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第三章(file5)

 空間座標移動は距離という概念を忘れさせる。ゼロ秒の経過時間は感覚を記憶するまでもない事象だからだ。しかしこの時、人間としての職場から、聖道士として愛する弟子の元へ赴かんとする間、何秒間かの時間の流れを感じざるを得なかった。

 佐多はそこで起こっている歴史的出来事が、自分が予想していたことよりも遙かに深刻で、甚大であり、取り返しのつかないことであると認識することになった。

 綾乃の影精は忠実に出発点を目指して帰還を果たし、本体である綾乃の中に戻った。

 佐多は既に電気の供給が途絶えた暗闇の空間に降り立つと、自分を抱えるようにして震えている綾乃を慈しむように優しく抱き寄せ、自らの光で暖めた。

 聖道士の防護服が解除されている。怯えて声も出ない様子の綾乃からは、ジムノマンシーの欠片さえ感じることはできなかった。

 あれほど荒っぽく厳しい訓練に耐え抜いた直後であるにも関わらず、綾乃の精神は極寒の中でたったひとり置き去りにされた子供のように崩壊しかかっていたのである。

 佐多にはその原因が何であるのか、推理するまでもなくすぐに理解できた。

物理的に例えるなら、広範囲に亘る強烈な放射能に長時間さらされたに等しい。

 目の前に広がる闇の空間は、視覚的な恐怖感など論じる価値さえないほどにおぞましい雰囲気を漂わせていたのだ。聖道士として千年を生きた佐多でさえも、かつて感じたことのない忌まわしい波動だった。そこには千年前の悲劇を再びこの時代へと召喚した悪魔の企みが、呪わしい思念となって溢れていた。

 それは悲しみだった。邪な心であり、怒りだった。深い欲望だった。そして、ねじれ曲がった禍々しい“愛”でもあったのだ。

 佐多は目も虚ろな綾乃にジムノマンシーの息吹を吹き込むと、我が子のように頭を撫でて言った。それは佐多にとっても思いもかけない後悔の念でもあった。

「済まない。許してくれ。このような事になろうとは、思ってもいなかったのだ。私は聖道士の監督役として失格だ」

 綾乃の目が、ガソリンの色から普段の焦げ茶色の瞳に変化した。死人のような白い肌に血色が甦り、やがてその顔を桃色に染めていく。

 綾乃は自分の身に起きたことをほぼ完璧に理解していた。催眠術から解放されたかのように目覚めると、すぐさま真っ白な防護服を具現化させ、ジムノマンシーの光を放射させようと懸命になった。この程度のことで意識を失った自分を恥ずかしいと感じたのだ。

 それを見て佐多は我が弟子を実に愛おしいと思った。

「綾乃、きみの決断は正しかった。自分自身が逃げ帰るのではなく、サテライトを私の元によこしたのは、冷静な判断だ。私は優秀な弟子を持った」

 この時、佐多はまだ研究者達の正体に気がついていなかったが、魔道士達の目的が聖道士である以上、一度誘い込んだ獲物を取り逃がすことはしないだろうと思った。綾乃自身が無理にこの空間から脱出しようとすれば、それを妨害しようとして敵は何をしでかすか見当もつかない。万が一、この巨大建造物に物理的影響を与え、最悪は人間に危害が加わるようなことになれば、事態は一気に地球規模の戦争状態になりかねないと考えたのだ。現在は昼間であり、数千人を超す人間がこの空間のすぐ外にいるのである。

 佐多はやや呆然となる綾乃から暗闇に目を移す。

 何と言うことだ。この感覚は、まさしく魔属の波動ではないか。

 何者かが魔属の命を請け、魔界の底辺から直接この空間に現れたのだ。そうでなければ、魔属が目の前に存在しているとしか考えられない。その漆黒の闇は壮烈な邪気と憎悪の念を反乱射させている。佐多でさえも気分が悪くなるほどの別次元の暗黒波動だった。

 これではいくら修行を積んで著しく成長しただろう綾乃でも、たまったものではない。それどころか、闇の浸蝕を受けることなく精神を崩壊させずにいただけでも奇跡に近い。

 まさか、魔属がこの人界に?

 そう思った時、佐多は暗黒空間の奥底に覚えのある気配を微かに感じ取った。

「ゼノ!」

 思わず声に出てしまった。何故、ゼノがここに? まさか……。

 憶測を巡らしている場合ではない。佐多は全身のジムノマンシーを瞬時に調整した。

 綾乃の額に被さる乱れた髪を優しく整えながら佐多が訊いた。

「一緒に来られるかね?」

 その質問に、綾乃は考える必要などなかった。例え行くなと命令されても従わなかったに違いない。

「大丈夫です、一緒に行きます!」

「よろしい。敵は高次元陰魔の眷属のようです。でも心配はいりません。大事なことは、恐怖心を持たない事、自分を信じる事です……行きましょうか」

「はい」

 佐多はゼノが放つ波動の方向に目を向けて、時空をも越える遠感知のジムノマンシーを最大に引き上げた。弟子に恐怖心を持つなと言っておきながら、はたして自分はこの得体の知れない戦慄を抑えきれるのだろうか。佐多は闇の向こうに思慮を巡らした。

 カイエンよ、何をしようとしている?

 ゼノよ、何を目論んでいる?

 魔道士達は、何を企む?

 状況把握のための調査に過ぎないと美咲と綾乃にだけ任せてしまったこの仕事を、あまりにも甘く見過ぎていた。だが、まだ間に合うはずだ。

 佐多は防護空間を綾乃に同調させ、闇の中へと身を躍らせた。



 空間が歪曲している様子が、視覚的に感じられる。ゆらゆらと揺れる波の水面下にいて、より大きくゆっくりと波打つ海の中にいるような気分だ。美咲はゼノから自分の前世における真相を聞いた直後、自分でも不思議に思うほど冷静を保っていた。

 自分は吸血魔道士だった、とゼノは言った。

 それが事実だとしても、美咲にはさほど心を揺さぶられる理由がなかった。その言葉を聞いただけでは何も具体的に思い出さなかったし、特別な衝撃も感じなかったからだ。

 むしろ、佐多聖道次監がそれを知っていて自分と会うことを避け、真実を隠していたということがショックだった。佐多が言っていた呪わしい過去とは、マーラムによって消滅させられた事などではなく、自分が殺戮を繰り返した凶暴な魔道士であったという事実だったのだ。しかしそれでさえ、その記憶が蘇らないままでいるいまの美咲にとっては、心を沈めてしまうほどではなかった。

 ただ、静まりかえったこの闇の空間で、自分の心臓の音だけがやけに響いている。それは胸を持ち上げるくらいに激しく、まるで心臓自体が肥大し、暴走して破裂するのではないかと疑うほど荒々しく脈打っているのだ。

 鼓動の打撃音を感じる度に、脳天から足のつま先まで何かが突き抜けるような感覚が美咲を襲っていた。

 もうひとりの自分が心の内側から激しく扉を叩き続けているかのようだ。何かを訴え、拳から血が出るくらいに力強く……。

 セレーネなのだろうか? その正体は、美咲自身にも分からなかった。

 しかしこれで、自分に関する謎は全て解ける。

 ゼノは再び語り始めた。

「貴公は千年前のある日、私とカイエンの住む世界に突然現れた。吸血魔道士の一族はあらゆる世界に存在していると言われていたが、我が故郷には一人もおらんかった。何十人もの人間の血が吸われ、喉を噛み切られた。ある者は殺され、またある者は闇の浸蝕を受けて波動転換し、貴公の仲間となった。聞いていると思うが、当時私は聖道士であった。貴公を回成させ、その後聖道士として教えたのも私だ。貴公の魔道士としての力は非常に強いものだったが、私の術法で封印した。いま思えば、少々稚拙な術法であったと思い出せる。修練生となった貴公は、同じく私の弟子であったそこにいるカイエンと、心を通わせるようになったのだよ」

 ゼノはそこまで語ると、首を動かし、目線を別の方向に向けた。

「この先の話は……マーラムよ、お前が語るか?」

 美咲とカイエンはゼノが向いた方に目をやった。

 そこに、佐多聖道次監と綾乃が黒いカーテンを振り払うように現れた。

「綾乃!」

「美咲!」

 二人は名前を呼び合った。その様子を見てこみ上げる笑いを抑えきれないとでも言うように、ゼノが不気味に口を曲げた。嘲りとも受け取れる薄笑いだった。

「マーラムよ、弟子を連れてくるとは大した度胸だ。お前も立派になったものだな。ところで、話の続きをするかね?」

「その話の続きは、もう既に美咲の知るところです……ゼノ、何故ここに?」

 佐多と綾乃は、ゼノの話を聞いていたのだ。

 綾乃は信じようとはしなかった。美咲が、かつて魔道士だったなどと!

 佐多とゼノとの間には、不規則変調技術を応用した無色透明の空間隔壁があった。カイエンが美咲に新世界を見せている間、残りの研究者達を葬り去った際に、ゼノはその技術を既に自分のものとしていたのだ。

 佐多と綾乃からは、ゼノがただそこに立っているようにしか見えない。そこから数メートル離れて、倒れそうなカイエンに寄り添う美咲もはっきりと見える。

 だが、見えない壁の遮断能力は佐多の力をも遙かに超えていたのである。

 佐多は美咲とカイエンに遠隔防御のジムノマンシーを送り込もうとして、はじき返されてしまったのだ。それに気がつかずに綾乃が美咲の方へ跳ぼうとしたが、やはり座標移動さえもできなかった。その隔壁の向こう側に行こうとしても、元の場所に戻されてしまうのだ。綾乃は時空操作術を工夫して何度も挑戦してみたが結果は同じだった。

 この暗闇も同じ技術で造られているのだとすれば、マイクロシティに入り込む際、やはり自分達を誘い込むためにガードが甘くなっていただけだったのだと、今更ながらに知った。

 ゼノが答えた。

「私は貸したものを返してもらいに来ただけだ。その為には、カイエンの計画に協力せざるを得ない。気を悪くしないでくれ給え。これが終われば、私は頼まれずとも直ちにこの世界から消え失せる。それまでは、静かに観劇していてほしい」

 綾乃は佐多を見た。その佐多も険しい顔でゼノを睨みつけるばかりだ。

「さぁ、カイエンよ。ここから先はどうするつもりなのか、教えてはくれまいか?」

 ゼノは再び両眼を赤く灯した。低い声が重低音となって不快な地鳴りをもたらす。

 ゼノによって供給されるエネルギーをカイエンはようやく全身に行き渡らせ、制御できる状態で安定させつつあった。カイエンに触れている美咲の手に冷気が伝わってくる。ゼノに敵意はなく、この空間を維持し、且つ、カイエンに膨大な闇のエネルギーを供給するためだけに、まるで深層魔界のごとき闇を作り上げているのだ。

「取引の続きをしようか」

 カイエンの声は力強さを取り戻しているようだった。

「セレーネを失った時、俺の魂は人間のそれと魔の心に分離した。それは同時存在していて、しかし闇の心が勝っていた。俺は人格を変えたんだ。聖道士だったオリジナルの心が表に出ようとした時、あんたはそれを抑え込む方法を教えてくれたっけな。今度は魔道の師匠としてだ。俺の魔力は一から十まであんたの指導の賜物だ。礼を言うぜ。おかげでこんなことができるようになった……」

 カイエンの足下に白い影が現れた。それは次第に背後に向かって人の形に伸びていき、やがて空間全体を呑み込むように闇に浸透していった。

 美咲は二度、その呪文を耳にすることになった。つい今し方、千年前の世界を造り上げた、あの呪文だった。そしてそれは呪文と呼ぶにはあまりに超科学的で、まるでプログラム言語のように聞こえたのである。

「まさか……そんなことが!」

 佐多はそこに広がった世界を目のあたりにし、驚愕せざるを得なかった。闇の波動を練り込んで物質化したものでも、単純な時空操作術で過去の空間を切り取ったわけでもない。

 ましてや幻想などではなく、そこには新しい世界が局部的に誕生していたのだ。

 綾乃には何が起こったのか全く分からなかった。しかしそれが自分の知る法術のいずれにも当てはまらないだろう事はたちどころに理解できた。

 そこは、別の宇宙だった。

 綾乃から見れば、それは西欧中世初期の町並みに似ていて、細部をよく観察すればするほど、見たことのない組み合わせの風景が連続している。そして佐多にとっては懐かしい第二の故郷とも言える美しい世界に他ならなかった。

「美咲! カイエンから離れて!」

 叫んだのは綾乃だった。どうしても越えることのできない透明の壁に、聖道士としては御法度である破壊の衝動を覚えながら、ありったけの思念波を飛ばした。

 佐多は美咲を信じていた。魔道に落ちるはずがない、と。

 しかし、美咲は佐多にも、綾乃にさえも予測し得なかった言葉を発したのだ。

「天使になるって約束、守れなくて、ごめんね、綾乃……。佐多聖道次監、あなたには感謝しています。再びカイエンと出会わせてくれた。そうですよね? 私、自分を知ることができました。思い出すことができました。そして、分かったんです。私が人間の藤森美咲として殺された時、何故、魂を闇に染める事なく死ねたのかを。私は、罰を受けたんです。いいえ、それだけじゃない。きっと、今日この日がやってくる事を、待ち望んでいたんです。罪を償い、何も起きなかった世界に戻るために」

 佐多は信じられないという思いで声を振り絞った。

「美咲! いや、セレーネ! 君は聖道士だ! いったい何のためにこれまでやってきたんだ!? 君はまた闇に還ろうというのか? そこは決して君が望む楽園などではない! 地獄なんだぞ!」

 美咲は呼吸を整えてからゆっくりと返答した。

「魔道に堕ちるのではありません。人間に戻るんです。そして、カイエンも……」

「美咲! どうして? 天使になる約束なんて、どうだっていい! 何故、別の世界に行こうとするの? いまの美咲はセレーネじゃないわ! どうして過去を選ぶのよ!」

 綾乃は美咲の目を覚まそうと必死に叫んだ。

「私はずっと、自分が聖道士であることに疑問を持っていたわ。このままでいいのか、本当に自分は天使を目指しているのか、それが自分に相応しい事なのか……。そして、自分が誰なのか! その答えを見つけたのよ! 私はこの世界にいるべきじゃない。きっと私は本来いるべき自分の居場所を、探していたのだと思う……ずっと迷い続けながら、過去に囚われて未来に生きるなんてできないわ! 私には、天使になる資格なんて、ないのよ。そして、聖道士である資格さえも……」

 それは決心だった。

 佐多と綾乃は、絶句した。

 魂の選択。

 いま美咲は、選んだのだ。

 闇の浸蝕にも、幻惑にもよることなく、確実に自分自身の強い意志によって。

 悩み、考え抜き、運命を知った上で最後に自ら導き出した答えだった。

 別れを悟ったのか、綾乃が涙を闇にこぼした。

 しかしそれでも、美咲は涙を見せなかった。

 揺るぎない心が、佐多には眩しく感じられた。

 それでいいのか、セレーネ?

 声には出さず、心の奥底で問う。

 これでいいのです。

 美咲の声が聞こえたように思えた。

 それが君の、未来ならば……。

 佐多は自分自身にも、答えを出すしかなかった。

 それまで沈黙を守っていたカイエンが、時を見定めたように口を開いた。

「美咲、君の影精を見せてくれないか?」

 その光景に、ゼノさえも目を見張った。

 巨大な黄金色の翼龍が突如として出現したのである。それはゼノの体を貫いた時に比べ、明らかに十倍以上もの質量を保有していたのだ。

 美咲のサテライトは、闇に包まれたその空間に七色の放電で明かりをもたらした。

 カイエンは激しくも静かに浮遊するその翼竜に左手で触れると、長い呪文を唱えた。

 呪文が終わると同時に、カイエンの姿が二重映りになり、分身の影が吸い込まれるように黄金の翼竜の中へと溶け込んでいった。

「準備完了だ。ゼノ、後をよろしく頼む」

 ゼノは表情を変えることなく、カイエンを見据えていった。

「ふん、美咲の影精に魔力もろとも、不規則変調技術と新世界創造法を移動させたのか。人間に戻った瞬間に、新世界への入り口を封じさせる時限プログラム……。同じようにそれを私も受け継げばよいのだな? よかろう、気に入った。この聖なる儀式が、滞りなく執り行われるよう、私が立会人となろう」

 カイエンが美咲を見つめる。美咲は空間防護壁を全て解除し、心を解放した。

 美咲の心拍数が再び跳ね上がる。美しいカイエンの顔が目の前にあるからなのか。

 誰かが心の扉を力強く叩き続けている。

 それは美咲の鼓動にリンクして、更にカイエンの頬へと伸びる手を震わせた。

 カイエンは意を決したように美咲を抱きしめた。

 これまで暖かい波動を発していたその体からは、もはや冷気だけしか感じられない。

 だがそれも、もうじき血の通った体温に変わるだろう。

 全ては始めから、〈アカシックレコード〉に組み込まれていたのだ。カイエンが魔道士となった時。ゼノがカイエンに魔力を与えた時。千年の時を越え、時空が繋がったその時に。

 それに抗う意味など無い。全ては、定められていたのだから。

「美咲、君は聖道士であることを放棄するだけでいい。俺は逆回成の術で君の波動を造り変え、人間に戻す。君が俺に重なった時、俺が自身に課した全ての呪いが解除され、自動的に魔道士ではなくなる」

「……でもそれでは、あなたは灰になってしまうわ」

「いいや、美咲。涙を流さなければ、灰にはならない。ジムノマンシーによる浄化ではないからね。俺は魔道士として消滅するんじゃない。闇から解き放たれる瞬間に、千年前の俺に戻るだけだ。そのように自分自身に施したプログラムが、いま、ようやく発動する。その時が、来たんだ」

 至極自然と、美咲の唇がカイエンの唇に重なろうとして磁力が働いた。あらゆる物理法則に従い、万物理論の行き着く果てにある集大成のように、それは全ての答えだった。

 カイエンがタイムカプセルとして埋めた眠れるプログラムが、その聖なる行為によって起動する。二人は同時に人間に戻り、美咲のサテライトによって永遠に封じられるのだ。

 その儀式は闇に光を与え、光に影をもたらした。遙か時の彼方から流れる、時間という名の激流に身を任せ、創造される新しい世界にその身を漂わせる。

 その波動変換は、刹那的にやってきた。

 永遠の過去から逆流する魂の河が、美咲自身にも理解できない氾濫によって濁った水に変化した。

 美咲はその劇的な衝動に自分を抑えることができなかった。それは精神力などという曖昧なもので制御できるほど、児戯に類するものではなかったからだ。

 美咲は、自分が自分であるという当たり前の自我を失い始めた。

 扉が、開かれてしまった。

 それは口づけであったのか、それともナノメートルの距離で磁極に変化が生じ、反発し合ったのか……。

 カイエンと美咲は、ゼノが見守る中あらゆる波長の光を時には強く、時には穏やかに放射しながら、ゆっくりと白い光の中に溶け込んでいった。波動レベルにおける物質変換は、宇宙全体をその場だけに凝縮した密度の儀式として、しかし厳かに執り行われたのである。

 かつて時の門と呼ばれていた場所。カイエンが造り出した新世界への入り口。

 その門の下で口づけをかわす儀式により、いま二人は新しく生まれ変わる、はずだった。

「全ては、終わった……。人間に戻れたんだ……美咲?」

 晴れ晴れとしたカイエンの表情が一転して曇りを見せた。

 美咲は俯いたままだ。

 小刻みに震えている。呼吸が荒い。

 逆回成を応用した術は完璧だったはずだ。人間に戻ったカイエンには、もはや見ただけで確かめることはできなかったが、まさしく手に取るように結果は確実だと信じていた。

 どうしたことか、浮遊していた美咲の影精の姿が見あたらない。独立した精神体である影精は、聖道士本体が人間に戻ろうとも、その魂が消滅しない限りは直ちに消えてしまう事などないはずであった。

「……美咲?」

 もう一度、名前を呼んだ。

 美咲が顔を持ち上げた。

「!」

 その場にいる者が皆、硬直した。信じられないものを見る目が一点に注がれる。

 健康的な肌色をしていた美咲の顔が、死人のように白い。カイエンを睨む双眼は血のように赤く、肩を上下させて苦しそうに呼吸しているのだ。

 その可憐な顔が、見るうちに真っ青になっていくではないか!

 あれほど艶やかに紅潮していた唇が、いまは黒ずんだ紫色に変化していた。

 その唇がゆっくりと開かれる。

 鋭い牙があった。

 獣のような咆吼が轟いた。それは紛れもなく美咲の声帯から発せられたものだった。

「美咲! 何故だ? 君は人間に戻ったはずだ! 千年前に戻したんじゃない! 君が人間として死を迎える直前に戻したんだ! なのに、何故なんだ! 美咲!?」

 カイエンが美咲の両肩を掴み、前後に揺さぶる。

 美咲の聖道士防護服は、純白なままだった。

 美咲の目がよりいっそう真紅に光った。

 獰猛な肉食獣の不気味な鳴き声は、カイエンの耳元で聞こえた。

 佐多は、我が目を疑った。

 綾乃が、泣きながら崩れた。

 ゼノの腕が激しく振り上げられた。

 闇の空間にひびが入り、ガラスが砕け散るように、閉ざされた空間が解き放たれたのだ。

 それは闇のエネルギー供給を断ち切る為だったが、暗黒から真っ白な無の空間へと波動変換されるその間際に、美咲の二本の牙がカイエンの首へと吸い込まれた。

 重力を失った白色光の空間に、カイエンの赤い血が筋となって宙に漂い、すぐに無数の真っ赤な水滴となって散開した。

 綾乃は自分が壊れるくらいに限界以上のジムノマンシーを凝縮して、次元を越えろとばかりに美咲の名を叫んだ。

 美咲を、止めなくては!

 ゼノの制御下にあった迷宮隔壁はその機能を停止している。

 無意識にジムノマンシーを発現させた綾乃は、その空間全体を、ぐにゃりと曲げた。

 それはゼノでさえ予測の範囲を超えた強制的な空間座標移動となった。

 燦々と降り注ぐ太陽の光は、カイエンの目を一瞬だけ閉ざした。

 生暖かい海風がその場にいる全員に絡み合い、通り過ぎていく。

 綾乃はとっさに人界へと座標移動させたのだ。

 そこは、風の塔の上だった。

 突然に、美咲が苦悶の表情を浮かべ、青い顔を激しく歪ませると、仰け反ってもがき苦しみだした。美咲の体から、いくつもの燻る黒煙の筋が立ち上る。

 カイエンは美咲の身に何が起こったのか、理解できなかった。

 晩夏の太陽の光が強烈な激痛を与え、呼吸に関わる神経を不全にさせ、美咲は悲痛な叫び声を上げてのたうちまわった。

 それは獣の唸り声ではなく、美咲の声に戻っていたのである。

「美咲!」

 駆け寄ろうとする綾乃を、佐多が制した。

「待て! いまの美咲に聖道士が近づけば、再び闇を呼び起こすぞ!」

 なおも制止を振り払おうとする綾乃の腕を佐多が掴んで止める。

 太陽光にさらされた吸血魔道士はそれだけで崩壊寸前の状態にある。綾乃はそれでも美咲なら自分の内にある魔道士の魂に打ち勝てると信じてここに座標移動したのだが、加えて聖の波動による刺激は、いまの美咲にどんな現象をもたらすか予測できなかったのだ。

 ゼノはゆっくりとカイエンの方に歩き出し、呟くように言った。

「お前は千年前のセレーネを、自分の中で断ち切れてはいなかったのだ」

 ゼノは遥かなる太古の昔を思い出すかのように言葉を続けた。

「私がかつてセレーネに施した封印。それは決して完璧な技術ではなかった。それほど魔道士だったセレーネの魂は強大なものだったのだ。お前は最もしてはならないことを、選んでしまった。逆回成の術法に加えて、お前は美咲の過去を復元しようとした。同時にそれは、千年前に封印した闇のセレーネの復活を手伝ってしまった。そればかりか、お前は口づけをプログラム発動の鍵に設定した。吸血魔道士の行為を象徴する儀式を。それによりセレーネの中で、闇の復活が決定的なものになったのだ。カイエンよ、何故、人間に戻ろうなどと考えたのだ?」

 美咲は戦っていた。内なる自分の別人格と必死に激闘していたのだ。

 カイエンによる波動変換制御でこの最下層三次元の肉体に戻った美咲は、もはや聖道士としての全ての能力を失っていた。ジムノマンシーによる魂の保護機能を欠いた状態で、内側から扉を叩き続けていたもうひとりの自分自身によって、美咲は心を支配されてしまったのである。

 だが美咲としての魂までも掻き消されてしまうほど、決して弱体化したわけではなかった。

 それが訓練の成果であったのか、あるいは美咲が本来持つ自我の力であるのか。

 美咲は、自分を取り戻し始めていた。

 青く塗られたような魔女の形相から、少しずつ白い肌に戻り、唇には紅色が復活しつつあった。いつの間にか牙は消えて、元の美咲の顔になっている。

 何が起こったのか、その惨劇の間に起きたことを美咲は覚えていなかった。

 コンクリートの地を這うように、倒れたままのカイエンに近づく。

 美咲の目に、何かが映った。

 素早く動く黒い物体は、目にもとまらぬ速さで走り去り、ゼノの足下で止まった。

 ジンだった。魔道士ではなくなった主人の体から、消していたその姿を現したのだ。

 番人の眼とは、ジンの能力だったのか。

 疲弊しきった上に頸動脈を噛み切られ、出血が止まらないでいるカイエンには、既に指一本動かす力も残ってはいなかった。

 牙による伝導の波動変換は、一気には完了しない。血液が巡るようにして、体中の分子を徐々に変えていくのだ。故にいまのカイエンは魔道士でもなく、人間でもなかった。

 そしてそれは、美咲にも言えることだった。

「カイエン!」

 横たわるカイエンの首筋から流れる血を見て、美咲は自分の口元からしたたり落ちる生臭い液体に気がつき、恐る恐る手で拭った。

 哀しみと憎しみの叫び声が、空と海に響いた。

 美咲は自分の所業を明確に思い出したのだ。

 どうしたらよいのか分からず、混乱したままカイエンを抱き起こそうとした。腕に力が入らない。手に付着したカイエンの血が千年前の服を赤く染め、それが再び美咲の意識を破壊しようとするのだった。

「そんな……ああ、カイエン。私……私……どうして、こんなことを……」

 溢れ出た涙が重力に従い、美咲の唇を染めて凝固し始めていた血を溶かす。

 それを見て、カイエンはなんと美しいのだろうと思った。

「お願いだ。泣かないでくれ。君が悪いんじゃない。俺が馬鹿だったのさ……」

 静かだった。周りを囲む海も、遠慮がちに波音を立てているかのようだ。

 佐多が綾乃の肩に軽く手を乗せ無言でここを動くなと指示し、真っ直ぐカイエンの方に歩き出した。

 今度はそれを見たゼノが佐多を手振りで止めた。

「ゼノ! 今なら間に合う! 私が回成させれば!」

「いまの美咲は、魔道士になりきっていない。かつて吸血魔道士であったお前なら、知っているだろう。涙を流しても崩壊しない状態では、物理的に人間の肉体でしかないという事なのだ。それでは回生も意味がない。あとは美咲の心次第だ。ジムノマンシーで心まで操れるというのかね?」

 ゼノの言う通りだった。それは佐多にも分かっている。

「しかし、カイエンの波動変換を止めることならできる!」

 佐多は構わず二人に駆け寄ろうとした。綾乃は何もできない自分が情けなく、しかし佐多が助けてくれる事をひたすらに願った。

 突然、佐多の体が半分消えたように見えた。カイエンに手を差し伸べようとして、半身が空間に潜り込んだ状態になったのだ。更にその反動ではじき飛ばされてしまった。

 そこには、翼竜の影が一瞬だけ現れて、消えた。

「美咲!?」

「……私じゃない! 違うわ! 私じゃない!」

 何と言うことだ。

 いま、美咲によって抑え込まれている魔道士のセレーネは、美咲の影精を呑み込んでいたのだ。聖の化身である影精を一瞬にして配下においてしまうほど、闇のセレーネの力は強大なのか。太陽の光と取り囲む海、そして強靱な美咲の魂によって表にこそ出現できないが、美咲の内側からは防御に徹した強力な闇のエネルギーを放出しているのだ。

 目の前にいるのは、生身の人間に過ぎない美咲自身だ。もしもゼノが、より圧倒的な魔力で闇のセレーネを伐てば、美咲自身はどうなるか……。

 起きあがろうとする佐多が、思わずその動きを止めた。陽の光が突然に遮られたのだ。

 黒緑色をした鹿角の翼龍が、空中に姿を見せていた。

 ゼノが使い魔を出現させたのである。それは美咲の影精に瓜二つだった。

 黒い龍は美咲を目指して突進したが、同じく侵入を拒まれてしまった。

「やめてくれ、ゼノ! 妙な考えは起こすなよ。美咲を、もう壊さないでくれ!」

「美咲! カイエンから離れるんだ! 強制波動変換する! ゼノ! あなたならこの空間隔壁を解除できるはずだ!」

「見ての通りだ。私の使い魔は聖道士の影精と同様に、私にほぼ等しい能力を持っておるが、侵入できぬ。不規則変調空間はそれを造った者だけが解除できる。セレーネから解除コードを奪う事は、人間としての美咲の生命に関わる。それでもよいか?」

「もう、遅いよ、マーラム。いいんだ。これでよかったんだ……」

 カイエンが弱々しい声で訴えた。自分の体が闇の存在に戻っていくのが分かる。しかしそれでもまだ、美咲の中で起きていることの全てを感じることはできずにいた。

「美咲は、俺が強くした。美咲の影精に新世界を制御させるだけのパワーを持たせる為だったんだがね……美咲なら打ち勝てる。涙を流しても灰にならないじゃないか。美咲? 君は強い。君を自分だけのものにしようなんて、俺はなんて愚かだったんだ……」

「カイエン! どうすればいいの?!」

「美咲!」

 佐多が再び近づこうとするが、ジムノマンシーを最大にしてもやはりはじき返されてしまう。美咲の影精は、不規則変調技術を身につけてしまっている。これでは美咲の内側に棲む魔のセレーネにジムノマンシーによる攻撃もできない。

 佐多もゼノも、ただ見守るしかなかった。

 美咲はカイエンだけでもと思い、佐多に助けを求めた。しかし……。

「美咲、俺から離れないでくれ。どうせセレーネは俺をこの空間から外には出さないさ。お願いだ。このまま、抱きしめていて欲しいんだ……」

 カイエンの体から、焦げる臭いが立ちのぼり始めた。至る所で白い煙が燻っている。

 闇の浸蝕が、全身に行き渡ろうとしていた。

 このままでは、吸血魔道士になりつつあるカイエンの体が陽の光で破壊されてしまう。そう悟った美咲は、カイエンを抱えて陽の当たらない陰に移動しようとした。海底トンネルのための換気施設が二つの塔になっており、いま二人はちょうど太陽光線の直撃位置にいたのである。

 しかし人間に戻った美咲の腕力では、カイエンを一メートル移動させることさえままならなかった。美咲は力尽きてカイエンの上に覆い被さるように倒れこんだ。

「カイエン! いやよ! 生きて! ずっと一緒にいたいんでしょう?!」

「……心を、乱してはいけない。それこそが闇のセレーネの望んでいる事だ」

 美咲は再び、涙をこぼした。それはダイヤのように光って、カイエンの頬を濡らした。

 カイエンは後悔の念で押し潰されそうになった。

「君に悲しみの涙を流させることになろうとは、思いもよらなかったんだ。俺は浅はかだった。俺は宇宙の終焉の時まで自分を呪い続けるだろう。全宇宙の歴史の中で、俺ほど愚かだった男は、いない……」

 囁くような繊弱な声だ。カイエンの顔が白く変化している。

 その時、美咲の流した涙に合流して溶け合うように、カイエンの透き通った眼から一粒の涙がこぼれた。

「ああ、カイエン! なんてこと!」

 美咲はカイエンを強く抱きしめた。

 魔道士の涙は、回帰崩壊現象を引き起こす。熟練した聖道士の回成によらず、自ら流した涙は制御不能な浄化の炎となる。

 人の寿命を超えていなくとも、魔道士であればそれは全ての者に平等且つ公平な化学変化として起こるのだ。

 異なるマルチバース宇宙のマイナス波動により成立する物質が、プラスの波動に転じることにより、分子間の力が急激に弱まることで崩壊するという理論は、この世界では仮説に過ぎない。

 カイエンは一度千年前の人間に戻っている。しかし再び魔道士となった以上、この決して解明されることのない、それでいて至極自然な物理法則から逃れる手段はなかった。

 唯一の救いは、魂だけは魔道士ではなく、人間のままであるという事だった。

 佐多は、カイエンの涙がもたらす物理現象に奇跡が起こることを祈った。

 美咲はカイエンがまだ人間であって欲しいと願った。

 だがその願いは、むなしく海風がさらっていったのである。

 カイエンの脚が、腕が、抱きしめた背中が、次々と砂のように崩れていく!

 それは現実という悪夢だった。

「いやぁぁぁぁっっっっ!!!!」

 あまりの衝撃にかすれた声にしかならない。泣きながら振り絞るように絶叫する美咲は半狂乱になった。

 崩れたカイエンの一部を取り戻そうとするが、掴んだ砂は無情にも灰へと変わり、海風に流れてしまった。

 更に崩壊し続けるカイエンの体に掌を当て、懸命にその現象を止めようとするも、いまの美咲には何の力もなく、為す術はなかった。

「いやよ! 駄目! 消えないで! やっと会えたんじゃない!? やっと私は、あなたと共に生きようって、ずっとずっと一緒にいようって、決めたのに!」

 美咲にとって、自分の命を失う事に恐怖はなかった。だが最も大切な人を失う事は、恐怖以外の何ものでもなかったのだ。

 それは単純な“死”ではない。

 人の生命活動とは何であろうか? 心臓が動いていることか。意志を顕すことか。それとも、手足を動かすことか。

 ではそれが失われたら、それが死を示すというのか?

 肉体の死など、一度でも聖と魔を、高次元の世界を知ってしまえば、恐れるに足らぬ。

 だが魂の消滅ならばどうか。例え消滅せずとも、無限の彼方へと去ってしまったなら。

 もしも転生というシステムの適用外となったなら……。

 もう二度と、会えないのだ。

 震える声はすすり泣きに変わり、美咲の中の精神それ自体が崩れ始めていた。

 カイエンを失う。

 それは絶対にあってはならない世界の終焉を意味していた。

 とめどなく涙が流れた。カイエンの名を叫び続け、嘔吐しそうになりながらも、崩壊が止まる事を祈るしかない自分を呪った。

 カイエンは近づく消滅に苦痛を感じてはいなかった。

 ただ美咲の涙に惨苦の思いでいっぱいになり、胸が張り裂けそうになった。

「……俺は君に、魔法をかけられたんだ。その素晴らしき魔法は、君にしか解く事はできない。今、その魔法が、解かれたのさ。これで、元に戻れる。それだけ、なんだ。そう、思ってくれ……頼むから、泣かないで、くれ……」

 美咲は気が狂い始めていた。抱きしめていたカイエンの体が、もうほとんど砂になりつつあったのだ。

 ゼノは全てを見届けることが自分の役目だと悟った。

 佐多は悔恨の念にうちひしがれていた。

 綾乃は、目を覆うしかなかった。

 カイエンは虚ろな目で美咲を見つめた。

「……最後に、言い忘れて、いた事が、ある、んだ……新世界、に、行っ、たら、言おうと、思って、いたんだ、けどね……行け、なく、なった、から、今、言う、よ」

「カイエン!」

「……愛して、いるよ……」

 崩壊現象の波は、ついにカイエンの首に襲いかかり、見る間に顔を砂の塊に変え、それは僅かに風が触れただけで脆くも崩れていった。

 その場にいた者が皆、全宇宙をも拒絶する痛嘆の咆吼を聞いた。

 カイエンの顔に触れようとした美咲の手が、空を切った。

 美咲の腕の中にいたカイエンは、もう人の姿をしていなかったのだ。

 積もった砂だけが、そこにあった。千年前の故郷の服さえも、蒸発するように消えてしまっていた。

 美咲はカイエンが消滅した事が信じられず、灰黒色の微粒子の山に両手を差し込み、そこに何かを見つけようとして気を違えたように手を動かした。

「ああ、カイエン! どこにいるの? 答えて、カイエン!」

 それまで確かな感触があった砂は、やがて真っ白な灰に変わっていった。重さを無くしたカイエンの灰は、この時を狙い澄ましていた海からの突風によって、つむじ風のごとく群青の空に舞い上がった。

 美咲は既に壊れていた。

 その一粒一粒を掴もうとして、宙を天空まで辿るように両手を踊らせるが、美咲の掌には何ひとつ残らなかった。

 美咲は天を仰ぎ、絶叫を繰り返した。血を吐くほどに何度も、何度も。それは、悲痛な慟哭だった。

 涙が涸れ、喉に痛みを感じた美咲は、呆然となって辺りを見渡した。

 これは、夢だろうか?

 僅か一時間前に、このような事になろうとは、思いもしなかった。

 ……カイエンがいない。

 その事実が、美咲の心にかつてない波動を生み出していた。

 カイエンの残像すらない、粉雪を思わせる灰が上昇気流に乗って青空に舞い上がる。

 美咲は、再び天を仰いだ。

 この時、美咲の中で身の毛もよだつ音を鳴らして、変化が生じていた。

 もしも本当に天使がいるのであれば、どうして助けてはくれなかったのか?

 メタトロンが存在するのであれば、何故、願いを聞き入れてはくれなかったのか?

 どうして、見捨てた?

 何故、手を差し伸べてはくれなかった?

 それが天使なのか?

 メタトロンとは、単なる幻影なのか?

 それが答えだというのなら……。


 ……呪ってやる!


 天を呪い、人類を呪い、全宇宙のあらゆるものを呪ってやる!

 美咲の潤んだ眼が、突然乾いた。

 充血した光る目が横に動く。その先に、ゼノ、佐多、そして綾乃がいる。

 その目は、憎悪と怨念に満ちていた。

 美咲は操り人形のように立ち上がって、再び空を見あげた。

 その体から、黒いオーラが蒸気のように噴きだし始めたのだ。

「美咲……」

 綾乃は親友の姿を見て息を呑み、その名を呟いた。

 美咲の血にまみれた純白の聖道士防護服が、流れる雲の陰に入り込むように黒く染まっていく。

 闇のセレーネが、表に出ようとしているのだ。

「美咲!」

 綾乃の泣哭の呼び声が、美咲の耳に届いた。

 その声が、美咲を呼び戻した。

 美咲は一瞬我に返り、再び現れようとしているもうひとりの自分を至近距離に感じて、聖道士であった時の心に立ち返ろうと努めた。

 一瞬でも天を呪った自分を恥じた。その邪念は、綾乃をさえも憎しみの対象としていたのである。自分はなんと忌まわしい事を!

 美咲は見えない敵と対峙した。

「……美咲!」

 佐多が自分の名を呼んでいる。

「美咲……」

 ゼノの声も聞こえる。

 地獄の底から這い上がってくる闇の衝動が、いま自分を呑み込もうとしている!

 どうすればいい?

 誰も答えてはくれない。

 そして、それを恨んではならないのだ。

 カイエンなら、どうしただろうか?

 ……そうだ。

 美咲である自分と、セレーネとは、本来同じ魂のはずだ。

 ならば、一体になればいい。溶け合えばいい。打ち消し合うことで、闇を消滅させてしまえばいいのだ。

 自分を閉じこめてしまえば、もう二度と扉が開く事はないだろう。

 私が外にいるから、セレーネも外に出ようとする。

 二人で扉の内側に入ろう。そして、鍵をかけよう。

 二度とは開けられない鍵で。

 それだけが、残された方法だ。

 ……美咲は、目を閉じた。

「美咲!」

 綾乃の声は、もう美咲には聞こえなかった。

 美咲はその場に倒れ込み、意識を喪失した。

 最初に美咲を抱き起こしたのは、綾乃だった。脚で走っても数秒の位置に、綾乃は座標移動してすぐさま美咲を抱擁したのだ。佐多やゼノの使い魔が侵入不可能だった空間隔壁は完全に消えていた。

「美咲! ねぇ、美咲! 起きて! 目を覚ましてよ! 美咲!」

 佐多も駆け寄り、美咲の額に触れる。死んではいない。だが、魂が見えなかった。

「そんな、まさか……美咲は、自らを封じたと、いうのか……?」

 そう呟く佐多の声も耳に入らないほど綾乃は必死になって、目を開けようとしない美咲を揺さぶり、名前を呼び続けた。

 何度も、何度も美咲の名を呼び、声が涸れて涙混じりになっても、美咲が目を覚ますことはなかった。

 上空に散ったカイエンの灰は、流れゆく白い雲に重なって、一粒も見えなくなっていた。



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