第三章(last file)
その日、街の再開発区域から僅かに外れた郊外の緑地公園の隣で、やや時期はずれな児童養護施設の運動会が開かれていた。
下は三歳児から上は小学生までの十三人の子供達が、真剣に走り、笑顔で応援する。
綾乃はそんな子供達の元気な姿を見て、幸せを感じていた。
子供達には、親がいない。その代わりに、近所の住民やボランティアの若い人達が見に来てくれていた。毎年、町の人々はこの日を楽しみにしていたのだ。
ひと通りの競技が終わると、疲れ果てた子供達をお風呂に入れさせ、参加してくれた人達全員に一人ずつ礼を言って見送った。運動会で使用したテントやら万国旗を後輩と一緒になって撤去し、用具を片づけ、風呂から上がった子供達の世話をし、夕食の準備を整え終わると、気がつけば陽は落ちて外はもうすっかり暗くなっていた。
綾乃はあとのことを二人の後輩に任せると、上着を着て外出した。施設の門をくぐるまでに、落ちた枯れ葉を何枚も踏んで歩く。公園まで行けば、ほどよい紅葉の始めを観賞することができる。
夏が終わり、最も秋を感じるひとときだ。夜になるとやや肌寒い。綾乃はピアスを指で外しながら、周囲の気温をほんの少しだけ調整してから歩き出した。
表の道路に出て最初にある街灯の光が及ぶ範囲を過ぎ、次の街灯の間までには、数メートルの暗闇がある。夜になればほとんど人や車の通らないその道路で、綾乃の足音が突然途絶えた。次の街灯の下を綾乃が通る姿は見えなかった。
空間座標移動した綾乃は、風の塔の上に立っていた。
今日は風もなく、波の音だけが聞こえてくる。
美咲が目を閉じてから、二ヶ月が経過しようとしていた。あの時の事が鮮やかな映像となって思い出される。
綾乃は時折、気が向くとここに来るようになっていた。来たところで、何があるわけでもない。ただ、自然と引き寄せられるように、ここに来たくなるのだ。
あるいはここにカイエンがジーンズのポケットに手を入れて、ニヤニヤしながら現れないだろうかと考える。
美咲がにこやかに走り寄ってきたりしないだろうか、と。
そんな幻想をつい思い浮かべてしまう。
だが今日の綾乃は、そこに現実を見ていた。美咲も、カイエンもいないという事実を。
綾乃は再び、座標移動に転じた。
国家安全保障局。この時間なら、まだ佐多はいるはずだ。当然の事ながら部外者は正面玄関からは入れないが、綾乃にとってそんな事は問題にならない。
自動的に佐多の気配にリンクさせ、人のいない場所という条件で跳ぶ。
綾乃は、一大決心を今夜、佐多に伝えようと思っていたのである。
美咲を目覚めさせる為には、カイエンが必要だと結論づけたのだ。だから、カイエンの魂を探すしかない。それだけが唯一、美咲を取り戻す方法だと、綾乃は考えていた。
座標移動した先は、長官室でもなければ、局内にあるどの部屋でもなかった。
綾乃は屋上の隅に立っていた。非常階段を取り囲むコンクリートの壁の裏側。おかしいな、と思いながら、綾乃は外したピアスを付け直して壁の反対側に回り込もうとした。
声が聞こえてきた。綾乃はとっさに身を隠し、気配を消した。何故そんなことをする必要があったのか、自分でも分からなかったが、そうしなければいけない雰囲気がそこにあったのである。
聞こえてきたのは、佐多の話声だった。相手は誰なのか? 少しばかり罪悪感を覚えながらも、しばらくの間、聞き耳を立てることにした。
屋上のフェンスを越えた所に、転落防止用の突き出たスペースがある。しかし一歩踏み出せばそこは都会の谷底だ。佐多はそこで煌びやかな夜景を眺めるように立っている。
佐多が言った。
「すばらしい夜景ではありませんか。この世界の人間達にとって、科学技術はまさしく魔法なのだと思い知らされます。人は科学の力によって世界を造り変えているんです。確かにここには淫らな欲望も、忌まわしい思想も、愚かなる暴力も、至る所に蔓延しています。それでも人間は、いつも活力に溢れ、悲しみと怒りの中でさえ理想を追い求め、それを喜びと平和に変えようと努力し続けているのです。この最下層三次元空間という最も束縛された世界で……そして、魔道士による攻撃によって破壊された街を驚愕すべき速さで修復する技術。これが魔法でなくて何だと言うのでしょう。そう思いませんか?」
相手は答えない。
「こうして、あなたと二人で語るのは、いつ以来でしょうね……」
佐多は話題を変えることにした。
「初めてかも、知れんな」
相手の声が聞こえた。ゼノの声だ。綾乃は目を見開き、手で口を押さえた。
「……そうでしたね。千年の時を越えて、再び出会うとは、可能性として考えてはみても、現実にはもうないだろうと思っていました」
ゼノもまた、佐多と並んでそこにいた。山高帽子を深々と被り、やや俯いて答える。
「私もだよ」
「そうですか? あなたは、全てを予知していたのでは、ありませんか?」
しばしの沈黙があった。
ゼノが唸るように口を開く。
「私とて、未来予知はできん。例え番人の眼を持ってしてもな」
「やはりまだ、カイエンの魂は、見つかりませんか……」
「魔属の領域までは潜り込めんが、恐らく魂の欠片も認められんだろう。カイエンは、涙で浄化されたのだからな」
「そうですか……しかし聖界も、同じです。先日ようやく聖界天位にも探索を依頼できましたが、同様に天界でも意識波動の反応すらないとの事です」
「……そうか」
「彼は……カイエンは、本当に消滅したのでしょうか?」
「異な事を言う。自らの涙で灰になる様を、お前も見ただろう」
「そうですが……」
「番人の眼でさえも追うことのできない魂など、本来はあってはならないのだがな、私としたことが、カイエンの魂が全ての世界から完全に消え去ったと、思いたくはないのだ。全宇宙をオムニバースとして考えれば、私の棲む魔界の常識など、決して永遠なるものではない。この人界と同じく、常に移り変わりゆくものだからだ。未だもって我々の計り知れない神秘の何かが、世界には埋もれているのかも知れんよ」
「そうかも知れません……まさか、魔道士であるあなたから、その様な言葉を聞くとは思ってもみませんでした」
佐多は口元に笑みを浮かべて言った。
「一つ、訊きたいのですが……。千年前にも、一度だけ尋ねて、答えて頂けなかった質問です。よろしいですか?」
「聞くだけ、聞こう」
「あなたは何故聖道士であることを捨て、魔の道を選んだのですか? あなたほどのお方であれば、私を回成してからも、元に戻ることは決して困難ではなかったでしょう」
ゼノは深い沈黙のあと、低い声で答えた。
「私は、セレーネを回成させた時、見てしまったのだよ」
「見た? 何をですか?」
「セレーネは、初めから魔道士ではなかった。それはお前の方がよく知っているだろう」
「ええ、もちろん。セレーネの首に牙を立てたのは、私ですから……もう二千年も前になります……今思い出しても、忌まわしい行為でした」
その会話に、綾乃は心臓が音を立てそうになったので慌てて胸を押さえた。
気を落ち着かせて、また耳を傾ける。
「セレーネは、その時、恐怖を感じていたかね?」
「それは……恐らく、そうだったでしょう」
「違うな。セレーネは、自ら望んだのだ」
「……どういうことですか?」
「お前の目標は、何だね?」
佐多はゼノの言わんとしていることが読めず、答えるのに躊躇した。
「それは……無論、天使になることです。たとえ何億年かかろうとも」
「お前ならば、なれるに違いない。魔界も聖界も、そして人界も見てきたお前ならば」
「何を、おっしゃりたいのです?」
「我々は、どの世界に行こうとも、どの世界から来ようとも、全宇宙のいずれかに属しているに過ぎない。その全宇宙は空間意識の集合体であり、それは全ての力を統率している。例え何者であろうと、このシステムから離脱することはできん。そして全宇宙は、この宇宙138億年が一瞬と思えるほどの歴史を持つ。ユニバースの消滅と、誕生の繰り返しだ。誕生した宇宙は、やがて自我を持つ。その魂は、どこから生まれるのか。その意識は、何を思うのか……これ以上は、言えんな。私にも魔属の主がおる。察してくれ」
佐多は眉間に皺を寄せ、怪訝な面持ちでゼノを見たが、すぐに何かを理解したという表情になった。
「これから、どうなさるのですか?」
佐多が訊いた。
「今まで通りだ。魔界に戻る。お前こそ、どうするのだ?」
「今まで通りですよ。挑戦者達はほとんど来なくなりましたが、それでもまだこの世界に聖道士は必要です。一度通り道ができてしまうと、自然界に存在する不安定で弱い不規則変調の現象だけに頼ることはできませんからね」
「美咲に、変化はないかね?」
「ええ……会いますか?」
「私に聖界へ入れと言うのかね。遠慮しておこう……さて、そろそろ窮屈になってきた。帰ることにするよ」
「あなたに天使が微笑むことを……」
佐多が祈るように言う。
「ふん、縁起でもない」
化石の黒い杖がひと振りされると、ロングコートが風に舞ってゼノを包み込み、空間に渦を巻いて吸い込まれるように消えていった。
佐多はしばらくの間、地上の明かりに遮られて星の見えない夜空を仰いでいた。
聞き耳を立てていた綾乃の姿は、屋上には既にない。
綾乃は所々に明かりが灯る霞ヶ関の真新しいビルを見上げると、通勤帰りの人々に混ざって歩き出した。俯き気味にとぼとぼと歩いていると、正面から行く手を阻むように歩いてくる一人の男に気がつき、目線を上げた。
「……嶋田さん……」
「やぁ、綾野君。長官に会いに来たのか?」
嶋田は警察官だった時と少しも変わらず、涼しいというのにスーツの上着を片手に鷲掴みにしてよれよれのワイシャツ姿で声をかけてきた。いまは国家安全保障局員になり、佐多の直属の部下として多忙な日々を送っていたのである。
「はい、もう用事は済みましたけど」
「そうか。俺も今日は長官に報告だけしたらすぐにあがれるんだ。よかったら、食事にでも行かないか?」
「いいですよ。いよいよ、聖道士になる覚悟ができたんですか?」
苦笑した嶋田は、手に持った上着を肩の上に乗せていった。
「いまの仕事が僕には合っているらしい。とてもやりがいを感じている。まぁ、世の中、嫌な事件が多くて気が滅入るけど、それでも人間の社会というのは素晴らしいと思うんだ。しばらくは、人間としてこの世界を見ていこうと思う。そうだな、仕事で殉職でもしたら、その時は腹をくくるよ……いや、これは冗談だ」
「そういう冗談は、笑えませんよ」
「悪かった。まじめに考えてはいるんだ。最近、異能力が絶好調でね。思い返せば、やはりジンが僕の体に入ってから格段にパワーアップした気がする。君が話していた番人の眼の力に影響されたのかも知れない。そう思うと、聖道士になってこの能力をさらに磨く事で、カイエンを探す手伝いができるかも知れないとも考えてはいるんだ」
嶋田は綾乃を気遣って言ったつもりだった。しかし、佐多とゼノの会話を聞いてしまった以上、番人の眼でさえも探せないという事実に、嶋田の希望は綾乃にとって絶望の再確認でしかなかった。
「期待しています」
それでも綾乃は気丈に答えた。
「……美咲君の様子は、相変わらずなのかな?」
嶋田が遠慮がちに訊く。
「はい……眠ったままです」
「そうか……申し訳ないが、慰める言葉が見つからない。とても残念でならないよ。君が落ち込むのも仕方がない。でもまぁ、元気出せよ。世界が終わったわけじゃない。今日は俺のおごりだ。長官への報告はメールで済ませるよ……焼き肉でも行こうか?」
綾乃は黙って頷いた。肩を抱かれるようにして、嶋田と並んで歩き出した。
つい二ヶ月前に大惨事があったとは思えないほど、平和なままの街がそこにある。ここから歩いてもそう遠くはない場所にも旅客機が墜落していた。驚くべき修復の速さと言うべきだろう。まるで、何事も無かったかのようだ。これが人類活力なのではないだろうか。人類はあらゆる災厄に嘆き苦しんでも、決して諦めたりはしないのである。
きっと、どんなに恐ろしい苦難が訪れようとも、この人界が滅ぶ事はないのだろうと、綾乃は思っていた。本当は聖道士による庇護など必要ないのかも知れない。
最下層三次元と称されるこの世界には、想像を絶するバイタリティとパワーが存在する。それらは目には見えないし、ジムノマンシーや魔力のように感じる事もできないけれど、確実に存在していて、この世界を構築する基礎になっているに違いないと思えた。
かつては、人類は宇宙の害虫なのだから滅ぶべき存在だと主張した者がいると言う。
自身で自分達を破滅に導く愚かな存在であると。審判の日は間近だ、と。
こんなにも、生命力が溢れているのに? こんなにも、エネルギッシュなのに?
愚かかもしれない。醜いかもしれない。無力な時もある。誤ることもある。しかしそれでも、その英知は文明を発展させた。数々の美しい物語が生まれた。信じられないほどの力を発揮する人々がいる。そして、正義の下にこの世界は構築されているのだ。
綾乃は強く人類を信じていた。滅亡だなんて、何と馬鹿げた話だろうか。
聖の道を自分は選んだ。その気持ちに今も変わりはない。佐多聖道次監も同じだろう。いましばらくはこの人界を見守っていてくれると信じよう。
嶋田は人間の道を選んだ。それもひとつの選択だ。何が正しく、何が間違っているなどという次元の話ではないのだから。彼はこの素晴らしい人間社会を生きていくだろう。
ゼノは、聖の道を知りながらも、あえて魔の道を行くという。その答えはまだ判然としない。
カイエンも最後には人間に戻ろうとした。千年も魔の道を歩んだにも関わらず。
では、美咲はいったい何の道を歩もうとしたのだろう? 聖の道を放棄してまでカイエンと共に人間に戻る事を選択した。それは人間という道を選んだ事になるのだろうか?
分からない。
いつかそれらを理解できる日がくるだろうかと綾乃は考えて、夜空を見上げた。
月が闇を照らしている。冷たく、悲しげに、しかし力強く。いつものように。
僅かな時間だったが、まるで目の前の空間が歪んだように見えた。
涙が溢れそうになって、綾乃は慌てて地上の街へと視線を戻した。
人間の世界が、そこにあった。
夜を楽しむ者達が闊歩する都会の道はどこも夜とは思えないほどに明るく、ビジネス街に似つかわしくない華やかさを誇っている。やがて二人の姿は雑踏に埋もれて瞬く間に見えなくなってしまった。
その草原には、地の果てという概念がなかった。
地球上のどこにも存在しない、無限に広がる緑の大地。
爽やかな水色の空が天を一色に染めている。どこを歩いても草で膝下まで隠される豊潤な緑野と、色彩溢れる様々な種類の花があちらこちらに点在し、それらはある一帯では燃えるように咲き誇っている。
至る所で美しい蝶が舞い、遠くに見える森林からは小鳥のさえずりが聞こえてくる。
春と夏の中間のような、それでいて湿度と気温は高くも低くもなく、新鮮で清浄な空気で満たされている。
時折、思い出したようにそよ風が吹き、花々や草が優しく撫でられたかのごとく揺れて、そこにゆったりとした時間が存在していることを感じさせるのだった。
耳を澄ませば、すぐ近くを流れる川のせせらぎが大いなる自然の調べとなって、軽やかに奏でられている様子を窺い知ることができる。
ここには、ただ平穏だけがあった。
あらゆる全ての世界に蠢く卑なるもの、呪わしいものは存在しない。汚れた心の絡み合いも、欲望も、哀しみも、怒りもなかった。何事も起こることのない、静寂の園。
有限という三次元の理論に当てはまらないその空間に、もしも基点となる位置を定めるのだとしたら、それは四本のハルニレの護り樹に囲まれた白い花崗岩の寝台以外に見つける事はできないだろう。
月桂樹の葉で敷き詰められ、周囲を枯れることのない無数の花が取り囲んでいた。
その上に、漆黒のシルクワンピースを着た美咲が横たわっている。
両手を胸の上に重ねるようにして眠るその姿は、盛大且つ死者への敬意が厳かに示された葬儀の主人公を思わせるが、美咲の体はまだ生命活動を止めてはいなかった。
聖の空間が持つ力によって、人間の肉体に過ぎない美咲の体に特別なエネルギーが絶え間なく与えられ続けている。それは朽ち果てる事を絶対に許さない力だった。
ただ、美咲の魂をそこに見ることはできない。
消滅したのではなかった。美咲は自らを封じ、何者も手の届く事の許されない閉ざされた世界に心を埋めてしまったのだ。
美咲は目を閉じ、動くことはない。
静かな吐息で、僅かに胸が上下しているだけである。
風の塔で自分自身の時を止めてから、一度も目を覚ましてはいなかった。
気まぐれな微風が美咲の豊かな髪をふわりと持ち上げ、悪戯をして逃げる子供のように過ぎ去っていく。
美咲以外にその空間には誰ひとりいなかったが、もし舞い踊る蝶が人語を解し、美咲を感じることができたならば、あるいはそれらの声を聞いたかも知れない。
(やぁ、美咲……俺はいま、君のそばにいるよ)
もし誰かがそこにいたとしても、幻聴としか思えなかっただろう。
(カイエン、どこにいるの?)
(ここだよ)
(ここにいるの? カイエン?)
(ああ、そうとも。永遠にね)
(……永遠に?)
(そう、永遠に……)
再び小風が横切ると、声は聞こえなくなった。
その会話を、草や花は聞いただろうか。
しかし美咲はひとりで、変わらずに眠っている。
美咲は、眠り続けた。
次の日も、また明くる日も、美咲が目覚めることはなかった。
永遠の時が、いつまでも変わることなく、その空間を包んでいた。
完




