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第一章(file3)

 都会の空は灰色の建造物に遮られていた。青と白の絵の具が芸術的な混ざり具合で下界を見下ろしていたが、その全貌はいくつかの手順を踏んで、数十カロリーを消費しなければ眺める事はできなかった。

 昨夜の雨の中、再度、児童養護施設周辺の聞き込みに奔走した嶋田警部補は、本庁の資料室で仮眠を取り、目覚めると前日の捜査日報を適当に纏めて出勤前の課長の机の上に放り投げ、最近では日課となっているシャワーを浴び、ロッカーに蓄えた新品のワイシャツとスーツに着替えて外に飛びだした。ナポレオンの睡眠時間を真似た嶋田は、桜田門の眩しい朝の光に眼を細めた。

 覆面パトカーに乗り込み、具合の良くない水素エンジンに火を入れる。予算を削られた警視庁の車輌は買い換えを控えて五年も経過しており、嶋田はいっそ電気自動車の方がましだと思いながら、唯一の新品パーツである四本のタイヤを空転させた。

 深夜のネットワーク潜入捜査でわかった事は、一連の事件について五十人の捜査員が最初にメモをした情報に立ち戻るべきというマニュアルのような答えだった。

 嶋田は何も考えずに郊外に向けて車を走らせた。途中、コンビニで朝食を買い、そのまま駐車場で昨日の出来事を頭の中で整理する事にした。だがそれは資料を眺めるだけで結論の出ない会議のようだった。

 嶋田は、昨日は失敗した透視の儀式に再度挑戦しようと決めた。

 サンドイッチの残飯を助手席のダストボックスに無理矢理詰め込み、一気に飲み干したコーヒーの缶を握りしめたままトランス状態に入る。牧野係長から預かったサンプルはダッシュボードの中だった。

 都道沿いの朝のラッシュは色とりどりの騒音で賑やかだったが、嶋田が持っている二つの鼓膜は頑なに仕事を拒み、全ての空気の振動を無視した。

 このとき、肉眼で見える距離から薄笑いで嶋田を見ている者がいた。道を行く人々の目に、その人物は映っていないかのようである。カイエンが静かに佇んでいた。先を急ぐ人の波の中で、その姿はひとときの幻のように消え去った。

 嶋田はその気配に全く気づく事はなかったが、カイエンが消えると同時にこれまでにないほど素早く、且つ鮮明にある場所が瞼の裏に投影された。

 それは、廃墟と化した白い集合住宅だった。しかし嶋田は、これは違う、と直感した。

 自分の力が不安定である事は十分承知している。これまでも複数の映像が浮かぶ事は少なくなかったのだ。その場合は直感を信じる事にしていた。

 その後、コーヒーの缶を牧野係長に渡されたサンプルに握り替えて、一分間ほどの瞑想に満足した嶋田は、口元を綻ばせて再びタイヤを鳴らした。

 向かった先は、新宿。かつて別の事件で何度も捜査した事のある区域である。嶋田は遠感知能力によって、そこに半分倒壊した建物の全景と、僅か一コマの隠し絵を見ていた。

 一時間かけて目的地近くに到着し、表通りを避けて駐車した嶋田は、腕時計を見て次からは電動自転車に乗り換えようと固く心に誓った。無意識に左脇の拳銃をスーツの上から手で押さえて確認する。無線で所轄の担当に路上駐車する事を連絡すると、車を降りて小走りに念視で見た建物を目指した。

 一月前に比べて日差しは和らいできたとはいえ、都心の晩夏はまだ蒸し暑い。だがいまの嶋田は上着を着ているにも関わらず、暑さを感じてはいなかった。むしろ、背中を冷たい手で撫でられるような悪寒で全身の細胞が縮み上がるようだった。

 これまでの経験から、これはこの先に良くない事が起きるという前兆を意味していると、嶋田は覚悟した。それも最大級の危険度だ。この手の勘だけは、不思議とよく当たってしまう。因果な商売だと自分に言い聞かせた。

 フルカラーで事前に見たその景色は、あっさりと見つかった。

 灰色の街の中で、新旧の雑居ビルがストライプ模様のように立ち並ぶその終焉の地に、際だって異様な姿の建造物があった。人間の平衡感覚に不快感を与えるアンバランスさは退廃的な近代アートのようにも見える。嶋田は、まるで横長なピサの斜塔だな、と思った。

 それは四年ほど前から都心で頻発している地盤沈下が原因だった。三年前に関東地方を襲った直下型大地震が更に追い打ちをかけ、比較的新しい建造物までをも餌食にした。

 法を遵守したビルのほとんどは無傷であったが、一部の原価低減された建物は倒壊または傾斜してその使用が放棄された。特に危険な建物は都や国の援助によって順次取り壊されていったが、予算化の手続きと書類の回付に慎重さを欠かさない役所の仕事は遅々として進んではいなかった。

 その建物は、忘れ去られてからまだ間もないらしい。立ち入り禁止のテープに変色の様子はなく、都が玄関のガラス窓に張り紙した掲示は雨を逃れてまだ真新しい。

 そこはコンサート会場だった。恐らくは三千人弱を収容できるだろう。隣接する建物はなく、取り囲むように歩道が横たわっているが、野良猫一匹歩いてはいなかった。

「前にニュースでやっていたな。こんな所に建てるからだ」

 嶋田は思わず声を出したが、誰の耳にも届かなかった。数十メートル先は出勤途中の通行人で溢れていたが、朝から街外れの廃屋に用事のある者はいないらしい。

 人目を気にせず、建物の裏側に廻り込んだ。関係者用の通路はゆるやかなスロープなっており、両側を壁で囲まれて外からは見えない所まで入って行く事ができた。嶋田は、もはや歩行者達の目の届く位置にいなかった。

 亀裂だらけの壁とは明らかに違う色の、リクライニングに寝そべったようなスタッフ専用出入口を見つける。古典的な回転ノブのついた鉄製のドア。ここに来る前の念視の最後に浮かんだ一瞬は、目の前にあるのと同じ扉が開いている静止画像だった。

 ドアノブは小さく悲鳴を上げて回った。魔物の館に足を踏み入れた後に閉まる扉のごとき音を響かせて、そのドアは素直に開いた。鍵は内側から壊されていた。

 嶋田は、いつの間にか既に銃を抜いていた。ボクサーの守備のように右手でしっかりと握りしめ、ゆっくりと中にはいる。ドアが開くという事実だけで、一連の事件に繋がると確信したのだ。

 本来であればここで本庁に応援要請をかけるか、事前に報告するべきである事はわかっていた。だが、公安時代から自分の特殊能力だけを信じて独断行動をとってきた嶋田は、自分が警察という官僚組織の一員である事を半分忘れかけていた。

 単独捜査をして怒鳴られた回数など覚えてはいない。それ以上に検挙に結びつけた功績によって、嶋田の身勝手な振る舞いは暗黙の了解となっていた。

 一匹狼を気取るつもりはなかった。嶋田はただ純粋に犯罪を憎んでいた。罪のない善良な市民の生命を奪う殺人鬼を。社会を狂わせるバッド・メディシンを。

 晴天の朝の光は、それ以上先に侵入を許されていなかった。できるだけ音を立てないようにそっとドアを後ろ手に閉めると、暗闇に目を慣らすためにしばらく息をひそめた。

 いくつか点在する窓から入る弱い光によって、完全なる闇は免れている。嶋田は意を決したように軽い身のこなしで先へ進み始めた。

 すぐに足を止めた。床が傾斜していた事もあったが、人の気配を感じたからである。

 嶋田はその者を眼で捉えた。恐らくは見張り役だろう、片手にオートマティック拳銃を握りしめ、足下には濡れたコップと酒瓶、そして内服用カプセルが落ちていた。まだ若い男だ。ぐっすりと眠っている。ネクロマンサーは酒と一緒に服用するのが流行りだった。

 朝方に就寝したに違いない。嶋田は、たいした見張り役だなと呟き、死後硬直に似た土色の手から拳銃を奪う。暴発防止のため弾倉と薬室の弾丸を抜き取り、先へ進んだ。

 一階にある観音開きの扉は、どれも封鎖されていた。

 迷わずに階段を上った。透視によれば、吹き抜けになった広い会場があるはずだった。

 手摺りを掴みながらようやく二階まで上がると、全ての扉が開いていた。明かりが漏れている。慎重に近づき、回りを気にしながらアリーナを覗き込んだ。

 サバトの残痕。そこは照明が床を照らしていて、まだ朝は到来していなかった。

 眼下には十数人もの人が横たわり、ステージに寝そべっていた。

 嶋田は、宴を終えて意識を失っている中毒患者達を端から端まで舐めるように観察した。

「やはり、ここは宴会場になっていたのか」

 管理者不在の建物は夜を好むアウトロー達にとって恰好の棲家となる。警察はその取締にまで手が回らないのが実情だった。

 嶋田は、二階席の最前列から下を見ていた。背後に再び人の気配を感じた。

 素早く銃を構えながら後ろを振り向く。

「!」

 嶋田は絶句した。

 そこに立っていたのは、昨日会話を交わし、そして死んでいたはずの二人の女性だった。

 幻覚に怯えるような顔をして二人を見る。突然に、非現実感が襲いかかった。

「刑事さん、ここは危険です。早く外に出て下さい」

 美咲は強い眼差しで嶋田を見ていった。

「でも、応援は呼ばないで下さいね。もっと危険になるから」

 それに綾乃が付け加えた。昨日の屈託のない笑顔の痕跡はまるでない。

「君達、いつの間に? 後をつけてきたのか? 何のために?」

 嶋田は少々混乱して質問を連続させた。まだ銃は下ろさない。

 よく見ると、二人の保母は同じ白い服を着ていた。全く何の柄も、工夫されたデザインもなく、縫い目さえ見あたらないワンピース姿だった。布地は一目見て絹とわかる。

 二人は空間座標移動の間に、戦いの装いへと変化していたのだ。

 水素発電機や大型バッテリーを持ち込んだのだろう、広い会場に設置された照明器具の半分程度がまだその使命を遂行していた。その薄明かりに反射してか、ぼんやりと二人が光って見えた。嶋田は脳の奥底で、中世期の白い西洋陶磁器を思い浮かべた。

「驚かせてごめんなさい。でも、時間がないんです」

 美咲が表情を変ずに言った。落ち着いた中にも切迫した空気が感じ取れた。

 嶋田は次の言葉を考えていた。とりあえず銃を下ろす。目の前にいるのは確かに存在する人間だ。幻や幽霊には見えない。雰囲気がだいぶ違うが、昨日の二人に間違いなかった。

 足元を見た。影もある。二人とも、白いエナメルのパンプスを履いている。

 それならば、何故、足音がしなかったのだろう?

 ……白い服の女……?

「ここを出て行くべきなのは、君達だ。この建物は倒壊の危険性がある。それに、この下には強力な幻覚剤を乱用したチンピラ連中がいるんだ。警察の捜査の邪魔にもなる。ここには君達の立つステージはないんだ」

 嶋田は言い終わってから、自分は何を言っているんだ、と思った。それくらい二人の女性は圧倒的なオーラを放ち、気を押されるほどの存在感で満ち溢れていた。もし、銃で撃ったとしても、傷一つつける事さえできないのではないかと思った。

 嶋田は気を取り直し、十分に鼓動を抑え込んでから丁寧に言った。

「これは麻薬取締捜査だけではありません。一連の連続殺人事件の捜査でもあるんです。一般市民のあなた方を巻き込むわけにはいかないのです。ご理解下さい。ここへの不法侵入の件は問いませんから」

 嶋田はそこまで言って、まさかこの女の子達もネクロマンサーの常習者なのでは? と頭の片隅で疑いを持った。どう考えてもこの状況は尋常ではない。

 その時、嶋田は二人の表情の変化に気がついた。自分の背後を見る視線だった。

 美咲が何かを諦めたような口調で言った。

「振り向かないで。ごめんなさい、巻き込んだのは、私達の方の様です」

 嶋田は背後にとてつもない冷気とおぞましい恐怖の感触を覚えた。振り返りたくても体が思うように動かない。まるで死神に後ろから首を掴まれた気分だった。

「美咲、刑事さんをお願い」綾乃が低い声で言った。

「了解。カイエン、どこにいるの? 刑事さんを飛ばすから、保護してもらえる?」

 嶋田はカイエンと呼ばれた者が赤い髪の男だと直感した。不思議な事に、彼女達の思念が頭に浸みるように入り込んでくる。そして、あの男の声までも。

(いいや、その男はそのまま見学させるんだ。二重の防護空間にでも入れておけばいい)

 カイエンと思しき男の姿はない。声だけが脳に直接届いた。

 美咲は反論している余裕はないと判断し、素直に指示に従う事にした。

 聖道士は空間操作を得意とする。この世界とは異なる波動によって構成される別の三次元空間を切り取って嶋田の周囲に挿入させる。指令以上にこれを三度繰り返した。

 嶋田の姿はそこにあり、また当人からも見える景色に変化はない。だが、あくまで別の空間であるため一切の物理攻撃は無効となり、一つずつ挿入空間を破らない限り、護られたその者には魔力でさえも及ぶ事はない。それはゼウスがアテネに授けたという封魔の盾イージスそのものだった。そこに現れた狂える魔道士達の能力に対しては、十分な防御になるとカイエンは計算したのだ。美咲はそう意を汲んだ。

「って事は、相手はたいした敵じゃないって話ね」

 綾乃は独り言を視線の先にぶつけた。

 美咲はステージに向かって左を、綾乃は右を見た。

 鋸の歯を互いに擦り合わせ、それに不規則なガラスの割れる音を含ませたような不快な響きとともに、人の姿をした黒い影が二つ、空中に出現しつつあった。回りの空気に含まれる成分が一瞬にして凍りつき、ドライアイスが蒸発する中で二体の魔物はフロアまで下降を始めた。

「出現するまでにずいぶんと大袈裟ね、大物歌手じゃあるまいし。やっぱり、たいした事なさそうだわ」

 綾乃はそれでも真剣な表情を変えなかった。

(油断はするなよ。やつらは変化球で来るぜ。いいか、上っ面だけを見て判断するな)

 指導員の声が今度は二人だけに届いた。

 嶋田は状況を把握できないまま、そこに立ちつくすしかなかった。

 二体の魔道士は辺りを見回すと、眠り続ける人間達には全く興味を示さず、真っ直ぐに二人の聖道士を睨みつけた。

「私はブルーマンを、美咲はアイアンマンを担当ね」

「そんなかっこいいニックネーム、もったいないんじゃない?」

 言い終わらないうちに、二人は一階席のフロアまで座標移動していた。綾乃はいつも魔道士にニックネームを付ける癖があった。

 それは狂信者達の特徴をよく捉えていた。一体は全身が金属でできているようだった。

 外骨格の昆虫を想像させ、針のように細い長身の上には鉄製の能面が乗っており、古代ローマ人の衣装に似た布切れを申し訳程度に身につけていた。

 もう一体はペンキで塗ったように青い肌で、背が低く太っている。こちらはジプシーの占い師を思わせる服飾である。顔は老けた女のようにも見えた。

「うん、やっぱりやめた。ヤセタンとコロンタンに変更するわ」

 鋼鉄の魔道士を刺すように見つめながら、綾乃は自分自身の緊張感を和らげるために冗談を言った。

真顔のまま戯ける綾乃を、美咲は凄い精神力の持ち主だと尊敬した。いつだったか綾乃は名付け癖について自分を落ち着かせる為のまじないみたいなものだと謙遜していたが、美咲にはそんな余裕を持つ事さえできなかったからだ。

「*$←£∽∀……∇∮⊿Ψ♯∥∨∑……?」

 金属の魔道士が口を開いた。人外の発声方法による異なる言語で金属音を響かせた。どのような分子構成の金属なのか、水分を含んだラバーマスクのように滑らかな動きをする。

「∇∮⊿Ψ/⊆∂≡∬⊆∂≡/…….」

 青い魔道士が老婆の声で咀嚼するように言った。やはり異界言語のようで、発声方法は金属の魔道士によく似ているようだ。

 美咲は、これは一発目の牽制球だなと直感した。魔道士との対峙は観察から始まる。

 それは聖道士を相手にする魔道士達にも同じ事が言えた。

 見かけで判断はできない。能力の種類や度合いについては、例え事前情報があったとしてもあてにならない事もある。

「まだ言語を習得してないのね。この世界にはいつ来たの?」

 綾乃が平然と訊く。無論、まともな日本語による回答は期待していない。

「ⅹЮ∫*/ξΔФИ≡…….」

 その一方的な答えに、さてどうしたものか、と綾乃は半ば呆れ顔で肩の力を抜いた。

 その時だった。

 黒い塊が超音速で同時に二人の聖道士を襲った。

 瞬間移動ではなかったが、とっさに避けるには全力を要する衝撃波だった。

 二体の狂信者達は一切の前ぶれなく、奇襲とも言える攻撃に打って出たのだ。

 それは、美咲達にとって不意を突かれた戦術だった。

 二人の聖道士は修練生時代の訓練が身体の隅々まで浸透していた。酸素分子一つの差で魔道士の体当たりをかわした二人は、考えるより早く次の攻撃に備えて異空間の防護壁を強化した。それは一重だったが、嶋田に施した処置より数段階も上の機能を備えていた。

 防護空間に物理的攻撃は通用しないが、初物の魔道士の突進は歓迎したくなかった。

 青い魔道士が瞬く間に綾乃に接近した。間近で見るとまさしく魔属の支配を強く受けている魔人である事がはっきりと見て取れた。きっと藍色の血液が冷たく循環しているに違いないと、数千分の一秒の間に綾乃は思った。

 異常に薄く、青黒い唇がクリオネの口のように四方に大きく裂け、フライングディスクほどの黒い円盤が無数に連射された。それらはミニチュアの暗黒星雲のようだった。

 黒い銀河は残らず綾乃を防御する空間隔壁に特攻した。その大半は儚く消えていったが、一部は僅かながらに綾乃の防護空間を鋭利な切り口で削ったのである。

 ジムノマンシーのエネルギーを濃縮して連続で全方位に放射し、その能動的波動に魔力の無効化プログラムを組み込んでいた。それにも関わらず、表面だけとはいえ簡単にえぐられてしまったのだ。

「どこが変化球よ! まともな直球勝負じゃない!」

 綾乃は意識のない人間達に流れ弾が当たらないよう、ステージの奥まで座標移動した。

 眠れる中毒患者達には、振動や全ての電磁波をも完全に遮断する対魔力用防護隔壁を仕掛けてあったが、これでは心許ないと判断したのである。

 青い魔道士はフロアの中心に立ち、掌の上にプロペラのように回転する小さな星雲を準備しているところだった。

 綾乃は斜め上にぶら下がる電源供給のないスポットライトを、エメラルドグリーンに染まった両眼でじっと見た。

 刹那、照明のレンズから収束ビーム光の熱線が黒い銀河を持つ魔道士を直撃した。

 ジムノマンシーの光波動に歪み空間を搬送させた言わば毒矢である。不規則に連続して歪みを発生する空間が幾重にも重なり合って敵の体内に止まり、一定時間暴れまくる。例え防護壁で身を守っていても、魔道士の力が遙かに勝らない限りそれを突き抜けるのだ。

 ところが……。

「⊆∂≡!」

 貫かれたはずのブルーマンは何事もなかったかのように再び突進を開始したのである。

「うっそぉ!」

 綾乃は自分の視界にある空間を百以上に分割し、それぞれの空間密度をランダムに置き換えた。これで小さな銀河連弾の直撃は間隔を置いて防げる。思った通り、手裏剣のように飛ぶ高速回転の暗黒星雲は綾乃の数メートル手前で屈折してあらぬ方向に拡散した。

 その内一つが綾乃のいた場所に弾かれたが、綾乃は既に2階席に座標移動していた。

 硬直して滝のような汗をかいている嶋田の横に立った綾乃は、アヒル口の癖を見せた。

「刑事さん、じっとしててね。私達、いま優勢だから!」

 そう言うと、嶋田を防護する多重空間に一つだけ細工を追加し、再び跳躍した。



 この最下層三次元においてこれだけのスピードと魔力を保てる魔道士は、それだけでAランクに格付けできる。しかしカイエンはこの魔物達を弱いと評価した。それはカイエンの基準であって、自分達との比較ではない事に美咲が気づいたときには、残された技を数えるのに片手の指だけでさえも多過ぎる状況に陥っていた。

 それでも美咲は観察をやめてはいなかった。確信できる疑問点を発見したからである。

 二体の魔道士は、まだ一度も瞬間移動の類を使っていない。ここに現れるときも接近を感じ取ってから、かなりの時間をかけて登場している。

 彼等は、空間操作術が不得意なのでは?

 どれほど強くても、三次元1%制約には逆らえない。魔道士達の空間移動は膨大なエネルギーを必要とする。それを魔界から引き出し、制御し、発動するのに、この人界の物理法則はブラックホールのように重く、そして邪魔なものであるはずだ。

「∇яΩ∵…….」

 アイアンマンの目が橙色に変化した。

「もしかして、決め台詞でも言ったかしら? だとしたらまだ早いわよ」

 この時、美咲に一通のテレパシーが届いていた。カイエンの短い言葉だったが、それが美咲の作戦実行を決定づける事になった。

 美咲は少しだけ視線を横に移し、ウィンクした。

 この技は破壊力が大きい。その為、発動条件を設けていた。一度下げられた美咲の瞼が上がりきったとき、魔道士の鉄の視覚は距離感覚を失っていた。失ったというのは、正確ではない。回りの景色は間延びしていき、聖道士との距離だけが急激に狭まったのだ。

 鋼鉄の魔道士は自分が聖道士の挿入空間の中にいない事を確認した。自分のテリトリー内への異空間の侵入は全てシャットアウトできる。だが、この現象は何だ。聖道士は一歩も動いてはいない。この建物の一部を縮めたとでも言うのか?

「忠告するわ。私に攻撃しない方がいいわよ」

 美咲は挑発するように、ほんの少しだけ微笑んで見せた。魔道士の神経を逆撫でする、立派なテクニックであると教わっていた。

「……⊆∂≡/Ю∋⊥∠.」

 魔道士がまた何か言った。美咲の目には、突然に逆光になったように映った。

 金属製の人影の前に、金属の壁が作られ始めたのだ。それは凄まじい勢いで、対峙する二人の間にある空気の分子を銀色に造り替えていった。石炭袋の星雲のごとき巨大な剣山は見る間に成長し、美咲へと迫った。

「♀◇↓……☆◎⊥!」

 言い切ったように見受けられる魔道士の両眼が見開かれたのは、怒りによるものではなかった。驚愕の光景が絶対の自信を打ち砕いたのだ。

 冷たく光を反射する無数の剣が、宇宙の果てを見たかのように急停止した。

 空気から作られた銀の剣が消えるように四散する。金剛石をも粉末と化すほどの爆発がホール全体を揺らしたのである。千を超える巨大な和太鼓を一糸乱れず同時に強打したような音と震動が響き渡った。

 美咲は、魔道士との間にある空間を瞬時に圧縮し、敵の攻撃を引き金にして一気に解放したのだ。その爆発的エネルギーは砲弾となって鎧の魔物を防護空間ごと吹き飛ばした。

 反対側の壁に叩きつけられたアイアンマンは本来の感情である憤怒を復活させ、その巨体を持ち上げた。だが、矛先となる聖道士の姿が見あたらない。

 魔道士は、背中に人の手の感触を覚えた。

 美咲は壁の中から霊体のように現れ、右腕を魔道士の防護空間に差し込み、鎧の背に掌を押し当てた。 美咲の片腕は、完璧に空間を飛び越えて敵の防御をかいくぐっていた。

 その一本の腕に全身のエネルギーが集中する。美咲の肩の上には、金色に輝く美しい龍が浮遊していた。それは不死鳥のようであり、羽の生えた妖精のようでもある。

 それは美咲の影精だった。影精のエネルギーを借りてジムノマンシーを補充し、最大パワーを魔道士の体に直接流し込んだのだ。

 この世に存在し得ない波形の音響が、魔道士の裂けた口から放出された。

 苦悶の咆吼。生身の人間が聴けば、精神を崩壊しかねないだろう。

「だから、攻撃しないほうがいいって、言ったじゃない」

 美咲はありったけの光波動を送り込むと、勝利の言葉を残し、その場に崩れ落ちた。



 嶋田が渾身の力を込めて振り向いたときには、既に時が早回しで動いていた。

 目前に展開される活劇は、嶋田にとっておよそ現実とは考えられないものだった。

 最近の映画はプラスチックの眼鏡をかけなくてもかなり立体的に見る事ができる。

 最後に見た冒険映画は何だったろう? と無理に思い出そうとした。人は想像を超えた何かを見たとき、自分でも驚くほど冷静沈着に思考を巡らすものだ。

 あれは、まだ学生だった頃に見た記憶だ。日本最大のテーマパークで、似たような実演を観賞できるアトラクションがあったような覚えがある。3Dプロジェクションマッピングとも違う、大仕掛けの舞台だった。いまならもっとリアルに進化している事だろう。

 非現実と感じる“現実”の処理方法として、まるで夢を見ているようだと自分自身をごまかして決着をつけたがる種類の人間が多くいる。嶋田はそんな考え方を嫌う性格だった。

 何の為か、どのような経緯か、いかなる手法なのか。それはいまの時点ではどうでもよい事だった。ただ、自分が現在置かれている状況を、自分の力で理解したかった。

 つい先ほどまで感じていた例えようもない悪寒がリバウンド現象を起こし、しかしそれとは矛盾するように熔けるほどの暑さで息をするのにも体力が必要だった。

 汗が止まらない。このまま、全身の毛穴から水分が蒸発し、干涸らびたミイラになってしまうのではないかと思った。

 目を閉じる術を忘れさせるそのコンピュータ・グラフィックの高密度立体映像は、突然に始まったのだ。きっと、また突然に終わるに違いない。

 そう思ったとき、気がつくと隣に一人の女性が立っていた。

 二人の保母の片割れだ。

 確か名前は、松村綾乃だったか。

 小さな顔はとても凛々しく、端整だ。こちらを向いて何か言っているようだが、声が聞き取れない。

 いや、何も聞こえなくなったのだ。完全な無音。自分の心臓の音さえ聞こえてこない。

 手品師の助手によって人を隠す布が登場する様子もなく目の前で忽然と女が消えた時、やはりこれは夢だ、と嶋田は自分の信条に折り合いをつける事にした。



 再び1階のフロアに舞い降りた綾乃を待ち構えていたのは、強烈な電磁波だった。

 ブルーマンは綾乃が仕掛けたプリズムの空間に飛び込んだらしく、体を複数に分割された状態で襲ってきた。物理的には分断されていない。変調された空間の影響を受けた為、そのように見えるのだ。

 魔道士の分身術が解消され一つ重なったとき、綾乃はちょうどフロアに足を着けたところだった。それが合図となった。この上なく波長の短い放射線がビームのように集束されて綾乃を目指した。

「わぁ! ちょっと待って!」

 綾乃がその場にいたのは一秒にも満たなかった。座標移動でブルーマンの背後に回る。

 相手がこちらを見ないうちに、急いで空間防御の点検をする必要があった。空間防護壁は紫外線より波長の長い電磁波が通過するようになっている。しかしこれは身に纏う聖道士の設定によるものだ。調整が少しでも狂えば、誤ってアルファ線をも通してしまう事がある。

 綾乃は紫外線以上の電磁波を直角の減衰特性でカットした。

 その作業を終えたとき、カイエンの声が聞こえた。

(苦戦しているな。影精を使え)

 それだけで途絶えた。

 綾乃は、こんな時に精神感応を使うなんて、何を考えているのだろうと思った。

 思念波は音と同じだ。近くにいる者にも聞こえてしまう。カイエンのアドバイスはブルーマンにも聞こえただろう。日本語をまだ修得していないようだが、もし影精を使うタイミングを知られたら、効果は半減してしまうかも知れない。もはや猶予はなかった。

 美咲の様子を横目で探したが、見つからない。代わりに、鉄の塊が壁に激突する瞬間が目に映った。相棒は優勢らしい。貧乏くじを引いたかな、と思う。

 アクセルを床に押しつけるようにジムノマンシーを全開にする。レッドゾーン付近で針が揺れる状態を持続させたまま、まずは平常心をセッティングした。心身共にニュートラル状態に安定させ、意識のクラッチを踏んで音もなくギアをローに差し込む。

 次に、怒り、焦り、恐怖心、くだらない自尊心を捨てた。代替品として、希望、哀れみと慈しみの心、暖かな優しさをアドオンする。

 聖の心。それは、ジムノマンシー発動の最低条件であり、強化剤でもあった。綾乃は今それを自身全ての細胞に行き渡らせたのである。

 空間防護壁を取り払い、体内を光の波動で満たした綾乃は、ブルーマンめがけて空間座標移動を決行した。

 パステルカラーのブルーが目前に飛び込んでくる。魔道士と抱き合うほどの距離まで跳んだ綾乃は、両手を青い魔道士の丸い肩に押し当てた。

「⊆∂≡!」

「ちょっと、相撲してみない?」

 この攻撃は相手に悟られては効力を持たない。闇の波動で光を吸収されてしまえば、ダメージを与えられないばかりか聖道士自身の体力を大量に奪う事になる。

 それは車がアクセル全開で油の上を走るようなものだった。

 綾乃にブルーマンと名付けられた魔道士は、聖道士が万策尽きたと考えていた。空間防御をも解除し、魔道士に直接手を触れる捨て身の攻撃は最後の手段に違いない、と。

「⊆∞≡! $←£∀……νσ?」

 何かを言いかけて、ブルーマンは仲間の悲鳴を耳にし、余裕を持って後ろを見た。

 別の聖道士と仲間の魔道士が間もなく倒れ込んだ。相打ちになったと思い、すぐに興味を失って正面に向き直した。間近にある聖道士の顔が僅かに歪み、光波動が弱まっていく様子が伺えた。

 あらかじめ光を注入されるとわかってさえいれば、対策は簡単だった。闇は光を無限に吸収する事ができる。あとは押し返せばよい。

 魔力の反撃。波動の反転したエネルギーは、逆流した。

「うわぁっ!」

 綾乃は黒い放電に全身を包まれ、はじき飛ばされた。闇が光に勝った瞬間だった。

「ЧИ¢!」

 魔道士は後ろを向いて、このフロアに立っているのが自分だけである事を再確認する。

 重力に逆らわず弧を描いてステージに落ちた綾乃は、指一本動かなくなった。

「≪∝∩.ΘΙШ……νθ!!」

 初めは勝利の愉悦を漏らしていたが、それは一転して敗北の嘔吐に変わった。

 青い魔道士は、視界を白い光で奪われた。

 圧倒的な聖の目映い輝きが体の内側から溢れ出し、毛細血管までをも焼き焦がした。

 この世の存在ではあり得ない呪いの叫びが、再びホール全体に木霊した。

 その背後に、無表情の綾乃がいた。

 ステージに横たわるのも、綾乃。

 もう一人の綾乃は、その小さな体を少しだけ宙に浮かべ、両手をブルーマンの背後から肩に乗せている。まるで幼子が老人に戯れるように。

 双眼の光は魔道士の肌の色より緑に近く、宝石のような複雑な反射をしていた。

 両腕から注ぎ込まれる白い稲妻は紛れもなくジムノマンシーの高圧電流。

 言葉を持たない立体映像のような綾乃は、主と同じ姿の影精だった。本体の綾乃が倒れた時も、分身である影精は機能していた。出現してしまえば独立した精神体となる影精は、例え聖道士本人がその力を失ったとしても、魂が消えない限り存在を続けるという。

 ステージの綾乃が病人のように起きあがり、静かに微笑んだ。

「私達のデータを持っていなかったのが敗因ね。それでも科学者?」

 綾乃は影精の任を解くと、自分の体の中へと帰郷させた。

 一方のブルーマンは、白目をむいて、雷に打たれた大木のように倒れ込んだ。



 しばらくすると、カイエンがジンと共に姿を現した。今度は空間移動術を使い、まとわりつく洞窟の暗闇を振り解くように美咲の前に立った。

 そっと手を差し伸べ、美咲の手を掴んで立ち上がるのを助ける。

 ジンが素早く鉄の魔道士のそばに駆け寄り、存在感無く現れていた同じ黒猫の使い魔と睨み合った。主を失った使い魔は即座に不戦敗を表明した。

 綾乃は倒れている真っ青な魔道士に寄り添う蝙蝠のような使い魔を気にかけながら横を通り過ぎ、カイエンの横に立つと恨めしそうに言った。

「フェミニストなのね」

「生まれた時からね」

 カイエンは笑いもせずに返した。気のせいか、汗ばんでいるようにも見えた。確かに空調の止まっているホールの中は熱気がこもって暑い。

「あっ、忘れてた。ねぇカイエン、刑事さんはどうするのよ?」

 2階席で銅像のように立ち竦んだままの嶋田を見ながら綾乃が訊いた。

 美咲は疲れ切った顔をしている。嶋田の方を見てそれでもしっかりとした声で言った。

「何故、彼にわざと見せたの?」

「協力者が必要だからだ。難しい説明はできるだけ省略したいだろう? 綾乃、まだ君は力が残っているはずだ。あの男をここへ呼んでくれ」

 綾乃自身にはほとんど力は残っていなかった。ダウンしたと思わせて影精に不意打ちの攻撃をさせるのが目的だったのだ。綾乃は再び自分の分身を出現させ、嶋田のいるところまで速やかに飛ばした。

 影精は聖道士の分身である。使い切れない潜在エネルギーを分離させてそのコントロールを完全に影精自身に任せてしまうため、聖道士本人の体力消耗に関係なくその能力を発揮する事が可能となる。綾乃の影精は本体コピー型だった。影精は基本的に聖道士自身の能力をそのまま継承し、学習していく。本体と比較してパワー自体は少し劣るが、人間ひとりを空間座標移動させるくらいは造作もなかった。

 嶋田は綾乃の影精に軽く触れられると、カイエンと美咲を挟んで綾乃の反対側の位置に座標移動した。同時に防護空間は解除され、嶋田の聴覚は久々に空気の振動を味わった。

「警部補さんよ、色々と我々に質問したいだろうが、ちょっとだけ待っててくれないか?」

 カイエンはこれで精一杯といったような微笑みで嶋田を軽く威圧した。

「あんたの疑問は全て解消させてやるよ。だがその前に、この娘達に説教する仕事が残っているんだ。悪い子達はその場で叱らないと意味がないんでね」

 綾乃は驚いた顔で自分に人さし指を向け、無言で「え? 私? 何で?」と狼狽えた。

 嶋田は何かを言いたかったが、うまく言葉が出てこなかった。

 状況をよく把握するためにも、ここは黙っている方が賢明かも知れないと判断したのだ。東京の真ん中で捜査官という仕事を十年もやっていると、大抵の事には順応できる体質になる。ここは肝を据えるしかない。嶋田はまた、自分の直感を信じた。

「ああ、わかった。待つよ。交換条件だ。君等には山ほど訊きたい事がある」

 そう言って、会場に残っていた可動シートに腰掛けて足を組んだ。嶋田はたばこに火をつけたい気分だったが、しばらく前から禁煙していた事を思い出した。

「いい度胸だ。将来有望だな。たばこは魔除けになるが、吸わない方がいいぜ」

 嶋田は驚いて立ち上がりそうになった。この赤毛の男、心が読めるのか?

 カイエンは嶋田から目を離し、美咲と綾乃を交互に見た。

「さて、君達を怒鳴るのは心が痛むが、これも教育係の役目だ。鬼になる事にしよう」

 魔道士が言うと悪い冗談にしか聞こえない、と綾乃は思った。

「まずは、奴らが空間移動を得意としない事に気がついたところまでは、良しとする。しかし、敵の力を表面だけで捉えてしまったのは大きなマイナス点だ。言っただろう、変化球で来ると」

「まともに直球だったわよ」綾乃が反論した。

「話は最後まで聞け。奴らの本当の魔力の程度をどうして見極められなかったんだ? 君達は何故、苦戦を強いられた? それは得意の空間攻撃が通用しなかったからだ」

 振り向いたカイエンは、かつて鎧の騎士に飼われていた使い魔に歩み寄った。

 ジンよりも一回り小さなその黒猫は全身総毛立ち、水溜まりで溺れるように消えて見えなくなった。

 そしてカイエンは美咲と綾乃が予想し得ない行動をとった。

 うつぶせに横たわる巨体の背中に、渾身の力を込めて拳を振り下ろしたのだ。

 銀色の巨人の胴体は大破し、何本もの鉄骨が折れるような轟音が響いた。

「何をするの!? なにも殺さなくても!」

 綾乃は両手で自分の口を塞ぎながら猛抗議した。

「こいつはどうせ死んだも同然だ。ジムノマンシーで清浄された魔道士は元の姿、つまり魔道士になる前の人に戻る。その際、人であった場合の寿命を越えていれば、やがて灰となって消える。もし君達のコントロールが完璧で、自我を保たせる事に成功して魔界に帰す事ができたとしても、ボスである魔属に罰として魂ごと喰われるのがオチだ」

 綾乃は恐る恐る破壊された鉄の体を見た。そこには、金属製の破片やケーブルのような太い線の束など、何かのシステムの一部を思わせるメカニズムが覗いていた。

「機械?!」

「これが空間攻撃を妨げた敵の正体だ。こいつらは自分の魔力を拡張するため、自らを改造して機能を追加し、体力を増強したのさ。そうでなければ、ひよっこ同然の君達にさえ、こいつらは手も足も出なかったろうよ。使い魔は役立たずで、見せるのも恥ずかしかったはずだ。こいつらのレベル評価は理解していたと思ったが、な」

「じゃあ、その、金属の皮膚は……?」

 美咲は言葉を詰まらせた。

「まさか本気で生来の特異体質だと思っていたんじゃないだろうな? どこの世界に金属の皮膚を持って生まれてくる自然生命体がいるんだ?」

「と、いう事は、コロンタン、も?」

 綾乃は、ばつの悪そうな表情になった。

「あっちの魔道士か? 多分、コバルト系の金属をベースにした人工皮膚だろう。こちらはアルミ系か、クローム系だろうな。いずれにしろこの世界の物理法則で理解されはしないが、どちらも全世界共通である聖道士の戦い方をよく研究していたんだ。だからあらゆる空間攻撃から身を守る為、近くで異空間を感知すると自動的に強力且つ特殊な重力場を発生させる装置を自分に組み込んだのさ。空間攻撃とはすなわち、空間波の変調だ。知っての通り強い重力場は空間を歪ませる。変調された空間は逆位相の同じ歪空間を重ねる事で相殺できる。これが、無効化の原理だ。その際に発生する重力波や拡散空間波から体内のマシンを保護する必要があったんだろうよ。君達はこの手の防御に対して、重力場の操作や空間変調の暗号化など、いくつかの対処法を知っていると聞いている。そうだな?」

 カイエンは一気にしゃべると、一息ついて綾乃を見た。

「ジムノマンシーを直接流し込むという戦法は間違いじゃない。だが、この事に気づけばもっと効率よく奴らを無傷で折伏できたはずだな。例えこいつらに涙を流させる事ができなくても、もっとスマートな方法を選べただろう。力任せの君達の戦法こそ、まさに戦略に欠けた直球勝負、拙攻以外の何ものでもない。違うか?」

 綾乃は黙って俯いてしまっていた。魔道士の折伏なんて簡単ではないのに、と言い返したかったが、それも悔しいと思った。それに魔道士に涙を流させる事に成功したとしても、灰になる事を止める方法は知らない。確かにカイエンの指摘には一理ある。

「自己嫌悪になるのはまだ早い。落ち込んでも何も得られないぞ。だから訓練するんだ。いったい誰が教えてると思っているんだ? 三週間後には、立派にグループリーダーとして部下を持てるまでに仕上げてやるよ……ん、美咲、聞いているか?」

 美咲はやや呆然としてカイエンをひたすら見つめていた。思考だけが別の場所に飛んでいるかのようだった。

「あ、ええ、聞いているわ。ありがとう、カイエン。アドバイスしてくれて」

「そうだ! ありがたいけど、なんで空間波通信を使わなかったの? 運良く魔道士達には聞こえなかったみたいだけど」

「空間波通信なんてまどろっこしいやり方は忘れたよ。それと、奴らには聞こえなかったんじゃない。聞かせなかったんだ」

「どうやったのよ。コンサート会場全体に響いたわよ」

「君達は頭が固いな。一度、脳みそをマッサージ器にかけた方がいい。単純な話だ。思念波をFM電波に変えて、君達の防護空間内でまた思念波に変換し直しただけの話だ」

 美咲と綾乃は言葉を失った。そんな芸当など思いもつかなかったのである。

 二人の聖道士は、自分達の経験値の乏しさと、思慮の貧しさを実感した。

「さて、君達の質問を受け付けようか。おっと、警部補さんはまだだぜ。だが、よく聞いておくといい」

 それまで口を尖らせて沈んでいた綾乃が頭を持ち上げて元気を取り戻した。

「早速あるわよ。この狂信者達は、いったい何をキャッチしてここに現れたの?」

 美咲が綾乃を見た。言われて初めて気がついたようだった。

 即答しようとしないカイエンに綾乃が詰め寄る。

「ここにいる人間達は、確かに例の幻覚剤で昨夜はお祭りだったでしょうね。でも、それなら夜の内に魔道士が現れていたはずよ。つまり、誰も発現しなかったって事でしょ?」

 カイエンは涼しげな口元を崩さなかった。綾乃はささやかな反撃を続けた。

「二人の狂信者達は、突発性異能者の精神感応を捉えて来たわけじゃないという事よね。それと、刑事さんの……」

 ここで綾乃は嶋田を見て、言葉を続けていいかどうか迷った。

「いいから言え」

 閉じていたカイエンが鋭く言った。腕を組んで綾乃を見据える。

「……刑事さんの異能力はまだ未成熟で、レーダーに反応するほど強くはないし、ここには、その、残留思念もいないわ」

「そんな事を考えながらジムノマンシーを無駄に消費していたのか。だから観察力が鈍るんだ。いいか、俺でさえ他に宴会場を探せなかったんだ。奴らだって呑気に釣りを楽しんでるわけじゃない。獲物がかからなければ、自ら銛を持って潜るくらいの事はするだろうさ。学習能力だって君達よりはあるだろう。それらしき場所を狙い定めれば、微弱な臭いでも嗅ぎつけられる。それに、銃を片手に戦闘モードに突入した彼の精神波動は、腹の減ったこいつらにはご馳走の香りがしただろうよ」

「嘘よ」

 美咲が割って入った。先ほどまでの心ここにあらずの様子から一変して、聖道士の顔に戻っている。

「あなたは、嘘をついているわ」

 美咲の真っ白なシルクワンピースが風もなく揺れ、どこかへ飛んで流されていくようにその色を薄めていった。半透明になった天女の羽衣が完全に消えると、本来ならばこの場に似つかわしいはずのカジュアル・ファッションを色鮮やかに浮きあがらせた。児童養護施設の玄関でカイエンを喜ばせた夏の服装に戻っている。

「それならばどうして狂信者達は刑事さんや人間達に目もくれず、真っ先に私達の相手をしたの? 聖道士対策が万全だと自信があったのなら、迷わず刑事さんを標的にしたはずでしょう? その答えは簡単だわ。最初から私達、“転成者”が狙いだったからよ」

 カイエンは目を細めて美咲を見ていた。

「嘘をつくとき、一呼吸の間、沈黙するのがあなたの癖よ、カイエン。あの魔道士達は、まだ日本語を修得していなかった。魔力を持ってしても異世界言語の修得には数日を要するわ。つまり、この世界に来たばかりの彼らはこの世界での事情をよく把握してはいなかったと考えるのが筋よね。それに、多くの魔道士は自分達が属する世界の衣服を捨てて、現れ出る世界の一般的な姿に合わせようとするわ。聖界から身を潜めるために。でも彼等はそのままの姿で現れた。私達から身を隠すつもりがなかったからよ。違うかしら?」

 それを聞いたカイエンは、観念したかのように顔の筋肉を緩めて言った。

「まだ卵の殻を頭に乗せた士官候補生に、こうも簡単に見破られるとはな。だが、覚えておけ。魔道士が聖道士を敵とするのはどんな世界でも当然の事だ。狂信者達が異能者に目をつけたのも事実だ。君達は、ここで熟睡している人間達と、後輩になるだろう一人の勇敢な男を護る義務があったんだ。それは、いまだけじゃない、これからもずっとだ」

 嶋田は自分の事を言われているとは気づいたものの、その意味までは理解できなかった。三人の会話に何か駆け引きのような雰囲気を感じていた。もしも、これがステージの上の前衛的な芝居であったなら、チケット代を払う事にきっと躊躇いはなかっただろう。

「提案がある。真理の追究に関しては、優秀な警察官に捜査を依頼してみたらどうだ?」

 いつもの調子に戻ったカイエンは、白い歯を見せながら嶋田を振り返った。

「その前に、職務質問に答えないといけないわ」

 嶋田は自分を見る美咲という女の、髪をかき上げる仕草とやや鼻にかかった艶やかな声に小さく身震いした。

 自分にとって彼女は女神なのか、それとも死神なのか。いずれにしろ、ようやく自分にステージへと身を躍らせる出番が回ってきたらしい事だけは分かった。

「まだ僕には台本が渡されていないんだが、台詞を言ってもいいかな?」

「人生はアドリブだって、子供の頃に教わりませんでしたか?」

 美咲は嶋田に優しく微笑みかけて言った。

「捜査官の仕事にシナリオは無いって、警察大学校で教わったのは覚えているよ」

 嶋田は濃縮ウランのように重たい腰を気力で持ち上げ、スーツの襟を正した。

「気にする事はないわ。この人にも、後でたっぷりと台本にない台詞を言ってもらうんですから。ね、カイエン?」

 美咲は笑みを向ける対象を、眉を上下運動させる小麦色の魔道士に変更した。

 カイエンは口のファスナーを閉めるまねをし、無言で両手を大袈裟に広げてみせた。

「僕にも警察官としての職務が残っている。できればゆっくりと別の時間に喉の渇かない所で話そうか。どうやら君等に訊きたい事をリストアップするだけで季節が変わってしまいそうだからね」

 嶋田はネクタイを緩め、努めて明るく言った。それが精いっぱいだった。

「俺が全部、簡潔明瞭に説明するぜ?」

「カイエンは嘘つきだから、ダメ」綾乃が舌を出す。

「ちょっと待ってくれ。君達にはいつもの事かも知れないが、僕はいまここで、映画みたいなイリュージョンや、服が消えてなくなるマジックショーを立て続けに見せられて、気がおかしくなりそうなんだ。少し頭を冷やすための時間が欲しいんだよ」

「確かにそうね。それに魔道士達や人間達を、ここのままにしておけないわね」

 綾乃が白い防護服を空間のせせらぎに溶かしながら言った。嶋田から見た三人の重要参考人達は、都心を群雄割拠するごく普通の若者の姿に変貌を遂げていた。

「魔道士達は心配ない。都合のいい事に、ジンが絶好の隠し場所を知っている」

 他の三名が注目する中、カイエンは自分の使い魔をちらりと見て、主人公気取りで台詞を言った。

「こいつに朝飯を食わせないとね」



 嶋田が携帯警察無線で本庁に連絡を取った時には、倒された二体の魔道士は使い魔ごと跡形もなく消滅していた。

 美咲と綾乃が制止するより早く、カイエンの指示のもとジンによって食べ尽くされてしまったのだ。それは食べると言うより、呑み込んだように嶋田には見えた。

 子猫程度の体が見るうちに飼い主の身長を三度重ねたほどに巨大化したかと思うと、僅か数秒足らずでその牙の奥に吸い込んでいったのを目の当たりにし、嶋田はこの三人に関わってしまった事を少なからず後悔した。

 使い魔もろともに処理してしまえば、魔属にはばれない……といった会話を聞いて、嶋田は非常に気に掛かったが、質問したい事はもちろんそれだけではなく、後から限りなく沸き上がってきそうな勢いだった。嶋田は決断した。

「すぐに所轄から応援が駆けつける。君等がまともに事情聴取を受けたらややこしい事になるだろう。君等は、その……ぱっと消えたり、現れたりできるんだろう? こちらからまた連絡するから、今日のところは引き上げてくれないか」

 嶋田は、ここに眠っている中毒患者達のおかげで今日は忙しくなるから職務に戻る、と言って、三人への連絡方法を尋ねた。するとカイエンが元のサイズまで小さくなった黒いエジプト猫を指で呼んだ。

「こいつをつけてやる。名はジンという。俺たちに会いたくてたまらなくなったら、ジンにそう伝えればいい」

「それは困る。仕事場で猫をうろつかせるわけにはいかない」

 嶋田は両手を振って断った。拒否したい理由はもちろん、それだけではない。

「問題ない。こいつは魔界のケルベロスの子だ。実は俺より魔力は上だったりするのさ。姿を消すのも、ポケットに隠れるのも、君の体内に潜るのも、何でもござれだ。しかも、どんなに剛強な魔道士が現れても、飼い主の許諾なしに奪われる事はない」

「……悪いが、他に方法はないのか?」

「俺たちの会話を聞いていただろう? あんたは魔界の連中に狙われやすい体質なんだ。

ボディガードがいた方がいいと思うぜ」

 できれば遠慮したかったが、嶋田はカイエンの提案を了承するしかなかった。象ほどにも変身する豹に食われるのはできる事なら避けたい。しかしこの世の者ではない魔道士とやらに襟首を掴まれるのは、もっと御免蒙りたかったのだ。

 ジンという名の黒猫は嶋田の足下に忍び寄ると肩まで軽々と跳躍し、同時に掌に乗るほどの大きさまで縮小した。

 嶋田は、生まれて初めて注射をされる少年のようになり、頼むから消えてくれと心の中で願うと、それは直ちに実現した。

 カイエンという男曰く、無色透明化されているだけなので呼べば応えるとの事だった。ところが重さも感じない上に、得意の第六感を使っても気配すらしなかったので、逆に不安にかられて仕方がなかった。嶋田はたった数分後の自分を想像して気を揉んだ。

 三人はまるで映画のフィルムが途中で切れるように姿を消し、生ける屍達を除いて自分一人だけになると、嶋田は益々、虚無感と脱力感の津波で膝を震わせた。

 応援の警察官や救命士達が今世紀最大の事件と錯覚するほど集まり始め、傾いたコンサート会場を更に傾けるのではないかと思った嶋田は、外に出ていつもと変わらない街の景色を眺めて、幻の三人との会話を思い出していた。

 自分の不思議な力に目覚めたのは警察官になる前だった。だいぶ長いつきあいになる。この世には科学で説明のつかない事があるのだと認識はしていた。

 だから嶋田は、デジタル編集された特撮の仕上がりを現実として見せられても、これでようやく他人にはない自分の能力が実証されたと思う事ができたのだ。

 それが閉鎖された異空間から一歩、太陽の下に出てみると、夢から覚めたように平凡が自分を取り囲んでいる。バーチャルリアリティの映画を観た後のようだ、と思う。

 現場に到着した自分と同じ階級の所轄責任者に一通り報告だけすると、嶋田は無線を借りたいと言って誰も乗っていないパトカーに乗り込み、ドアを閉めた。

 自分の両肩を交互に見て、ため息をつく。さっきまでの出来事は、本当に起こった事なのだろうかと思い始めていた。それは一言を口にするだけで答えの出る疑問だった。

「えーと、ジン、いるなら、姿を見せてくれないか?」

 言った瞬間は、自分は気が狂ったのかも知れないと考え、実に馬鹿馬鹿しいと笑いそうになったが、顔面の筋肉は自嘲とは全く異なる動きをせざるを得なかった。

 黒いエジプト猫が助手席で嶋田をじっと見て座っていたのだ。

 その位置からして外からは死角になっているのに、嶋田は慌てて周囲を見渡した。

 仮にここで誰かが覗き込んだとしても、野良猫が紛れ込んだとしか思われないだろう。

 だがその猫は、何処にでもいて残飯を漁る生き物などではなく、例え月の裏側にいても気配を感じるのではないかと思えるほど、強烈な存在感をもってそこにいたのだ。

「やっぱり、幻じゃなかったのか。ああ、ジン……? まだ君の主を呼ばなくてもいい。

ただ、その、君の姿が見えなかったので、いるのかを確認したかっただけなんだ」

 すると、ジンは何処にでもいる猫と区別のつかない鳴き声を発した。

「意外と、かわいい声なんだな。アイドル歌手になれるよ」

 嶋田は無理矢理に自分を笑わせようとしたが、乾いた笑いにしかならなかった。

 その時、突然にジンが獅子の咆吼を大音響で轟かせたのである。

 姿勢も表情も変えずに百獣の王だけが持つ美声を披露したジンは、気のせいか自慢げな様子で嗤っているように見えた。いかがですか、仮のご主人様? と言わんばかりに。

 嶋田は運転席の窓ガラスを突き破って車外に放り出される錯覚を感じ、驚きを通り越して失神の一歩手前の線を越しそうになり、危うく踏みとどまった。窓の外の人だかりに変化が起きていた。大地震でも発生したみたいに動揺し、ざわめいている。

 ジンの迫力に満ちた獅子の雄叫びが、携帯バズーカをも跳ね返す防弾ガラスから漏れてしまっていたのだ。地鳴りのように響いたその雄叫びの音源は、外の者達には特定できないようだったが、嶋田はすぐさま頭を低く下げて身を隠すようにした。

「ジ、ジン、わかった。ごめんよ、頼むから、おとなしくして、姿を消してくれ!」

 命令はすぐさま実行に移された。黒猫は忽然と消えている。

 今度は左肩に小鳥の重みを感じた。しかし姿は見えない。

 嶋田は、これまで靄のかかっていた脳の隅すら隅まで、晴れた日の水平線のように視界が開けていく自分を感じた。全身の神経が全ては現実だったと教えてくれている。

 もしこれが非現実ならば、自分のこれまでの人生の大半が夢であり、虚構であるに違いないと、嶋田は考え始めていた。



 遅れて来た所轄の管理官がその場の指揮を執り始めると、嶋田は路地裏に停めていた愛用の車に戻り、来たときの半分の時間で霞ヶ関に帰還した。

 直属の上司である五番目の課長に言葉を選んで報告すると、何も聞かなかったという様子の課長は本部長の部屋に行けとだけ嶋田に指示した。叱責を受けるなら普通は課長も同席だろうにと独り文句を言い、自動販売機に寄り道をして、流した汗の分だけコーラを飲んでから、おもむろに足を運んだ。

 牧野係長は不在だった。ここに来るまで、携帯端末でも報告することはできたが、嶋田はそうしなかった。報告をすることによって、もう自分は彼女達に関わることができなくなるような気がしたからだ。それに、あれだけのことがあって、どう報告すればよいのか、わからなかったこともある。嶋田はひとまず目の前の仕事を片付けてからにしようと思い、重たい足を本部長室に向けて動かした。

 普段は在席率が極めて低い、組織犯罪対策本部の総元締が座るガラス張りの部屋に入ると、見事なアイロンがけのスーツに身を固めた面識のない別の男が一人、嶋田を待っていた。

 本部長は言葉少なに、国家安全保障局の主事官を名乗るその男に従うようにとだけ言うと、すぐさま空調の効き過ぎる隔離された部屋から嶋田達を追い出した。

 無口なその男に警視庁のすぐ裏手にそびえ立つ新築の建造物まで案内された嶋田は、“長官室”と小さな看板を掲げる扉の前に通され、緩んだネクタイを強めに結んだ。

 嶋田は今朝の希有な体験よりも更に乏しい現実感を覚えていた。

 そして同時に、牧野係長の言葉を思い出していた。池袋連続通り魔事件の後始末に国安局が関わっていたこと。白い服の女や得体のしれない者達と国安局との噂話。

 そしていま、自分はその国安局の長官に呼び出されているという現実。

 国家安全保障局は、いまでこそ内閣直下でありながら独立性の高い組織だが、当初は国家安全保会議の事務局に過ぎず、国安局長官といえば元は内閣官房参与や官房長官と兼務であった。現在では実質的に内閣総理大臣直接の管掌となり、組織上は局の扱いだが、その実は省よりも格上の超法規集団と呼ばれ、政府をも動かす力を持っていると巷で囁かれて久しい。その長官には、外務省や国防省出身の高官らが交互に就任する傾向が続いている。そんな人物が、一介の警察官に過ぎない自分に何の用事なのか?

 嶋田が不安げに振り向くと、ホテルのボーイから瞬時にして執事に転職した案内人は、嶋田に自分でノックするよう言い残して足早に退場していった。どうやら彼の本日の仕事はこれにて終了らしい。

 嶋田は躊躇わずに檜のドアをノックし、勢いよく部屋の中に入ってドアを閉め、顔を上げてわざとらしく敬礼すると、大至急、視覚の神経細胞にエラーチェックを求めた。

 そこには予想していたような、座れば沈んだまま溺れそうなソファも、新品の百科事典が並んだ書棚もなければ、人語を解するロボット秘書もいなかったのだ。

 それだけではない。窓も、コルク張りの床も、絵画を飾った壁さえも存在しなかった。

 見渡す限りの地平線。視界の下半分はそよ風にゆれる緑の草原、上半分は眼が痛いほどの鮮やかな水色の空。人工的に冷やされた空気ではなく、不要な水分を除去された心地よい清浄大気の感触。草や土の懐かしい臭い。遠くに点在する美しい花園と樹木。

 後ろを振り向くと、正面の映像が複写されてそこにある。たったいま、くぐって入ったばかりの格式高い扉はそこにはなく、全ての景色は、右も、左も、瓜二つだった。

 ふと、もう一つの不可思議を発見した。仰ぎ見る空はデジタル映像に似た乱れのない青一色だというのに、陽の光が見あたらないのだ。太陽らしき天体、もしくはそれに相当する光源はどこにもない。全てがバックライトになっているかのように。

「ジン、出てきてくれ」

 嶋田は素早く自分を取り戻していた。もはや何が起こってもパニックにはならない自信が芽生えていた。ジンを預けてくれた事をカイエンに感謝しよう。

 超感覚を最大枠まで引き延ばして構える。

 姿を見せた黒猫は、一時的な飼い主の肩から緑の海にダイブし、音もなく着地した。

「こんな体験ができるなんて、今日は生涯の記念日だな。しかも無料ときている」

 嶋田は自分をここに立たせた誰かに向かって独り言を唱えた。

 すると、反応はすぐにあった。

「嶋田警部補、今朝は大変でしたね」

 正面から声がした。

「……長官!」

 ほんのすこし目線を別の方向に向けただけなのに、全く気配がなく、彼がそこに現れているのが見えた。突然に出現したのではない。最初からそこにいたのだ。何故いままで見えていなかったのだろうと思ったが、考えても無駄だと意識を切り替えてみる。

 その男は国家安全保障局の長官だった。国際的には、裏外交や国家の安全保障に関する政策、ひいては国家戦略の司令塔としての役割を担い、国内においては度重なるテロや反政府団体による破壊活動に対抗するために組織された、内閣府直属機関の頂点に君臨する特別官僚である。

 眼は鋭く切れ長、典型的な一世紀前の日本人らしい風貌に、どこか人間離れした輪郭を含む知的で大きな顔。確か五十歳半ば前後のはずだが、黒々とした髪とその高めな声質も相まってだいぶ若く見える。日本と米国の最高学府を渡り歩き、法学の博士号を始め他にも二つから三つもの学位を持つと噂されている。南欧製のスーツだろうか。誰に見立てて貰っているのか知らないが、嶋田が耳にした話では独身のはずだ。

「私の顔を知っていてくれてありがとう。さて、ここからは長官でも警部補でもなく、お互いの魂同士での会話をしたいと思うのです。どうぞ、ここにおかけください」

 やはり気づかないうちに、丸い足長のテーブルと二つの高価そうな椅子が向かい合ってそこにあった。

「どうかしましたか? 堅苦しい役人の部屋よりも心穏やかになれるだろうと思ってこの空間を用意しましたが、気に入りませんでしたか? それとも、その守護神の分の椅子も必要でしょうか?」

 冗談を言っている様子ではない。長官の権威を靴箱に仕舞い込んだその男はテーブルの横に向けて軽く手をかざした。すると小さな竜巻が発生し、全方位から光が集まり始めた。

 嶋田が呼吸を一回半する間に、テーブルと同じ高さの椅子が作られていたのだ。

「さあ、どうぞ」

 ジンが先に動いて、まだ湯気が立ち昇っていそうな椅子に跳び乗る。続くように嶋田も椅子に腰掛けた。その間、長官から目を離さないようにしていた。

「この空間は、扉の外とは時間流の速度が違います。およそ一兆倍の差がありますから、止まっているようなものです。ゆっくりして構いませんよ」

 そう言いながら、長官は三つ目の椅子に座った。嶋田は、扉なんてどこにもないのに、と思いながらも、今日はなんて日だ、と疲労感で両肩が沈んだ。

「とは言え、あまりあなたを苛立たせるのも失礼かと思います。できるだけ手短にお話しましょう。まず、私は聖道士に見えますか? それとも魔道士に見えますか?」

「長官があいつらと関わり合いがあるなんて、思いもしませんでしたよ」

 嶋田は精一杯この状況に溶け込んで冷静を装うつもりだったが、つい本音を言っていた。

「魔道士とやらには、見えませんね」

「そうですか。それは何故?」

「長官からは、その、なんて言うか、嫌な感じが、しませんから」

 ジンが唸り声をあげないからだ、という理由は言わなかった。

「嬉しい感想をありがとう。その判断基準は正しいと思いますよ。しかし、その長官と呼ぶのは、ここではやめましょう。佐多と呼んでください」

 そうだ、確か佐多竜児という名前だったか、と嶋田は思い出した。佐多はちらりと何もないテーブルの上を見た。ずっと佐多の眼を見ていた嶋田は、またもや物体出現の様子を見損ねた。そこにはグラスがあり、中で炭酸水が激しく鬩ぎ合っている。

「どうぞお飲み下さい。私を信用して頂けるならば。もっとも、クローズアップマジックだと思えば、どうという事はないでしょう」

「ええ、今朝の出来事に比べれば」

「カイエンという魔道士が全て説明すると言っていたと思いますが、あなたを危険にさらしたのは私達の責任ですので、聖界を代表して私が全てをお伝えします。あなたは自分の特異能力に目覚めてから、この世ならざる不可思議な現象についてある程度信じるようになった。しかし、それが本当に何であるのかは分からなかったし、誰にもその事は言わずに過ごしてきた。私達は、あなたの勤務先のおかげでかなり以前から気づいていたのです。いま、あなたは私達の保護下にあります」

「僕はあなた方に保護される覚えはありませんよ。ただ、職務で事件を追っていただけなんです。捜査官という職業柄、分からない事は知りたいと思いますよ。事件と関係があるならばですけどね」

 あなた方、と言ったものの、それが国家安全保障局の事を指して言ったのか、異なる世界を総じて言ったのか、嶋田は自分でも分からなくなっていた。

「関係はあります。あなたのほか、薬で覚醒した異能者達に魔道士が接触するのを完全に防げなかったのは、私達、聖道士の責任なのですから。まずは、基本的な事からご説明しましょう。そのためにあなたに来て戴いたのです」

 それから佐多は延々と嶋田に話し始めた。聖界と魔界の事、聖道士と魔道士の事、三次元と四次元の事、三次元1%制約の事、そして、狂信者達の目的の事。それらは確かに、カイエンがやがて嶋田に説明すべきだったろうことであった。

 その間、嶋田は一言も聞き逃さないように意識を集中して聞き入っていたが、ひとつだけ、どうしても途中で質問したくなって口を開いてしまった。

 それは佐多が何気なく説明に使った【天使】という言葉であった。聖界や魔界、聖道士や魔道士という単語も、十分に幻想的で奇想天外であったが、天使となればもはや宗教用語の域を出ない気がしたからである。佐多は淡々と説明を付け加えた。

「お話しする順番を誤っていたようですね。どうも私は話が下手で、申し訳ありません。我々が言うところの【天使】とは、あなたの想像するイメージとは全く異なります。では、宇宙の自我について、少しお話しましょう」

「宇宙の自我……ですか」

「人類の脳は、およそ百四十億個の神経細胞を持っており、シナプスを化学的伝達物質や微弱な電気信号が伝わることで機能しています。宇宙は、まさにこれに似ているのです。いえ、脳が宇宙に似ていると言った方が正解でしょう。我々が存在するこの銀河系だけでも、恒星は三千億個以上あり、これらを取り巻く惑星や中性子星などに至っては、まさに天文学的な数量になります。そしてこの大宇宙には、小さなものも含めると、七兆を超える銀河が存在しているのです。これらの星々が、言わば神経細胞であると考えてください。伝達物質や電気信号の代わりに、重力波や空間波、つまり、空間の振動がその役割を果たします。宇宙が誕生して、数十億年のうちに、これら星々がお互いに目に見えない情報交換を繰り返し、それが意味のないものから、やがて意味のあるものへと進化したのです。銀河自体がシナプスとなり、近距離では重力波が、長距離では空間波が銀河間の信号伝達を担い、いつしか宇宙空間そのものに、人間の脳のような構造が作られていったのです。そしてこれらは、この宇宙の外でも、同様のことが起こっていました。あなたは、マルチバース理論をご存知ですか?」

 唐突に質問を返されて、嶋田は豆鉄砲を食らったように言葉に詰まった。銀河系と脳の関係の説明には何とかついていけたが、専門用語が出てきてはお手上げだった。

「いえ、すみませんが……」

「宇宙はひとつではないということです。同じ物理法則の宇宙をユニバースといい、このユニバースの外に、無数の宇宙空間が泡のように積み重なっており、その纏まりが、マルチバースです。そのマルチバースの無限の集合体はオムニバースと呼ばれます。もっとも、この時代の自然科学では、まだ諸説分かれますがね。ユニバースは別のユニバースとも常にコミュニケーションをとり、宇宙という意識体として繋がっていますが、別のユニバースには異なる物理法則の支配があります。これが異世界と呼ばれている所以です。一つの宇宙だけでも、確固たる宇宙の自我が超銀河団単位で存在しており、それが別の宇宙とも連結しています。壮大な意識のネットワークが、この宇宙の正体なのですよ」

 嶋田はできる限り絵画的にイメージしようとして、完全に理解できないまま、思った言葉を素直に発した。

「それはつまり、宇宙には心がある、ということですか? そして宇宙の外にもまた別の宇宙があり、そこにもまた別の人格のようなものがあると。それらの意思の集合体こそが、全宇宙だということですか?」

 佐多は少し驚いたような表情を見せ、朗らかに微笑んで見せた。

「あなたは説明がお上手ですね。その通りだと思って戴いて間違いはありません。しかし、それだけではありません。この宇宙は心だけが存在する単なる空間などではなく、眼もあれば口もあり、手も足もあるのですよ。もちろん、これは比喩表現ですが。例えばさきほど私が見せた力や、あなたが今朝目撃した摩訶不思議な事象は、宇宙が持つほんの一部のエネルギーの具現化に過ぎません。そのエネルギーが独立した制御権を得て、意思が個性を持つに至った存在、それを我々は【天使】と呼んでいます」

 佐多は息を切らすことなく滑らかに続けた。

「空間はエネルギーの振動により構築されます。この空間振動を波動と呼びます。電磁波はこのユニバースでは直進性を持ちますが、本来は発生源として【点】の性質をも持っています。この【点】もまた、波の性質を持ち、波長や振幅、波形の違いにより、その姿を変化させます。この波、つまりは“静止した電磁波”が無限に累積することで、そこに【場】が生まれるのです。これが、【空間】です。そして、物質も基本的には同じ理論でその構成を説明することができます。言ってみれば、空間も物質も、元は同じだということです。この空間と物質は波動で構成されていますから、その波動の持つ波長や振幅、波形によって様々な性格に分類されることになります。最も大きな分類は、わかり易く例えるならば、プラスとマイナスですね。これは、聖と魔を区分する基準でもあります。しかし、原理は同じなのです。それはつまり……」

「道徳心の違い……ということですか」

「……そのような考え方もできます。人間を基準とした場合は、正解の一つでしょう」

 一瞬の静けさが、その場を包んだ。

 佐多が夢物語の中での作り話とも思えるほど突拍子もない神話の第一章を語り終えたときには、用意された透明な飲み物の炭酸は全て抜けきっていた。

 ここまできて信じる信じないを頭の中だけで論じても埒があかない事は、独立部隊の警察官には分かっている事だった。毒を食らわば皿までだ、と思う。

「僕は文系出身なので、残念ながらお話の全ては理解できませんでしたが、だいたいの事は掴めた気がします。しかし僕はあまり気の長い方ではないので、結論をお聞きしたいのです。いったい、僕は何をしたらいいのですか? このあと、どうなるのですか?」

 嶋田はたまらない焦燥感に襲われていた。やや早口で佐多に問いかける。

「結論はもっと後で言うべきかと思っていましたが、よろしい。はっきりと言いましょう。私達はあなたをジムノマンサーとしてスカウトしたい。狂信者達の理論が間違っていると証明されるまで、この世界を訪問する魔道士はこれからも後を絶たないでしょう。これまで以上に戦いは頻度と規模を増し、最悪は人界全体をも巻き込む可能性があるのです」

「スカウトですって? 僕をですか? あの、飛んだり消えたり、白い服を着たりするという事ですか?!」

 それを聞いて佐多は爽やかに笑った。ひとかけらも嫌みのない笑顔である。

「そんな事を言ったのは、あなたが初めてですよ。もっとも、人間でいるうちにスカウトするのも初めての事ですけどね。そう、その通り。あなたには、素質がある。もちろん、どうするかを決めるのはあなた自身です。強制はできません」

「……人間でいるうちに?」

「ジムノマンサーは基本的に、その力を持って生まれてきます。幼少から修行し、聖道士となるのです。しかし、この世界では生まれついてのジムノマンサーは存在し得ません。物理法則があまりに異なるからです。我々の肉体は光原子という、光の波動の束によって構成されています。波動については先ほど説明した通りです。要するに、体の作りがまるで異なるわけですね。だからこの世界の人間は、異能者と言えど、そのままではジムノマンサーにはなれません。〈転成〉する必要があるのです」

 嶋田は美咲の言葉を思い出した。〈転成者〉という言葉を。

「生まれつき力を持たない者からジムノマンサーに生まれ変わった者を、我々は転成者と呼んでいます。ジムノマンサーは全て天使からその力を授かるとされていますが、転成者はとくにメタトロンと呼ばれる大天使によって力が与えられると言われています。メタトロンとは、社会学にいうところの個性を持った宇宙の意思エネルギーであり、具体的には量子力学にいうところの強い力、弱い力、電磁気力、そして重力を併せ持ち、これらを自在に司る意識体です。メタトロンは、この銀河を含む超銀河団、この世界では「ラニアケア超銀河団」と呼ばれる意思ネットワークの総称なのです。その固有の意思によってもたらされる極めて自由な量子力学的エネルギーこそがジムノマンシーであり、あるいは魔法と称されるパワーに他なりません。故に転成者達はメタトロンの子らとも称されるのです」

 佐多の顔つきは渋みを増し、心の底からの純粋な真剣さが伝わってくるようだった。

「転成するためには、人間として一度死を迎えるか、全てを受け入れて聖界に次元移動するかの二つに一つです。私の場合を除いては、ですが」

「長官……いや、佐多さんは、違うのですか?」

「最初、あなたに聞きましたね。私が聖道士に見えるか、それとも魔道士に見えるか、と。私は、元はただの人間でした。この世界ではなく、上層三次元で生まれましたが、特別な能力などは何も持ってはいませんでした。私はそのことを恨み、妬んで、魔の道へと足を踏み入れてしまったのです。喰人鬼の類の魔属に従う、吸血魔道士だったのですよ。もう、千年以上も前の事ですが。魔道士から聖道士になる事を回成すると言います。私は回成者なのです。私が佐多と名乗っているのは、元の世界でサタン、つまり“敵“と呼ばれていたからです。聖道士になってからも自分の過去を戒め、忘れないようにするためです」

 嶋田は、唾を飲み込んで黙るしかなかった。

「あなたに僅かでも恐怖心を与えてしまったのなら、大変申し訳ない。しかし、私は本当の事を知って頂きたかった。ご安心下さい。もう牙は持っていませんから。あるお方のおかげで、私は文字通り生まれ変わりました」

「ある、お方……というのは?」

「立派な聖道士でした。私を折伏し、灰になる前に回成の機会を与えて下さった。ゼノというお方です」

 嶋田はその名が美咲の試験官と同じである事など知るよしもなかった。佐多が過去形で話したのが気になり、さほど考えもせずに疑問を口にした。

「もう亡くなられたのですか?」

 嶋田は何気なしに訊いたつもりだったが、佐多の表情がやや硬くなったのを見て、言葉を変えるべきだったと反省し、再び唾を呑み込んだ。そんな心配をよそに佐多は小さく深呼吸すると、とても優しい眼になり、嶋田を安心させた。

「魔には闇の、聖には光の波動があります。闇は光の影響を受けても、はじき返すように再び元の闇に戻ってしまいます。ところが光は、それが十分な強さと深さを持っていないと、容易く闇に囚われ、闇の浸蝕を受けてしまうのです。人の心というものは、どんな世界においても絶対に完璧である事などあり得ないからです」

 暖かみのある声だった。嶋田は佐多が何を言わんとしているのかを理解しようと努め、それが自分の質問の答えの基本情報であると気づいた。善良な一般市民が突如として凶悪な犯罪者になる事は多々あるが、裏社会の人間が牧師に変身する事は稀にしかないという警察大学校の教官の言葉を思い出した。佐多が回答を続ける。

「魔道士の魂を救い、魔界から解放するのは、ある程度以上の聖道士であれば誰でも可能ですし、なんの問題もありません。しかし、魂の心髄まで腐食しきった魔道士の波動を反転させて光の存在に、つまり聖道士に回成させるとなれば、まったく話は違ってきます。回成のための作業は、闇と光が入れ替わる事なのです。魔道士の闇の波動を全て吸い込んだ聖道士は、代わりに自分の力を魔道士に注ぎ込む。彼、ゼノは高位の聖道士でしたが、当時の私もまた完全に人の心を失って久しく、魔属に近い存在でした」

「……つまり、その人は、魔道士になってしまった、と。分かっていたのに?」

「そうです。もちろん、高位の聖道士は、そのあと自分自身の魂の力によって心の闇を祓い、力は劣っても再び聖道士に戻る事ができます。実際にゼノは所謂〈厄介な存在である魔道士〉をそれまで何人も回成させていました。そう、実績があったのです。だが彼は、私の時に限って、戻らなかった」

「どうしてですか?」

「分かりません。分かっている事は、彼が自らその道を選んだという事です。魔の道、聖の道、そして人の道。どの道を選ぶかは、その者の自由です。魂の選択なのです」

 佐多の口調が次第に強くなっていく。嶋田は炭酸の抜けたグラスの飲み物を一口飲んで喉と意識の渇きを癒やそうとした。

「では、魔の道を選ぶ事も良しとすると言うのですか? 聖道士のあなたが?」

「我々が世界の法則を決めているわけではありません。何故このような話をしたのか? それはあなたに選択権の重みを知って頂きたかったからなのです。魂の選択の自由は、護られなければならないという事を。そして、あなたはその選択をするのです」

 嶋田は少し考えて、質問の切り口を変えようと思った。

「わかりました。ではお訊きしますが、私がスカウトを断ったら、どうなるのです?」

 佐多は乾いた両眼を瞼で十分に潤しながら、再び嶋田を凝視して答えた。

「あなたは、断らないでしょう」

「それは、予言ですか?」

「私には残念ながら予知能力はありませんよ。しかし人の魂を見抜く洞察力は持っているつもりです。あなたは、誤った道をずっと睨み続けながらも、最後には正しい道を選んだ。警察官という聖職を。違いますか?」

 新緑の大草原を強くて優しい風が軽やかに過ぎていく。なんと気持ちの良い風だろう。思い出したくはない深淵の記憶から吹き出しそうになる怒りのマグマを、ひと吹きで沈静してしまう不思議な春風だなと、嶋田は感慨深く思った。

「全て、見通されているのですね……やはり、あなたは聖人かもしれない」

「私は聖人などではありませんよ。誤解なさらないように。私達はキリスト教やその他のいかなる宗教とも一切の関わり合いを持ちません。もちろん、新興宗教でもない。指導者はいても、教祖はいません。聖道士は天使を目標としてはいますが、遙かに普通の人間に近しい存在なのです。私の背後に、白い翼や光輪は見えませんでしょう? 私達は、天使のまねごとをすると同時に、実は天使にはできないことをしているのです。低次元な戦場は天使の仕事場ではない。私達は普通の人間と同じ、下層の存在なのですよ」

 思わず口元を綻ばせた自分に嶋田は少し驚いた。懐かしい感覚が自分のいる空間を取り巻いているような気分だ。例えるならば既視感、あるいは自己未来予知。警察官の仕事にシナリオはない。ところがどうやら、人生の後半には既に定められてから久しい壮大なる脚本が用意されていたらしい。

「転職は初めてなので、よく考えさせて下さい。返事は、今月の給与明細を見てからでもいいですか?」



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