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第三章(file2)

 嶋田と美咲は案内を断り、自由行動を許されて更に上の階に移動した。嶋田は美咲を経由して受け取ったデータを今回の調査のために国家安全保障局から支給されたスティック・コンピュータにコピーしていた。片手ほどの細長い筒状の軽金属から、中世期の巻物のように光学フィルムシートを横に引出し、筒のスイッチを操作すると、建物内部の図面が高解像度のグラフィックで表示された。

 一度引出された半透明のシートはA5サイズで固定された。電子図面にはマイクロシティの約8割に相当する外観図が映し出された。左手に持ちながら右手の指でスワイブし、ピンチアウトして図面を拡大する。階を指定して更に拡大すると、自動的に現在地が赤い点の点滅で表示され、嶋田は図面の中における自分達の位置を確認した。

 美咲に小声で話しかける。

「カードは気がつかなかったよ。いまの君には例の得意技が使えないことをすっかり忘れていた。しかし、よく自由見学を認めてくれたよな」

「この建物は各階にしつこいくらい監視カメラを設置しています。私達がどんな動きをしているかは常に筒抜けです。でもこの階は最もカメラが少なく、一部だけ死角があります」

「普段、あまり使っていないみたいだな……待てよ、この会話も聴かれているのか?」

「いえ、マイクはないみたいですね。綾乃の事前調査が完璧であれば、ですけど」

「やっぱりこの図面データは嘘っぱちだ。カメラどころか、いま君がカードを通している通行制限扉さえ載っていないよ」

 二人は左右に開いたアルミ合金のドアを通り抜けると、道に迷うように立ち止まった。

「経営会議の議事録は実にまともなものだ。まぁ、こいつは脅しで出させただけなんだが。会議の議事録なんていくらでも改竄できるしな。さて、ここは俺の第六感で壁を透視してみるとするか。外にいる彼女には無理なんだろう?」

「ついでに、監視カメラを機能不全にして頂けると助かります」

「君は余裕だな。冗談はよしてくれ」

 嶋田はスティック・コンピュータにフィルムシートを引き戻して、その筒で軽く首筋を叩きながら廊下の先に目をやった。監視カメラのことを思い出し、不自然な表情や仕草をしないよう注意する。

 上級幹部用のフロアには二人以外に人の気配がなく、事務所特有の雑音もしない。

 美咲が嶋田を振り返って言った。

「さっきの社員の人達が私達の正体に気がついているか分からなかったから慎重に行動していたけれど、どうやらさっきの電話、ただの業務連絡じゃないみたいですよ。私達だけ別行動をとって正解かも知れません。危険はこちらが一手に引き受けましょう」

「危険は大好物だが……何で分かるんだ?」

「眼鏡で目隠ししていても、耳は聞こえますから。地獄耳なんです」

「女は怖いね。少なくとも、君の陰口だけは叩かないように心懸けるよ」

「それと、思念の漏波防止方法を覚えて下さいね。でもその前に、嶋田さんの貴重な特異能力をお借りします。この階より上、屋上まで含めて、建物内部の構造図面にはない部屋を探して下さい」

 そう言いながら、美咲がその形の良い鼻の上に眼鏡を三本の指で乗せ直す。その仕草にゾクりとした嶋田は、無言で言われた通り透視を始めた。

 嶋田に思念波のコントロール云々を言える立場にはないのに、自分は少し高慢になっているなと、美咲は自己分析した。人間を見る目が、自分の中で変わってきている。そんな感覚だ。かつて、自分が至極普通の人間であった頃が、遙か遠い記憶のように感じられる。

「ビンゴ」

 斜め上を向いて目を閉じていた嶋田が、突然に美咲を見て声を発した。

「えっ?」

 美咲は一瞬、意味がわからずに嶋田に聞き返した。

「あったよ、実に怪しい階が。99階……最上階だ。西側の窓側通路からすぐ隣がいきなり大きな部屋になっているが、この部屋は東側の窓にも面している。図面からすると、下の98階とはほとんど面積が違わないはずだ。つまり端から端までの広さがあることになるのに、実際の面積は半分しか見えない。まるで真ん中を削り取ったみたいに、空間が短縮されているんだ!」

「動きは?」

「静かなもんだよ。待ってくれ、上ばかり見ていたが、下もおかしいぞ……地下だ。僕らが通ってきた通路の近くにも、同じような空間がある。こちらは、広いな」

 嶋田はこれまでになく自分の能力が鋭くなっているように感じた。

 美咲が通行カードを二本の指に挟んで嶋田の前にかざす。

「近くに行けば、もっと詳しく分かるかしら?」

「どっちから先に?」

「同時に。私は上を。嶋田さんは下をお願いします」

「何だって? 君はその眼鏡をまた外すつもりなのか? いったい何のために僕が選任されたんだ? これは僕の仕事だ」

 嶋田は握りしめた拳の親指を自分の胸に二度突き立てた。

「ジムノマンシーを感知されないようにコントロールする技術は身につけました。様子を探る程度なら、問題ありません」

 美咲は懸命に冷静を装っているかのようだった。

「君は僕の護衛だということを忘れているよ。君の手は、最上階から地下まで届くというのか? この任務の危険性は君の方が熟知していると思っていたけどね」

「綾乃を呼びましょう」

「待て。何を焦っているんだ。遅刻したとはいえ、まだ昼飯前の時間だぞ」

「私も仕事です。聖道士として……大丈夫です。大規模な設備が必要な研究室を最上階には作れないでしょう。つまり、上にいるのは狂信者達です。研究施設は地下でしょう。研究者達は戦闘を好みませんが、絶対に手を出さないで下さい。例え、何を見ようとも」

「切迫しているのか?」

「多分、気づかれてます。相手の意図は分かりませんが、標的はあなたではなく、私です。もちろん、今日は調査が目的ですから、情報を収集次第、引き上げます。決して無理はしないでください」

「気づかれているのに近寄るのか? 正気かよ? 潜伏場所を特定しただけでも十分じゃないか。作戦はあるのか? 僕は聞いていないぜ」

「それは……」

「何かあっても、あの、カイエンという男が助けに来ると?」

「そんな……」

 心を見透かされた気分だった。いくら嶋田でもいまの美咲の心を読むことは物理的には無理だろう。だが、嶋田は極めて単純な推理の結果出た答えを冗談と批難の意を込めて特別な考えもなく口にしただけだった。それでも、それは見事に的中していたのだ。

 美咲は深層心理をずばり言い当てられて、やや狼狽した。他のどのような事を言われようとも動じなかっただろうに、明らかに心臓の鼓動に変化をもたらすほど動揺してしまったのだ。

「君がそんな事じゃ困るな……いや、分かったよ。俺は任務をやり遂げられればそれでいい。もとより既に無いと思っている命だ。君に、聖界に委ねよう」

「嶋田さん……」

「その代わり援護を頼んだぜ。もしも僕が死んだら、骨は拾ってくれよ」

 嶋田はそう言うと、来た通路を戻っていった。通行制限扉は出て行く者にとってはどこにでもある普通の自動ドアに過ぎない。嶋田の乗ったエレベーターは無音で下降を始めた。美咲は少し困惑気味に見送ると嶋田のあとを追って通路を戻り、隣のエレベーターの上行きのボタンにそっと触れる。

 美咲は何故こんな判断をしたのか、自分でも分からなくなっている自分に僅かながら焦りを感じていた。嶋田の言う通りだ。まだ時間はある。気づかれているなら、今日はもう引き上げるべきだ。狂信者達の狙いが聖道士なら、なおさら無謀な振る舞いである。

 これが罠だとすれば、みすみす敵の釣り針に喰らいつくようなものだろう。

 何を焦っている? 何を、急いでいる?

 狂信者達なら、ゼノを知っているかもしれないからか? あるいはゼノ自身がここにいるかもしれないと思ったからなのか? それとも、嶋田の指摘通り、カイエンに会いたいからなのか?!

 分からない。

 まるで自分の中にいる挑戦的なもうひとりの自分にそそのかされたような気分だった。そう、まさしくもうひとつの埋もれた自我に。

 だがこの判断は正当化可能だ。潜伏している階が分かっただけでは、情報としては雑過ぎる。せめて狂信者達の魔力レベル程度は計測して持ち帰りたい。

 研究の状況もできるだけ知りたい。例え気づかれていたとしても、それが罠だとしても、時空操作術で防御すれば脱出は決して難しくはないだろう。

 気づかれなければ、それに越したことはないし、その為にはジムノマンシーを完全に抑え込み、一人で行くのがベストだ。人数が増えればそれだけ発見されやすくなる。

 自分は冷静だ。正しい判断を下した。何を動揺することがある?

 美咲はそう自問して、自己暗示に努めようとした。

 エレベーターが来るまでの間、美咲は慎重に眼鏡を外して綾乃に連絡を取った。

(綾乃、こっちへ来て)

(……うわっ、早くも事件勃発?)

(するかもしれないわ。地下に研究施設があるらしいの。空間隔壁に囲まれているそうよ。いま嶋田さんが向かったから、援護して。私は最上階の狂信者達の所に行くから)

(ちょ、ちょっと待ちなさいよ! まっすぐに向かったら見つけられたと思われて、たちどころにばれるわよ!)

(あ、そうね。でも最上階だし、展望目的と思うかもしれないじゃない?)

(近寄るだけで危険なんだってば。佐多聖道次監に報告するわ、そこを動かないで)

(もうエレベーター来ちゃったわ。このままここにいたら、怪しまれるわよ)

 通信を切断した。何事もなかったかのようにエレベーターに乗り込み、眼鏡をかけた。



 嶋田は控え室のある階に一度戻り、窓口役の若手幹部社員にさりげなく言った。

「車に忘れ物をしたようですので、取りに行ってきます。申し訳ありませんが、通行カードをもう一枚貸してもらえませんか?」

 打ち合わせ中の他のメンバーの横で何かの指示をじっと待っているだけだったその男は、無表情のまま自分のポケットから通行カードを取り出すと、黙って嶋田に手渡した。

「どうも」

 こちらもお返しに素っ気なく礼を言って、急いで再びエレベーターに向かう。これでしばらく地下にいても怪しまれないだろう。

 美咲に代わって綾乃が護衛につく。自分だけを考えれば、何も問題はないはずだ。だが嶋田は急性胃炎を患ったような不快感に襲われていた。

 嫌な予感がする。

 端的に言えばそんな感覚だが、それは決して単純な直感ではないように思えた。

 考えがまとまらないうちにエレベーターは地下に到着し、嶋田はわざと駐車場とは逆方向に歩き出した。迷った様子を見せればいい。

 十メートルほど歩いて、ふと気がつく。綾乃は近くまでは瞬間移動で来るだろうが、まさかこの地下通路に突然現れたりはできない。少しの間、時間を稼ぐ必要がある。

 美咲は、音声までは聞かれていないと言った。反面、地下では電波が圏外である。

 ここで嶋田はベルトにくくりつけたポシェットから携帯警察無線機を取り出し、スティック・コンピュータを取り出して送受信モードを開いた。通信は駐車場に停めてある安全保障局の車に暗号無線で簡単に繋げられる。車の無線機は警察用周波数も規格範囲内なので、マイクロシティに設置が義務づけられている防災・防犯用無線システムを経由して佐多に連絡が取れると考えたのだ。

 嶋田は監視カメラに背を向けて手早く作業を完了させた。

「……よし、繋がった……ええと、嶋田です。美咲君が狂信者達のいる最上階にひとりで向かいました。僕は綾乃君と一緒に地下の研究施設を探ります。僕の方は心配いりませんが、美咲君に応援をお願いします」

 もしくは、撤収命令を下さい、と言おうかどうか迷い、結局は呑み込んでしまった。それは佐多が判断することだ。

 佐多はすぐに応答してきた。

《分かりました。ですが、こちらも状況が変わりました。つい先ほど、湾岸コンビナートにジャンボ旅客機が立て続けに墜落する事故が発生しました。テロの可能性で国安局は総動員で対応に追われています。私は狂信者達、あるいは研究者達の実験だと推測しています。申し訳ありませんが、すぐには応援を出せません。美咲や他の局員達にも伝えてください。本日の任務は中止、直ちに戻るようにと。》

 それを聞いた嶋田は驚愕の声を上げそうになり辛うじて抑え込んだ。いま東京では大惨事が起こっている! 

 もしも魔道士達の仕業だとすれば、被害の規模は計り知れないものになるではないか。いまの嶋田にとってこのリアルタイム情報から分かることは、たったひとつだった。佐多長官の言うとおり、直ちに撤収することだ!

 小走りにエレベーターに戻り、ボタンを押そうとする。同時にドアが開いた。

「綾乃君!」

 エレベーターの中には一般的な事務服を着た綾乃が立っていた。綾乃は何故に嶋田が自分を見て驚くのか分からずに、既に何かが起こったのかと緊張した。

「遅くなってごめんなさい。普通に入り込むのに手間取ってしまって……何があったんですか?」

 嶋田は飛び込むようにエレベーターに乗り込み、ドアを閉じるボタンを押す。

「撤収だ。緊急事態が起きた。湾岸に旅客機を墜とされた。狂信者達の仕業らしい」

「誰から聞いたんですか?」

「佐多さんだ。美咲君に話してくれ。すぐに降りてくるようにと」

「えっ? 聖道次監はさっきそんなこと言ってませんでしたよ。第一波の狂信者達が舞い戻るかも知れないので何かあればこちらに向かうから美咲を応援するようにと……」

「何だって!? それはいつの話だ?」

「ほんの一分ほど前ですけど」

「……どういうことだ?」

 嶋田は混乱して音もなく閉じるエレベーターのドアを見つめる。50階を押したつもりだったが、階を示す発光ダイオードはまったく光らない。何度かボタンを押してみるも変化はなく、エレベーターも動いている様子が感じられなかった。

「嶋田さん、私達は閉じこめられました。空間攻撃です」

 綾乃がピアスをいじりながら落ち着いて言った。嶋田は忙しなく上下左右を見るものの声も出ない。

 慌ててドアを開くボタンを連打する。閉所恐怖症というわけではなかったが、発作的に行動してしまったのだ。

 すると、ドアは音もなく素直に開いた。

 一瞬、停電が起きたのかと嶋田は思った。横たわる通路の照明が全て消えたように見えたのだが、そうではなかった。エレベーターの中の照明は依然明るい。

 ドアの外側だけが、完全な闇と化していたのである。

「嶋田さん、ドアを閉めてください。危険です」

 言われるより早く閉じるボタンに指を叩きつけ、突き指しそうになる。嶋田は冷静沈着な綾乃を見て、自分を無理矢理に落ち着かせた。

「どうするんだ? 俺がさっき聞いた佐多さんの声は、偽物だったのか?」

「もうとっくにばれていると言うことですね。彼等にとっては電波を操るくらい、造作もないわ。この空間攻撃も相当なもの……ひょっとしたら、本当に三次元1%制約を破ることに成功したのかも」

 両耳のピアスを外した綾乃は、しかしまだ事務服のままでいる。聖道士の侵入まで気づかれているのかどうかはまだ分からない。嶋田に撤収するよう偽の声を聞かせたところから判断して、自分がこの建物に入ることは予想されていなかったと考えて良いか、と綾乃は推察した。彼等が聖道士を捕獲するつもりならば、自分がエレベーターに乗った時点で仕掛ければいいはずだからだ。それとも自分達がエレベーターではち合わせになることが分かっていて、あわよくば双方共にという作戦なのだろうか?

 ここを脱出するのは、恐らくはそう難しくはない。だが脱出することで聖道士の侵入が明らかになり、ひとりでいる美咲に危険が及んではいけない。ここは、しばらく様子を見るか……。

「嶋田さん。いまの状況で、美咲の様子が見えますか? 私はピアスを外しても、全く連絡が取れないんです」

「あ、あぁ。やってみる」

 平常心を保つ事で精一杯のこんな状況で、と思いながら、嶋田は今日に限って特別に調子が良いと感じる遠感知能力をフル回転させた。



 小さな電子音が響いた。エレベーターが間もなく99階に到着する合図だ。美咲は通行カードを片手に確かめて、その手が少し汗ばんでいることに気がついた。

 何かのショーの幕が開かれるように、スチール製のドアが左右にスライドする。

 サイバネティクス技術が応用されている人工筋肉のメカニズムは、重たいドアの開閉でもほとんど無音に近い静粛性を実現している。にも関わらず、ドアが開ききると同時に、その向こうにある無限の暗闇の中に金属的な打撃音が大きく反響した。

 それは山彦のようにいつまでも反射し続けるかと思われたが、やがて轟音は遠ざかり、粘液で塗りたくられたおぞましい闇だけがそこに残った。

 照明が切れているのではないことは、美咲にはすぐに分かった。総レベル抑制を装着していてさえも感じるこの不快感と圧迫感は、魔道士の放つそれ以外に体感したことがない。

 どうする? 戻るか? それとも進むか? 美咲は少しも焦りや恐怖に動じることなく自問した。通信を開く。が、繋がらない。遮断されているらしい。では気づかれているのか? それならば眼鏡を外すか?

 いや、待て。それでは地下に向かった嶋田が危ないかも知れない。綾乃が護ってくれるだろうが、無事に入館できたのかも分からないのだ。

 空間波通信が接続されないということは、美咲の周囲の空間全てがより強い力によって閉鎖されていることを意味する。予想を遙かに上回る巨大な抑止力。いま、自分は完全に閉じこめられているのだ。空間座標移動であれば通用するかも知れない。それをこのタイミングで試すべきかを数秒の間、美咲は熟考した。

 答えを待ちくたびれたように、開いていたドアが機械的に閉じ始めたので、美咲は開くボタンに手を伸ばした。その時、背後から声がした。

「よせ、待つんだ」

 その聞き慣れた声に、美咲は振り返った。

 カイエンが立っている。

 背後でドアが静かに閉じた。

 いつものTシャツにジーンズのラフスタイルではない。中世の下層市民が着るような地味で飾り気のない仕事着のようだ。フェルトに似た厚手な生地のベストの下に皺だらけの黄土色をしたシャツを身につけ、革のベルトをしている。下半身は騎手のようだった。

「カイエン!」

 何故ここに? という言葉がどういう訳か続かない。

「君は無鉄砲すぎる。昔と変わらないな。君は俺よりも危険を愛しているのかい?」

「あなたはいまここにいるべきではないわ。邪魔をしないで」

 声が震えている。それはカイエンのみならず、美咲自身も分かっている。

「この扉の向こう側に行くな。無限ループ仕掛けの完全閉鎖時空間の檻に入りたいのか?」

 カイエンは強い調子の声で言った。命令のように。

 美咲は背後のドアをちらりと見て、眼鏡を外した。カイエンが現れたいま、もはや自分達のことは狂信者から見えているに違いないと思ったのだ。

「助けに来てくれたの? それとも私を攫いに来たの?」

「強気なところも昔と変わらない。やはり君は、セレーネだよ」

「いまは、そんな話をしている時じゃないのよ。このドアの向こうがあなたの言う通りなら、撤収するわ。お願いだから今日のところは消えて」

「悪いが、顔を洗って出直している時間はないんだ。俺にもやるべき事があってね」

「それは私に近づくこと? 私を魔道に堕とそうなんて考えないで。無理よ」

「君の知らない魔法が存在したとしてもかい?」

 カイエンは美咲に歩み寄り、美咲は押されるようにして後ろに下がった。無言のままなおも近づこうとするカイエンに、美咲はなす術を失い、ただ拒否の意志を後退りでしか表現できずにいた。そしてとうとう、美咲の背が固く閉ざされたドアによって阻まれた。

 分かっていながらも横目でドアを見る。自分は何をしているのだろう。さっさと座標移動すれば済むことではないのか。思い通りにカイエンに会えた? だから?

「やめて、カイエン……」

 逃げ方を忘れた美咲に覆い被さるようにカイエンが重なる。両手が美咲の肩を強く押さえると、美咲のこわばった体から一気に力という力がすべて抜け落ちてしまった。

 手に持っていた通行カードが軽い音を立てて床に落ちる。

 カイエンの手が左右同時に美咲の背中を通って腰の上に滑り込む。

「美咲。この時を待っていた」

 美咲は声を出せずにいた。カイエンは美咲を抱きしめると、低く愉悦の息を漏らした。

 その欲望に満ちた声が苦悶に変わったのは僅かに数秒後のことだった。

 美咲がジムノマンシーの光エネルギーを放射し始めたのだ。

 反射的に美咲から離れたカイエンは、美咲の白い聖道士服を見た。既に前髪のヘアピンもどこかへ消え去っている。

「美咲、何をする!」

 それは紛れもなく魔道士の貌だった。美咲の知らない悪鬼の形相だ。

「それは、あなたがカイエンではないからよ」

「……」

 光の束を浴びせられた魔道士はただ低く唸るばかりだ。美咲を睨みつける強烈な視線はまさしく魔物以外の何ものでもない。

「本物のカイエンは常識はずれの魔道士で、いつもその波動は暖かいの。体温もね」

「俺は……カイエン……だ」

「でもあなたの体は、氷のように冷たい。それだけじゃないわ、あなたからはジンが持っている独特なオーラの臭いがしない……あなたは誰?」

「俺は、カイエン……」

 まるで壊れたガイドロボットみたいだと美咲は思った。あれほど気を揺るがされていたのに、いまは完全に正気を取り戻している。それだけに、こんな手に引っかかった自分が情けない。美咲はもはや目の前の魔道士もどきに実害はないと判断し、一瞬気を緩めた。

 その時、背後のドアが開いた。思わず身を反転させてバランスをとろうとする。

 カイエンの姿をしたその者が突然に動いた。ジムノマンシーの直撃を喰らったというのに、そのスピードたるや光のごとき超新星爆発の攻撃だったのだ。

 美咲は必死に防護隔壁で応戦しようとしたが、空間ごと吹き飛ばされ、無限に続く闇の世界へと投げ出された。その闇には重力がないように思えた。

 そこだけ明かりが灯るエレベーターの四角い小部屋が、異世界への入り口のように宙に浮かんでいたが、やがて美咲の目をもってしても遠く見えなくなってしまった。



 地下にいた嶋田と綾乃は、ほぼ同時にエレベーターの天井を見上げた。

「な、なんだ! 何が起こったんだ?!」

 透視を行っていた嶋田には、一瞬にして宇宙が誕生したかのように見えたのだ。

「美咲がジムノマンシーを解放したのよ。私達も動きましょう」

 嶋田にさえもはっきりと分かるほど、美咲の放射した力は強大であった。これだけ頑丈に閉鎖された空間にまでもその凄まじい波動が飛び込んできたのである。それは第一級の戦闘態勢であることを意味していた。綾乃は外したピアスを握りしめた。

「どうするんだ?」

 覚悟を決めたかのように嶋田が訊いた。

「美咲に撤収を連絡するんです。嶋田さんは国安局の人達に緊急事態を伝えて下さい」

「どうやって?」

「こうやって」

 綾乃は嶋田と自分のいる空間をまるごと座標移動させた。

 目の前の景色が瞬時に変わる。映画のシーンが変わるのとは訳が違うな、と嶋田はあらためて驚嘆した。そこは50階にある通路の端で、カメラの死角ぎりぎりの位置だった。

 綾乃は聖道士の防護服に着替えている。そんな格好をしたらまずいだろうと言いかけて、とっくに監視カメラに映る画像に手を加えているに違いないと気がついた。

「すぐに戻ります。もう一度、今度は有線ネットワークを使って国安局に連絡を取って、佐多さんの指示を仰いで下さい」

「了解だ。気をつけてくれよ」

 綾乃はウィンクすると、いくつかの火花のような輝きを残して忽然と消えた。その小さな光の瞬きが消えると、嶋田は真っ直ぐに最初に通された応接室に向かった。

 五メートルおきに設置された監視カメラが自分を追うように動くが、気にしている場合ではない。似たような扉がいくつもある中で、さすがについ数分前に立ち寄ったばかりの部屋が分からなくなるはずがなかった。ところが、どの部屋も明からに違う。応接室と書かれた扉が見つからないのだ。綾乃が階を間違えたのだろうかと思い、エレベーターの前まで戻って確かめるが、合金プレートに刻まれた文字は間違いなく50階を示している。

 この感覚は前にも経験したぞ、と既視感に襲われながらも、ここでこそ自分の能力を生かす時だと考え、冷静になって再び透視を始めようとした。

 背後で足音がかすかに聞こえた。

「おや、どうかしましたか? 嶋田警部補?」

 両腕を後ろに組んで見下ろすようにこちらを見ているのは、名刺交換で会話を交わした常務だった。人を馬鹿にしたような嫌みたっぷりの笑顔で話しかけてくる。

「エレベーターをお待ちですか? 申し訳ございませんが、どうやら故障したようでしてね。反対側にもあるので、そちらをお使い下さい」

「そいつは、どうも」

 嶋田は透視の途中だったが、無視するわけにもいかず、適当に話を合わせてその場を足早に立ち去ろうとした。応接室はどこでしたかと訊けばよかったと思い出し、常務の横を通り過ぎようとして口を開きかけ、突然に違和感を覚えた。

 足に制動をかけ、常務の方をちらりと見る。

「嶋田警部補。二人の聖道士は戻っては来ませんよ」

「!」

 悪魔の笑いを押し殺すように、その恰幅のよい白髪交じりの男は、嶋田に背を向けたまま呪いの言葉を放った。

「ご安心なさい。もうあなたは我々の標的ではなくなった。我々は目的物を得たのです。間もなく我々はこの世界から脱出する。だから、伝えるのです。あなたに指示を与えている聖界の者に。ほぉほぉ、佐多というのですか、その人物は。彼に伝えなさい。カイエンを、あの亜空の貴公子の動きを封じるように、と」



 美咲の波動を追尾して座標移動をしようとした綾乃は、そこに美咲がいないと気がついたが、代わりにそこにいるはずのない者がいたので、訝しく思いながらも予定通りに美咲が乗っていたエレベーターの中に着地した。

 綾乃が到着する寸前に、そこにいた者が闇の中へ何か人の影のような物体を投げ込む様子が、ほんの一瞬だけ目に映った。

「カイエン! 何でここにいるのよ?!」

 エレベーターのドアは開いたままになっている。その外側は地下で見た闇の空間と全く同じ状態に見えた。ここもなのか、と思いながら、綾乃は考え込むように佇むカイエンに詰め寄った。

「美咲に何をしたの?!」

 ここで綾乃はカイエンの服装の違いに気がついた。それは美咲が同じ場所で見たセピア色の服飾と寸分違わぬ恰好だった。足下には子猫のサイズにまで小さく縮んだジンがいる。

 カイエンが綾乃を振り返った。空間そのものが歪んだ波動に満ちているかのようだ。

「俺としたことが、一歩遅かった」

「どういう事なの?!」

「俺のロマンティックな過去感知能力によると、どうやら俺の幻影が美咲をあの闇に放り込んだらしいな。やってくれるぜ、研究者ども!」

 カイエンは綾乃の方を見ようともせずに、怒りのオーラを燃え上がらせている。

「研究者……? 狂信者でしょう?」

「まだ分からないのか? ここには狂信者など、もはや一人もいやしない。全ては研究者達が仕組んだ罠だ。綾乃、君は戻った方がいい。俺にとっても邪魔だしな」

「何故、ここにいるのよ? 質問に答えて!」

「美咲は捕獲された。だがどうやら、奴らの思惑通りではなかったようだな。奴らは美咲の魂ごと縛りつけるつもりだった。物理的に自由を奪うだけではなく、心理攻撃で完膚無きまでに力を封じようとしたんだ。ところが、美咲は俺のまがいものを見破った。それは嬉しい限りだが、その後が頂けない」

「……あなたが本物だという証拠は?」

 その疑問符にカイエンは笑いもせず綾乃に近寄り始めた。ジンは全く動かない。

 エレベーター内の隅に追い込まれるようにして、綾乃は見慣れない服装のカイエンに圧倒された。

「確かめる方法が一つあるぜ。俺を丸裸にひんむいてみるといい。喜んで協力しよう。その代わり、君も本物だという証拠を見せるんだ。同じ方法でね」

 冗談とも本気ともつかない調子で綾乃に近づくと、カイエンは上半身を折って綾乃の肩に顎を乗せて力強く囁いてみせた。

「君はここにいちゃいけない。戻ってマーラムに……佐多に伝えるんだ。空間波通信は使えない。このマイクロシティの周辺一帯は、いま奴らの制宙圏だ……いいね」

 綾乃は動けなかった。美咲と同じようにジムノマンシーを放射しようと試みたが、どうしてもできなかった。

 暖かいカイエンの波動と体温を肌で感じて、綾乃は思わず頷いてしまった。

 なんと穏やかで、優しく、そして豪快なオーラだろう。純粋かつ邪悪で、壮大であると同時に、実に繊細な魂が手に取るように見えた。切なく、うら寂しい、そして悲しい心。

 呼吸を忘れた綾乃の両足は床に張り付いたようになり、カイエンがそっと離れて行くに任せるしかなかった。

 空間波通信が聖界に届かない? それならばついさっき佐多聖道次監だと思って会話をした相手はいったい誰だったのか? それが事実なら、嶋田が携帯通信機を使って指示を受けた方が、本物の佐多だったというのか! 綾乃はこの事をまず嶋田に伝えなければと思ったが、カイエンの行動を見届ける必要があると感じた。

 カイエンは俯くように下を見ると、屈んで床に落ちている通行カードを手に取り、同時にジンが芸術的なジャンプでカイエンの肩に跳び乗り、姿を消した。

「こいつで美咲の波動を追うのが楽になる。だがこれではまるで、俺は警察犬だな」

 独り言とも取れる台詞を言い終わるが早いか、カイエンは足を蹴る動作を見せることもなく、闇の向こう側へと体を踊らせた。綾乃の目にはカイエンが闇に吸い込まれたか、見えない磁力に引き寄せられたかのように映った。

 思案に余るという表情から、次第に結論に辿り着いたかのような表情になった綾乃が、闇を見下ろす。

 やがて、ドアが静かに閉じた。



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