第三章(file3)
「……はい、ええ、それはありません……はい、そうです。はい……分かりました……NSAには私から直接報告済みですが……はい、その点では問題ありませんが、マスコミへの対応には根回しが必要でしょう……ええ、聖道士達は全員配置しました……国防軍は国防省の判断で法規通りに動かして下さい。こちらは私が全責任を持って対処致しますのでご安心下さい……はい、失礼致します……」
落ち着き払った抑揚のない声で緊急通話用電話を切ったのは、佐多が部下に全て対策指示を出し終えてから間もなくの事だった。
思わず小さなため息をついてしまった佐多を見て、秘書らしき女性が気遣いを見せた。
「聖道次監、代わりに私が参りましょうか?」
その女性は美咲が二階級特進試験を受けた時の試験監督官だった。大聖道士長の階位を持つスーツを着たその女性は、バインダーを片手に佐多の座るデスクの横に立った。
「いや、やはり私が行きましょう。思ったよりも事が早く動いているようです。総理と危機管理委員会は、私の言葉で制御済みです。あとは、人界の行政システムに任せておけば良いでしょう。万が一の時の為、君には各国との調整を頼みたい。この騒動は、できれば日本国内に留めたいと思いますが、希望的観測は厳禁ですからね」
「承知しました……美咲と綾乃を、よろしくお願いします」
女性秘書官は深々と頭を下げて言った。
「……そうか、二人とも君の直属の部下でしたね。分かりました。しかし、困りましたね。先ほどから彼女達の波動を探索しているのですが、見つかりません。とりあえず現地に行ってみましょう。局次長に伝えて下さい。私は極秘裏に総理官邸へ向かったと」
再度一礼した秘書官は速やかに部屋を出ると音も立てずにドアを閉めた。
部屋が密閉される瞬間を見届けた佐多は、椅子から立ち上がって精神統一をした。
一般の旅客機墜落事故は判明しているだけで二桁に迫る勢いだった。それもそのほとんどが都心に集中しており、本来の航路から遠く外れる場所にも数機が直撃していたのだ。それも僅か一時間内の出来事だった。それは、美咲と綾乃、嶋田を視察に向かわせた直後から起き始めいてる。これが単なる偶然だとはとても信じ難い。
何が、起きているというのか?
よもや、采配を誤ったというのだろうか……。
「……カイエン……」
佐多は唇をかみしめるように、ひとりの男の名を呟いた。
何処までも深い濁液の暗闇を潜るが如く、亜空の果てに向かってひたすらに飛び続ける。
そんな経験は、この千年の内に飽きるほど味わってきた。しかしこの身震いするような感覚は、ほんの六週間前に知り得た超感覚に実によく似ている。
番人の眼。それはおぞましい眼球などではなく、次元を越えて遠く離れた目的物を瞬時にして見つけ出す魔の手法の事だった。全世界を検索し、探し出す。その為には、無限とも思える膨大なエネルギーの消費と、全魔界からの指名手配という最大のリスクを覚悟する必要があり、それでもカイエンは躊躇うことなくその刹那的な機能を利用したのだ。
それを可能とするには、千年の時を必要とした。なんの能力も持たない、ただの亜空に住む人間が闇の深淵に蠢く魔属に接見し、その力を得るには、それなりの魔力を身につけねばならなかったからだ。美咲のいる世界を見つけたのはその能力によるものではなく、偶然を含んではいるが、自分自身の努力の結果だった。ところが、正確な居場所と人物特定までには至らなかったのである。
美咲を見つけ出すという目的を達成する代償として、カイエンは大半の魔力と持久力を失っていた。闇に戻れば、力の補充ができる。だが、この闇はいまのカイエンに生命エネルギーを与えるほど慈悲深くはないらしい。
セレーネの波動と美咲のそれとは、明らかに違っている。もちろん、この六週間で美咲の波動は生まれる前から知っていたかのように体で覚え込んでいた。通行カードに僅かに刻まれた残留思念の波動がなくとも、番人の眼は確実に美咲を捜し当てることができる。
とは言え、実のところカイエンには完全と呼べるだけの自信が不足していたのだ。
自分のタイムリミットは近い。もはやそう長くは持ちこたえられないだろう。
闇の宇宙を漂う間、カイエンは自分自身と会話をしていた。
[やぁ。カイエン。久々に胸がときめかないか?]
するともうひとりのカイエンがこう答えるのだった。
[それが本当に、おまえの望みなのか? おまえは過去の存在だ。そしてセレーネも。だが美咲は、未来を生きている]
その会話は、魂の内部で続いた。
[些細なすれ違いなんて、大したことじゃない。出会えた事が重要なんだ]
[おまえは、呪われているんだ。自分自身によって……]
[ならば、その呪いを、今日この日に断ち切ろう!]
カイエンは飛ぶことをやめた。
番人の眼が示した検索結果の空間座標を射程内に捉えたのだ。
それと同時に、重力が甦ってきた。
カイエンは黒い床に降り立つと、口元を緩ませて鼻で笑って見せた。
「よう、こんな所で奇遇だな……フェンライ」
カイエンの見つめる先には、大量のタールを撒き散らしたような黒い沼があり、そこに現れた人影は、その底なしの沼から這い上がってきた生ける屍の如き血の気のない肌を持つ男だった。辺りが暗闇であるだけに、さながら幽鬼のように映る。
砂漠を旅する者を連想させる服を着た長身のその男は、カイエンに向かって言った。
「女を取り戻しに来たのか。ご苦労なことだ」
白い顔はにこりともしない。両眼の縁や唇は黒く、悪魔崇拝的な化粧を施しているように見えるが、その顔は美咲と綾乃が新幕張の空き地で対峙し会話をした、灰となって消滅したはずの研究者と同じだった。
「ここまで来られたのは、番人の眼の力。そしてあなた自身の力はもう残り少ない。女に会いたいなら、我々に番人の眼を渡すことだ」
フェンライは無表情のままだ。それを受けてカイエンは小さく笑った。
「魔界に名だたる新進気鋭の科学者が、戦闘タイプの魔道士気取りかい? 生体複製の技術にはだいぶ磨きをかけたようだな。自分達だけでは飽きたらず、俺の複製まで造りやがって。あんたら、肖像権の侵害って知ってるかい?」
「あれは未完成だった。記憶と魔力の複製は完璧だったが、思考回路の複製に関してはまだ稚拙なレベルだ。聖道士との対峙では大変有効なデータが取れたものの、あの後、あの女達はずいぶんと仕込まれたようだ。見事に見破られた。それは、愛の力なのか?」
恐らくは冗談で嫌みを言ったつもりなのだろうが、表情にはまったく変化がない。
「いま、俺の目の前にいる男も複製だとは言わないでくれよな。だとしたら番人の眼の機能を越えたことになるんでね」
「本物だとも。是非ともあなたに礼が言いたかった。三次元1%制約の崩壊を示唆してくれたのは、あなただ。私を筆頭に、魔界に噂を撒いて頂いた事に感謝したい。おかげで、我々は素晴らしいものを得ることができた」
「あれは思いつきの絵空事だったつもりだがな……何を発見した?」
「そう、あなたの理論は夢物語だった。三次元1%制約を破ることはできない。そこで我々は、別の角度からこの最下層三次元世界を研究した。この人界が何故、人類誕生以来というもの魔属の攻撃対象とならなかったのか。何故に聖界のテリトリーであり続けるのか。三次元1%制約だけでは、理由としては不十分だ。忘れたのか? これもあなたがくれたヒントではないか。魔属はこの世界に興味を示さないだけではなく、極めて見えにくいのだ、と。それは、魔界からその存在を隠す自然の次元隔壁によるものだったのだ。あなたは番人の眼の力でこの最下層三次元世界への扉を開き、不規則変調空間に固定のトンネルを構築した。あとから我々や他の魔道士達が目を瞑っても来られるように。不規則変調は、時空波動変換の理論だ。この科学的制御を実現するために、六週間もの時間を要したよ」
「そんなこと言ったっけな? よく覚えていないが……自由に時空の波動を切り替えることで、世界の波動そのものを傍受されないようにしている、と。なるほどこの世界には太古の昔から自然界に働いているシステムなのかも知れないな……だがそんな技術を手に入れて、どうするつもりだ? 都合良く使い魔を封じてしまう為かい?」
カイエンは生まれ故郷で着ていた服のポケットに両手を入れながら訊いた。
「どうするつもりか、だと? あなたが仄めかしたのだぞ。この技術に番人の眼が持つ拡散時空検索術を加えれば、魔属の支配の及ばない新しい魔界を作り上げることができる。単純な閉鎖時空間などではなく、無限の可能性を持つ新天地を。それも、私が世界の創造主となって、だ。私自身が、世界の支配者になれるのだ!」
「そうかい。好きにするがいい。ならば、もう美咲に用はないはずだ」
「いや、そうはいかない。我々が自分達の複製を造った本当の理由を教えよう。我々は、二つの研究を同時進行していた。もう一つは、ジムノマンサー達の光原子構造の研究だ。彼等は同じく三次元1%制約を受けるというのに、この世界の転成者だけはその苦痛を知らない。だから我々はこの世界の人間に興味を持った。そして、転成者と接触する機会がやってきた。ところが、狂信者どもに、邪魔されたのだ」
「それで、皆殺しにしたって訳か」
「人聞きの悪い。第一派は自分達の意志で戻っていった。体力の回復剤に少々、工夫を凝らして、魔界へ戻るようにし向けたのは認める。彼らの苦痛緩和処置に加えて二度と舞い戻れないように仕掛けも施した。それ以降に来た挑戦者達は、時空波動変換技術の実験に役立って貰っただけだ」
「いま外で、えらい騒ぎになっているが、あれも実験かい?」
厳しい顔つきになり、低い声で訊いた。カイエンは東京での大惨事のことを言ったのだ。
「あんなつまらないことをして何になる? あれはネクロマンサーに犯された挑戦者達が暴走したに過ぎない」
「挑戦者達までも利用したわけか。聖界に対する陽動作戦など、昨今の小学生でも選択しない稚拙な戦略だな」
「それもあなたの計画に含まれていたのではないのか? しかし、あなたが流布した迷信は、この世界の時空間座標とともに、あなたが思ったよりも魔界にばらまかれたのだ。上層亜空の実力者までもが、続々と押し寄せている。これを止めることができるのも、三次元1%制約崩壊理論の否定を実証し得る我々だけだ」
カイエンは真顔に戻ったまま、つかつかとフェンライに近づき、胸ぐらを掴んだ。
「おい、よく聞け。調子に乗るなよ、頭でっかちども! 俺は紳士なんだ……先進的な交渉方法でケリをつけようと言っているんだ。それとも、昔ながらの方法で決闘でもするかい? お互いの手首を縛ってもいいぜ。俺が衰えているだと? 試してみるといい!」
その怒りは感情からくるものではなかった。カイエンの計算に基づく威嚇に過ぎなかったが、美咲の事になると我を忘れそうになるのも事実かも知れないと、瞬時に自分を取り戻して、掴んだ手を離すとフェンライを押し出すように突き飛ばした。
フェンライは宇宙空間で後ろ向きにジャンプしたように体勢を崩したが、すぐにもとの姿勢に戻って返答した。
「あなたに力があるのなら、何故その番人の眼で女を見つけられないのだ? 辺りを見回してみろ。どこにいるというのだ? この世界に初めて来た時のように、次元トンネルをこじ開けて跳んでみれば良いではないか。答えは一つだ。我々の開発した迷宮隔壁は、番人の眼さえも目眩ますことができるという証拠だ。研究が終わったら女は返す。取引だ。番人の眼をよこせ。そうすれば、我々は全てを得る!」
「狂っているよ」
「……何と言った?」
「お前らこそが、狂信者だと言ったんだ。俺以上に狂える魔道士さ。世界を支配して何になる? 何が得られるんだ? 絶対の権力か? 満たされた欲望か? それとも、究極の自己愛か? どれでも結構だ。好きに選べばいい。その結果、残るものは何だ? 永遠なるものを、不変なるものを、心安らぐものを、得ることができるのかい? 残るのは、自分唯一人だ。世界に自分だけが取り残されるんだ。世界に自分だけしか存在しないんだ!」
その怒号とも言える気迫の言葉は、汚物で構成された闇の空間の果てまでも響き渡った。
カイエンが千年の間に蓄積した独自の魔力が、全方位に力強い思念波となって放射され、それは暗闇であるはずの作られた時空間にぼんやりとではあるが明かりをもたらしたのだ。
それでもフェンライは身動き一つすることなく、無表情のまま言い放つ。
「では、あなたが求めるものは、何だ?」
フェンライの姿が次第に大きくなっていく。カイエンに押し飛ばされた位置から、元の位置に戻りつつあった。
「あなたが求めるもの。無論のこと分かっている。時空分岐復元術だけではない。我々の複製技術は〈アストラル光〉の操作までも可能にした。それは意識波動体の復元を完全な形で実現したのだ。それこそが我々の求めた〈人工のエレメンタル〉だ! あなたが欲する事の実現を、我々の技術はいとも簡単に可能とする。それを、得たいとは思わないのか?」
フェンライは片腕を水平に持ち上げた。異界の言葉が音声を逆回転させたように響き、開かれた掌の先にある空間に紙切れが中心から燃え広がるがごとく穴が空き、目映い画像が展開された。それは別世界を生み出し、カイエンの遙かなる記憶を呼び覚ました。
そこに映る映像は視界の隅から隅まで覆い尽くすパノラマを生み、やがて全方位を埋め尽くしたのだ。周囲の闇は完全に消えていた。
石畳の曲がりくねった道の両側に半貴石を積み上げた家が建ち並ぶ。自然色ながらも色とりどりに精彩を放つ光に溢れた町並み。所々に新緑の木々がそびえ立ち、街の中心地には噴水のある公園が昼間の賑わいを見せている。一瞬のその光景だけで、カイエンは不覚にも心を奪われてしまった。それは紛れもなく自分が生まれ育ち、ゼノに出会い、そしてセレーネに出会った世界だったのだ。二次元から三次元へと変換されたその景色は懐かしい空気の臭いと活気に満ちた様々な音を復元していた。カイエンはいま、その場所に立っている。忘れかけていた故郷の言葉があちらこちらで飛び交い、木製の荷車や馬車がゆっくりと交差する和やかなひととき。公園から聖なる山に向かう時の門をくぐり抜け、神殿へと延びる蒼の道の入り口に、守護神である昇龍と番犬の像がどっしりと待ち構えている。
青緑色をした宝石の塊が川のように流れる道の上に、月桂樹の輪を被り聖道士の白い服をそよ風に漂わせるセレーネが、金色の笑顔でひとり立つ。
亜麻色の髪は腰あたりまで長く、瑠璃色の瞳はいつも潤んでいるように見える。その姿は何から何まで、天才芸術家でさえも造形不可能な華麗なる美で構成されていた。
まさしく天使だ。カイエンはその思いを声に出しそうになった。何故セレーネの背中に純白の翼がないのか、不思議でならない。
セレーネはカイエンを見つけると、その笑顔はより一層の輝きを見せ、世界そのものが恒星をもう一つ手に入れたかのように明るさを増したのである。
「あぁ、セレーネ!」
カイエンはたまらずその名を言葉にした。
「カイエン……」
それに答えたその声は、美咲ではない。だが、明らかにセレーネの声であった。
少なくとも、カイエンの目にはそのように映った。そしてそれは、現実の世界であるという感覚に疑いが無く、あらゆる末端神経で全てを感じ取ることができたのだ。
千年の時が甦り、細々とした記憶が少しずつ鮮明になっていく。
そうだ、思い出した。この道は太陽の光ではなく、月の光に反応して明かりを蓄え、夜になっても星の世界へと道案内してくれた。太古の昔に使われなくなった神殿に近づくにつれ重力は弱まり、空気はイオンを含み、小鳥のさえずりと花々の香りに包まれていく。
森へと続く散策路は、舞い踊る蝶を追いかけているうちに銀色の湖にたどり着く。プラチナ色に反乱射して降り注ぐオーロラが、豊かな草木に鋭気を与えているかのようだ。
数珠繋ぎに光る六角形のハレーションが二人にスポットライトを当てて出迎えた。
暖かい日差しと平和な時間が、そこにはあった。
何事も起きなかったその時代が目の前に広がっていて、それは波動レベルで具現化され、カイエンを過ぎ去った時空間へと引き戻していた。
閉鎖時空間などではない。ましてや、催眠効果による特化した幻影空間でもない。
土の臭い、そしてそれを踏みしめる足の感触。セレーネの実体感。どれをとっても、千年前のある日そのものに違いなかったのだ。
騙されてる。これは虚構だ。仮想に過ぎない。全てが非現実の夢だ!
心の奥底で、喉のすぐ下で、何度もそう叫んだ。
だがこみ上げる切なる思いに、それらはあっけなく敗北しては消え去っていった。
セレーネが頭に乗せた月桂樹の輪を可憐な指でそっと外し、銀白色に輝く湖の水面に浮かべると、何とも麗しい声を発したではないか。
「月は、夜の闇に浮かぶ黄泉の星。それでいて、光を与えて湖を銀色に染めるわ。ねぇ、カイエン、人はそれを美しいと感じるのよ」
カイエンは思い出していた。千年前のこの時、俺はなんと答えたのだったか?
「ああ、セレーネ。それは月の女神が人の心を惑わしているからさ」
もうひとりのカイエンが静かに答えた。そうだ、そう答えたような気がする。自分なら、同じように答えただろう。カイエンは自然にそう思えた。
セレーネは、美咲とは姿も声も違う。しかしそれでも同一人物に他ならない。魂は時として色を変える。形を変える。運命を変える。変わらないものなど、あるだろうか?
自分はどうなのだろう。簡単な問いだ。自分は千年もの間、止まった時の中で生きてきたのだ。停止した心が、次元の狭間に流れる時間の中にいた。
煌びやかな湖を見つめるセレーネ。その姿を愛おしむカイエン。更にそのカイエンを冷めた目で凝視する暗黒の存在が、森の影の中におぞましく浮かび上がった。
フェンライの幻像が実体化していき、カイエンに語りかけた。
「それは、あなたの心を写した鏡の世界だ。アストラル光を操作し、創造した世界。デモンストレーションではあるが、虚構ではない。幻でもない。夢などではなく、紛れもない現実なのだ。見るがいい。感じるがいい。カイエンよ。亜空の貴公子よ。その時空に戻りたくはないか? 取り戻したくはないか? かつて失ったものを。千年の時を。そして、セレーネを!」
その声は、セレーネには届いていないようだった。カイエンはいま二つの世界に同時存在していて、その狭間で迷い子のように立ちつくしているのだ。
震える手が、無意識にセレーネの背中に向けて伸びようとする。それを鋼の精神力で抑制し、呼吸を整えると、カイエンはフェンライの方を向いて言った。
「素晴らしい技術だ。もはや改善の余地もないほど完璧じゃないか……これならば番人の眼なんかもういらないだろう。これ以上の何を望む?」
「いま、あなたが見ているこの空間は、先ほどの閉鎖時空間とまだ繋がっている故、すぐに戻ることができる。だが、一度新世界に入って空間の繋がりを閉じてしまえば、空間波動トレースにより外の次元を知ることは不可能になる。完全に別の宇宙からは遮断された不可侵な世界であると同時に、脱出もまた、不可能なのだ。それでは都合が悪い。だから、番人の眼が必要となるのだ。そして、番人の眼はもう、あなたには不要のはずだ」
「自分たちに都合よくいつでも隠れることができ、外出も帰還も保障されるってわけか。ずいぶんと活動的な引き籠りだな。尊敬するね……わかったよ。番人の眼をお前達にやろう。俺にはもう無意味な能力だからな。その代わり、俺の望みを叶えろ」
「良い選択だ。やはりあなたは頭がいい。もちろん、望みは叶えよう」
「では、俺に触れるんだ。それだけでいい。番人の眼の能力は全てお前の体にまるごと移動する。だが忘れるなよ。番人の眼を失ったくらいで、俺の魔道士としての力には何ら影響しないということを。俺は魔属を斃した男だ。逃げても無駄だぜ」
「理解した。契約は守る。もとよりあなたとやり合うつもりはない……」
実体化を完了したフェンライが宇宙遊泳のようにカイエンに近づくと同時に、壮大な立体パノラマとセレーネの姿は一瞬にして消えた。再び混沌とした闇が戻り、無音となった。
フェンライの右腕が動き、手が開かれ、その先にはカイエンの肩があった。闇にぼんやりと白く浮かび上がる魔界の科学者は、目的のものを手に入れるというあまりの歓喜に目を見開き、思わず笑いがこみ上げてきて、初めて表情をだらしなく崩した。
滑らかに、カイエンの左手が動いた。その手の先にフェンライの目が無意識に向く。
セラミックの通行カードが白く光っている。美咲が落としたものだ。フェンライにはそれが、迷信が横行する世界によくある魔除けの札に一瞬見えた。その時。
カードが消えた。
カイエンの左手がフェンライの右手首をがっしりと掴んだ。その速さたるや、光を遙かに凌駕していた。
「何をする!」
フェンライが叫んだ。カイエンの敵意を魂で感じたのである。
「ご苦労だったな。あんたは実に俺の思惑通りに働いてくれたよ。だが一つだけ余計なことをしてくれた。あんたは美咲に手を出してはいけなかったんだ。その唯一のミスが、俺を怒らせてしまった。でも安心しろ、地獄ではなく、天国に送ってやる」
「愚かな! 楽園を手に入れたくはないのか!? それが望みのはずだ!」
「手に入れるとも。いま、あんたは俺に触れている。それだけでいい。それだけで、俺はあんたの知識と技術を“得る”ことができる。そして、俺の脳に文字通り移動するんだ。美咲の居場所の情報もろともね」
「やめろ! 貴様にこの技術は扱えない! 言語修得術とはわけが違うのだぞ!」
「それができるんだよ。聖道士の回成術を知っているかい? この技を応用すると、一時的に完全なる同化現象が起こるんだ。しかも回成とは違って相手の意志とは無関係に強制できる。その一瞬を記録ファィルとして閉じこめれば、あらゆる記憶から経験の蓄積までも取り込むことが可能だ」
「気でも狂ったか! 貴様はジムノマンサーではない! 仮に私を強制的に取り込んだとしても、そのあとに私の自我をどうやって排除できる!?」
「簡単だ。あんたを浄化すればいい。言ったはずだ。天国に送ってやる、と」
フェンライは耳を疑い、その直後には目を疑わざるを得なかった。
カイエンの魔道士の形相が一転して穏やかになり、その全身から穏やかな白い光を放射し始めたではないか!
熱を帯びた、目も眩まんばかりの光量は、闇の空間を瞬く間に赤道直下の昼間に変えてしまった。全ての闇は完全に退散していた。
その光は力強く、柔らかく、絶対的な波動を秘めていた。
「貴様は……貴様は!? 何故だ! あり得ないことだ! 一つの肉体に魔と聖が存在するなど! ……や、やめろ! やめるんだ!!」
恐怖の声が白い世界の果てに木霊した。フェンライはこの時、既にカイエンと同化を始めていた。そしてそこに、カイエンの意識が過去の記憶として自分の中に雪崩のごとく入り込んでくるのを感じ、たったいま自分が問うた謎の答えを見たのである。
カイエンが持つ千年間の記録ファィル。その中で最も強烈な印象を持つ記憶。
かつてカイエンは、ある聖道士の従者だった。カイエンの家系が代々その仕事に従事していたのだ。その聖道士は、フェンライの知る顔だった。カイエンはその時代にジムノマンシーを間近で見て、学ぼうとしていた。転成者となることを切に望んで。
まるで別人の男だ。魂が本質的に異なるではないか。これが千年前のカイエンなのか?
そう思ったのも束の間、記憶の氷山が氾濫した大河のように流れ込んできた。
セレーネの死。それがカイエンの魂を破壊したのである。聖が魔を生む瞬間だった。
もうひとりのカイエンが生まれていた。魔の心を持つ男が。
聖と魔の同時存在が、その時誕生していたのだ。
フェンライは薄れゆく意識の中で、全ての疑問を解消し得る答えを見つけ出した。それが真実を追求する科学者として最後の喜びになると考え及ぶこともなく。
ようやく自分自身が消滅しつつあると気がついたとき、あらためて絶望的な最悪なる恐怖感が再燃して、フェンライは気が狂い始めた。
「離れろ! 私は貴様が持ち得る聖の力に抗う術を持たない! 光を向けるな! この、畜生めが! ……そうか、貴様は、初めから、これが目的だったのか!」
叫びのようなその語尾は既に人語とはかけ離れた波形になっていた。
や・め・て・く・れ!
悲痛な叫びはやがて弱まっていき、フェンライの姿は空気が抜けた風船のようにしぼんで、名残の黒煙を残して完全に消えた。その様子は、光に呑み込まれて崩れながら熔けていくようだった。
光の放出が止まった。辺りは再び漆黒の空間に戻った。
穏やかな顔のカイエンは、光の消えた空間で自分に話しかけた。
[これでもう、切り札はないぞ]
もうひとりのカイエンが返す。
[ああ、わかっている。だが、これで準備は整った。計画通りに]
[計画通りに? そうだろうか。美咲は、これほど思い通りになるだろうか?]
[俺の記憶が、必ずセレーネを呼び返すさ]
[それよりも、美咲の魂が強かったら?]
[おまえは、異を唱えるのか?]
[そうとも。聖の心を持ったままで、同意はできない。これから先、おまえがすることを認めるわけにはいかない。だから、目を閉じよう、永遠に。消えよう、跡形もなく]
[……長かったな。だがこれは、お前が望んだことだ。消えるんじゃない。おまえは俺になるんだ。俺の目がお前になる……]
[お別れだ……]
「いや違う。元に戻るんだ。ひとりのカイエンに」
たったいまフェンライの記憶と同化したばかりのカイエンは、自分の内にいるもうひとりの自分の魂とも統合を果たした。セレーネを失った衝撃が作り出した別人格のカイエンが元の魂を飲み込み、一体化したのである。
これこそが、カイエンが自ら己自身と契約した呪いのひとつだった。その呪いがいま、断ち切られたのだ。そしてそれは、亜空の貴公子としての消滅を意味していた。
早くしなければ。
人格の統合による呪いの解約は、強大な魔力の半減という代償を伴う。研究者達が作り出したこの闇の空間ともうひとつの自己契約の効力により直ちに喪失することはないが、一歩この空間を抜ければ、そこは三次元1%制約の聖域に他ならない。
美咲を、捜すんだ。
カイエンは、青い目を紅く光らせて、フェンライの記憶をたぐり寄せた。
金縛りのように動けなくなった嶋田は、常務が立ち去った後もしばらくの間その場に立ちつくしていた。このままでは奴らを逃がしてしまうのではないか。そう考えると焦りがつのり、益々、体を硬直させた。
奴らは……魔道士と呼ばれている者達は、この日を待っていたのだ。美咲が言った通り狙いは自分ではなかった。今日の調査に彼女達を同行させてはいけなかった! まずいことになった、そう思いながらも、嶋田はどうすればよいのかを考えていた。
最初に通された部屋にたどり着けなかったのも、魔力とやらによるものだとしたら、監査チームに撤収を呼びかけることは諦めなければならないだろう。無事を祈るしかなく、仕方がないが優先順位は佐多長官への一刻も早い連絡だ。
この間、嶋田にとっては十数分ほどにも感じられたのだが、実際には一分にも満たなかった。ようやく呪縛から解き放たれ動けるようになったところへ、今度は鮮明な立体映像が立ちはだかった。
「綾乃君!」
それは綾乃の影精だった。嶋田は聖道士の持つ影精についてはほとんど説明を受けていなかったので、それが実体とは思えなくても綾乃本人だと思ってしまった。
『嶋田さん、私と一緒にここを出ましょう』
ヘッドホンスピーカーから出る音声のように、その声は嶋田の内耳に直接響いた。
『いま嶋田さんが見ているのは、私のサテライトです。分身型なので、私そっくりに見えるでしょうけど、本体は99階のエレベーターの中です。私はここを動くわけにはいきません。佐多聖道次監に空間波通信が届かないのです。私のサテライトと一緒にここを脱出して、直接報告をして下さい。サテライトは、私とほぼ同じ能力を持っていますから、あのコンサートホールの時のように嶋田さんを座標移動させることができます』
綾乃の影精は本体の声に合わせて口を動かしているが、よく見るとそれは霊体のように向こう側が透き通って見えた。嶋田は既に自分の出番は終わったのだと悟った。ここは綾乃に従った方がよいと判断したのである。
「……何もできなくて、済まない。美咲君は、大丈夫なのか?」
『カイエンがいます。でも一刻も早く佐多聖道次監に……』
「分かった」
いくつか尋ねたいことがあったが、そんな悠長な事を言っている状況ではないことは、肌で感じることができた。自分にできることはここまでだ。これ以上は彼女達の邪魔になるだけで、計り知れない別世界の恐ろしい出来事が、これから起きようとしているのだと自分に言い聞かせて、果敢に挑もうとする警察官魂を渾身の力を込めて押さえつけた。
綾乃の分身は嶋田の腕にしがみつくように触れると、テレビの電源を切った瞬間の残像に似た小さな光を残して座標移動に転じた。




