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第三章(file4)

 世界の実体、目に見えるものの存在が、いかに不安定で、儚く、そして不確実なものであるかということを、カイエンは千年の人生を通して、あらためて考えざるを得なかった。

 万能である力など、在りはしない。ましてやそれを自分が保有しているなどと、傲慢な思いを持ち合わせてもいない。番人の眼を持ってしても見つけられないものが、全世界にどれほどあるのか、それを考えること自体、馬鹿馬鹿しいとさえ思っていた。

 数千兆分の一秒単位で空間周波数が大きく変動し続ける堅く閉ざされた世界。探知した瞬間に消え失せてしまう、幻とも言えるその惑いの空間には、白い長袖ワンピースに身を包んだ美咲が目を閉じて宙に漂っていた。ランダムに変調される空間周波数に自動リンクする方法はフェンライの記憶から探り出してあったものの、それを可能とするための魔力の消耗はカイエンの寿命を著しく短縮させるに十分だった。

 疲労困憊したカイエンの肉体は限界を超えた状態にあったが、空間に入り込んで美咲を見たとたんに、発生源の不明なエネルギーが沸々と湧き上がり、体中に行き渡っていくのを快感として感じることができたのである。

 カイエンは全ての思いを込めて優しく美咲に囁いた。

「美咲……俺はいま、君のそばにいるよ」

 そこには酸素があった。外界の大気中成分を忠実に再現した空気だ。美咲はカイエンの精神感応よりも、その空気を振動させた声に反応して、ゆっくりと目を開けた。

「カイエン……」

 力のない声がカイエンの耳に届いた。この不規則変調空間は闇の波動は通しても、ジムノマンシーの供給源である聖界や光次元とのパイプを完全に遮断しているらしい。美咲はそれに気づいて力を温存していたのだ。きっとカイエンが助けに来ると信じて。

「……意外と、早かったわね。今度は本物かしら?」

 宙に漂ったまま、美咲はうっすらと笑みを浮かべて言った。

「偽物の矮小な魔力で、ここに来られると思うかい? 待たせて悪かった」

 カイエンは残った力を振りぼって、美咲の所まで体を移動させた。

「さあ、ここを出よう」

「本当に、助けに来てくれたの?」

 冷気は感じなかった。しかしいつもの暖かい波動が、とても弱々しく感じられる。だが紛れもなく本物のカイエンに間違いない。

 美咲はカイエンの言葉を勘違いして受け取った。元の人界に戻ろうと言っているように聞こえたからだ。カイエンは、この不規則変調空間から脱出しようという意味で言ったのだが、それが美咲に伝わっていないことに気がつかずにいた。美咲の思考に同調できなくなってきている。それほど魔力の維持が困難になっていた。

 倒れかかるようにして美咲を抱きしめたカイエンは、精神力だけで魔力を制御し、研究者達が作った閉鎖時空間に戻った。復活した重力は一気にカイエンに重くのしかかり、崩れ落ちるように倒れそうになったので、美咲は重病人を世話する看護師のようにカイエンを抱きかかえ直した。その鍛え上げられた体は、見かけよりも軽く感じた。

 カイエンは残りの研究者達が息を潜めている限り、この空間がすぐに消えることはないだろうと踏んでいた。フェンライを消し去ったことで、研究者達はすぐさま攻撃してくることはないだろう。

 しかし諦めきれずに、様子を伺っているのだ。彼等とて馬鹿ではない。カイエンが魔力を失いつつあることを感じ取っていないはずがなかった。

 聖道士である美咲と共にいれば、ひとまず安心だ。カイエンはそう考えていた。

 美咲は、カイエンが何故これほどに衰弱しきっているのか、理解できなかった。自分が幽閉されている間に、思った以上に激しい戦闘を繰り広げたのだろうか。もしそうなら、仕事中とは言え、むげに追い返すわけにもいかない。

「カイエン、大丈夫? 何があったの?」

「君は知らなくてもいいことさ。君の仕事とは関係がないことなんだ。俺の個人的な事だから、心配はいらない」

「心配いらないって……そんな状態で何を言うの。私を助けに来てくれたのは事実でしょう? ありがとう。今度は私があなたを助ける番のようだけど、どうすればいいのか、分からないわ。佐多聖道次監なら、あなたを助けられるかしら?」

「男に抱き起こされるのは願い下げだ。君に看護を頼みたい。永遠にね」

「カイエン、偽物のあなたにも言ったけど、私を魔道に堕とそうなんて、考えても無駄よ。分かっているでしょう?」

 困ったような表情の美咲から目を離さないようにして、カイエンは両脚を踏ん張り、美咲の肩に手を添えるだけで自分の力で立って見せた。

「俺はこれでも、千年もの間、君を捜し出すためにあらゆる世界を経験してきた男だぜ。氷で閉ざされた世界、燃え盛る灼熱の世界、砂嵐と雷雨の世界、エトセトラ、エトセトラ。もちろん、魔界の深淵でも常連客だった。ツケが効くくらいにね……それ以前の俺は亜空に住む普通の市民だった。いや、普通というのは間違いだな。俺は聖道士に仕える従者で、できの悪い転成者候補だったからね。君は、俺に尋ねたっけな。ゼノとは知り合いかと。ゼノは当時、俺の住む世界で聖道監を努める聖道士だった。次期天階位との呼び声高い、俺の師匠様だったんだ。俺がまだ無能な人間だった頃の話さ」

 不自然に饒舌になったカイエンを美咲が心配そうに見て言った。

「カイエン、いったいどうしたというの?」

 ふらつく体のバランスを取りながら、カイエンは左手を美咲の方に伸ばした。

 その手が、壊れ物に触れるかのように美咲の頬を優しく愛撫する。

 美咲はキャンプ場でカイエンに触れられた夢を思い出し、逆に自分がふらつきそうになるのを必死で堪えた。

「不本意な空間ではあるが、久しぶりに二人きりになったんだ。少しばかり昔話をしてもいいじゃないか。なぁ、美咲。俺は一日千秋の思いで、この時を待ち焦がれていたんだ」

「何故、今なの? あなたは私をセレーネだと分かっていたわ。どうしてもっと早く行動に出なかったの? 何を、待っていたの?」

 早口になった美咲を笑顔で見つめながら、カイエンは自信たっぷりに答えた。

「その答えは、これさ」

 カイエンは美咲の顎まで差し掛かっていた左手を惜しむように引き離すと、水平に腕を伸ばして、これまで聞いたこともないような呪文を唱え始めた。長い呪文の間に、カイエンの掌が向けられた方向の空間に巨大な穴が空き、豊かな色彩の光溢れる異世界が広がっていったのである。

 フェンライがカイエンを惑わす為に見せた、カイエンの故郷だった。それは同時にセレーネと過ごした千年前の最も幸福だった時間を呼び戻した世界であり、カイエンの最終目的地であり、新天地でもあった。

 美咲にはそれがキャンプ場で修行した幻影空間や、仮想魔界で経験した歪み空間とは根本的に異なるものだと直感した。むしろそれは、時空操作術で甦らせた過去の再現に近しい現象だったのだ。

「さあ、美咲。思い出すんだ。君がセレーネであった頃の時間を……」

 やがて全方位を覆い尽くした新世界は、美咲の魂に直撃とも言える強烈な稲妻を浴びせると、完全なる存在となって美咲の遠い記憶に重なり合ったのである。

 エメラルドの空、ガーネットで敷き詰められた石畳の街道。大通りの交差点には、所々にオパールやアメシストが埋め込まれ、ジルコンやトルマリン石で作られた家屋の外壁が煉瓦に混ざって立ち並んでいる。

 そこはフェンライがカイエンに見せた世界よりも遙かに世俗的で、美しいところも、汚れたところも、その全てを細部に亘って千年前の世界そのままに再現していた。

 街の空気が、自然の臭いが、美咲の鼻と口を通って入り込み、目に映る景色が、耳に入る雑多な音が、固く閉ざされた前世の記憶の扉を開くための潤滑油となったのである。

 美咲が生まれた人界においては半貴石も含めて宝石と呼ばれる類の鉱物も、かつて自分がセレーネであった頃にいたこの世界では、火成岩や堆積岩と同じくらいに当たり前の存在だった。そのことを美咲は次第に思い出し始めて、自分の中にもうひとりの自分がいるような気分に陥り、同時に二つに分かれていた意識体が一つになろうとしている不思議な感覚を得ていた。

 ああ、この道はいつも歩いていた道だ……。

 千年前の服装をした街の民がゆったりと、あるいは忙しなく行き交う。いまカイエンが着ている見慣れない服によく似ている。

 街道に並んだ商店からは、威勢の良い売り子の声と、賑やかな客達の声が聞こえてくる。道の端では、子供達が地面に絵を描いて遊んでいる。

 ああ、この通りの人達とは、毎日爽やかな挨拶を交わしたものだ……。

 小さな街だ。人気の少ない街のはずれまでなら散歩にもならない。

 時の門をくぐると、晴れ渡った空と同色の道が森へと誘う。

 ああ、ここはカイエンといつも待ち合わせていた場所……。

 目眩く薫風の煌びやかな世界。美しい銀色の湖。森を駆けめぐる金色の蝶。七色の虹を飛び交う青い鳥たち。オーロラが地上にまで降りてきて、二人を祝福してくれた。

 ああ、そうだ。思い出せる。

 美咲の中で沈殿していた様々な記憶ファイルが一斉に上昇し、組上がり、姿を見せた。

 森を抜けた所に広がる雄大な草原は、アレキサンドライトの原石と花々の色合いがこの上なく美しく混ざり合って、昼間の月を精一杯飾り立てている。

 ここだ。

 夢で見た場所は、ここに違いない。

「そうだ美咲。思い出しただろう。思い出は確かに美しいだけではない。いまここで全てを語ろう。君は……セレーネは、ここで一度消滅したんだ」

 背後からカイエンの声が響いた。

 はっと我に返った美咲は、それでも自分が聖道士であることなど忘れてしまい、タイムスリップしたとしか思えないこの世界をもっと知りたい、思い出したいという欲求に支配されつつあった。

「ああ、カイエン。とても胸が苦しい。セレーネの魂が、私の心に溶け込んでくる!」

「不安になる必要はない。この世界は、何も起こらなかった歴史の世界だ。俺が造った平和の世界だ。魔道士もいない。聖道士もいない。人間だけが存在する。魔属の目を引くこともない。空間が歪むこともないんだ。俺達の世界だ、セレーネ……」

 美咲は苦しそうな表情をしながらも、顔は紅潮し、目を潤ませている。止めどもなくこみ上げてくる深い感情によって、鍛練を積んで強靱なはずの精神はいとも容易く突き崩されそうになり、魂が肉体ごと破裂しそうになった。

 それは一から十まで、カイエンに対する特別な想いだったのだ。

「ああ、カイエン! 記憶が蘇ってくる! 私、心も体も燃えてしまいそうよ!」

「そうだよ、セレーネ。君は心を閉ざしていただけさ……分かっていたよ。俺が君を捜す旅に出る事を、君は予見していた。その為に俺が魔道に堕ちるだろう事も。時を止めてしまうだろう事さえも! だから君は、自らを隠したんだ。不可侵な聖域に身を潜めたんだ。不規則変調空間である人界に転生し、魂の色を変え、波動をも変えたんだ。だが君は心の奥底で叫んでいた。転生した自分を、見つけて欲しいと。捜し出して欲しいと。その波動は時を越え、次元を越え、空間を越えて俺の魂に届いたんだ!」

「駄目よ、カイエン。私は聖道士で、あなたは魔道士だわ。昔とは違うのよ!」

「そうさ。昔とは違う。同じであってはならないんだ。悲劇を繰り返してはいけない。過ちは正さなくてはならないんだ。俺達が永遠の時間を手に入れる方法がひとつだけある」

 カイエンの顔が歪んでいる。苦痛に耐えているのだ。カイエンがフェンライから盗んだ技術で造り出したこの世界は、他の全ての空間との関わりを完全に遮断し、何者も往来することを許さない密閉性を保持している。故に、いまのカイエンにとってはエネルギー補充が絶たれている上に、人界ほどではないが三次元1%制約にさらされているという最悪のコンディションなのである。そのほとんどが戦闘に関連していたとは言え、大半の魔力を失った今、ただ立っているだけで気絶しそうになるほどのダメージを負っていた。

「カイエン、私は藤森美咲よ。二十一世紀の日本で生まれたのよ。セレーネじゃないわ。あなたの知っている恋人ではないのよ!」

 その言葉がまるで物理的な作用を与えたかのように、カイエンはその場に崩れ倒れた。

 世界は一瞬にして消え去った。座標移動したと錯覚するほどに、それは突然だった。

 カイエンの魔力が切れたのではなく、魔道士であるが故にもうこれ以上、新天地の空間内にいることができないからだった。美咲がカイエンに駆け寄って抱き起こす。

「大丈夫? ああ、カイエン。私もあなたといつまでも一緒にいたいわ。でも私は魔道には堕ちない。あなたが回成するしかないのよ!」

 涙を堪えた声にしかならない。気のせいかカイエンが痩せ細ったように感じる。

「方法が、あるんだ。他にひとつだけ……特別な魔法さ。いや、最新技術と言うべきかも知れない。それにね、俺は聖道士にはならない……なれないんだ。回成を受け入れないことが、独立系魔道士になるための条件であり、自分との契約だからね。この自己契約……呪いのおかげで、俺は魔界との接続が切れてもある程度、魔力を維持できる。もしこの契約を破れば、回成が完了する前に灰となって消滅してしまうんだ。魔属に魂を売り渡さない代わりに、自分自身と魂の取引をしたのさ」

 カイエンは美咲に抱かれながら言った。息をするのもつらそうに見える。

「どうしてそこまでするの? 私は、千年前のセレーネではないのに……」

「君は素晴らしい。俺が教育カリキュラムであんな修行をリストアップしたのは、ささやかながら計略を含んでいたからなんだ。君の精神を崩壊させることで、セレーネの魂を復活させることができるかも知れないと思ったんだ。でも俺が浅はかだったよ。君はとても強い心を持っていた。まさしくセレーネだよ。俺は気づいたんだ。セレーネは千年の時の中で、確実に魂を進化させていたんだと。流れ動く時間に逆らわずに、未来に向かって転生したんだと。しかし俺は……俺は止まった時間の中にいたんだ。俺の心は千年前で時を止めているんだ。そう思ったとき、俺が捜していたセレーネは、いま、俺の目の前にいる美咲なんだと知ったのさ。それでいいんだ。俺は、美咲と一緒にいたいんだ!」

 今にも吐血しそうな叫びが、再び戻った闇の空間に響いた。

 美咲は悲しい顔をしてカイエンを見つめ、僅かでも自分に近くなるように抱き寄せると、そっと額を重ね合わせた。カイエンの意識の奥に潜り込む。狭く暗い洞窟を抜けて、地平線の見える外界に出たときのような開放感と共に、記憶の大海が広がった。

 美咲は訓練された技術で千年前のカイエンを捜し、深海を目指して泳いだ。やがて見えてきた色彩豊かな世界は、水圧で押し潰されることなく、華々しく輝いていた。

 景色だけではない。言葉や音声、臭いや味覚、触感やその時の心理状態に至るまで、全ての記憶が映し出されていく。同時にそれらは美咲の中にあるセレーネの記憶に共鳴反応を起こし、美咲自身がその記憶の保持者であるかのような錯覚に囚われ、次第にそれは思い違いなどではなく、自分の遠い記憶が掘り起こされただけなのだと知った。

 カイエンと過ごした日々。カイエンに対する感情。カイエンを感じる自分。その全てを、今はっきりと思い出すことができたのである。

 堪えきれない気持ちが自分を支配しようとする。それは愛情と呼ぶにはあまりにも強く、衝撃的で、鋭利であった。

 美咲は嗚咽混じりの震える声で囁いた。

「あなたの考えた方法を教えて……いったいどんな魔法なの?」

 するとカイエンはとても幸せそうに低い声で答えを返した。

「人間に、戻るんだ……二人で」

 美咲の両眼が見開かれる。驚いたのだ。美咲が予想していない答えだった。

「……何て、言ったの?」

「人間に戻ろう、と言ったんだ。なぁ、美咲。君は本当に天使になりたいのかい? 俺は魔道士になんてなりたくはなかった。魔界にも興味はない。二人で人間として普通に暮らすんだ。家族を作り、年を取って、やがては死ぬ。それで、いいじゃないか。そして何百年か、何千年か先の時代に、どこかの世界で、新しい人間として生まれ変わる。俺達はそこで再び出会うんだ。きっとまた幸福になれるんだよ。それは、すばらしいことだ……」

 美咲はカイエンの額から顔を離し、目を見つめて言った。

「あなただって、天使を目指す修練生だったじゃない……?」

「修練生見習いさ。落ちこぼれだった……俺は、代々、聖道士に従事する家系の生まれだったのを覚えてるかい? 優れた異能者の一族だった。俺ひとりを除いてね。俺以外は皆、あの警部補みたいに聖道士候補ばかりだったが、俺だけは何一つ取り柄のない、ごく普通の人間に過ぎなかった。成人になってもそれは変わることなく、いくらゼノに教わっても、能力が目覚めることはなかったんだ。俺は皆に蔑まれ、馬鹿にされた。生きながらに死んでいるも同然だった。そんな俺を、君だけは平等に扱ってくれたんだ。いいや、それどころか、低能だった俺に特別な愛情をもって接してくれた。俺は、生きる喜びを初めて感じることができたんだ。君と一緒にいることが、俺を変えた。俺は……君の側にいようと心に決めた。俺は君に命を与えられたのさ。だから……だから、俺は、次こそ君に与えなくてはいけないと思ったんだよ」

「私も、あなたと一緒にいたい。でも……」

 いまにも否定する言葉が発せられそうになったのをカイエンはすかさず遮った。

「美咲、全て見えただろう? 思い出したはずだ。君自身の記憶を疑うのかい?」

「ええ、見えたわ。でも思い出されるのは、あなたと知り合ってから後のことだけ……初めは単なる夢と思っていたわ。ゼノと対峙し、あらゆる者に対して敵意を持ち、世界を呪う私の夢。いまの世界を見て、あなたと過ごした時間を思い出す内に、あの夢にはちゃんと意味があるって分かったのよ。ねぇ、どうして私があなたに会う以前の記憶だけが甦らないの?」

 カイエンは顔を歪めて沈黙した。美咲の目を見ながらも、何かを考えている様子だった。

「嘘を考えても、無駄よ。お願いだから、私には嘘をつかないで! どうして無理矢理にでも私を連れ去ろうとはしなかったの? 何故、私に、怯えていたの?!」

「……わかった。真実を言おう。君は……」

 そう言いかけて、カイエンは言葉を止め、ゆっくりと首を後方にひねり動かした。

 その視線の先を美咲も追う。暗闇の中にぞっとするような冷たい空気が流れる。

 次第に人の影として形を表し始めたその者は、響く低い声を発した。

「それは、私が語ろう……」

 聞いたことのある声だ、と美咲は思った。威厳溢れるこの太い低音の持ち主は……。

「カイエンよ、その話をするのはつらかろう」

 灰色の影が次第に色濃く映し出される。ゼノだ。

 紺色のスーツに灰色のロングコート姿。化石化した黒い杖を持ち、鋭利な目つきで二人を見つめている。その両眼は赤く灯り、圧倒的な邪気を放っていた。

 美咲が二階級特進試験を受けた時のゼノとは格段に魔のオーラが違いすぎた。彼こそが魔界の王であると言われたならば、そう信じたかも知れないほどだった。

「……ゼノ、番人の眼は返すと言った。だが、美咲との事に干渉してもいいとは言ってないぜ……そんな事より、遅かったじゃないか。待ってたよ」

「研究者達を始末するのに少々、手間取ってな。現在この空間は私の意志の元に存在させている。迷宮隔壁の機能付きだが、お望みとあればいつでも消そう」

 空間が歪む音までもが聞こえてくるようだ。少しでも力を抜けば遠い彼方に吹き飛ばされそうな闇の気迫。この場にいたくないと感じさせる疎ましい波動がにじり寄るように押し寄せてくる。まるでスローモーションのハリケーンの中にいるかのようだった。

「そんな事をしたら、番人の眼は永久に手に入らないぜ。占有者の許諾なしに番人の眼は移動しない。あんたの主から教わらなかったのか?」

 美咲はゼノとカイエンを交互に見た。これだけ魔の波動に満ちているのに、ゼノには敵意がないように感じられる。この波動は残りの研究者たちを抹殺した際の余韻か、あるいは単にこの空間を維持するためだけに放出されているのではないかと思えた。

 ゼノはカイエンの言葉を聞き流すかのように、静かに口を開いた。

「私が何も知らないとでも思っているのかね? お前は千年の旅を経て、独力で美咲の転生先を見つけた。それが美咲からの次元を越えた精神感応だとは知らずにな。ところが、その世界は不規則変調空間の中にあって、美咲の正確な居場所を特定できなかった。そこでお前は番人の眼を借用する策略を立てた。他愛もない交換条件でだ。三次元1%制約の解消法、もしくは完全なる独立世界の創造法を研究者達に開発させ、入手する。我が主はそれを実現する代わりに番人の眼を貸し出した。魔界では他に誰も知らぬ。故に我が主はお前に斃されたことになっておるが、まぁ、それはよい。我が主からすれば、消滅したと思わせた方が都合がよいからな。いずれにしろ契約は成立しているのだ。また私も、我が主の命を請けてここに来たに過ぎない」

 その不気味なほど穏やかな口調に対し、カイエンは精一杯の強気を演じて見せた。

「痩せ我慢するなよ、ゼノ。俺はともかく、あんたの愛弟子に千年前の詫びひとつ言わないつもりかい? それと、契約以外のことはしないで貰いたい!」

「詫びるとも。だから、借りを返しに来たのだ。私が闇のエネルギーを維持しよう。お前の一世一代の超越魔法とやらを見せるがいい。だがその前に……」

 それまで赤く灯っていたゼノの双眼が、美咲に向けられると同時に波動に変化が生じて鋭くも優しさを含んだ藍色の目になった。美咲は懇願するように言った。

「ゼノ。あなたが私の特進試験を引き受けた理由を、聞きたかった。いいえ、聖道士としてではなく、藤森美咲という存在として……」

 カイエンは自分を抱く美咲の腕を振り払うようにして腹這いになると、ゼノを睨んだ。

「それを美咲に思い出させて、あんたには何の得がある? 番人の眼も、新世界創造法も、何かもくれてやる! だが、美咲からは何も奪うな! あんたは一度ならず二度までも、美咲の魂を砕こうというのか?」

「真実を語るのは、美咲へ……いや、セレーネへ借りを返すためだ。本人が最も望む事を叶えてやりたい。それだけだ……では、美咲に問う。聞きたいか?」

 美咲はカイエンが匍匐前進の恰好から立ち上がろうとするのに手を差し伸べ、その体が冷たくなっているのに驚きながらも、ゼノの方に向き直って力強く答えた。

「それが私の、望みです」

 カイエンは唇をかみしめるしかなかった。

「……美咲……」

「よろしい。カイエンよ、これでもはや異を唱えることはできんぞ」

 カイエンは一度立ち上がったものの、すぐに片膝をついてしまった。闇のエネルギーは補給され続けている。だが別人格として魂を二分していた聖の心との統合は、カイエンが予測した以上の不具合を生じさせていたのである。

 魔力は使えるだろう。だが全身に力が入らないのだ。呪文を唱えるための声さえも出ないのではないかと思えるほど苦しい。

 そんなカイエンの途切れそうなオーラをよそに、ゼノは構わず語り始めた。

「美咲よ、その強靱なる魂に、鋼の精神という鎧を着せて聞くがいい」

 その声には魔道士らしからぬ愛情が込められていた。

 カイエンが顔を背ける。

 そして美咲は、自分自身のミッシング・リンクを知ることになる。

 ゼノは言葉を続けた。

「貴公はかつて、魔道士だった。貴公は、マーラムの一族だったのだ」



 綾乃の影精と嶋田が国家安全保障局の対策本部に空間座標移動したとき、佐多は既に銀白色の聖道士防護服を身に纏っていた。眼鏡を外したその面長な顔は厳しい表情を保ち、最前線へと向かう指揮官のオーラを放っていた。

 嶋田にさえも、燃え上がるようなジムノマンシーの気が見えるようだった。

 その部屋は指令室になっており、佐多の他には誰もいなかったが、壁一つ向こうでは怒鳴り声や走り回る音が絶え間なくしていて、多くの局員達が混乱している様子が伺えた。

 佐多は綾乃の影精と嶋田の様子を見てただならぬ気配を感じ取ったが、顔色一つ変えることなく冷静沈着に嶋田の話を聞いてから言った。

「遅くなって申し訳ない。無線で話をした通り、いま東京はパニック寸前の状況なのです。最低限の情報収集とそれに基づく部下への指示を終えるまでは、私でさえ影武者を置いて職場を離れるわけにはいきませんでした。しかし、聖界からも応援を出しました。いま私もそちらへ向かおうとしていたところです。嶋田さん、あなたは警視庁に戻って下さい。ここからは、私達の仕事です」

 嶋田は具体的状況が掴めなかったが、ここは素直に従おうと思った。

「分かりました。それよりも、早く美咲君のところへ!」

「無論です。隔離された別空間にいるのでしょう、何度探索しても美咲を見つけることができませんでしたが、綾乃のサテライトにトレースさせます」

「ああ、それと……」

 嶋田が思い出したように言った。

「ボストン・テクノロジィズの役員はやはり魔道士と手を組んでいました。応対した常務が言ったのです。カイエンを止めるように、と。どういう意味でしょう?」

「……そうですか……とにかく急ぎましょう」

 その言葉が終わらないうちに、綾乃の影精は風船のように浮遊すると、佐多の側に移動し、嶋田がこれまで見たことのない速度で二人共に消えた。残像さえも見えなかった。

 嶋田はまるで長い夢から覚めたような気分になったが、間もなく自分の職務を思いだし、警察官の顔に戻った。自分が今すべき事をするしかない。

 急いで指令室を出ると職員達が忙しなく動き回る局内を走って抜け出そうとし、途中でニュースが流れているテレビを見つけると立ち止まって注視した。

 飲み物の自動販売機やベンチが並んだ休憩室と思われるその部屋には、緊急事態であるいま誰ひとり姿はない。ガラスで囲まれたその部屋の隅に、壁に埋め込まれたナノビジョンが健気に映像を映し出している。画素がナノサイズなだけあって臨場感この上ない最新型のディスプレイだが、それがより一層、そこに展開される地獄絵図を現実の出来事として生々しく再現していた。

 湾岸に建ち並ぶ数十キロメートルにも及ぶ工業地帯の一部が炎上している。

 垂直離着陸航空機からの撮影だろう、振動のない鮮明な引きの画像が東京湾を映し出す。既に複数の旅客機がコンビナートをなぎ倒した後の様子だが、あちらこちらで誘爆が起きている。キノコ雲のような黒煙が立ち上り、まさしく戦場のようだった。

 水素燃料を数万ガロンも蓄えたタンクが無数に点在する区域に、猛火が溶岩のように分岐して流れているのだ。速報によれば、旅客機は湾岸一帯だけではなく、空港から近い居住区やビジネス街、都心部に至るまで、様々な航路の線上で墜落炎上していた。

 その影響か、都会の中心部では大停電が発生し、地上の交通網や医療機関にも大混乱が起こっていると報じている。

 嶋田は我に返ったように無理矢理テレビから目を離して再び走り出した。

 ニュースの事故が全て研究者達の陽動作戦であることは後になってから知るのだが、この時、嶋田はやり場のない怒りを剥き出しにするしかなかった。

「くそったれが!」

 訳もなく、苛立たしい思いが口に出ていた。それは自分自身に対する呪いの言葉でもあり、警察官としての自分に気合いを入れ直す叫びでもあった。



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