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第一章(file2)

 美咲が膝まで隠れる仕事用のエプロンをして玄関に向かったとき、私服警官は綾乃に身分証を提示しているところだった。糸が解れたタオル生地のハンカチで軽く汗を拭いながら、二十代後半に見えるその青年は後から来た美咲に気づいて挨拶した。

「どうも、お忙しいところ恐縮です。警視庁の嶋田と申します」

 嶋田はハンカチをポケットに無造作にしまい、美咲と綾乃の二人を見比べながら話を切り出した。警察の規則で定められているのだろう、身分証は提示したままだ。階級は警部補となっており、美咲の予想より一階級上だったが、その下の可変表示欄に組織犯罪対策部とあるのを見て、どちらかと言えばそちらの方が気になった。

「少々お聞きしたい事がありまして。最近騒がれている事件の関係で、市民のみなさんの安全を確認して回っているところなんですよ。何か、変わった事はありませんか?」

 嶋田警部補は当り障りのない表現で質問した。最初から一般市民を不安がらせないための心遣いらしい。

「いいえ、これと言って別に」綾乃が答えた。

「刑事さん、お一人なんですか?」

「ああ、申し訳ありません。ご存知と思いますが、一連の強行事件で慢性的な人手不足でしてね。玄関口より先にはお邪魔しない事を条件に、いまは一人で聞き込み捜査をさせて頂いているんですよ。こちらの施設には、男性の方はいらっしゃいませんか?」

「園長がおりますが、いまは外出中です」

「そうですか、では手短にお話します。実は、警察で行方を追っている重要参考人がこの近辺で目撃されたという情報がありまして、注意を呼びかけています。とくにここは多くの園児がいるようですので、何かあっては大変だと思いましてね。お二人は、ここの職員の方々ですか?」

「ええ、保母です」

「仕事中にすみませんね。こちらも公務でして……」

 美咲は、所轄ではなく何故に本庁の捜査員が? と聞きたかったが、不自然になるので開きかけた口を閉じた。二十三区外の辺地にわざわざ警視庁の班長クラスが一人で来るというのは少し妙だ。しかし、身分証は紛れもなく本物である事は確かだったし、その様子から他意はない事が伺えた。警察はこの十数年で新規採用と予算を大幅に減らして人員削減を行っており、ここにきてその反動が歪を生んでいる事は連日のニュースでも取り上げられ、問題視されていた。

「おや、あちらの方は?」

 はっ? と二人は後ろを向いた。両手をポケットに突っ込んだカイエンが立っている。

 とっくに空間移動術で姿を消していると思い込んでいた二人は、飛び上がるほど驚いた。それを嶋田に悟られないよう、慌てて場を取り繕うとして動揺している美咲を背で隠すように、綾乃が落ち着いて説明した。

「あの、私達の知り合いです。時々、差し入れを持ってきてくれる人なんです」

 普段は美咲の方が冷静であったが、本当に大事のときは綾乃の臨機応変な対応が功を奏する事が多かった。このあたりはさすがに上級者であると、美咲は常々心強く思う。

「いやいやどうも、お勤めご苦労様です。ほんと、暑いですねぇ」

 陽気に微笑みながらカイエンは玄関でスリッパを脱ぎ、いつの間に用意していたのかブランド物のスポーツシューズに履き替えてさっさと嶋田の横を通り過ぎた。

「じゃ、また来るよ」

と言い残し、背を向けて左手を軽く上げ、口笛を吹きながら門に向かって歩き出した。

 玄関から門までは十メートル近くあり、嶋田は呆気にとられてカイエンが門に到着するまで見送った。

「ずいぶんと日本語の達者な方ですね」

 嶋田は特別、不審には思わなかった。この時代に日本語のアクセントを上手に発音する外国人は珍しくないし、今時の若い保母達の交友関係として疑うほどのことではなかった。

 綾乃は嶋田が門の方を向いている間だけ舌を出してカイエンを睨んでいたが、心の中で、今度会ったら文句言ってやる、と怒りの炎を噴火させたまま、すぐに舞台女優のごとく笑顔を作った。

 嶋田は身分証をスーツの裏ポケットにしまいこんだ。

「お邪魔しました。引き続きこの周辺を巡回していますが、くれぐれもお気をつけ下さい」

 そう言って帰ろうとした嶋田は、急に何かを思い出したように振り返り、綾乃の後ろに立つ美咲の顔にじっと目を凝らした。

「失礼ですが、お名前をお訊きしてもよろしいですか?」

 綾乃が、なんだ自分ではないのか、と肩を落として美咲を振り返る。

「藤森です。藤森、美咲、です」

「以前にお会いした事、ありませんか?」

 嶋田の顔に美咲は覚えがなかったのだが、別の事を思い出していた。カイエンが初めて現れたときも、似たような台詞を言って口説かれていたのだ。違いといえば、今はジムノマンシーの発動を抑制するための伊達眼鏡をかけ忘れている事くらいである。しかし不純な動機で聞いてきたのではない事は、心を読む能力はなくても明白だった。

 嶋田は職業柄、人の顔を覚える訓練を受けている。かなりの確率でマッチングする記憶があったのだ。だがそれがいつどこで見た顔であったかを思い出すには、塵のごとき無数の断片を繋ぎ合わせるような作業が必要だった。

「いえ、初めてお会いすると思います」

「そうですか、では思い違いでしょう。忘れてください。大変失礼しました」

 このとき、嶋田の両眼が一瞬だけ充血して見開かれたのだが、二人はそれに気がつかなかった。嶋田は軽く一礼をして早々に立ち去り、玄関の戸を閉め、門を通り抜けてから一度立ち止まり、施設を振り返ると再び早足で車道に駐車している車に戻った。近づくと自動的にエンジンがかかり、運転席のドアが開いた。

 クーラーだけは作動させたままにしてあった。汗で肌に張り付いたシャツが急激に冷やされ胸周りを冷気が襲ったが、嶋田は藤森と名乗った保母が気になって何も感じなかった。

 この施設にはいまのところ異常はないようだ。あの赤い髪の男も事件とは無関係だろう。だが一応戻ってから本庁のデータと照合してみるか、と素早く思考を整理する。嶋田はスーツの裏から警察用の携帯端末を取り出した。警部補になったときに支給されたものだったが、他の捜査員のものとは機能に若干の差があった。

 その端末には微弱電波受信機と映像記録機能が搭載されていた。嶋田は眼球に張り付けたコンタクトマイクロカメラで美咲の顔をこっそりと撮影していたのだ。眼圧を変える事でスイッチのオンオフを操作するビデオカメラは、高彩度の圧縮映像データをGHz帯域の電波で胸ポケットの端末に信号を送り続ける事ができる。早速、記録された映像を再生してみた。小さな画面に映るその顔には、やはり見覚えがあるように思えた。

 嶋田はかつて警視庁公安部に所属していた。しかし公安にはそぐわない持ち前の性格が嫌われ、三年ほど前に組織犯罪対策部へ配置転換となった。激務を極める部署に異動すれば自分から辞表を提出するだろうという幹部の思惑は大きく的を外れ、着実に実績を積み上げていったのである。嶋田はその秘訣を、上司の牧野係長以外にはまだ誰にも明かしてはいなかった。

 嶋田は目を閉じてこの数分間を思い出しながら、白か黒の色をイメージしようと精神を集中し始めた。イチかゼロか。光るか、それとも暗いままか。あるいは、嫌な感じがするかしないのか。高速に動作させる脳神経はほんの一部。それがどの部位であるかはどうでもよかった。とにかく、その一部をフル回転させ、他は邪魔なのでアイドリングをストップ寸前まで低下させる。余計なものはイメージしない。空調の冷たい風も、水素エンジンの振動も、ウィンドウを通して聞こえる蝉の声も、すべての光と音をシャットアウトする。

 嶋田は目を開いた。途端に五感の全てが戻る。

 反応がない。

 答えが返ってこなかったのだ。信号があるのでもなく、ないのでもなく、どちらにも当てはまらなかった。こんな事は初めてだった。

 嶋田はこの能力で数々の事件解決に大きく寄与してきた。その事件に関わる場所や人物、物体を最短の道のりで探し出し、観察する事で、それが怪しいかそうでないかを判定し、無駄に走り回る事なく有効な情報を収集できたのである。

 しかし今回ばかりは、白でもなければ、黒でもない。それは、最新にして最悪の薬の色にそっくりであった。

「こんなときもあるか」

 ため息と同時に独り言を呟きながら、端末を助手席に投げ込んでパーキングブレーキを下ろす。人も車もほとんど見かけない幅の狭い道を、ステアリングを大きく切ってゆっくりと走り出した。ここに来る前に透視した感覚を頼りに、丸一日この辺り一帯を聞き込みして回るつもりでいたが、どうやら今日は調子が悪いらしい。

 嶋田は予定を変更して本庁に戻る事にした。すぐに確かめたい事もあった。美咲の顔が脳裏に浮かんで消えなかったのだ。



 綾乃が今日、何度目かの不機嫌をこれ以上ないというほど克明に、その可愛らしい顔で精一杯表現していた。

「何よ、カイエンといい、あの刑事さんといい、私は引き立て役?!」

 いまにも机をひっくり返しそうな勢いで荒れる親友を、美咲はなだめて言った。

「綾乃ならあの刑事さんの意図が読めたでしょう? 別にナンパされたわけじゃないわ。カイエンは、いつもの通りだけど」

 綾乃は思念波を読み取る能力を持っている。美咲も訓練はしていたが、苦手であった。

「そうよ、何よ、カイエンってば! 何で、わざわざ玄関から人間みたいに帰るのよ! あれってうちらを試しているわけ? 冗談じゃないわ!」

 綾乃は眠れる子供達を気にして最初は小声で叫んでいたが、次第に音量を増していった。

「松村先生、可愛い天使達をいまのあなたよりも恐い、小さな怪獣に変えるつもり?」

 美咲は両手を腰に当て、頭を少し斜めに傾けながら最終兵器を持ち出した。

 綾乃が一瞬凝固し、顔を青くする。十三人の怪獣との戦いを想像してぞっとしたのだ。

 アヒル口になった綾乃は美咲の腕を引っ張り、隣の食堂に連れて行って討論を続行する事にした。一度廊下を横切るため、少々の大声では寝室まで届かない。

「美咲も美咲よ。カイエンは魔道士なのよ。いくら聖界の監視下にあるからって、信用し過ぎじゃない? あいつ、思ったより強いのよ。もし突然襲われたらどうするの?」

「だから、結界の部屋に連れて行ったでしょ、規則通りに」

「あの部屋以外での話よ!」

「それは、ないわよ」

「根拠は?」

「気がつかなかったの? カイエンの体波動、不思議と暖かいの」

 綾乃は言われて初めて気がついたようだった。魔道士の体波動は三次元空間では冷気となって具現化する。魔道士の存在は周囲の温度を奪い、霊感の弱い人間でさえ悪寒を覚えるほどの氷のオーラを常に発しているのが普通だった。

 だが、カイエンのそれは暖炉のように柔らかで暖かい気だったのだ。魔界人はこの人界に説明のつかない物理現象を持ち込むが、カイエンの体波動ほど不可解なものはなかった。

「そんなの、根拠にならないわよ!」

「結果的には問題ないじゃない? 彼は聖界と契約しているって分かったんだし」

 綾乃は少し驚いた。まるで美咲がカイエンを擁護しているように感じられたからだ。

「美咲、あいつが現れてから、ちょっと様子変よ?」

「……そうかな」

「とにかく、油断は禁物だわ」

「わかってるわ。魔道士は嘘をつく、でしょ」

 魔道士は簡単に思念波を表に出さない。綾乃はもとより、上位の聖道士でも読み取ることは困難を極める。だから観察が必要となるのだ。綾乃は表情を優しく緩めた。

「分かれば、よし。ところで、いまの刑事さんも、ちょっと気になるわね」

 綾乃は話題を変えた。目線が斜め下を向く。

「ひょっとして、好みのタイプだったの?」

 やや戯けて美咲が訊いた。綾乃の態度が気になったのである。

「違うわよ」

 美咲はこれを機に反撃にでようかと思ったが、やめる事にした。

「思念波が、読み難かった。それに、どうもここを初めから狙い定めて来たみたい」

「でも、本物の身分証を持っていたわ。人間だったし」

「そうね、人間だった。そこよ、気がかりなのは。ちょっと不自然だと思わない? 本庁の私服警官がひとりで来るなんて……偶然だと思わない方がいいかもね」 

 二人の表情が曇ると同時に、施設の上空までも灰色が優勢になっていた。



 嶋田以外には誰もいない窮屈なその資料室には、外壁窓が一つきりだった。時折、フライパンで油を揚げるような音が連続し、その間隔は放物線を描くグラフの速度で短くなっていった。窓ガラスをたたきつける雨音だった。いつの間にか、激しい雨が降り出している。

 ネットワークコンピュータの大型放熱ファンと操作モジュールの機械的な音に混じって、不定期に重低音が響く。その度に大きな荷物を高層ビルの屋上からアスファルトに叩き落とすような音の波形が反響していた。

 遠雷のもたらした空気の振動は、嶋田の鼓膜に届いているのだろうか。

 警視庁公安部のネットワークパスワードには、規則性が存在しているのを嶋田は知っていた。その法則は七種類で、毎日ルールが変更される。言い換えれば、曜日に合わせてルールを解析する事で、パスワードの構成手順を中学生レベルの数学程度の計算で算出できるのだ。そして日曜日の暗号解読は一週間の中で最高難度を誇った。

 十分ほどCGと格闘した末、見慣れたデータベースへのアクセスに成功した。公安部の秘密主義は伝統的なものだ。正式に依頼するにも、捜査から逸脱した理由では課長にも相談できない。嶋田は時々、階級を利用して資料室を個室代わりにしていた。

 公安部のデータベースはさながら国民の個人情報バンクだ。そこにはプライバシーの欠片も見あたらない。加えて、過去十五年間の全ての新聞記事、刑事・民事事件、社会ニュース、国際問題、あらゆる裁判の記録が、地層に埋まるダイヤの原石のように圧縮されて、掘り出されるのを待っていた。

 嶋田がごく僅かな罪悪感のもとに隠し撮りした映像の一部を切り取った一枚の写真は、見事に過去のデータと奇跡的な巡り会いを果たしていた。

「……あった。これだ」

 それは全国区の新聞記事のデータに隠れていた。嶋田は保母の名前を暗唱した。

「藤森、美咲……」

 そこに表示された検索結果には、まさしくその名が刻まれていた。発掘されたデータの記録年月日は七年前。髪型の感じが少し違っていたが、間違いなく同じ顔であった。嶋田は自分の記憶力に賞賛の拍手を贈りたかったが、すぐに眉をひそめた。

「……どういう事だ?」

 嶋田は思わず声に出した。年を取っていないのだ。当時の年齢は二十歳。もし同一人物であれば、相応の変化を見せているはずである。今日会ったばかりの“藤森美咲”は、どう見ても二十歳前後であった。では別人か? 同じ顔、同じ名前で? 同じ時代に?

 国家資格の保母であれば、データベースにあるかも知れないと、嶋田は別の検索ルートから再度名前を音声入力して探した。一秒とかからず答えが出る。

 いた。同じ顔、同じ名前。資格の取得年月日は……六年前だった。記録の住所はあの施設の番地になっている。嶋田はもう一人の保母の名前も聞いておくべきだったと、心の底から後悔した。さすがに施設の職員リストまではデータになかったのだ。

 彼女は童顔だ。女は化粧で化ける。整形している可能性もある。今時の女性は何をしていても不思議ではない。世間の流行に疎い自分の知らない若返りの方法が、きっとあるのだろう。嶋田はとりあえずそう思う事にした。

 もう一度最初の検索結果に戻って新聞記事の内容を読んだ嶋田は、信じられないものを見る目でディスプレイを凝視した。開いた口を閉じる手段を失ってしまったかのようであった。画面から逃げたい気分に襲われ、回転椅子が軋んだ。

「なんだって?!」

 高解像度の3D画像から目を離さないよう、嶋田はもう一度、携帯端末に転送保存された若い保母の顔を確認した。鮮明な静止画を幾度も交互に見比べ、そこに髪の毛一本ほどの差でもあればと祈りたい心境になる。

 携帯端末の記録データは既に専用のモンタージュソフトにコピーしてあった。立体映像データの中の指定した静止画像を読み込ませ、照合を開始した。

 現役で犯罪捜査に使用されているそのプログラムは、同一人物である確率をいままで見た事もないような高い数字をもって報告していた。しかし、これはバグに違いない。

 同一人物であるはずがなかった。別人でなければならなかったからだ。

 それは殺人事件の記事だった。

 平凡な一軒家に男性が押し入り、一家全員が惨殺された。その内、藤森美咲という女性が悲劇の直後に訪れた友人の通報で直ちに病院に搬送されたが、出血多量で間もなく死亡した、とあった。リンク先に犯人のデータを見つける。逃走した加害者は、三日後に逮捕されていた。強盗ではなく、殺害された女性を執拗に追い回していたストーカーだった。三年前に最高裁で人権剥奪刑が確定している。今頃はどこかの研究室で想像もしたくない実験の材料になっていることだろう。

 これだけ残虐で悲壮な事件は、最近の通り魔事件を除けば、嶋田が警察官になって以来、他に知らなかった。七年も前であるにも関わらず、記憶の表面に浮上してきたのも頷ける。

「七年前に、死んでいる?」

 嶋田はディスプレイに向かって答えの返らない質問を投げかけた。これは偶然か。似た顔の人間は世界に三人はいるという。同じ姓名の人物など、もっといるだろう。だが、その二つの条件を同じ時代に合わせ持つ確率は? 自分はその聖者の復活にも等しい奇跡に出くわしてしまったとでも言うのか? 嶋田は現実性の低いこの部屋から早く脱出したい気分になった。

 だがその前にもう一つ、念のために確認しておく事があった。赤い髪の男である。

 彼の名前を聞いていなかった嶋田は身体的特徴のキーワードを音声入力した。身長180センチ前後、中肉中背の白人系、そして銅色の髪。やる前からわかってはいたが、やはりヒットしたデータは見るのもうんざりするほどの量だった。

 半径20Km以内を条件に加えると意外なほど絞られたが、その中に彼の美しい顔は見つからなかった。嶋田は何故か安心した自分を情けなく笑った。

 ネットワークコンピュータから目を離し、携帯端末の撮影データを単独で再生させた。コンタクトマイクロカメラは音声も拾う事ができる。保母との会話が再現されていく。そこでようやく、嶋田は窓を叩きつける夕立に気がついた。

「あれ?」

 嶋田は施設を訪問する直前から角膜のカメラを作動させていた。二人の保母との会話は32ビットの明瞭な音声で耳に届いたが、途中、全くの無音状態になる部分があったのだ。藤森美咲の後ろに現れた赤い髪の男を紹介する、別の保母の言葉のすぐあと。

 あの男の声だけが、完全に消えていた。嶋田は慌てて画面を覗き込んだ。

「そんな……!?」

 あり得ない事が起きていた。音声だけではなかったのだ。確かにあの男は自分の横を通り過ぎたはずだ。なのに、映像には一切男の姿が映っていないではないか!

 何回か再生を繰り返し試みたが、デジタル記録に変化はなかった。

「嘘だろ……」

 嶋田はシャンプーでもするように両手で伸び放題の髪の毛を掻きむしった。同時に背伸びをして椅子の背もたれに疲れた体を預けた。回転椅子を左右に振る。

 こうなると、もう一人の保母についても調べずにはいられない。嶋田はこの性格が災いして公安部を追われたようなものだった。自分の勘を第一に、本筋から外れる捜査など日常茶飯事だったためだ。

 あの保母も同じ年頃だ。恐らくは同時期に同じ資格を取得しているに違いない。確か、自分が警察官になった頃に制度が改正されたような記憶がある。年間の合格者数はかなり少なかったはずだ。嶋田は気を取り直して混乱した思考回路の電圧を安定させ、再び電子の大海原に挑んだ。

 藤森美咲が資格を取得した年の前後2年間に設定する。顔写真と名前、住所と略歴が表示される。嶋田は住所に着目した。藤森美咲はあの施設に住んでいるのだ。

 検索結果が表示された。六分割されたデータ群は、しかしたった一人に関する人物情報のみを示していた。

「ロン、一発だぜ」

 後で思えば稚拙な推理だったが、何よりも結果が重要だ。そして、そこに映し出された女性の顔もまた、二時間前に会ったばかりの造形そのままだった。

「松村、綾乃……1歳年下か……」

 早速、全件検索を実行する。先ほどよりは数秒間だけ多く時間を要した。まるで奥にしまい込んだ埃だらけのファイルを抜き出してくるような待ち時間であった。

 それは新聞記事でもなければ総務省の国民管理情報でもなかった。

 ボストン・テクノロジィズ社という、ここ数年やたらと耳にする事の多くなった新進企業の内部データベース。現在ではリンクを絶たれたファイル。公安部の非公開データ。

 それは、一人の女性の生涯を綴った闘病生活の記録だった。

 白血病。科学者が熱弁を振るうところの人工血液が、どれほど自然に挑戦したものであるかは、嶋田にはわからなかった。難病の末期になって交換された合成の体液が六十兆個の細胞に与える影響に至っては、想像する事さえ拒みたかった。

 そのプレゼンのような記述の最後には、悲劇の結末が報告者によって語られている。

「息を引き取る、か……」

 乾ききった喉でかき集めた唾を飲み込み慌ただしく立ち上がった。

 資料室の全ての電源を落とすと、嶋田は自分のデスクに戻り、上着を掴み取って逃げるように本部の広い部屋を飛び出した。隣の保管室に駆け込み、IDカードを素早く通してホルダー付きの拳銃を盗むように取り出す。保管室の管理係から先ほど返したばかりの9ミリパワーポイント弾の入った箱を受け取り、杓子定規な役所の管理に呪詛の言葉を吐きかけながら、ボードに掛けてある車の鍵をスリのごとき速さで奪い取る。

 嶋田はいつもの第六感を全身で感じつつ、駐車場に走った。



 翌朝、朝食の支度を終えて一息ついた美咲と綾乃は、空間波通信で連絡を受け、間もなく四人の聖道士が施設を訪れた。一人は美咲の師匠でもある昨日の小柄な女性で、あとの三人は後輩だった。昇格した美咲より五階級も上に務める妖艶なその女性は、いずれカイエンが来るので研修の準備をするようにとだけ伝えると、交代する三人の二等聖道士を残して帰って行った。美咲はやはりカイエンの話は現実だったのだと改めて認識した。

 しばらくすると、カイエンは昨日と同じ淡いグリーンのTシャツ一枚だけを着て、紺色のジーンズにスニーカーという格好で施設の門を通って登場した。

 玄関の外に立つ美咲は伊達眼鏡をかけず、綾乃もピアスを外している。二人は前日とは色の組み合わせを替えただけに見える涼しげな服装で、陽気な魔道士を待ち構えていた。

 地球の温暖化に伴い、大幅に気温が上昇した事をきっかけに、十数年前から夏になるといまの二人のような姿はそこかしこで見かけられた。

 現在では世界中で休むことなく働き続けている大気中二酸化炭素分解システムと酸素濃度制御システム、大気清浄化システムの三本柱が温暖化を大幅に抑制し、平均気温は百年以上前の状態まで目減りしていた。かつて二酸化炭素の排出制限を叫んで喉を痛めていた各先進国は、右肩上がりの気温上昇を止める事はできなかった。自然の保護よりも自国の産業発展を優先した各大国は、科学の力で大気を適正化する事を目論んだのである。

 二酸化炭素の排出量を減らせないのであれば、排泄された汚物を処理すればよいという発想に切り替えたのだ。そして人間のエゴイズムの集大成とも言えるその計画は実行に移され、同時にオゾン層の再生と保全という効果までもたらし、紫外線をも管理下に置いた。

 そのため、ここ数年は夏でも三十度を超える日は極めて希になっていたが、服装の流行だけは若い女性の間に定着し、至極通常な若者達の普段着となって久しかった。

「この世界の女の子達は、実に原始的だが最も確実な方法で、男を誘惑する習慣があるようだね。こんなすばらしい世界は、他に訪れた事はない」

 カイエンは呆れたようにゆっくりと首を振り、美咲が身に着けいてる薄いピンクに染められた迷彩柄のミニスカートを見てこの上ない喜びを訴えた。

「最近はウォーキングを始めたの? 魔道士でも、健康に気を遣うのね」

 綾乃が空間移動術を使わずに歩いてきたカイエンをからかって言った。

「自分の足で大地を踏みしめる感覚は大事だぜ。この世界は何でもかんでも機械、化学、電気の力だ。大気まで科学技術で操ろうとする。ある意味、魔界よりも不気味だ」

 カイエンはつい今しがた絶賛したばかりの人界を今度は痛烈に批判した。それに対抗して綾乃が目を細めながら重たい声を発した。

「それが人間の生み出した魔法なのよ。現代では魔力と科学力の差は確実に縮まってきているわ。ところで、魔力を使わないのは感心だけど、警察に疑われるような行動だけは、厳に謹んでもらいたいものね」

「人界の警察なんか、どうにでもなるだろう? 現に君達だって人間だったときの本名をそのまま使っているじゃないか。それは詰まるところ人界の警察や世間一般の目をごまかすくらい訳はないと思っているからじゃないのか。聖界もずいぶんと大胆な事をいくらでもしているが、指先一つ、いや、眼の動きだけで上手い具合に操作しているんだ。まったくもって恐ろしい連中だ」

「……あの刑事が来ることを、知っていたのね?」

 美咲が問いつめる目で、しかし静かな声で尋ねた。

「ここに来たのは彼の力だよ。だが、あの男は使えそうだ」

「使えるってどういう事? 人間に手を出したら、次元の彼方に飛ばすわよ」

 眉を吊り上げるようにして声を荒げがちに綾乃が言った。

「手を出してくるのはあっちだぜ。多分な。あの男は、異能者だ」

「何故、わかるの?」

 さきほどより少し強い口調で美咲が尋ねた。

「そこらへんを今日は詳しく説明するつもりで来たんだ。場所を移動したい」

 そう言うと、カイエンは左腕を水平に出して掌を開き、短く呪文を唱えた。すると施設の玄関を出てすぐ横に生い茂る樹木を掻き消すように黒い窓が出現し、その中に水晶玉の表面のような映像が浮かび上がった。そこはどこにでもありそうな、ある街の一角のように見える。その画面が素早く中心点にズームアップした。

「白い集合住宅の建物が見えるだろう。ここはいま廃墟になっている。立ち話するより、現場を見た方が早い。君達の空間座標移動に俺を便乗させてくれないか?」

「ずいぶんなご身分ね。私達はイエローキャブじゃないのよ」

 綾乃が口を尖らせて文句を言う。

「一度、聖道士様のお作りになられる挿入空間の内側を体験したくてね。空間に穴を開ける我々のやり方とどう違うのか、感じてみたいのさ」

 美咲と綾乃は顔を見合わた。四次元から三次元の物体をつまみ上げ、チェスの駒を動かすように物体座標を移動させる聖道士の瞬間移動方法に対し、魔道士のそれは周囲の空間を歪ませて次元トンネルを作り、目的地にショートカットする乱暴なやり方だった。

 一旦、三次元から四次元に意思を投げ、四次元のエネルギーを三次元に作用させるといった迂回する手順を魔道士は嫌い、破壊的だがより単純な手段を好んだ。確かに魔道士が跳ぶ度にそこの空間にはしばらく歪みが残り、有害な電磁波を発生させるばかりか、短い寿命ではあるが魔界との接点を作る事になるため、カイエンの申し出は二人にとって受け入れるべき事だった。

 二人は移動先の座標に照準を合わせ、三次元と四次元の中間的性質を持つ亜空の別空間を自分達の周囲に挿入した。端から見れば三人はまだそこにいたが、絶対的な位置は既にカイエンが見せた映像の建物の中に移動していた。経過時間はゼロ秒だった。

 テレビのチャンネルを変えたように、美咲達の目の前の光景は一変した。

 薄暗く、湿った空気の充満した広い場所。剥き出しになったコンクリートの壁は所々黒く変色し、天井からは昨夜の雨の名残が滴り落ちている。そびえ立つ柱の上には引きちぎられたような電気配線のケーブルが垂れ下がり、それはさらし首の髪の毛を連想させた。

 そこは広いホールのようになっていて、まだ午前中にも関わらず陽の光に乏しく、奥の方は何かで削り取られたように崩れていた。窓は無数にあったが、ほとんどが割れた状態で、ガムテープや段ボールの切れ端で繋ぎ合わされ、豊かなはずの日射を遮っている。

 両側には等間隔で鉄製のドアが立ち並んでいたが、おそらくは鉄くず転売目的で盗まれたのだろう、そのいくつかは強引に撤去され、そこが唯一の外界との連絡口であるかのように見えた。一歩外に出れば晴天の爽やかな朝の景色を眺める事ができるというのに、その場所は魔界の一部を切り取って貼り付けたかのごとく陰惨な印象しか受けない。ここだけ時間が止まっているかのようだった。

 美咲が視点を移すと、木製の椅子が一つ、誰かを待つように置いてあるのが目に映った。

 通常の肉眼では暗くてよく見えなかったので、ジムノマンシーを発動させて黒い角膜をナイトビジョン・モードに切り替えた。同時に、美咲の唇が強く結ばれる。

 数秒間、三人は無言でただ何もない暗闇の向こうを見ていたが、やがてカイエンが口火を切った。

「昨日の夜ようやく見つけたのさ。微弱な混合波動を感知してね」

 二人は黙ったままカイエンに目を移した。

「ここは、元々ある企業の社宅だったんだが、倒産して全員出て行ったんだ。その後、取り壊す予定で作業していたところ、度重なる事故や、この世界で言うところの怪奇現象に見舞われて、いまでは解体工事がストップしたままになっている」

 木製の椅子の下に水溜まりができており、そこに濁った水が点滴のように落ちる。

その水音は外部の雑音を完全に打ち消し、更にカイエンの言葉をも邪魔しようと企んでいるかのように響いていた。

「怪奇現象?」

 美咲はその答えを既に見ていたが、確認のために訊いた。

「ゴーストだよ。所謂、怨霊ってやつだ」

 その時、三人の直ぐ近くで何か物が落ちる音がした。

 綾乃が座標移動かと思えるほど瞬く間に数メートル後ずさり、かつてはドアがあった光の差し込む入り口付近まで逃げ込んだ。ラップ音の原因は、壊れて落下した照明器具のパーツだった。

「び、びっくりした!」

「おいおい、君は聖道士だろう。いままで何人の魔道士と対峙してきたんだ? いまさら人間の怨霊が恐いなんて言うなよ」

 カイエンは大声で笑った。

「こ、恐くなんかないわよ! 聖道士だって驚く事もあるのよ!」

「そうかい、じゃあ、そこを凝視できるかい?」

 視線の先には、美咲が見つめた木製の椅子があった。

 綾乃が美咲と同じくジムノマンシーの眼でその空間を見据える。

 とたんに、綾乃は凝り固まったまま蝋人形のようになった。

「まったく、よくそれで聖道士長が務まるな。不合格にすべきだったか?」

 カイエンは意地悪そうな顔をして言った。

 美咲は見ていた。その木製の椅子に静かに座る人影を。項垂れた女の姿を。白く、だが決して光りを持つ事なく、悲しみと怨みを叫んで止まない闇の波動を。

「安心しろ、松村聖道士長。そこに見えるのは、ただの残留思念だ。本物の幽霊は、とっくに魔界の科学者達に捕食されている。その彷徨える魂は、二度も惨殺されたのさ」

 何があったのかをカイエンは話さなかったが、恐らくここではかつて凄惨な殺人劇が展開されたのだろう。殺された女性の魂はこの三次元に残り、怨霊となって闇の波動を撒き散らしたのだ。しかしその霊を、魔界からやってきた狂信者達は虫を踏みつぶすように再び殺した。魔道士によって喰われた魂は、転生する事はない。完全な無となり、無限に続くはずの時間軸から完全に削除されてしまう。

「魔道士の俺も、そこにいる白い影には驚かされたよ。もちろん別の意味でね。魂はもう六道のどこにも存在しないというのに、思念波だけが特定の空間に、それも非常に高い保磁力で記録されて残っている。俺の生まれた世界ではあり得ない現象さ」

 綾乃はようやく金縛りから解き放たれ、想い深く椅子を見つめた。

「怨み、憎しみの念だけが、供給源のないエネルギーの存在を許し、そこに近づくと亡霊の姿を人の心に見せる仕掛けだ。ここが最下層三次元だなんて、信じられないね。奴らがこの人界に興味を持つのも、実にもっともな話かも知れない。そう思わないか?」

 復活した綾乃は涙を堪え、泣くように声を発した。

「可哀想だね……悲しすぎるね……」

 美咲は、綾乃を見て心の内を言葉にした。

「魔道士達は、人の心に闇を求めてこの世界に現れる。それが彼等の食糧なのよ。この人界には、それが溢れている」

「その通りだ、美咲。だが、感傷に耽っているほど時間はない」

「そうね。あなたが私達をここに案内した理由を聞きたいわ」

 聖道士の精神力を取り戻した綾乃は、力強い口調で言った。

「オーケー、チルドレン・オブ・メタトロン。いまのこの状況は、そのまま永久保存する価値があるほど珍しい一瞬なんだ。いいかい? 聖道士二人に魔道士が一人、狂った魔道士達の魔力の痕跡と、人間の残留思念、あともうひとつ、別の波動を感じないか?」

 美咲と綾乃は即座にジムノマンシーのエネルギーを触覚の増幅に費やした。肌で感じる目に見えない存在。カイエンが言うところの空間に刻まれた記録。時を遡る感覚。

 ……見えた。

 もしも盲目の人間が赤外線を肉眼で見たとしたら、同じように感じただろうか。

 それは無理数であり、超越数であり、虚数であった。三次元の枠を超え、しかし高次元の壁には至る事なく、縦・横・高さの構成要素を表現する三という数字と、それをほんの僅かでも超える数字との境界に存在するものだった。

「現場を知るのが一番早い。わかっただろう、人間の異能者が放つオーラの臭いが。これが奴らの餌みたいなもんだ。全世界の美食を堪能した、あやかしのグルメ達が切望する究極にして至高の食材なのさ」

「ここに、異能者が何人も? すごい、中には初等聖道士なみのパワーの痕跡もあるわ」

 美咲は少しも驚いた様子もなく言った。

「ここが廃墟になってから、幽霊の噂で誰も近づかなくなったのをいい事に、夜をうろつく若者達の溜まり場になったんだ。彼等は毎晩のようにここでネクロマンサーを酒とともに飲んでいた。その内、異能力が発現してしまった連中は、そこの白い影の原型を目撃して、恐怖のあまり半狂乱に陥った。そいつらは自分でも気がつかないうちに、闇の波動をテレパシーで放射しちまったのさ。そう、まるで救難信号みたいにね」

「それを、魔道士達がキャッチしたのね」

 綾乃は元の位置に戻りながら言った。

「そうだ。衛星放送のように良く聞こえただろうよ。そしてここにいた連中は全員、狂える魔道士達の食事になった。その時はまだアストラル体だった地縛霊も含めてだ」

「この世界の異能者の力が、三次元1%制約を破る新しい法則を発見するために必要だと……どういう理論で、そこに行き着いたのかしら?」

 美咲は考え込む仕草をして言った。

「魔界の理論をくそまじめに考えない事だ。この世界の原子で構成される肉体では無論、ジムノマンシーも魔力も使えるわけがない。高次元のエネルギーを三次元に具現化しようとしただけで、脳漿を飛び散らせるのは必至だ。我々の常識では、この最下層三次元の人間は異能力を持ち得ない事になっているんだ」

「でも、現実に異能者は存在する。確かに、この残留念波の感じは独特だわ」

「君達は元々人間だが、いまは光原子の肉体だ。ラニアケア超銀河団の空間意識体にして、大天使長にあらせられるメタトロン様から聖なる御力を授かっている。俺たち魔道士は、異なるマルチバース宇宙に君臨するマイナス波動の空間意識体、平たく言えば、魔界をエネルギー源とする。では異能者は、何を原動力にその力を発動させるのか? これを発見したら、魔界のノーベル賞は確実だな」

「冗談はよして。でもこれで異能者の波動特性は覚えたわ。これからどうするの?」

 美咲は指導員に指示を求めた。

「昨日説明した通り、生きた異能者を捜しに行く。心に闇を持ち、強い波動を発するような素質ある人間をね。こいつは訓練だ。魔道士ファイルなんてものはないぜ。なんの事前情報もなしに、突然に複数の魔道士と出くわしたらどうするか。実戦訓練さ」

 カイエンは両手をジーンズのポケットに突っ込み、二人を同時に見ながら言った。

「ここのような宴会場は、残念ながらSOLD OUTらしい。現役のサバトはいくら探しても見つからなかった。俺は過去感知が映画を鑑賞するくらい得意だが、未来予知は女と同じくらい苦手だ。街中を闊歩する常習者はいくらでもいるだろうが、条件に当てはまるやつを見つけなければいけない。ところが、俺はこの世界に来てまだひと月も経っていないんでね、正直なところ何処を探せばいいか、グリコの看板だ」

 カイエンはもうお手上げだと言うように、本当に両手を上げて見せた。

「なによ、それ。私達だって知らないわよ。バッド・メディシンの裏ルートなんて!」

 綾乃は眉間にしわを寄せて怒った。

「そこでだ。この世界に詳しい先生に助言を給わる事にした。ここで、どうぞお入り下さい、って言いたいところだが、どうやら到着が遅れているらしい」

「ちょっと待って。それってもしかして、あの刑事さんの事? 人間を巻き込むなんて、契約違反よ。何を考えているの?!」

 珍しく美咲が声を大にして噛みついた。

「これも研修の内さ。君達で護ればいい。いや、護る必要はないかも知れないぜ」

「とにかく、それはやめて下さい。あなたは聖界の監視下にある事を忘れないで」

「何故、あの男が異能者だとわかったのかを知りたいんだろう? 聖界に教わったのさ」

「なんですって?!」

 二人の声が揃って響いた。

「君達だって、人間だったときにまさか聖道士になるとは思ってなかったろう。君達には転成者となる素質があった。苦しい死に方をしたというのに、死ぬ間際までその魂は光を失わなかった。大天使長のお眼鏡にかなう心の持ち主だった。人間だった頃から、目を付けられていたのさ」

「私達の事、色々詮索したのね。でもそれって、私達も異能者だったという事?!」

 綾乃は思わず一歩前に踏み出した。

「異能者の中には、自分がそうであると気がつかない者もいるんだそうだ。ちょっと勘がいいとか、不思議と事が思い通りに運ぶとか、人の考えがなんとなく読めるとか、あるいは、道に迷っても必ず家に帰れるとか、な」

「あ、私、そうだった」

 綾乃が突然思い出したように斜め上を向いて言った。

「どのパターン?」美咲が聞く。

「帰巣本能」

「あなた、犬から転成したの?」

「犬じゃないわよ!」

「女の喧嘩は醜いぜ。そこの白い影がこっちを見ているぞ」

 カイエンは笑いながらその椅子の方を見た。綾乃は青くなって黙り込んだ。

「あの嶋田という男は、過去感知だけでなく、基準となるものに関係する場所や人物を透視する遠感知能力や、俺でさえ持っていない予知能力まで備えているらしい。まだ非常に弱くて不安定な力だが、潜在的なオーラのエネルギーはドラフト一位の埋蔵量なんだとさ。しかも体育会系で捜査能力もある。ジムノマンサー候補であるかは別にして、注目すべき存在であるという事実に変わりはないんだ」

「だからって、巻き込んでいいという事にはならないわ」

「巻き込むんじゃない。彼は自分の意志で介入するんだ。彼の卓越した超感覚はここを割り出してもうすぐやってくる。それに、聖界の保護下に指定された人間が魔界人と接触した場合、直ちに護衛プログラムが発動する事になっているんだろう? もっとも、事故や病気の場合は保護の対象外なんだってな。まったく、聖界は魔界より非情だな」

「仕方ないわ。私達も人界に影響を与える事はできないんだから」

 美咲が答えた。

「それでいて次期お仲間候補だけは助ける、か? 矛盾してるぜ。まあ、いい。ところで、ずいぶんと遅いな。俺が君達を訪ねる前に、あいつはここに向かっていたはずなんだが」

 美咲は少し嫌な予感がした。この予感は、ジムノマンシーとも自分が人間であったときに持っていただろう特別な力とも違う、別の何かであるように感じた。

 二人の聖道士と一人の魔道士は、それぞれ異なる方法で感覚の射程距離を球の形で増大させた。念波の届く範囲は全て感知できる。実際にあらゆるものを感じてしまうと許容量を超えてしまうため、定めた条件にヒットするものだけを探し出す。奇しくもそれは魔界の科学者達が網を張った手段に似ていた。

 最初に見つけたのはカイエンだった。

「あの男、結構骨のある野郎だぜ。俺達より先回りしやがった」口を歪めて言う。

 ほぼ同時に、美咲と綾乃も感じ取っていた。一気にボルテージが上昇気流に乗る。

「早くも狂信者達が嗅ぎつけたみたいよ。闇の波動を感じるわ」

 緊張した二人に対し、カイエンは気楽な口調で返した。

「こいつはいい訓練になるな。新・聖道士長達のお手並み拝見といこうか」

「カイエンも来るんでしょう?」

 綾乃が当然だと言わんばかりに訊いた。

「教官が訓練兵と同じメニューをこなしてどうするんだ。それに、この人界で魔道士を互いに戦わせてもいいのかい? 俺が本気を出したら、この惑星くらいは吹き飛ぶぜ」

「綾乃、行きましょう。時間がないわ」

 二人は可憐に光を放ち、空間の中へ潜った。遠く夜の空に輝く花火のような残像を残し、

薄暗い空間に佇むカイエンを微かに彩った。

 カイエンは真顔になると、独り言のように自分に話しかけた。まるで彼の中に誰かが存在しているかのように。

 その存在は何の前触れもなく、カイエンの表情に現れ出た。

[素晴らしい。そして、なんと麗しい]

 するともうひとりのカイエンがいつもの人格で答えた。

[思い出しただろう? 実に美しい。俺に賛同する気になったかい?]

[賛同すれば、俺は俺でなくなる]

[そうだったな。まぁ、見ていてくれ]

[協力はすると誓った]

[その時が来たら、頼んだぜ]

 会話は突然に止んだ。

 カイエンは夢から覚めたような顔つきになり、すぐさま厳格な表情に戻った。


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