第三章(file1)
第二湾岸道を走る黒光りの4ドアセダン車は、最初のジャンクションを抜けたところで渋滞にはまっていた。
いつもは第一湾岸道と京葉道路に分岐する手前から渋滞するのに、今日に限ってタイミングがずれている。後続に三台の国家安全保障局公用車が連なっているが、いつの間にか間隔を置いて一般の車両が割り込み、いずれもバックミラーの死角になっていた。
先導するその車から数台を置いて、嶋田警部補と美咲が乗るワゴン車が、効きの悪いクーラーを全開にするべくアイドリングを高めの回転数に保っていた。
嶋田がたまらず後部座席の窓を半分だけ開けて、安物のネクタイを人差し指で無造作に緩める。
美咲は紺色のスーツに同色のスラックスを履き、いつもの伊達眼鏡をかけて嶋田の横に座っていた。前髪の半分を捻るように上に撒き、流行のカラーヘアピンでさりげなく留めている。
その車輌には佐多の配慮により他には誰も乗っていなかった。
ワゴン車の高いシート位置からマジックミラーの向こう側を占拠する様々な車の行列に目をやりながら、美咲は最後のキャンプ場で佐多から告げられた千年前の事実について考えを巡らしていた。
前世において自分を殺したのは、かつてマーラムという名の魔道士であった頃の佐多であると言われた時、美咲は自分で思ったよりも衝撃を受けなかった。
そこまで明確な記憶が甦ったわけでもなく、殺された、という感覚とは異なるものだったからである。
マーラムは魔界に多く存在するエネルギー侵奪タイプの吸血魔道士だった。マーラムがゼノとカイエンの故郷に現れた際に、聖道士であったセレーネはその場にいて、マーラムの放った空間波の直撃により肉体は消滅、その魂の行く先は、ようとして知れなかったと言うのだ。
しかしそれはマーラムのミスであり、セレーネがゼノとカイエンを庇っての行動によるものだったらしい。マーラムはその時に当時はまだ聖道士であったゼノと対峙し、最終的に回成を受けたのだという。
マーラムは回成の後、全てに懺悔した。美咲は必ず聖道士として転生すると確信して、聖界に身を置くことでセレーネの復活を待ちわび、この世界の日本で美咲が聖道士となった時、その波動から美咲をセレーネであると推測した。
しかしここで、佐多はカイエンと同じ事を言ったのである。その波動はセレーネのものと僅かに違っていた、と。
佐多は、美咲に忌むべき過去を思い出させ、聖道士としては未熟な美咲の心を掻き乱さないように、直接に会うことを避けてきた、と佐多は釈明した。
そして、カイエンは美咲を魔道に堕とし、完全なる閉鎖時空間に逃避行する事が目的であると語ったのだ。つまりは佐多も、それがカイエンの真の目的であるとの見解を示していることになる。
それは美咲にとっては、しっくりこない答えだった。佐多は全力を上げて美咲をカイエンの計略から守り、なおかつカイエンには指導員として美咲達の能力向上に貢献させるために、時間流制御空間に研修の場を移したのだと言う。
カイエンは美咲を捜し出すため、あらゆる全ての意識波動体の動向を完璧に捉え、記録し続ける〈番人の眼〉という特殊なエネルギー塊を魔属から奪取した。
それによって美咲を見つけ出すことに成功したものの、その所業は魔界全土に知れ渡り、もう二度と魔界には戻れなくなっているらしい。カイエンは逃亡者のようにこの世界で身を隠しているのだ。
狂信者達はカイエンの行為について大いに興味を持っているだろうが、魔属がこの世界に目を向ける事は何としても回避しなければならないので、カイエンがこの世界にいる事実が知られる事は少なくともしばらくの間はないだろうとの話だった。
カイエンはもう魔界には戻れない。
それはジンでさえも魔界との接続を遮断しているという事でもある。それがいかなる結果を生むのか、想像したくはない。
それではカイエンは、どうやって存在し続けているというのか? いやそれならば、体力を消費する空間移動術を使わずに、研修期間中には休憩時間を設けていたのも説明がつく。
そもそも、カイエンはどうやって自分を魔道に堕とすつもりなのだろう? 研修の精神鍛錬は正反対の行為ではないのか? 確かに自分はカイエンに特別な感情を抱いており、そうさせたのは、紛れもなくカイエンだ。それは否定しない。恋心は、利己主義的な思考の偏りに相当する一種の歪んだ心の変動状態である。
それでジムノマンシーを失うことはあり得るかも知れない。だからといって、魔道に堕ちるほど愚かではないと、自分は思っている。
自信がある。確固たる自信が。
佐多は、初めにカイエンの意図を読んで二人を引き離すことも考えたが、むしろ美咲に全てを話す事で心の準備期間を設けて、カイエンの策略から美咲が自分自身を護れるようにと、裏をかく戦法に打って出たのだ。
あれほど切望していた千年前の真実について、意外にもあっさりと告げられてしまえば思いのほか感動はないものだと、自分自身を奇妙に感じてしまう。だがこれで全てではないはずだ。ゼノは何故、魔道士になったのか。どうしてカイエンと同時期にこの世界にやってきたのか、それについては佐多も語ろうとはしなかったし、美咲もあえて質問をしなかった。佐多が意識的に語ろうとしないということは、質問しても無駄だと感じたからである。もう一度ゼノに会って話を聞くことは可能だろうかと、思ってみたところで仕方がないことかも知れない。ゼノは聖道士でありながらも自ら魔道士になったという。そこには何か深い考えがあったのかも知れない。
それこそが魂の選択だったのだろうか。
聖の道とは、何だろう? 魔の道とは? あるいは人の道とは……。
そのいずれにも属さない道というのも、選択肢としてあるのだろうか?
自分はいま、聖の道を歩んでいる。これは正しいのだろうか……迷いがある。心が乱れ始めている。あれだけ鍛練を積んだにも関わらず、根本にある思想哲学は相変わらずだ。
そこまで考えて、美咲は固く目を閉じ、ゆっくりと開けて意識を切り替えようとした。
いまは仕事中だ。心が揺らぐような事を考えるのはよそう、と思った。
昔ながらの拡声器のようなクラクションと、高効率な電子音が不規則に鳴り響く中で、霞ヶ関を出発してから既に数十分もの時間が経過している。
嶋田はどこから見ても官僚のひとりにしか見えない見事な変装ぶりの美咲を意識して、重苦しい無言を死守していたが、予定時刻通りにボストン・テクノロジィズ社に到着できないことを確信すると、何か話をしたくて我慢ができなくなった。
「暑くないか? この車は自動走行なんだから、遠慮することはないよ。音声認識は完璧だし、具合が良くないのは空調だけだ。反対側の窓も開けようか?」
嶋田は遠慮がちに美咲を見て言った。美咲を女性として意識している自分を恥ずかしく思い、努めて自分の職務を自覚しようとした。
「ええ、ありがとう。でも大丈夫ですよ。私は気温を気にしませんから」
美咲はお堅い役人を演じて見せた。伊達眼鏡をかけている間は、ジムノマンシーを発現できない。それでもこの蒸し暑さの不快感をそよ風のように涼しく変えてしまう程度の技術は、自動的に発動するようプログラムしていた。ただそれが車内の温度それ自体を変化させるほどではなかったことには気がつかないでいた。
「すまないね。僕にはまだ君達の常識が理解できないでいる。そんな恰好の君を見ると、本当に自分が国家公務員になったような気分にさせられる。こういうのを、魔法って言うんだろうな。ああ、ごめん。独り言だ。気にしないでくれよ」
嶋田は少なからず緊張していた。これから向かう先の任務の内容だけではなく、聖道士という存在がすぐ隣にいる事の現実に戸惑いを覚えていたのである。昨日まで護衛役だったジンは彼女達が修行を終えると同時にカイエンの元に戻っていた。カイエン曰く、もう必要ないとのことだったが、いまここで肩にでも乗っていてくれたら、どんなに気が楽だったろうかと思っていた。
「私も少し、緊張しているんですよ。不自然に見えませんか? 私……」
「そんなことはない。いまじゃ警視庁だって女性捜査員は三割に達しようとしている時代なんだ。まぁ、確かに一流企業の社長秘書にも見えなくはないけどね」
嶋田は場の空気を和ませるために精一杯の冗談を言ったつもりだったが、直後に全てを後悔して小さく咳払いをした。
「ごめんなさい。私には、嶋田さんの思念が読み取れてしまうんです。それはとても自然なことだと理解できるんですけど、少し恥ずかしい気がします」
それを聞いた嶋田は、心臓が止まる思いがして、自分を戒めた。
「君には敵わないよ。全面降伏する。だから、これ以上僕の心を読まないでくれないか?」
嶋田は暑さを忘れていた。冷たい汗が背筋を流れるのを感じる。
「分かっています。でも私は総レベル抑制の眼鏡をしていますから、自分の力で感じているわけではありません。嶋田さん、あなたがご自分で発しているんですよ」
「えっ?!」
嶋田は思わず情けない声を発した。
「能力が向上しているのかも知れませんね。思念波のコントロールは、綾乃が得意です」
あとで訊いてみて下さいと、美咲が事も無げに言ってみせるのを、嶋田は他人事のように聞いていた。
綾乃はどの車輌にも乗っていなかった。佐多の指示で異なる角度から情報を収集するために、初めから聖道士として準備していたのである。
渋滞の列は少しずつ動き出していたが、あと三十分はかかりそうだった。嶋田に親しげに話しかけられた美咲は、好意を持って他意なく質問をした。
「嶋田さんは、どうして警察官になろうと思ったんですか?」
その言葉に、嶋田の表情が瞬時に硬くなり、心を閉ざそうとする波動を感じて、美咲は心ない事を訊いてしまったのかとやや後悔した。
しかし嶋田は、思いのほか普通に世間話でもするかのように語り始めた。
「僕には四つ年下の妹がいてね……」
嶋田はドアのコンソールを操作して窓を閉めながら話を続けた。
「どこにでもいるごく普通の兄と妹さ。当時はまだ僕が大学生で、妹は高校生だった」
窓は完全に車外と隔絶された。
「いまじゃそれほど珍しくはないんだろうが、妹は麻薬の乱用に関わってしまったんだ」
空気の振動から完全に遮断された車内は、まるで独立した別の空間のようになった。
「別に不良だった訳じゃない。巻き込まれたんだ。缶ジュースを受け取るみたいに、妹はドラッグとは知らずに飲み続けていった。もう何年も前の話さ」
美咲は黙って嶋田の話を聞いていた。
「薬づけになった妹は、とある不良グループに人形扱いされた。そして、殺されたんだ。そのことを知った僕は、鬼になった。復讐の鬼だよ。犯人達は皆、重いドラッグ症の上に心神耗弱との精神鑑定を受け、揃って病院送りさ。つまり、事実上の無罪放免になったんだ。今だったら刑法三十九条の撤廃によって、人権剥奪刑が確定していただろうけどね。僕はその時、真剣に犯人達を抹殺することだけを考えて生きていた。綿密な殺人計画まで立てていたんだ。本気だったよ。裏ルートで拳銃とサイレンサーを入手する方法まで具体的に知っていたくらいさ」
止まっていた車が緩やかに動き出し、低速ながらも順調に走り出した。
「復讐の筋書きは、実行を前提としたものだったんだ。いよいよ決行しようとして、妹の墓前に誓いを立てようとした時のことさ……聞こえたんだ」
嶋田は窓の外を眺めながら、そこで言葉を止めた。美咲は、一呼吸置いて尋ねた。
「何が、聞こえたんですか?」
それまで窓の外を見ていた嶋田は、美咲の方を見て言った。
「妹の声がね、頭の中で聞こえたんだよ。この話……信じられるかな?」
美咲は穏やかな笑みを浮かべて答えた。
「ええ、もちろん信じます。妹さんの声は、何と言ったのですか?」
「誰も恨まないで、ってさ。はっきりとした声だったよ。この時からかな、自分の異能力に目覚めたのは……」
嶋田は思い出したように短く笑った。
「それで、警察官になったんですね。慰めの言葉というわけではありませんが、多分、妹さんの魂は今頃、転生の準備中か、既に転生していると思います。嶋田さんも私達と同じように、超時空連続体や亜空間と交信できる能力があるんですよ。きっと、妹さんの魂の意識波動がこの世界に波動変換されて、直接頭の中に声が届いたんでしょう……ごめんなさい、私、変なことを言ってますね」
以前ならば呆気にとられていただろうに、嶋田は美咲の言葉を素直な気持ちで聞いた。佐多からはある程度の概略的な説明を受けてはいたが、全てを理解するには相当な時間がかかりそうだと思っていた。どうやら、それも取り越し苦労だったようだ。
「変じゃないさ。俺はもう三分の一か半分くらいは、君達の仲間みたいなもんだからね。君に慰められるとは思わなかったよ。君だって、相当に悲惨な目に……あぁ、ごめん」
言葉の途中で、嶋田は口が滑ったと思わず口を手で塞いだ。美咲はきょとんとして、嶋田が言わんとしたことに思い当たり、笑顔で返して見せた。
「気になさらなくてもいいですよ」
そう言われると余計に気になるものだ。嶋田は、ばつが悪そうに話題を切り替えようと試みた。自分の顔が微妙にひきつっているのが分かる。
「ところで、君達の、その、ジムノマンシーという力で、この渋滞を解消できないのかな?」
これは冗談だよ、という顔をして嶋田はまた窓の外に目をやった。
「それは私には無理です。車を使わないで空間座標移動するのは簡単ですけど」
「ははっ、ごめんよ、君はまじめなんだな。君にはもう少しくだけた話し方が似合う気がするんだけど……わかった、僕もまじめに質問するよ。ジムノマンシーって、どういう意味なんだ? あと、その……魂ってのは、本当に存在するのかな?」
「ジムノマンシーとは、何も装わない魔法という意味です。呪文を唱えず、特定の道具を用いず、魔法陣も描きません。裸の魔法とも言うそうです」
「裸の魔法? ああ、つまり、裸の状態でも使えるって事か」
「期待に添えなくてごめんなさい」
美咲は冗談めいて微笑み、自分の服装をちらりと見ながら言った。嶋田の顔が瞬時に硬直し、僅かながら耳の辺りが紅潮する。
「君には敵わないと言ったろう、勘弁してくれよ……もう一つの哲学的な質問に答えてくれないか?」
「魂と言うと、とても宗教的で超自然的ですけど、別の言葉で言えば、意識波動体です。単なる物体は超時空であっても、一種類か二種類程度の単純な波の集まりに過ぎません。意識波動体、つまり人の魂は、数え切れないほど無数の可変波動が複雑に結びついた集合体で、それぞれの波は常に相互干渉し合い、反応して新しい波を作り出し、あるいは消えたりして、大小様々に変化しているんです。その常時反応し続ける波エネルギーの塊が統一的な関連性を持ったとき、それはこの世界で魂と呼ばれる存在になるんです」
「ふうん、えらく無機質で物理学的なんだな。難しい数式の列で表せそうな感じだ」
「この世界は別の世界に比べて非常に自然科学的ですから、いつか表せるでしょう」
「こいつはまいった。僕も、もし聖道士になったら、そんなことを勉強しなきゃならないのか? どうやら考え直した方がよさそうだ」
「どうしてですか? 私だって人間だったときには、ちんぷんかんぷんでしたよ」
「人間だったとき、か。未だに君が一度死んでいるなんて、信じられないよ。その理論で言うと、つまり、意識波動体は一旦、人間であった君の肉体を離れて、また人の姿に化けたってことになる」
「その通りです。但し、波動変換されて、ですけど」
「じゃあ、君はもう不死身なのか? 例えまた死んでも、何度でも実体化できる、と?」
美咲はそれまで間髪入れずに答えていたが、ここで間を置いてから答えた。
「いいえ、聖道士でも、消滅することはあります」
「どういう時に? いや、気を害したなら許してくれ。でも、訊いておきたいんだ」
「聖道士は、背信的な悪意ある嘘をついたり、利己主義に偏った思考に囚われたりすると、その力を失います。また自ら聖道士であることに疑問を持ったり、心のバランスを大きく崩したりすることがあれば、ジムノマンサーであり続けることは困難になります。そのように心の弱さを露呈した時や、心身が極度に不安定になっている時に魔道士の攻撃を受けると、闇の浸蝕によって聖道士としては消滅してしまうのです」
嶋田は鼻で深く息をすると、美咲から目を逸らした。
「でもそうならないように、修行していたんだろう? あの異世界で。君達の話を聞けば聞くほど、俺に果たして務まるのかと疑問がわいてくるよ。いや、待てよ、君達は人間に戻ることもできるのか?」
美咲は質問の意図が理解できないと言った顔をしながら答えた。
「できなくはありません。でもあり得ないことです。本人が望んだ場合はジムノマンシーを失うだけで、肉体の波動形態は維持されます。ですから、厳密には元の人間とは違いますね。真に唯一の方法は、魔道士による逆回成の技術を利用した波動変換制御ですが、それは彼等にとって無意味な作業でしょう」
「つまり、一度聖道士になったら、もう後戻りはできないということか。当然、それくらいの覚悟が必要な仕事だろうな。僕も警察官になろうとした時、死を覚悟した。警察官としての職務を全うして死ねるなら、本望だとね。でもこれで分かったよ、僕と君達との覚悟の違いが」
のろのろと動いていた渋滞の列は二車線で競い合うように速度を増している。この分なら三十分程度の遅刻で済みそうだと、嶋田は頭の片隅で考えて、窓の景色から再び美咲に視線を移した。美咲は嶋田の言葉の続きを待っていた。
「僕の覚悟は決死という後ろ向きで投げやりな思想だ。でも君達の覚悟は、未来を見据えている。少々、人間味に欠けるようだけどね」
それは美咲にとって新鮮な意見だった。やはり、自己分析には限界があるのだと思う。正体を知る人間から見た聖道士とは、そんな風に見えるものなのか。
「佐多さんから聞いたんだが、聖道士というのは、天使になるのが目標なんだって? 本当なのか? ああ、天使の意味は教えてもらったよ。大宇宙の意識ネットワークの総称である、と。宇宙自体が自我を持っていて、全ての物理法則を支配していると聞いた。それだけに、悪いけど、最大の疑問なんだが……」
「聖道士になれば、分かりますよ。半霊・半物質的な存在であるということが、いったいどういうことであるのか。宇宙には形がありますが、いわば壮大な空間です。力を持っていますが、肉体があるわけではないですよね。つまり、魂だけの意識の存在のようなものです。物質世界から離脱した別の次元に対する憧れみたいなものですね」
「ふうん、そういうものなのかな」
嶋田は、やはり理解できないという口調で軽く返事をした。
自動走行のワゴン車が先導の黒いセダンをGPSネットワークで追跡しセンサーで捉えると、新幕張の出口に向かって方向を変えた。渋滞の列を抜けたのだ。
嶋田が無人の運転席を陣取る操縦装置越しに前方を覗き見ながら言った。
「君の魔法が効いたらしい。やればできるじゃないか」
目的地の玄関から百メートル以上も手前の地下回廊に誘導された四台の公用車は、その存在すら忘れ去られたかのような地下都市の幹線道路を延々と走らされると、ようやく辿り着いた終着点で、壁一面が発光パネルになっているやたらと眩しい来賓用駐車場に停車を指示された。
降車する際、嶋田は他の者に聞かれないように美咲に質問をした。
「もう一つ訊きたい。君の言う意識波動体が人の心を持った時、それでも心の内側まで、数式で表現できるようになると思うか?」
嶋田に続いて車を降りた美咲は、自動で閉まるワゴン車のスライドドアを背にして迷わずに即答した。
「いいえ。メカニズムは表現できても、道徳心までは、不可能だと思います」
四台の車両は、同時にエンジンを停止した。
「それを聞いて、安心したよ。少しは君に親近感を持てるからね」
先頭の車輌に乗っていた四名の安全保障局員が各々アルミのケースを携えながら、出迎えに出てきたボストン・テクノロジィズ社の幹部社員らしき年配の数名と握手を交わし、いまにも秘密裏の商談が始まりそうな雰囲気で建物の中に吸い込まれていった。
嶋田と美咲は別の車輌に分乗していた公認会計士達や輸出管理局のメンバーに混ざり、わざと最も後方を並んで歩き出した。
蒸し暑い駐車場とは対照的に、その長い廊下は解凍したばかりの古代遺跡のように冷え込んでいて、嶋田は呼吸が楽になった反面、気味の悪さに息の仕方を忘れそうになった。
奇妙な組み合わせだ、と嶋田は思った。ずいぶんと権威を見せつけるような混合メンバーに思える。他の調査員達は普通の人間であり、自分達の正体を知らない。
魔道士が深く関与していることを知りながら、佐多は聖道次監としてではなく、国家安全保障局長官としてメンバーを人選していた。自分が美咲達を護衛にと懇願しなければ、全くの無防備状態をさらけ出していたことになる。もっとも、美咲達を護衛につける話はカイエンの助言であったからなのだが。
それとも、佐多は初めから護衛をつける算段でいたのだろうか? だとすれば、恐らく今回の立ち入り調査は聖界としての仕事ではなく、よほど強い政府の意向があって、それに便乗したということになる。それだけこの会社は世間からも国家を脅かす存在として注目を浴びているということか。
ならば、既にマスコミに嗅ぎつけられている可能性が高い。まさかこの建物の中までは侵入できないだろうが、蚊や蠅くらいの盗視カメラロボットを紛れ込ませている程度の事は考えられなくもない。
先を歩くメンバーの話し声と硬く不揃いな足音に掻き消されるように、嶋田は美咲にそっと話しかけようとしたが、その発声は喉の奥で立ち消えになった。
(声に出さなくても分かりますよ、嶋田さん。マスコミ関係は佐多聖道次監が抑えていますし、この建物の中と周辺は、綾乃が隈無く注視しています)
美咲の精神感応だった。嶋田は驚いて、思わず一瞬立ち止まってしまった。
(そういうことか。佐多さんはうまいこと二足のわらじを履き分けているってわけだ)
頭の中で独り言を言った嶋田は、ふと訝しく思い美咲を見た。
眼鏡を外しているではないか。
美咲は何事もなく歩いてはいるが、険しい表情で細長く延びる天井を見つめている。
(おい、総レベル抑制を外してもいいのか? 悟られたらまずいんだろ?)
(綾乃からの通信です。この建物は巨大な空間迷宮隔壁で囲まれているそうです。簡単に言うと結界です。総レベル抑制を解除しないとうまく双方向通信ができません。綾乃が直前に透視をしてますが、今はよく見えないと言っています。私も先日この建物の近くに来ましたけど、全然様子が違います。まるで……)
大型のエレベーターがそこにいる全員を呑み込むように口を開けて待っていた。乗り込みながら、嶋田は精神感応のつもりで美咲に訊いた。
(……まるで?)
エレベーターのドアが音もなく閉まる。
(要塞です)
美咲が答えた。嶋田はそれ以上の事を質問しなかった。何が起ころうとしているのか、どうせこのあとすぐに分かることだと思ったからである。無意識に左胸の拳銃を確認するために手を伸ばすが、そんな物が通用する相手ではないと気がつき自嘲した。
大型のエレベーターはたちどころに目的の階へ到着した。1階フロアではなく、50階のビジネスエリアである。名刺交換はどうやら奥の会議室か役員室で行われるらしい。
豪華な絨毯張りの廊下をぞろぞろと集団が進む中で、眼鏡を外したままの美咲は通信以外のジムノマンシー放出を完全に抑制しながら、周囲のあらゆる気配に注意を払っていた。
それは訓練された超感覚であり、ほとんど無意識にしかも広範囲にわたってレーダー網を張ることができるようになっていた。
階数から予測したよりも意外にそのフロアは広く、途中で上級社員以外は入室できないセンサー式の自動ドアを通って、高級ホテルのスイートルームが並ぶようなひっそりとした廊下に出ると、一つの部屋に通された。こちらを控え室にお使い下さい、と言う案内人の言葉に返事もせず、安全保障局員の監査長は部屋の一番手前にある荷物を置くための檜のテーブルにアルミケースを無造作に寝かせると、時間が押しているので早速だが事前に要求した資料を提出するように、と求めた。
ここでも最後に入室することになった嶋田と美咲は、会議室かと疑うほど奥行きのある応接室の豪華絢爛なインテリアに目を奪われるやいなや、逃げ去るように部屋を出ようとした比較的若手の幹部社員とぶつかりそうになり、安全保障局というのは社交辞令を省略する部類の官僚なのだなと感心して思わずほくそ笑んだ。
それから間もなくして、資料の束を抱えて駆け足で戻ってきた若手幹部社員に加え、一緒に現れた役員達と名刺交換が始まった。
嶋田は名刺の差し出し方の礼儀など知らなかったので少し焦ったが、美咲が先にとても慣れた様子で即席の名刺を取り交わすのを見て、見よう見まねで最後にその儀式を行った。
すると名刺を見た役員のひとりが、露骨に眉をひそめて言った。
「おや、警察の方でしたか。いや、失礼。今回は国安局関係の方々だけと伺っていましたもので。どうぞ、おかけ下さい」
役員の名刺をちらりと見ると、常務取締役とある。恰幅のよい下腹の出た白髪交じりのこの男、面と向かって国安局と略称を使った。最初から馬鹿にしているのだ。
「いえ、結構です。僕……私と彼女は御社の設備と会社組織の実態についての調査担当です。他の監査員とは別で、事前の打ち合わせは必要ありません。早速、資料に基づいて社内を見学させて頂きたい」
「ああ、そうですか。では、過去三年間の決算資料と最近の各帳簿を……」
「いや、それらはここにいる公認会計士に渡して下さい。私達には、この建物の構造図面データ、電気設備がわかるもの……それと、経営会議の議事録を見せて下さい」
「ほお、そこまでお調べになるのですか……おい」
常務はまだ息を整えている最中の若手幹部社員に指示をすると、ちょっと失礼と言って携帯端末を胸ポケットからまさぐり出し、背を向けて部屋の隅に行きながらぼそぼそと話しだした。
他の調査メンバーが事前資料を広げて打ち合わせを始める。若手の幹部社員は合成樹脂の書類ケースから一般的な種類のデータスティックを壊れ物のように取り出すと、近くに立っている美咲に手渡した。
美咲はまたいつの間にか眼鏡をかけている。
「ありがとうございます。それと、最高レベルの入退室カードを貸して下さる?」
美咲が嶋田と共に車を降りた頃、綾乃は聖道士の防護服を着て、外界からは自分の姿が見えないように細工を施し、周囲の空間隔壁を念入りにチェックしながら、東京湾に浮かぶ風の塔の上に立っていた。
海底トンネルの換気施設である人工の離れ小島は、緊急避難場所としての意味もあり通常は立ち入れない為、いまは綾乃ひとりが立っているだけだ。
両手を双眼鏡にして愛くるしい両眼に当て、海の向こう側に浮かび上がる海上の陸地を眺めている。実際にそれで望遠の機能を果たすわけではないが、まるでピントを合わせるようにして丸めた手を回す。
防護空間内ではジムノマンシーをほぼ全開状態で待機、これを無色透明な隔壁の外ではどんなに高性能なオーラセンサーでも反応しないよう制御していた。それを長時間、保持しなければならないのだから、以前の綾乃であれば数分で根を上げていただろうところを、今は涼しい顔で余裕の様子だ。
上空の風に吹かれながら、綾乃は非科学的とも言える自分の配置について懐疑の念を抱いていた。
最下層三次元では、魔道士と十キロメートル以上の距離を確保。その間には大量の水があるとよい。そして円形の中心に立つこと……。
これではまるで中世古文書の一節ではないか。
しかしそれらは佐多の直接のアドバイスによるもので、新幕張を基点に地図を調べてみると、神奈川県の川崎と千葉県の木更津を結ぶアクアラインの途中にある、この風の塔しか見つけられなかったのだ。
恐らくは亜空間の常識による何かしら意味のある物理的防衛策なのだろうが、その原理はいくら頭をひねってみても皆目見当がつかなかった。
ここには海中トンネルの為の換気施設があり、二つの塔としてそびえ立っている。その事を除けばまるで魔法陣の中心にいるかのようだが、これも全く意味が分からない。聖道士は魔法陣を描かないからである。
佐多がかつては吸血魔道士であったという話は、聖界では有名である。従って綾乃も吸血魔道士の特性については印象的に記憶していた。水に囲まれること、円形の中に立つことなどは、吸血魔道士が最も嫌うとされている。では、狂信者の中に吸血魔道士がいるかも知れないということなのだろうか? 綾乃は訳もなく身震いしそうになった。
綾乃はほんの一時間前と比べて豹変した目標物の禍々しい歪み空間の様子に嫌そうな顔をすると、カイエンから教わった時空操作術を応用した、より高度な空間波通信で美咲に連絡を取った。
(ハロー。美咲、元気? こちらは快晴だけど、そちらは暗雲立ちこめているようね)
(……聞こえにくいわ。周波数は合ってる?)
直接脳に伝わる美咲の声は雑音に満ちていた。
(妨害されているのよ。いま美咲の頭の上は、大嵐と雷光のカーニバル状態。時空操作術でも透視で潜り込むのは危険ね。ハッカーの気持ちがよく分かるわ)
(規模は?)
(ピラミッドをすっぽり)
(亜空間まで波動干渉するなんて、もう私達に気づいたのかな?)
(気づいていたら、とっくに攻撃してくるか、逃げてるんじゃない? これだけ巨大な迷宮隔壁を作る意味は、別世界から疎隔させる為としか思えない)
(ベストタイミングだったかしら?)
(だからって、勇ましく眼鏡を投げ捨てないでね。内部構造は一時間前に探ってあるから。まずは監視カメラに注意。各階毎五メートルおきにあるわよ。音声は拾えないけど、熱センサー付きだから、魔道士より先に監視モニター室の人間にばれるわ)
(オーケー、綾乃。叫び声が聞こえたら、飛んできてね)
(了解。白馬でも用意しておく?)
(綾乃が騎士? 頼もしいわ。落馬しないでね)
綾乃はそこで通信を切断した。通信妨害は強くなる一方だった。その不規則さと不安定さから、意図的な妨害ではないと推測されるが、ここは慎重にいくべきと判断したのだ。
それまで綾乃は空間隔壁を擦り抜ける風に短めな髪を遊ばせていたが、その気流が突然止んだ。綾乃は周りをゆっくりと見渡して目を閉じ、別の事を考え始めた。
カイエンは、どこから私達を見ているのだろう?




