが、自分達で対処する方法は? この場を切り抜ける手段は? 考えるんだ。あと数百分の一秒で、敵は迷うことなくこちらに目を向ける。

 これまで抵抗した魔道士を強制退去した経験は幾度となくあった。しかしそれは事前に聖界によって与えられた命令に包括される行為の一つに過ぎなかった。

「美咲!」

 魔道士の眼が、二人の聖道士を捜し当てた。鬼の面構えを想像していた綾乃は、その顔を見て目を丸くし、思わず美咲の名を呼んだ。かろうじて青白い粘土のような皮膚を張り付けてはいるが、脂汗と返り血にまみれた髑髏の貌だったからだ。

 狂える魔道士の肉体はブロックを組み上げたように筋骨隆々、全身の半分を剛毛で覆い、陰部まで完全に隠している。両手両足は鷲の爪を思わせ、背を丸めた姿勢は知性を持たない野生の獣そのものだった。 その首が傾げるように小刻みに痙攣する。

 餓鬼のごとき形相は、ドラッグの常習者の末路をすぐさま思い出させた。この魔道士は元々、魔属の支配をかなり色濃く受けていたのだろう。体の組織に多様な変化を生じさせているのは間違いなかった。あるいは魔界の技術による遺伝子操作かもしれない。

 二人の聖道士にそこまで観察を可能とさせたのは、静かで重苦しい睨み合いだった。

 獣人は、一歩、二歩と後退った。二人にとってこの動きは予想の外である。

 怯えている。そう見えた。

 聖道士二人を明らかに自分に危害を及ぼす者として捉え、警戒しているのだ。

 だがそれは、生命体が持つ本能に似ていた。いかに魔属に魂を売り渡した者とはいえ、物事の分別もできずに自我を保てなくなった魔道士は、もはや魔道士ではない。

 強固な精神力は、独立系魔道士ほどではないにせよ、普通の人間以上に持ち得なければ魔力を手にすることなど不可能だからだ。ところがこの魔道士はまだ魔力を使い得る。

 幻覚を見ているのだ。美咲と綾乃は、同時にそう考えた。

 幻覚剤ネクロマンサー。

 魔道士が知恵を貸し、人間が調合し、魔力で仕上げ、人界にばらまかれた薬。確かにそれはその名のごとく、生ける屍を動かしている。挽肉と化した魔界の科学者達は、真実を語っていたのだ。

 綾乃は、この魔道士の扱いについて思考を巡らした。言葉が通じるか? 通じるならば折伏可能か? 暴走した魔力はどれほどの強さか? 強制退去術を使用するべきか?

 美咲も同じ事を考えていた。

 まず、話しかけてみよう。会話が可能であれば、情報を収集した上で退去を勧告し、折伏の作戦を練ろう。恐らく一度は攻撃を仕掛けてくるに違いない。それでおよその相手の力は推測できる。いよいよとなったらカイエンを呼び、もし間に合わなければその時こそ、ヘヴンズ・ドアだ。しかしその前にやっておくことが二つある。

「サテライト……」

 二人が自分に言い聞かせるように揃って小声で唱える。それは呪文ではなかった。

 綾乃は自分の分身を魔道士の頭上に置いた。まだ“気”のみであるその姿は目に見える物体として具象化はされず、無色透明なまま風に紛れて漂っている。

 美咲は地球の裏側に韋駄天の龍を待機させた。いざとなればゼノを貫いたときのように、光の速度で呼び寄せることができる。そして各々の気配は、完全な無でしかない。

 間髪おかずに二人は震える魔道士を通り越して海鳥たちの舞う臨海工業地帯の蜃気楼を凝視した。それは〈手眼〉と呼ばれる聖道士の基本法術であり、ジムノマンシーを発現する際、眼を青緑系に発光させて空間または物体を次元操作する静止した体術である。

 獣人の背後数メートルの位置、空中に並んで二つ、白く輝く煌びやかな真円の化粧鏡が浮かび上がった。内側から光を放出する空間の窓を覗きこめば、そこには清らかで涼しげにゆれる水面が全体に映し出される。

 多重性歪空間のダクト。太陽系をまるごと呑み込むほどの巨大なブラックホールが持つ圧倒的な重力場を直径三メートルほどに圧縮し、強力な歪み空間を作る。これを立体的な多重構造にして、歪みのリズムとパターンを一定の方向に維持する空間の落とし穴。

 事前の準備は整った。美咲はにこりともせずに真横の綾乃に語りかける。

「どうして私達って、こうも同時に同じ事を思いつくのかしらね」

 その言葉に、やはり正面を向いたまま、一度瞬きをして綾乃が答えた。

「それはうちらが、愛し合っているからじゃない?」

 全身を取り巻くジムノマンシーの気流をきめ細かく整えながら美咲が返す。

「それはとても素敵な答えではあるけれど、」

 あとは追加モジュールである聖の心をインストールするだけだ。

「愛はすれ違ってこそ結ばれるものでしょう」



 ガンメタリックの耐熱シリコン壁で豪華且つ質素に飾られたそのマイクロシティは、他の同様な建造物とは異なって最上部まで鋭端な四角錐のデザインを誇示している。

 ボストン・テクノロジィズ社の日本支社本部。街の景観を損ねるとの住民からのクレームが発生した際、関係した全ての者に対して埋もれ死ぬほどの札束を送りつけて黙らせたことで、ゴシップ誌を賑わせたのは記憶に新しい。人工血液、電子アイ、固形水素燃料などの公共性高い分野において評価されているものの、裏では何をしているのか分からない不透明さがつきない話題を提供し続けて、様々な噂の流布を絶やさないのも事実だった。

 この数年間だけで警察を筆頭に国税局、公取委、環境省から厚生労働省まで、この黒い金字塔を強制捜査した行政機関は片手だけでは数え切れない。

 会社が通常最も死守しようとする企業イメージを地の底まで堕としてもなお、次々と世界を席巻する商品を開発して、純利益はイグアスの滝のように絶え間なく流れ込んでいる。

 そんな怪物とも言える巨大企業を司法省が徹底して立ち入り調査したにも関わらず、探し出すことのできなかった一つの部屋があった。役人や市民のほとんど、そしてこの会社に勤める社員までもが、その秘密の部屋に裏金もしくは隠滅できない違法行為の証拠等を隠していると信じていた。それがとんでもなく見当違いであるとは知らずに。

 その部屋には明かりと呼べるものはなかった。

 完全なる暗闇。温水プールを改造した天井の高いその広い部屋をどうして見つけることができなかったのか。その謎は部屋に棲みついた異界の者達によって指先一つで施された単純なトリックに過ぎないことを、この会社の重役と一部の関係者だけが知るにとどまっていたからだ。

 そのプール自体は、どこにでもあるアスレチックジムの設備と変わりはない。ただ、そこに満たされている液体は塩素を含んだ水ではなく、異臭を放ち、魔界人の体を癒やす薬品が大量に混ざる人工細胞の培養液だった。まるで水銀のように重たく、決して凝固することのない血液のようでもある。

 もし、僅かな照明でもあれば、まるでタールの沼のように見えただろう。そしてその空間は冷気に満たされていた。あらゆる分子エネルギーが奪われているかのように。

 闇の中で彼等はそのおぞましい液体に体を浮かせていた。いま何人いるのか、その場にいる誰も気にかけなかった。数える意味などなかったからだ。彼等は仲間ではなかった。

 目的が同じであるだけに過ぎない。元々の経緯も、いまここで体を休めるという行為も。

 重たい水音が響いて、水滴が激しく垂れ落ちる音と共に足音が二度聞こえる。

 一人がプールサイドに上がったらしく、その後すぐに椅子に腰掛けた様子だ。

 人の眼では何も見えない暗闇なのだが、一つ一つの動きに重さがあり、大きく、また粗雑であるため、およその動きが感じ取れる。

 嗚呼、と低く気の抜けた男の声がする。その男に、プールの隅から話しかける者がいた。

「くつろいでいる暇があったら、早く奴を呼び戻しに行くか、始末しに行ったらどうだ?」

 人間で言えば、強い酒で喉を灼かれたような声だ。怒っている感じはなく、それでいて優しさなど微塵もない。提言しているのにどこか無責任な言い方だ。

「ならば貴公が行けばよかろう」

 話しかけられた男が返す。

「私はまだここから出られん。日増しに体が重くなっていく」

「今頃はもう、くそまじめな連中を皆殺しにして、聖道士相手に暴れているかも知れん」

 と、また別の声が言った。これも男だ。その隣で押し殺すような笑い声がする。少なくともこの部屋には四人はいるらしいことが分かる。

 椅子に座る男が答えた。

「馬鹿な奴め、たかが人間が作った薬もコントロールできずに勝手なことをしやがって。こいつは厄介なことになりそうだ。あぁ……」

 圧縮した空気が解放されるような射出音のあとに、快楽の声がこぼれる。

 針が使えない患者等によく使用される皮膚浸透式注射器の音だった。男は寝そべりながら、ネクロマンサーを体内に打ち込んだのだ。

「真下にも魔道士の気配を感じたような気がするが、どうも色が違うようだ。どこかで感じたことのある……くそっ、波動が弱すぎて思い出せん」

「そんなに弱い波動なら、たいした奴ではないだろう」

「違う。わざと気配を消している波動だ。わからないか?」

 しばしの間、沈黙が漂う。

「カイエンだ。あいつが近くにいる」

 その言葉に、暗黒に漂う空気が凍りついた。不気味に笑いを堪えていた者の声らしい。

「カイエンか……この世界に来ていることは知っていたが、気にもとめていなかった。あいつが何故、俺達を牽制するような動きをするのだ」

「あいつは聖界とコンタクトを取ったらしいぞ。相変わらず何を考えているのかわからん男だ。女の尻を追いかけることだけが趣味の奴など放っておいて問題ないと思うが、敵に回したら我々でさえ無事では済まん」

「たかが千年、亜空をうろついていただけの小僧じゃないか。何を恐れることがあろう」

「あいつは、〈番人の眼〉を盗み出すために、超時空連続体の次元境界線に棲む魔属を倒したという話だ。それも俺達のボスより格上の魔属をだ」

「馬鹿な。それはデマだろう」

「しかし〈番人の眼〉が盗まれたというのは本当だぞ。つい最近のことだ。何を探すつもりかは知らんが、大それた事をしたものだ」

 重油のごとき水中に漂う他の三人の会話を聞いていた椅子に座る男が割って入った。

「いずれにせよ、三次元1%制約を受けるのはあいつも同じだ。既に相当ダメージを蓄積しているだろう。俺達にはここのように回復の手段があるが、あいつにはない」

 椅子が軋む音がした。立ち上がったらしい。苦痛が和らいだのだろう。

「カイエンのことはともかく、奴の暴走を許した尻ぬぐいは俺達がしなければいかんな。面倒なことだが。そのあと、魔界に戻ることも視野に入れるしかなかろうよ」

「仕方のないことだ」

 と誰かが言った。

「ここにいない者達には何と言う?」

「放っておけ」

「そうだ、放っておけ」

「我々は長く滞在しすぎた。まだ来たばかりの者達に声を掛ける義理もあるまい」

「一度、魔界に戻ろう」

「それもやむを得ぬ選択か」

「そうだな、仕方ない」

「そうしよう」

「そうしよう」

 何度も繰り返す声が次第に小さくなり、遠ざかっていく。

 お互いに牽制し合い、干渉されることを忌み嫌いながらも、最終目的を同じとする者の意志はいつの間にか調和を生んでいたらしい。

 魔道士達の会議は決着がついたらしく、やがて、暗闇は静寂に包まれた。

 水音のしなくなった部屋にある扉は一度も開閉していない。しかしもはやその部屋には誰一人存在していないことを、壁一つ隔てた廊下に独り立つ初老の男は気づいていた。

 闇の部屋に背を向け、廊下の窓から下界を見下ろしながら四人の魔道士達の会話に聞き耳を立てていたのだ。山高帽子を深々と被り、灰色の髭を生やした顔は一見して気品ある紳士に見える。古めかしい紺色のスーツに灰色のロングコート。冷酷な眼は窓の外をどのような想いで見つめるのか。魔道士達の会話に何を想ったのか。

 ゼノは深く刻まれた顔の皺ひとつ動かすことなく、音も立てずに足下を杖で一回突いた。それが合図であったかのように、漆黒の次元ホールが円状に出現する。

 そのままゆっくりと穴の中に降りていった。


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