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第一章(file1)

 その日の霞ヶ関は、うだるように暑く、革靴で歩けば溶けたアスファルトが靴底にまとわりつくほどだったが、組織犯罪対策第五課が集まった警視庁本庁舎の会議室は、捜査会議が終るころには凍えるほどの寒さに襲われていた。

 数十人の捜査官に対峙する幹部席の中央に浅黒い巨漢が鎮座し、甲高い声で「解散」をマイクに向かって告げると、それまで静まり返っていたスーツ姿の捜査官たちが一斉に立ち上がった。ベンチ式の椅子は自動的に折りたたまれ、机上のディスプレイは音もなく収納されていく。白い壁に囲まれたその部屋は、天井の照明が隅々まで光を届け、窓のブラインドに反射している。それまで煌々と輝いていた捜査資料説明用の二百インチ中央スクリーンは、プロジェクターの退場に伴い、ただの白い壁と化した。

 いつになく長丁場の全体会議で、老若男女の捜査官らがぞろぞろと広い部屋から我先にと飛び出していく。その多くは格闘家を思わせる体格の良い強面の男達だった。中からは背伸びをしながら「課長の体感温度に毎回つき合わされたら、風邪ひいちまうよな」と言った雑音が聞こえてくる。様々な年齢層の集合体ではあるが、スーツの色は気味が悪いほどに濃い紺色に統一されているようだった。アクセスフリーの床を無数の革靴が踏みつけ、僅かに揺れるほどの振動が会議室を包み込んだ。

 そこはいつの間にか最前列に座る中年の小柄な男と、窓際で欠伸をしていてようやく立ち上がった若い男の二人だけになっていた。

 中年の男が顔の向きも変えずに、若い捜査官に声をかけた。低いだみ声だ。

「嶋田ぁ、ちょっといいか……?」

 そう聞かれてちょっとで済んだことなどないな、と思いながら、嶋田と呼ばれた男は生返事で答えた。既に会議室の照明は落とされ、ブラインド越しの朝陽により逆光で顔が陰になっている。さっきまでうつらうつらと半分寝ぼけていたためか、寝起きのような声しか出ない。まるで夢の中で捜査会議が行われていたかのような錯覚だが、不思議と全ての内容をはっきりと覚えていた。

「捜査会議直後に説教ですか? それなら退勤後にして下さいよ」

「説教じゃあねぇよ」

 かなり面倒くさそうに言う。しかし眼光は極めて鋭く、太くて短い人差し指でこっちへ来いという動作をする。嶋田はこの口調、このしぐさには慣れたものだったが、このように呼ばれたときに良い話がないこともよく知っていた。

「はい、牧野係長」

 ネクタイを絞めるふりしてわざとらしくかしこまり、半ば馬鹿にしたように答える。牧野と呼ばれた中年の男は座ったまま、そのような態度を意に介さない様子だった。嶋田は捜査会議での課長席にでも座ってやろうかと思ったがすぐに思い直し、牧野の少し手前で足を止めた。だみ声がわずかに音量を下げて、なお会議室に低音が響いた。

「今回のヤマ、おめぇ的にはどうなんだ?」

 牧野がそれまで俯いていた顔をゆっくりと上げる。髪は短く刈り、茶色の肌に剃り残したような顎鬚が青く、目尻のしわが深い。きれいに並んだ歯だけがやたらと白く、分厚い唇はまるで死人のようだ。

 嶋田は数秒押し黙り、頭を掻きながら言葉を選ぶように返答した。

「どうもこうも、まだ現場すら見てないじゃないですか。刃物を持った三十歳代の男が、突然に真昼間の新宿歌舞伎町で大暴れ。四人を殺害、五人が重軽傷、容疑者は巡回の警察官を振り切って逃走、いまだ行方知れず。目撃者の証言からすると、薬物中毒による精神疾患そのもの。いつもの俺らの仕事ですよ」

 嶋田は終わったばかりの捜査会議で読み上げられた資料の一部を繰り返した。牧野の係は薬物捜査であり、嶋田は牧野の直属の部下であった。

「そうだ。つい三週間ほど前も似たような事件があったろ。あんときゃ、三人死んだ。女と子供だった。ひでぇ有様だった……ホシも死んだがな」

「池袋連続通り魔ですよね。あれ、池袋署の刑事がビルの谷間に追い込んで威嚇射撃したら、見事に心臓をヒット! したやつですよね。あれは絶対に狙って撃ったんですよ」

「撃たれたホシは道端の植木に倒れこんで絶命した。その現場でな、鑑識以外に、植木の葉っぱに飛び散った血液を採取した奴がいたんだよ。まぁ、俺の知り合いなんだけどな」

 そう言って確認するように周りを見回した。他には誰も残っていない。

「桂木ですか」

 嶋田がまた頭を掻いた。思わず声が漏れてしまったという表情になる。

「知ってんのか?」

「元ウチの科捜研でしょう。俺より年上ですけど、公安時代に使ったことありますよ」

 そう言って嶋田は余計なことを言ったなと目を泳がせた。牧野の公安嫌いは有名な話だ。ところが牧野は気にする様子もなく、分厚い唇の端に暗い微笑を浮かべた。

「じゃあ話は早い。あの現場、直後に捜査一課が外され、公安に渡ったの知ってるか?」

「ホシが死んだのにですか? そんなの、意味ないじゃないですか……公安?」

「おめぇが前にいた、ウチの公安じゃねぇぞ。お隣だ」

 牧野は右手の親指を立てて、自分の後ろに向かって振った。その方向には、合同庁舎が立ち並んでいる。嶋田は思わずその方向に一瞬目を向け、すぐに牧野に視線を戻した。

「国安局? もっと関係ないじゃないですか。桂木……さんは、何を見つけたんですか?」

 嫌な予感が今回も当たりそうだと、諦めた気分で聞くしかないという顔になった。

「どうも国安局の連中はド素人らしくてな、全ての血痕を掃除できなかったんだよ。あいつらの本業は裏外交だからな。それでだ……たった一枚だが、葉っぱの裏側にべっとりとホシの血が残っていた。それを解析したところ、ヤバいもんが出ちまった」

 そう呟きながら左手で背広の襟を持ち上げる。

他の捜査官が紺色一色の背広に身を固めているのに対し、牧野はいつも茶色系を好んで着ていることが多い。刑事は泥まみれになることがよくあるのだからと言っていたのを聞いたことがあったが、所謂、昔ながらの足で稼ぐ古いタイプの男なのだろう。

 牧野は背広の裏ポケットから四つ折りにしたフレキシブル液晶パネルを無造作に取り出し、机の上に放り投げた。パネルは机にたたきつけられると、開花するようにA3サイズに広がり、見慣れた科捜研の分析資料によく似た文字の羅列やグラフが表示された。

 嶋田はあえて目を逸らすようなそぶりで言った。

「すんません、そっから先は聞きたくありません」

「俺は聞きてぇんだよ。あとで血液のサンプルをてめぇの手に握らせてやる。そのうえで、もう一度聞くぞ……おめぇ的にはどうなんだ、ってな」

「やめてくださいよ……」

「俺だって信じちゃいねぇさ。てめぇの薄気味悪い捜査能力なんかな。てめぇは単に運がいいだけだ。それと、少しばかり勘が働くに過ぎない。だがな……今回ばかりは、ヤバいことになりそうなんだよ。聞いたことあるよな、国安局のあの噂を」

「へぇ、係長がそんな話をするなんて、珍しいですね。UFOも幽霊も信じないのに」

「俺はな、もっと科学的な話だと推測している。ただ、それが、俺たちの想像をはるかに超えたものかも知れないということだ。葉っぱに付着していた血液は、人間のものじゃなかったんだよ。人工血液とも違う。正確に言えば、人間の血液そっくりで、明らかに自然生命発生によるものだが、構造の一部分だけが人間のそれではなかった。なぁ頼むから、お隣をその千里眼で覗いてきてくれ!」

 鮮やかな三原色を透明なプラスチックシートに散りばめたその資料を嶋田の前に突出し、やや震える手で分析結果の部分を指差した牧野は、いつもとは違う興奮状態だった。

「むちゃ言わないでください。だいたいその血痕が射殺されたホシのものとは限らないじゃないですか。どうしたんですか係長? 今日はおかしいですよ」

「ああ……おかしくなりそうだよ。人以外の者の噂は、以前からあった……恐らくだが、上層部は知っているんだ。少なくとも、警視長以上には知らされているんだ。白い服の女のことを……」

「白い服の……女?……幽霊じゃないですか」

「ばかやろうっ。何人も見てるんだ。幽霊なんかじゃねぇ。だから、ヤバいんだ。いつもみてぇに、単独行動するんじゃねぇぞ。てめぇの実績は認めるがな、一人で何かしようと思うなよ。今度、指示に従わなかったら、交通課か生活安全課に飛ばしてやる」

 嶋田はいよいよ我慢がならないという本心を態度で示すことにした。課長席にどうどうと座り、脚を組んだのだ。両手を広げるようにして答える。

「仕方ないじゃないですか。捜査官が減らされて、ペアが組めないんですから。それになんで白い服の女の話になるんですか? あの時のホシは男でしょう」

 最初は課長席に座ったことで睨まれたのかと思ったが、彼はそんなことで自分を糾弾することはない。その眼は刑事の眼であり、この世界の裏側を嫌というほど見てきた者特有の怒りと悲しみに満ちた心の具現化であった。

「今回の事件の夜、目撃されているんだ。それだけじゃない。その前の池袋連続通り魔や、品川爆弾魔事件、渋谷交差点銃乱射事件もそうだった。俺たちが関わることになる薬物疑惑の殺傷事件の後は、必ずと言っていいほど、その直後の夜から早朝にかけて、白い服の女が目撃されているんだよ。しかも、全て空の上でな。電柱の上なら鳥の見間違いかもしれんが、高層ビルの屋上、鉄塔の上、更には雲の上でだ! 俺は知らんが、最近、人間が空を飛ぶ装置でも開発されたのか? それとも全身の細胞を改造することで空が飛べるようになる技術でも発明されたのか? 俺たちの知らないうちに、アンドロイドが真っ赤なオイルを求めて街を闊歩しているのかも知れんな! いいか、深追いはするなよ。白い服の女を見たら、一人では何もせずに俺に報告するんだ。わかったな?」

 一気に捲し立てると、牧野はフレキシブル液晶パネルを胸のポケットにしまいながら立ち上がり、それまでの興奮状態が嘘であるかのように冷静さを取り戻した。先に退出した連中が消し忘れた冷房のためか、それとも牧野が力説した尋常ではない話のせいかは判明しなかったが、突如、嶋田の背筋を寒気が急襲した。二十代の頃、公安部にいた時代には確かに奇妙なものを何度も見たし、三十歳を目前にいまの部署に来てからの三年間も、気味の悪い事件が続いているのは事実だった。しかしそれは、自らが希望した結果であり、捜査一課から誘いの声が上がっても断ったのは仕事がきついからではなかった。嶋田には警察官となるに至った理由があった。それはまだ誰にも話していなかったが、いまの仕事こそが自分の選んだ道だと確信するようになっていた。牧野が静かに口を開いた。

「行くぞ。出る前に一旦、俺の席に来い。サンプルを渡す」

 その瞬間、今度は嶋田の全身を寒波が駆け抜けた。



 空から見下ろしたその街は、光で配線されたプリント回路板だった。

 無数のチップ群が暗闇を担い、如何わしい色彩を放つ発光ダイオードの群れが街の形を浮かび上がらせている。原始的な自然科学の功績が平面的に建築物を構成し、それはコンピュータ・グラフィックで描かれた美しくも血の通わない機械化都市に似ていた。

 街の所々から過大電流に焼かれた電子部品の臭いに混じって、高等生物と単純機械から飛び散る有毒な油の蒸気が湧き上がっている。光に背を向けた夜という最も欲望を具現化させるこの時間が、我こそ生きた時空であると、世界に誇示していた。

 嘔吐、濁水、汚物、鮮血、そして、死臭。煌びやかな色とりどりの光線に心を躍らせ、耳を塞ぎたくなる喧噪も祭の囃子に聞こえた誘惑の裏通りで、靄と静寂が一時的な独裁を宣言し、やがてそれらも早々に目覚めた太陽の光によって鎮圧されていった。

 朝の十時を少し回った頃、未入力ラインに合わせたディスプレイのようなブルーバックの空が、一転して暗黒色の絵の具に支配された。日本の関東地方で見られる皆既日食を、人々はさほど強い関心を持たずに迎えている。月に隠された太陽が、それでも誇り気高く黄金の指輪を見せつけていたにも関わらず。

 重なり合う燃える星と砂漠の星の激しくも静かな性行為を覗き仰ぐ地上の人々。濁った大気は星々の存在主張をことごとく否定し、邪険にあしらっている。黒いカーテンは天界に釘で打ち付けられ、風に揺れる事さえ許されずにいた。

 闇に慈悲を与える仕事に休暇を申し入れた月は、この世界に住む人々には地球から旅立とうとしているかのようにも見える。

 その歴史的で快美な朝の夜景を、まるで少女のようにか細い女が空中に浮かびながら眺めている。硫酸を含む雲は遙か頭上にあり、酸化した地上は眼下の彼方だ。

 彼女は闇に蠢く者を赤外線スコープのように両眼で捉えた。

 闇夜を好む種類の獣たちは、影を踏まれて動けなくなったように空に命乞いを始めた。

 うだるような上空の熱気が瞬間的に四散する。

〈ロックオン〉

 いつもこの瞬間は震えが止まらない。底知れぬ恐怖の急流に飲み込まれる感覚を覚えるのだ。きっと、大舞台に上がる無名のシンガーはこんな気持ちなのかな、と他人事のように彼女は自分に苦笑した。

 地球の兄弟星が母親に反抗できる時間はほんの数分に過ぎない。やがて明るさを取り戻し始めるチタンの街は、こじ開けられた天の岩戸の悲鳴を無関心に聴いていた。

 突然、鋸で炭素鋼を削るような咆吼が響き渡った。耳には聞こえない、人外の叫びだ。

 彼女は狙い定めた忌まわしい者に向かって倒れ込むように空間座標移動を行った。空から地上へ。三次元における移動時間はゼロ。そのゼロ秒の間に、獲物は罠を仕掛けていた。

 白とも水色ともつかないシンプルなシルクワンピースを纏った娘の無音着陸を見届け、けたたましいジェットエンジンに耳を塞ぐかのように、その者は顔を歪めて嘲笑った。

 ブロッケン現象の中に浮かび上がる影のごときその姿は、真っ黒な虹に囲まれている。

 その朧気な人影は歩み寄るように動くと、言葉を発した。

「天使になれなかった子猫でも、空から舞い降りると気分は良いのかね?」

 先の金属音の雄叫びが実は狂った嘲笑だと知ったのは、彼女の全身に寒気が走った直後だった。灰色の人影は流暢な日本語を続けた。

「女の聖道士かね。恐いね。私も魔女は苦手だよ。だが聖道士は、好きだよ。とくに君のようなかわいい娘はね」

 犬歯が覗く。やけに白い。それを気にしないように彼女は応えたつもりだった。

「一等聖道士の藤森美咲です。あなたにこの世界から退去するよう勧告します」

 声が震えているのが自分でもわかる。大根役者が初めて台詞を言うみたいだなと、不思議と冷静に考えた。鋭い歯を全開にした男が薄気味悪く鼻を鳴らした。

「一等聖道士? ただの兵隊ではないか。舐められたものだね。それとも、馬鹿にしているのか。少々、失礼とは思わんかね?」

 美咲と名乗った女は、次第に復活していく恒星の光に照らされ、顔かたちに近代彫刻のごとく可憐な輪郭を顕していく。豊かな黒髪は肩を隠さず、小さく卵形の顔はまだ幼さが伺える。鋭くも銀河のような大きな瞳。艶やかな唇は、口紅を知らずとも十分に朱色だ。数千年を生きた別世界の紳士でさえも見とれてしまうだろう垂涎の容貌と言えるだろう。

 美咲は不機嫌になった男のその話し方から、それなりの年月を越えてきた者であることを確信した。

「あなたは私より長く存在し、しかも階位は遥かに上です。だからといって、もっと上位の聖道士が勧告すれば素直に退去するほど、無計画ではないでしょう?」

「わかっとらんね、お嬢さん。お互いの等級を比較しても無意味というものだよ。この国で言う囲碁と将棋の有段者同士を、リングの上で対峙させるようなものだ。私を不愉快にさせたのは儀式を軽く見られたからだよ。皆既日食における世紀の大謝肉祭とも言える、それはそれは、慈悲深い儀式を。この世界で生まれ育った者には、分からんだろうがね」

 薄笑いを浮かべながらも、その両眼が赤く灯り始めたのを見て美咲は即座に緊張した。闇の者と問答をしても埒があかない事はよく知っている。まずは観察が必要だった。

「魔道士ゼノ、その儀式が慈悲深いというのなら、子供達はビジョンゲームをする度に、祈りを捧げる必要があるわね」

 自分を落ち着かせようと、美咲はゆっくりと低い声で息を吐くように応えたつもりだったが、心臓の鼓動は早くなるばかりだった。

「この時代の子供達はたいそう高等な遊びをしているようだね。ところで、この問答はいつまで続くのかな? 私は忙しいのだよ。君達は早く白い翼を持てるよう修行する事に時間を費やしてはいかがかな? うら若き乙女がこんな老いぼれの尻を追いかけるなど、あまり美しい事ではないと思うがね」

 そう言いながらも、ゼノと呼ばれた初老の男は会話を楽しんでいるようだった。モノクロの世界の住人からようやく脱して、夏だというのに百年ほど昔の英国風紳士を気取った紺色のスーツに灰色のロングコートの姿を浮かび上がらせた。風貌は白髪の西洋人にしか見えない。

 美咲は薄明かりの中に浮かび上がった男の顔を見て、息を呑んだ。

 既視感が美咲を襲った。以前に会った事など一度もないはずなのに……。一瞬のフラッシュバックが視界を遮ったが、美咲はすぐに気を持ち直してその男の様子を分析しようとした。

 闇の者達はどうしてこうも陰が似合うのか。高層ビルが立ち並ぶ日曜日のビジネス街にはまったく人通りが無く、四方を冷たい建築物に囲まれ、車道から少し奥まったコンクリート壁の陰にいま二人は向かい合っていた。外界から遮蔽されたその空間はビルの谷間を縫って近道をしようとする者でもいない限り、表通りからは完全に死角になっている。

「前置きが長いのは玄人の仕事ではないよ、砂場の天使殿。とどのつまり、私と一戦交えたいのであろう?」

「いいえ」

 美咲は即答した。もう心臓の鼓動はだいぶ落ち着き始めている。

「あなたと戦う事が目的ではありません。あなたを滅するつもりもありません」

「私を捕獲でもしようというのかね? よもや涙を流させるつもりではなかろうな? 私が素直に退去するほど無計画ではないと推測したのは、貴公の方なのだよ……」

 声が急激に低くなり、それは次第に地響きに変化していった。その振動が四方八方からやがて美咲の足下一点に集中し始める。着地したコンクリートの地面に直径3メートルものブラックホールが現れても、美咲の表情は冷静さを保っていた。最初から分かっていたかのように。驚きを隠せなかったのは、ゼノの方だった。

「さすが聖道士だね。一瞬で自分の周囲の空間を遮断するとはな。若くても空間操作技術は心得ているようだ。私も歪曲空間波攻撃には自信があったのだがね……」

 更に声が重低音を帯び、不快な空間波が突風のように吹き荒れた。攻撃ではない、苛立ちが物質化現象を起こしたのである。美咲は風に消えないように少し大きな声で言った。

「聖道士に空間攻撃は無効です。この最下層三次元でこれだけの力を発揮するあなたの能力には感服しましたが、それ以上の事はできません。これまであなたが彷徨ってきた数々の世界とは、物理法則が違い過ぎるからです!」

これは牽制のつもりだった。ゼノは苦虫をかみ潰したような顔をした。

「三次元1%制約の事かね? 確かにこの世界は気怠いよ。だがブラックホールはいとも容易く作れたぞ?」

 風が弱まった。ゼノは得意げに鼻を鳴らした。このタイプの魔道士は心から戦いを好む。それもその過程を楽しむ性向が強い。自分の能力を一気に使わず、相手の情報をできる限り引き出して自分に取り込もうとする。闇の者はそうやって力を増していく。しかしそれは亜空での話だ。この老紳士、どうも様子がおかしい、と美咲は思った。

 聖道士・魔道士の区別無く、例え純血の魔属であっても、下層三次元空間ではその世界の物理法則に束縛される。そしてここは、全ての三次元世界の中でも最下層の底辺に位置する完全物質界である。この世界において、その力は僅か1%以下にまで自然と制限されるばかりか、その空間に身を置くだけで著しい倦怠感に襲われる。

 故に好んでこの世界を訪れる魔道士は極めて少ない。最下層三次元出身の魔道士でさえ、次元移動の技術を身につけると同時に、上層三次元である亜空間への扉を叩くと言う。そしてこれらは美咲にとって基礎知識の域を出ないものだった。

 魔道士ゼノ。美咲は事前にこの男について情報を与えられていた。顔を見るのは今が初めてだったが、無限とも言える重層世界を闊歩する魔道士の記録が収められたそのファイルには、比較的詳しい経歴が記されていたのだ。ゼノの出身界は質量と重量が比例しない他、様々な点で物理法則が異なる別世界であり、出現した記録はそれより上層の三次元世界がほとんどを占めていた。そう、その情報は、いつにも増して詳細に過ぎたものだった。

 魔道士がこの世界に姿を現すのには様々な理由があるが、いずれも聖道士に出会ってしまうと態度は一変し、その場を逃げようとするか、交渉を始めるか、あるいは諦めて別世界へと戻っていく。しかし、目の前の魔道士は実に好戦的であった。

 確かに、世界は広い。いや、無限に多いと言うべきだろう。異世界という言葉があるが、この宇宙のみならず、異なる宇宙の多様さは星の数でさえ例えることはできない。同じ物理法則のユニバースだけでも、量子力学的解釈の多世界でも、それは異世界のほんの一部に過ぎない。これを更にマルチバース宇宙として考えれば、どれほど異様な世界があっても不思議ではないだろう。そう思えば、特異な存在もまた、決して特殊とは言えないものとなる。この老人もそうなのか。美咲は思い巡らした。だとしても……。

何故、わざわざこの世界に?

「その答えを教えてやろう……」

 しまった、と美咲は胸中で舌打ちした。そのファィルにあったゼノの魔力のひとつに、読心術があったことを思い出したのだ。防御のために空間を遮断した分、思念のコントロールを怠ってしまった。通常、周囲の空間を置換すれば精神波は流出しないので、感知され難くなる。だがこの魔道士は、聖道士が最も得意とする空間操作にも長けているらしい。たった一重の防壁程度では、彼にとってガラス張りも同然という証であった。

「私の攻撃を受け止められたらな……」

 その台詞は後方から聞こえた。忽然と消えたゼノの姿を追っても無駄と、美咲は目を閉じて念を背中に集めた。痺れるほどの電撃が艶めかしい皮膚に伝わる。空間を遮断していてもこの威力。力の差は歴然としていた。どうやら場当たり的な戦法は通用しない相手らしい。美咲はゼノの方を向きながら素早く姿勢を立て直した。

 空間座標移動を五連発。ピンポイント攻撃を避けるためのセオリーだった。

「まずはマニュアル通りかね?」

 ゼノは手の甲から黒い弾丸を機銃のように掃射した。中性子だけで構成された憎悪の塊が辺り一面に撒き散らされ、周辺の壁を砕き、飛散した窓ガラスが暴風雨のように舞った。

 美咲は修練生時代を思い出した。闇の魔力は光の速度に等しいという教えである。通常の暗闇とは異なり、魔の闇は光と同じく空間を伝播する。闇は単独で存在するものであり、負のエネルギーを持つ。真空中での闇伝播速度は光に等しく、常に絶対なのだ。この教えが僅かに当てはまらない事と言えば、ここが真空中ではないという事くらいか。

 それは練り固められた電磁力を原理とする熱弾などではなかった。コンクリートに突き刺さった濃い紫色の小さな鉄球は、美咲が目を凝らすだけで具現化されるミクロレベルのエックス線分析により、本物の中性子の塊であると分かった。なるほど、一瞬でブラックホールを作り出せるはずだと納得する。

 当然のごとく、トレースされるのはわかっていた。だから複合技が必要となる。まずは思念波を遮断し、得意技の一つを披露した。空間の激しい歪みが美咲の可憐なシルクワンピースを引き裂いていく様子は、受信電波の乱れたテレビ映像のようだった。ブロックノイズがパズルのように広がり、遊園地のミラーハウスに迷い込んだかのごとく空間の分裂が連続していく。もはやそこに正常な三次元空間を見つけることは困難だった。

 数メートルおきに座標移動を繰り返し、自分を含む空間をシャッフルした。ゼノの容赦のない攻めが休止すると、鏡の国より放出された竜巻の中から美咲が飛び出してきた。空間の歪みは消えている。美咲の雪原のようなシルクワンピースには、一点の傷もなかった。

「避けてばかりでは、答えは出ぬぞ」

 それは普通の声だった。それだけに攻撃の種類が読めない。魔道士は手品師のように取り出した黒い化石のスティックを大袈裟に美咲に向けて振りかざした。

 美咲はいつのまにか左右と背後をコンクリートの壁に遮られていた。美咲にとって物質の壁など障害にはならないが、闇の結界となれば話は別だ。とっくに月の食事は終了し、高層ビルの谷間にさえも核融合の光が届き始めたというのに、ここにいる聖道士と魔道士の周囲では、狂気の暗幕がおぞましい音を響かせながらスライドしていたのである。

「捕獲するのは、私の方だったようだね……」

 勝ち誇った声は全方位から響いた。光を浸蝕する闇は這うように美咲へと伸びていく。闇は光の速度に等しいはずが、光がこれを抑え込み、だがしかし一歩ずつ後退していく。

完全に闇に囚われてしまえば、脱出はほぼ不可能となる事を美咲は理解していた。

 ふと、美咲の口元が可憐に緩み、微かに笑みを浮かべたのに気づき、闇の紳士は表情を変えざるを得なかった。

「その笑みは、何だね? ……貴様、影精はどうした?!」

 暗黒の津波が止まる。これは聖道士の作戦だ、と感じたのか。

「ずいぶんと私達や人界の事を調べてきたようね。初めてこの世界を訪れる割には、詳し過ぎるわ。でも、ひとつだけ知らない事があるみたいで、よかった」

 何? と言いかけて、ゼノは思わず辺りを見回してしまった。気配は、無い。

 ほんの一、二秒が数分もの緊縛感に変化していた。

「私のサテライトを紹介するわ」

 美咲の両眼がエメラルドグリーンに輝く。黒い濁流は白い美術品に襲いかかることを忘れていた。ゼノが気にかけてやまない影精とは、聖道士の分身を指して言ったものだった。

 影精は全ての聖道士が身につける基本的な技術に過ぎない。しかしながらそれは、聖道士の最大出力限界を超えたレッドゾーン部分のエネルギーを外部に具現化させ、且つ独立させる事により、同時に発現可能とする総パワーを一気に二倍にまで引き上げることができるという点で、いついかなる時でも極めて有効な攻撃・防御術となる。

 〈サテライト〉とは聖道士の周囲をいつも浮遊している様子から付けられた異名だったが、美咲の影精にはもう一つの特別な呼称があった。

「私のサテライトは、彗星なのよ」

 軽く冗談を言う普通の女の子を演じるかのような能面の笑顔だった。資料通りの魔道士であれば、影精の存在は知っていても、彗星を知っているはずがない。超遠距離型の影精を操る事ができる聖道士が、目の前の魔界人と接触した記録がないからだ。

 ゼノは膝下まで隠すコートを翻し、両腕を広げてこの世界にはあり得ない言葉を発した。

 それまで様子を伺って氷のように静止していた闇の津波が、大海の氾濫のごとく美咲を呑み込もうと走り出す。

 美咲は動かない。

 空間を食す腐蝕した邪な意志の塊が、黒い爪となって美咲を捉えようとした、その時。

 魔道士が振り返った。

 遙か数万キロメートルの彼方から、光を超えんとする速度でそれは突如として現れ、闇の住人を彫刻刀でえぐるように貫いた。それは線香花火のように煌びやかな白い光を放ち、荷電粒子ビーム砲のごとく美しい直線を描きながら、舞い踊る幻龍のように静かに通り過ぎたのである。青白い放電現象のスプリンクラーが暗黒の中に虹を生み出し、その中心で灰色の男が甲高いうめき声を漏らした。よく見ればふくよかな顔は親しみのある人間的な輪郭を持ち、苦悶に満ちた魔の形相にもはや紳士の面影はなかった。

 美咲は反撃を受ける前に次の手を打つ必要があった。自然体のまま、素早く左斜め上を見る。立て続けに今度は左斜め下を見た。その流れで右側も同じ角度で斜め上下を見る。

 いずれも凝視した先はコンクリートの壁だった。その壁面と何もない空間との間から、火花を束ねた光線が四本走った。ゼノが自身に受けた光のダメージを掻き消そうと指を動かす一瞬の間に、それらは彼の体に巻き付き、絡みついた。無数の細かな金属の破片がぶつかり合い、擦れ合う音が鳴り響く。

 それは薄紅色に輝く強靱な鎖として実体化していたのである。

 最後に鉄骨材を地面に落とすような衝撃音が反響して、魔界の男は完全に捕獲された。

 地上約数メートルに張りつけにされた鬼面のジーザス・クライストから視線を外さないように、美咲はゆっくりと歩み寄って語りかけた。

「あなたこそ、インプはどうしたのですか?」

 使い魔の所在を尋ねた。魔属に魂を預けた魔道士はボスから使い魔を授かる。それは魔道士にとっては単なる助手であり、道具であり、ペットであるが、同時に魔属のお目付役でもあった。いかに次元移動しようとも、インプが魔界とのパイプの働きをする。それが本体の近くにいないのは珍しい事ではないが、聖道士に捉えられたにも関わらず姿を見せないのはおかしい、と美咲は指摘したのである。ゼノはもどかしそうに答えた。

「いや参った、参った。たいしたものだ。降参するとしよう」

 それは美咲に対して言った言葉ではなかった。両眼は彼女を見据えながらも、天上に向けて放たれた合図のように美咲には聞こえた。

 美咲は聞き覚えのある別の声を聞くまで、何が起こったのかまるで理解できなかった。

「わかりました。では試験を終了します」

 美咲は月が太陽に入れ替わるがごとく大きく目を見開き、思わず声を漏らした。

「大聖道士長?!」

 美咲は開いた口を閉じることもできないほどに驚いた。天空から聞こえたその麗しい声は聞き間違えようがなかったのだ。透明なその声は言葉を続けた。

「藤森一等聖道士、ジムノマンシーを解除しなさい。彼……ゼノは、試験官です」

 その知性あふれる女性の声は精神感応のようでいて二人にはっきりと聞こえた。次元を越えた空間波通信のはずだが、上空で拡声器を片手に宙に佇む姿が目に浮かぶようだった。抜き打ちのテストはあり得るとしても、いつも通りの魔道士放逐と聞かされて、終わった後にその実は試験でしたなど、思ってもみない事だった。

 やられた……と、美咲は泣きそうな顔になっていた。

「美咲……」

 脳のシナプスを真っ白なジグソーパズルにされたような気分から、二度、名前を呼ばれて我に返る。それから指示された内容を理解するのに数秒もかかってしまった。聖道士の力を意味する〈ジムノマンシー〉を魔道士から解除するよう命令された事が、夢の中のように感じられたからである。美咲はおどおどしながらも、ようやくゼノを解放した。

 意外にも落下の音はしなかった。木の葉が舞い落ちるようにゼノは地に着き、一仕事を終えたビジネスマンを思わせる仕草で首を回しながら交互に片手で肩を揉んだ。その様子から美咲はこの男が本気ではなかった事にようやく気がついて、再び涙目になった。

 彗星に貫かれた魔道士は一時的とはいえ、完全に魔力を失う筈だったからである。

 ゼノはいかにも怠そうに苦言を放った。

「試験は終わったのだろう? 出迎えにさえ来られないのかね?」

「いま、そちらに……」

 ゼノの後ろから応えがあった。ビルの谷間の空間が大きく揺れて虹色に染まり始めると、まるでブラインドから抜け出るように一人の白い女性が出現した。

 美咲が大聖道士長と呼んだその女性は、銀白色のシルクワンピースに身を包んでいた。

「ご苦労様でした」

 美咲より十歳は年上だろうか。妖艶な美しさは魔女を連想させ、強さと清らかさを兼ね備えた淫靡な電磁波を感じさせる小柄な女性であった。

「ゼノ殿、ありがとうございました。ジムノマンシーの直撃を受けたようですが?」

「ふん、魔力を根こそぎ持って行かれたよ。回復に丸二日はかかるだろう。これほどまでとは聞いていなかったぞ。報酬は考え直してもらわんとな」

 怒っているのか笑っているのか、どちらともとれる口調だった。結い上げた黒髪と白い肌の女性は微笑みで返し、また瞬時に真顔に戻ってゆっくりと美咲に向き直った。

「美咲、試験を告知しなかったことは謝ります。しかし、あなたも知っていますね。二階級特進の特例試験は、事前通達なしに行われることを」

 忘れていたわけではなかった。ただ、決して頻繁に行われる事のない幻の試験に自分が選ばれるなど、まさに青天の霹靂だったのだ。美咲は返事も忘れて二人を見比べるしかなかった。昇級試験それ自体珍しいのに、二階級特進とは? しかも試験官が魔道士? 何もかもが混乱して、自分の身に起こった事が他人事のように思えてならなかった。

「試験の結果は追って通知します。その時に事情を説明しますから、今日のところはお戻りなさい」

 美咲はやっとの思いで声帯を小さく震わせて、ようやく「はい」と答えた。ゼノの方に目をやりながら何か言いたげな表情で一、二歩後退って、不本意な空間座標移動を選択せざるを得なかった。弦楽器を爪弾く音色を残して、美咲は水面に溶け込むように消えた。

「見事な空間操作技術だ。よい弟子をもったな」

「恐れ入ります」

「魔道士の私に謙る事はあるまいて。無償の協力だと思ってはなかろうな? それとも、あのミサキという娘が報酬か?」

 少しの間が空いて、銀白色の大聖道士は静かに答えた。

「その通りです」

「ふん、やはりな、そうだろうと思ったよ。あの娘の影精に我が身を貫かれたとき、正直言って魂を盗まれる思いがした。そうか、あの娘が……そうなのか……」

「お約束は果たしました。それと、この世界に滞在する事を一ヶ月間、黙認致します」

「わかっておる。この最下層三次元の人界に、魔界の波動を持ち込むなと言いたいのだろうが。わかっておるわ。おとなしく静かにしていれば文句はなかろう。ただの老人の気儘な一人旅と思ってくれ」

 ゼノはまた鼻を鳴らしてそっぽを向いた。心を見透かされるのを恐れるかのように。

「あなたがこの世界に干渉しない限り、私達もあなたに干渉はしません」

「くどいな、やはり魔道士は信用ならんかね? 安心したまえ、人前に姿を見せる事はないと誓おう」

 何かを懐かしむように群青の空を仰ぐその姿は、もはや闇の妖術使いではなかった。

「但し、あの娘、美咲が……」

 と闇の紳士は言葉を追加した。

「本物の天使になったそのときは、花束を枯らす事なく持って会いに行き、杯をかわしてみたいものだな」

 初老の紳士は空を眺めるのをやめ、ため息をつくように地面を見て何やら呟いた。するとタイル張りの路面に黒い点が現れ、水面に投石した波紋が広がるように円が誕生した。

 円の面では激しい空間の歪みが連続し、燃えるように波打っている。次元の狭間に強力な重力の滝を作り、地獄への落とし穴の如き暗黒が口を開いた。人ひとり分が通ることのできるコンパクトなワームホールだった。

「ひとつ、訊いておきたい」

 ゼノは難しい顔をした。今度は本物のため息に聞こえた。

「何でしょうか?」

「あの娘は、合格かね?」

「この場で合否は判定できませんが、思念波のコントロールミスや、敵の真の力を見抜けなかった甘さなど、減点すべきチェック箇所は少なくありません」

「厳しいな」

 魔道士は鼻を鳴らして笑い、足元に浮かび上がる歪空間の淵につま先立ちになると、低音でそう一言残し、直立不動の姿勢で地獄の穴に吸い込まれていった。

 都会特有のビル風が、いま目を覚ましたと言わんばかりに呼吸を再開した。

 街はそれまでその存在すら忘れていたかのように時間の流れを取り戻し、いつもの生活に戻っていく。 砕けたコンクリートとガラスの破片が散乱したはずのその場所は、砂粒一つ風に舞い上がる事なく整然とし、いつの間にか人影も消え去っていた。



 昼食時間が終わり、幼い子供達をずいぶんと順調に寝かせつける事に成功した美咲は、

用務室のいつもの席に沈むように腰を下ろすと、魂が抜け出すほどのため息をついた。

「ちょっとぉ、何よその憂いに満ちた顔はぁ。放電しきったバッテリーみたいになってるじゃない?」

 美咲の顔を覗き込むように半分心配そうな様子で声をかけてきたのは、一歳年下の松村綾乃という同僚だった。元気の二文字を百回も累乗して、天然の純朴さを加算したような女の子だと、美咲は常々感心している。そんな美咲自身も普段ならごく普通に笑い合って他愛もない話に花を咲かせているのだが、さすがに今朝の一幕あった直後にデジタルなモード切り替えとはいかなかった。

「ねぇ、まさかまさか、ひょっとして、恋しちゃったとか? で、深みにはまって凹んじゃったりして?」

「違うわよ」

「ふーん、じゃあ、また変な夢をみたの?」

 この時、美咲は、ああそうか、と気がついた。ゼノという魔道士、初めてあったはずなのに既視感があった。言われてみれば、夢の中で……。だが、はっきりと思い出せなかった。

 とりあえず綾乃の質問に答える。

「最近は、見てないな」

 綾乃はだいぶ以前から、美咲から奇妙な夢を見たという話を聞かされていた。今日の美咲は様子が違う。そう思いながらも、綾乃は自分のペースを崩さなかった。

「美咲の墜ちちゃった顔、珍しいよね。あ、そうそう、聞いてよ! 昨日の夜さぁ、仕事だったでしょう、私。それでね……」

「ちょっと、綾乃。私の悩みを聞くんじゃなかったの?」

「うん、まぁ、ちょっと、聞いてよ。それでね、びっくりよ。抜き打ちの昇任試験でさ、なんと試験官があいつだったのよ。そんでもって、合格したら……」

「二階級特進!」

 二人の右手が鉄砲の形で向き合い、声はユニゾンになった。

 綾乃は瞬き三回の間凝固して、息を吸ってから声を張り上げた。

「あんたも?!」

「しーっ! 起きちゃうでしょ!」

 美咲が小声で人差し指を口に当てながら横に目を向ける。用務室は子供達の寝ている部屋を一望できる位置にあった。綾乃は両手で口を塞ぎ、小さな天使達の熟睡を確認した。

 綾乃は声のトーンを落としながら、それでも早口になって再度質問した。

「今朝の仕事で? それってどういうこと? で、美咲の試験官も魔道士だったの?」

「ええ、そうよ。自己嫌悪よ。もうショック特大」

 そう言って美咲は緑茶を一口飲んで逆に質問を返した。

「で、“あいつ”って、誰の事?」

「はぁ? 何、言っているの。あいつよ、あいつ。いつも突然現れて、美咲にモーションかけてくる、はぐれ魔道士よ」

 そう言われて美咲は一人の男の顔を思い浮かべた。同時に今回の二人の試験についての疑問点がまたひとつ増えた。

「……カイエンの事? 彼が試験官?」

「そうよ! びっくりでしょう?」

 綾乃は嫌なものを思い出してしまったといった顔つきになった。綾乃は美咲よりも先に聖道士になったが、いつまでも人間らしさを失わない独特の個性の持ち主だった。

 既に主任聖道士の階位にある綾乃が試験に合格すれば、一気に聖道士長第二席に星を増やす。日本において第一席は空位となっている現在では、人界に常駐する聖道士の実質的リーダー格となる。美咲自身でさえも、聖道士長の称号を名乗る事を許されるのだ。そう考えると美咲は益々、憂鬱な気分に陥った。この最下層三次元世界で何かが起きている。そう憶測せざるを得ない。

 確かに、最近は魔道士の出現頻度が多い気はしていた。“あいつ”も含めて。しかし、法則があるわけではないから、いまは波が高い位置にあるだけだと勝手に解釈していたのは否めない。綾乃が再び美咲を凝視して言った。

「美咲ってさ。考え込むと、思念波が丸見えになるよね。もっとも、私も同じ事を考えていたけどさ」

「その欠点のおかげで、不合格にならないかな」

「まるで合格を望んでないみたいな口ぶりね。亜空階位を目指すんじゃなかったの?」

「……私、聖道士に向いてないような気がする」

「ずいぶんと弱気だこと。試験、うまくいかなかったんだ。安心して、私もだから」

 綾乃がわざとらしく笑ってみせる。美咲は唇をほんの少し歪ませながら強く結んだ。

「で、美咲の方の試験はどうだったのよ、教えてよ」

 綾乃の督促に負けて、美咲は今朝に起こった一部始終を話して聞かせた。但し、理由は自分でも分からなかったが、ゼノの顔を見た時に感じた既視感については黙っていた。

 次に、綾乃が自分の試験の顛末を詳細に語ろうと番茶で舌を湿らせたとき、自動タイマーでフィルムテレビにスイッチが入り、その日午後一番担当の無表情なニュース・キャスターが映し出された。

 この十数年ほど凶悪犯罪は減少傾向にあった。警察捜査の改革や民事不介入の原則撤廃による防犯強化等々、要因は様々に考えられたが、死刑を超える最高刑罰として導入された【人権剥奪刑】の施行によるところが大きいと世間では囁かれている。

 ところがこの数週間、血生臭い事件が後を絶たない状況が続いていた。ニュースは昼間の繁華街を突如として地獄絵図に変えた連続通り魔殺人の続報を伝えていたが、結論としては、犯人像の割り出しに苦労して解決までは時間を要する、という内容だった。事件の性質から言って、未だに容疑者を特定できない事にほとんどの市民が疑問を持ち始めていた。しかも、最近だけで残虐な未解決事件は両手の指で数え切れなかった。

 綾乃と美咲は話を止めて真剣な面持ちでTVニュースに集中していた。

「これって、白昼堂々の事件なのに容疑者があがらないって事は、また魔道士絡みなんじゃない?」

 綾乃がTV画面から目を離さず独り言のように呟く。また考え事をはじめた美咲は目を少し細めるだけで、うわのそらな生返事を漏らした。

 この数週間で殺人などの重犯罪に魔道士が関わった事件は過半数を占めている。残りは模倣と呼ばれる昔ながらの犯罪者心理に基づくものだった。美咲と綾乃はこれら一連の対策行動には関わっていなかったが、いずれは後方支援程度の役目が回ってくるだろうと予想していた。もしかしたら、今回の昇格試験はそのためだったのだろうか?

「そういえば、試験結果の通知っていつなんだろうね……」

 美咲も独り言のように思考を音声に置き換えた。ゆっくりと椅子に身をゆだねる。

「そうか……通知するって言ってたわね。って事は、うちらが呼び出されるんじゃなくて、メッセンジャーが来るって事かな? まさか通信で済ませないよね?」

「一緒に次の仕事の説明付きかもね。今度こそ、退去勧告なんかじゃなくて」

 美咲の言葉に奇妙な現実味を感じて、綾乃は唾を飲み込んで背もたれに上半身を倒した。

 遠くで聞き慣れた電子音が5回鳴って、その機械は仕事の完了を報告した。ふと、二人は視線を合わせて、互いの心を合わせ鏡にしたかのように声を重ね合わせた。

「洗濯物、干すかぁ……」

 午後になればまだ残暑が厳しいその日の天気は、真夏の海の空だった。一時期は疑似太陽光乾燥機が普及したが、ここ数年は大気適正化計画が効果を見せ始めてきた事もあり、自然の熱光線を利用するようになっていた。二人はいつも、大量の洗濯物を貨物用エレベーターに載せて屋上まで送り届けると、自分達は階段を駆け登った。そうしていまは夢の中にいる十三人の子供達の服や替えのシーツやらを手際よく干し始めるのだ。

 今朝の優雅な出で立ちに比べ、本業とも言えるその仕事着は対照的にラフな装いだった。美咲は伊達眼鏡をかけ、空に溶け込むような青いTシャツにやたらとポケットが付いた白いホットパンツ姿で裸足にサンダルを履いている。アンダーシャツを着ていないのか、面積の広い洗濯物を干すときに体の中心にある窪みが見え隠れする。

 時折光を反射するピアスを付けた綾乃は、薄いピンクのノースリーブにレモン色のミニスカートをそよ風にたなびかせ、スリットの下にベージュのマイクロショートパンツを覗かせるシティスタイルである。サンダルは美咲と同じ、この児童養護施設の物だった。

 街の再開発区域から僅かに外れた郊外の緑地公園と、国の環境保護対策の一環として建設された大気適正化システムの巨大な建造物との間、毎年その幅を狭めていく自然の川を背にしたその場所に、美咲達のいる施設が門を構えている。西洋の古城への入り口を連想させる錆びた門に掲げられた表札には、平仮名で“ひじり じどうえん”と彫ってある。

 庭では毎年秋になると運動会が催され、年末近くになればクリスマスの色鮮やかな電飾が建物全体を占拠する。美咲達は保母としてこの施設に勤めていた。子供達に相応しい里親が見つかるまで、血縁者を持たない孤児達の母となり父となり、兄弟に成り代わって毎日面倒を見ていたのだ。そしてここは、二人の住む家でもあった。

 最初に気づいたのは綾乃だった。しかしその差は瞬きより短く、ほとんど同時に二人は屋上の隅に侵入者を捉えていた。景色の一部に混ざるように逆光となって現れた人影は、初めからそこにいましたと言わんばかりにくつろいだ様子で佇んでいたのだ。

「出たっ」

 綾乃が眉をひそめて声を発した。低い周波数を多分に含んでいる。

 人影はにやけながら二人に近づき、右手をジーンズのポケットに突っ込み、左手を頭の高さで人差し指と中指だけを立てて、空中の何かを払うように軽く一振りした。

「出た、はないだろう。近頃の幽霊は日中勤務なのかい? 卑しくも昨夜は君の試験官だったこんないい男をつかまえて、言ってくれるね」

 そう返しながらも、風に揺れる洗濯物を巧みにかわして足を止めたその視線の先は、無表情なままの美咲に向けられていた。自分でいい男と言ったのは冗談になっていない。その男は誰が見てもトップモデルか、もし俳優ならラブロマンスもの、悪くてヴァンパイアの役に引く手数多だろう美青年である。東洋人に近いハーフに見えるが、目の色は青く、髪は銅の色だった。筋骨隆々とまではいかないが、均整のとれた体つきをしている。

「いま、忙しいの。帰って下さい」

 美咲は興味を失った事を主張して自分の仕事に戻った。

「いつもながら、クールなところが可愛いね。ところでその二人がかりの重労働は、天使になる為の修行みたいなものかい?」

「どうも、昨晩はお世話になりましたカイエン殿。でも試験は二人とも終わってるんです。何かご用ですか? 用がなければ、退去勧告しますよ!」

 感情剥き出しにその男を睨みつけた綾乃が舌を出して小指で片眼の裏側を見せつける。よほど試験の内容に忘れがたい屈辱でもあったのだろう。怒った顔でそれきり黙ってしまった。美咲は困ったような顔つきになり、少し俯きながら最後の洗濯物を干し終えた。

「歓迎されないのはもう慣れたが、そう怒らなくてもいいじゃないか。俺がいままで君達を困らせた事なんかないだろう? これからだってないさ。なぁ、美咲ちゃん」

「あなたがここに現れる事自体、迷惑なんです。迷惑という言葉の意味、理解してますか? あなたのいた世界の言葉で何というのかは知りませんが。ミスター・カイエン?」

「迷い、惑わす、か。それは、君が俺にしていることそのものさ。おお! 美咲! 何故に君はジムノマンサーなんだ!」

 カイエンはわざと戯けてブロードウェイを演じて見せた。その様子がいかにも滑稽で、怒っていたはずの綾乃は吹き出しそうになり、首をかしげながら慌てて我慢した。

 カイエンは独立系の魔道士だった。暗黒の深淵に棲む魔属に魂を売る事を条件に魔力を得る方法に依らず、自分自身に厳格な制約を設けることで、言わば呪いを施し、独学で高等な妖術を会得している。綾乃がはぐれ魔道士と銘打ったのは、魔界から独立した自由人であることを意味していた。

 彼は人界に現れてから何度も退去勧告を受け、その度に素直に退却し、その舌の根も乾かぬうちに翌日にはまた現れるといった鼬ごっこを繰り返していたのである。

 魔界をその力の源とする者は、魂の心髄まで黒く染め上げている。それが魔力発現の前提条件であったが、彼はいつも実に陽気であり、敵意を持たず、そして実際に破壊行為は皆無であった。それだけに美咲と綾乃は他の魔道士達との対峙とは異なり、闇雲に排他的な態度を取ることができずにいたのだった。

「本当にまだ仕事があるんです。話なら夜にして下さい。夜はあなたの時刻でしょう?」

 美咲は空になったバスケットを両手に持って背を向けようとした。その視界の最果てに飛んで跳ねる黒い物体が飛び込んできたので、無意識に向き直った。

 黒いエジプト猫がカイエンの肩に乗っている。通常、独立系魔道士は直接に魔属の支配を受けないため、使い魔を持つ事はない。美咲達が以前に飼い主であるカイエンから聞いた話では、魔属に見放された妖獣の子供らしいが、真実は定かではなかった。

「ほら、ジンも君達と話したがっている。会いたかったのさ。なぁ、ジン?」

 そう言って美しい魔道士は黒い猫の喉をせわしなく、そしてやさしく撫でた。

「用件はちゃんとあるさ。俺と聖界との契約期間は今日まで続いている。君達の上長は、あとで試験結果を通知するって言ってなかったかい?」

 カイエンはようやく本題を切り出した。綾乃は心底驚いて目を丸くしたが、美咲は覚悟した様子で目を伏せ、呟くように言った。

「ここは、暑いわ。下で話しましょう。涼しい部屋で」



 カイエンは魔力を使わず、美咲達と一緒に歩いて階段を下り、何が嬉しいのか終始破顔したまま二人に誘導されて地下室のソファに腰をおろした。魔界の波動を遮断する結界が強固に張られた部屋である。入室の時だけ対象から一時的に除外された魔道士の我こそが主という態度に、綾乃の顔はひきつっていた。

 ドアが閉められると同時に、再び結界が作動し、カイエンはその魔力を強制的に百万分の一まで制限された。黒猫がカイエンの膝の上からソファの背もたれの端に跳躍してうずくまる。

 その部屋はたいして広くはなく、この施設には似つかわしくないモニター群やコンピュータ、通信機器などで周囲が埋め尽くされている。カイエンがこんなものは必要ないだろうと尋ねると、美咲は素っ気なく「ダミーよ」とだけ答えて静かに座った。

 子供達はまだ寝ていた。聖道士の超感覚を持ってすれば、離れていても添い寝しているに等しい。クーラーが効きすぎないように秒単位で制御する事も可能だったが、綾乃がコンソールパネルを見つめると壁一面のモニターが一斉に目を覚まし、眠れる天使達の部屋を含む施設全体、内部と外界の至る所を映し出した。

「一応、見た目通りに動くんだな。なるほど、電池みたいに溜め込んだジムノマンシーを特定の条件下で増幅するシステムか。攻撃できない代わりに、護りは鉄壁ってわけだ」

「よくわかるわね」

「趣味なものでね」

「そう。早速だけど、試験結果を教えて下さい」

 美咲はレンズのない眼鏡を外し、カイエンをじっと見て強い口調で言った。

「君はいつも単刀直入だ。会話にも人生にも無駄が必要だという哲学に関心を持つといい。この部屋みたいにね。もっとも、その縁の太い眼鏡は無駄と言うべきかな?」

 カイエンの両腕はソファの背もたれを無理矢理に抱えている。年代物に見える薄手のジーンズを履いた長い脚を無造作に投げ出し、片方の眉をぴくりと動かす。

「私達は今回の試験に納得していないんです。いえ、納得するかどうかなんて、関係ないのはわかっています。でも、疑問を次の日に持ち越したくない気持ちは理解して下さい」

「合格だ」

 二人とも拍子抜けして思わず「えっ」と同時に声を漏らした。

「どうしたんだ? 嬉しくはないのかい? 合格だよ、二人ともね。今日から松村綾乃・聖道士長第二席、藤森美咲・聖道士長第三席に昇格だ。おめでとう」

 カイエンは大きな手で破裂音の拍手を二人に贈った。綾乃は無声映画の登場人物のように部屋の隅で独りはしゃいでいる。だが美咲の表情には曇りがあるように見えた。

「魔道士から告げられたのでは、信頼性に欠けるとでも言いたそうな目をしているね。疑わしいなら今すぐ君達の上長に空間波通信で確認するといい。それとも人事院かな?」

「私が知りたいのは、何故、魔道士のあなたが試験官なのか、何故、メッセンジャーなのか、という事です」

「二階級特進の試験官は魔道士に依頼され、試験は抜き打ちで実施される。差し替えられた偽の魔道士ファィルを渡されてだ。これは人界で活動する聖道士の下士官役を任せられるかを、仮想実戦で判定する為だそうだ。そこで俺みたいに毒気のない、爽やかな教育係軍曹が選ばれたってわけだ」

 初めからオープンな謎解きを続けるカイエンは、いつの間にか真顔になっていた。

「さて、君達が何故に突然、二階級特進の試験を受ける羽目になったかを説明しようか」

 人間の女性なら誰もがうっとりと聞き惚れる声で、カイエンは物語を伝えるように核心を話し始めた。

「三次元1%制約については、いまさら説明の必要はないだろう。だが、光速度不変の法則のごときその絶対的法則を根底から覆し、ビリビリに破いてゴミ箱行きにする全く新しい方程式があるとしたら、さぁ、君達はどう考える?」

 予想していなかったその問いに、美咲は少し思考を巡らしてから答えた。

「考えられないわ」

「実際あるの? いや、あるんですか?」

 綾乃は現在のカイエンの立場を思い出して敬語に修正した。

「さぁ、多分、ないね」

「どういう事ですか?」

 カイエンは長い脚を組み替えて、やや前屈みに姿勢を変えた。

「俺は個人的にないと思っているが、他の世界の魔道士の中には真剣に探し始めた連中がいるって事さ。しかもその方程式を解く鍵がこの最下層三次元世界にこそ眠っているのだと、狂信者達はこぞって研究論文を発表したってわけだ。宇宙をマルチバース規模で考えれば、他の方法を手助けする宇宙も存在しうるだろうが、このユニバースほど物理法則がガチガチな世界はない。この次元の量子力学にいう四つの力は、半世紀前のオペレーティングシステムみたいに融通が利かないからな」

 綾乃は駆け足で美咲の隣席にどっしりと座り、目を輝かせながら無言で話を続けるよう促した。カイエンが薄笑いで観客の要請に応える。

「話は単純なんだよ。要するに、最も物理法則による制限が厳しいこの世界で異界の力を自由に振るう事ができるようになれば、上層魔界ではより強大なパワーを一気に手に入れられると奴等は考えた。その邪で稚拙な野望をマジに企てた自然科学オタク野郎どもが、真っ先に目を付けたのが、この人界だったのさ」

「人間にヒントがあると仮定したのね」

「半分正解だよ、美咲。この完全物質主義でがんじがらめの人界では、同次元の物理的な運動エネルギーを与える事なく物体を動かすのは不可能なはずだ。ところが、それができてしまう人間がごく一部だが存在する。所謂、異能者ってやつだ」

 美咲達はようやく全貌が見えてきた気がした。そして、つい先ほど自分が予言した事が現実になる確率が天高く急激に跳ね上がったように思えた。

「奴らは異能者の素質がある人間を見つけては、研究対象に色々と実験をしたんだろう、不幸にもその人間達は魔道士の鬼気に心身共に影響を受けてしまい、精神を崩壊させた」

 カイエンは自分の頭の上で指を弾いて見せた。

 綾乃は手を挙げて講師に質問をしたがっている生徒のような顔をした。

「ちょっと待って下さい。異能者なんてそう多くいるもんじゃないわ。数百万から数千万人に一人の割合よ。一連の事件を起こした気の毒な犯人達は、みんな希少な異能者だったとでもいうの? この日本だけで?」

「確かに、異能者はレアだ。でも半ば人為的に発現する場合がある。ある方法でね」

「例えばクスリ……麻薬とか、覚醒剤?」

「今度は大正解だ。バッド・メディシンだよ。この場合は幻覚剤さ。では次の問題だ。君達は“天使の粉”って知っているかい?」

 聖道士は修練生時代に様々な科学知識を詰め込まれる。だが美咲は完全には思い出せなかった。綾乃に至っては思い出そうと努力する事さえしない。美咲が自信なさげに答えた。

「確か、PCPとかいう……」

「よく知っていたな。そう、フェンサイクリジンという幻覚剤さ。こいつと最近開発された側頭葉作用剤をミックスした“ネクロマンサー”という灰色の粉が、ここ日本で精製されて出回っている。なんでも亡者でさえ死の痛みを忘れて動き出すほどの逸品らしい」

「ネクロマンサー?!」

 綾乃は何てとんでもない名を付けるのかと言いたげである。

「死者を操り動かす魔道士の事さ。その幻覚剤を服用すると、コントロールこそできないが強いオーラを放射し始める人間が少なくないらしい。加えてそいつらが魔界の波長にシンクロしやすいような悪ガキだった場合は、闇の探求者達のレーダーにいとも簡単に引っかかるって寸法だ。お分かりかな、メタトロンの子供達?」

「その忌まわしい研究は、どれくらい進んでいるのかしら?」

「さてね、そこまではわからないな。俺が知っているのは魔界で流行の噂話と、人界の裏社会に流れた新製品ニュース、それと一連の事件の犯人達の末路ぐらいさ」

「どうなったの?」

「一生分のオーラを一日で抜き取られると、どうなると思う? こいつはホラーだぜ」

 美咲と綾乃は想像を中止し、加害者であると同時に哀れな犠牲者のために祈った。

「遙々人界にまで取材しにきた魔界の科学者達は、君達のお仲間がだいぶ苦労して排除しているようだね。しかし、ゴキブリみたいに後から絶え間なく出現する。こいつらは魔力こそひ弱だが、何せ珍しく組んでやがるんだ。魔道士のくせにな」

 珍しく、と聞いて、美咲と綾乃はそのことに関心を強めた。

 魔属や魔道士が人間界に与える影響は、その秘める魔力に対して実際には極めて小さい。

 本来なら総力を挙げれば人界を地獄と化し支配する事も可能だが、歴史上、それを試みた魔属・魔道士は全く存在しない。三次元1%制約もその理由の一つだが、更にもう一つ、魔界という暗黒の特質が大きく関係していることを美咲は思い出していた。

 それは彼等の行動原理にあった。魔属・魔道士は能力が上位になるほど基本的に単独主義で自己中心的であり、組織を構成して行動を起こそうとはしない性質を持つ。

 実際、美咲達が過去に経験した退去勧告は全て一対一であった。魔道士が同類と仲良く作戦を実行した例は他国を含めて聞いたためしがなかった。

「猫の手も借りたいほど、君等の幹部は下士官育成を迫られた。君達も知っての通り、二階級特進試験はその階位が空位または激減してしまった場合や、今回のように急激な人材不足に陥ったときなどに、能力は申し分ないが経験年数にのみ条件を欠く優秀な聖道士を抜擢する為に制定された。だがなかなかそんな優等生はいるもんじゃない。そこで、まだおしめの取れないひよっこの中から、少しはまともなジムノマンシーを操れる逸材を選別し、無理矢理に階級を二つばかり押し上げて、害虫退治に参戦させようって事になった、という筋書きだ。これに関しては、予想通りだったろう?」 

 綾乃が再び手を挙げた。

「まだ一つ、わかりません。何故あなたがそれを告げに来たの……ですか?」

「言っただろう? いま君等の幹部は多忙を極めている。人界駐在の下っ端だけでなく、大聖道士クラス以上も人手不足なんだ。指導員のなり手がいないのさ」

「指導員?!」

「聖道士長ってのは、本来、経験値が要求されるんだろ。だが君等は、乳児の尻みたいにまだ青い」

「だって、さっき契約は今日までだって……」

「それは試験官としてだ。それと、追加契約には君達の同意は不要らしい」

「なぜ私達が魔道士のあなたに指導されなければいけないの!?」

 綾乃は猛烈に抗議を申し入れた。

「これは上長の命令なんだよ。今回の件に一番詳しいのは、俺だ。これでも魔界を含め、この千年以上も色々な世界を見てきたんだ。これ程に強い味方はないぜ。それに、奴らは意外に厄介だ。戦闘タイプではないから、直球勝負では渡り合おうとしない。その事は君等の先輩達が証言している」

 美咲は黙ってカイエンを見つめていた。冷静なようでもあり、困惑しているようでもあった。綾乃が美咲の方を見て意見を求める。美咲はようやく口を開いた。

「報酬は、なんですか? 魔道士のあなたがなんの見返りもなく私達に協力するはずがありません。あなたは、自分の真の目的を何も説明していないのに、信用しろというのは無理な話です。上層部に確認してもよろしいですか?」

「納得するまで聞くといい。俺が望む報酬はこの人界への自由な出入りに目をつむってもらう事だ。もちろん無関係な人間にいかなる影響も与えない事が最低条件だがね。俺は様々な世界を旅して歩くのが趣味でね。滞在が困難な場所ほど挑戦してみたいと考える奴は、人間にもいるだろう? それに俺の方も聖道士である君達から学ぶ事ができる」

 それは魔道士ゼノに与えられた報酬でもあった。美咲はその事は知らなかったが、それなら一応、筋は通ると思った。今度は逆に綾乃を見て結論を求める。妹のようであるが、これでも先輩であり、階位も上だ。綾乃は目を半開きにして天井の隅をぼんやり見ていたが、やがて目を見開き、一度外したピアスを装着しながら判断を下した。

「いま、上に通信で確認したわ。私達は軍隊ではないから、命令といえども拒絶要求する権利があります。でも、それを行使する根拠は、私的感情を除いては、残念ながら見つからないわね。但し一つだけ条件が……あります」

「なんなりと」

「規定の研修期間が終わったら、もう二度と私達の前に姿を現さないで下さい」

 カイエンは少し口を噤んで、しかしあまり表情を変えずに返答した。

「三週間か……いいだろう。これで契約成立だな」

 ジンが不気味に鳴いて、思い出したかのように飼い主の膝の上に戻った。

 カイエンの承諾は二人にとってそれほど意味を持たなかった。綾乃の出した条件は、あくまで立場は対等なのだと認識させる為の牽制球に過ぎない。魔道士は、嘘をつく。それ故に魔道士なのである。人界を訪れる魔道士は躊躇わずに魔力を振るう。従って嘘をついて人間や聖道士を騙すといった遠回りな手法は比較的苦手とするが、一度、聖道士にその存在を知られてしまえば、大挙して反撃する術を持たない限りこの三次元空間では多勢に無勢なのである。そのような状況においては暴力に依る事なく、巧みな話術と怪しげな取引交渉術でその場を逃げる。それらにはエッセンスとして嘘が伴うのだ。

 今回の研修期間は聖界によって最長で三週間と定められたとカイエンは説明した。それはカイエンが美咲達の前に現れてから今日までの日数でもあった。

 研修の内容について至極簡単に説明がなされ、カイエンはやや生理学的なネクロマンサーの解説をそれに付け加えた。更にそれには実戦こそが最良にして最も効率的なトレーニングであるという古典的な教えが含まれていた。まずは魔道士に狙われる可能性の高い、突発性でしかも一時的な異能者を捜し出して先回りし、張り込みをするという、人界の捜査のいろはを絵に描いたような単純極まりない作戦であった。

「単純だからこそ、それは恒久的に有効なのさ」

 と言い放ったカイエンは、受講生の二人に抗弁させる余地を微塵も与えなかった。

 辟易した綾乃が席を立ったのを合図に、美咲とカイエンも立ち上がろうと腰を浮かす。その時、カイエンがモニターを見て面白そうに言った。

「お客さんがいらしたようだ。えらく珍しい訪問者だね。一人だが、私服警官だな」

 その言葉の数秒あと、一番左端上のモニターにスーツを着た若い男性の歩く姿が映し出された。見た目だけで警官とはわからない。カイエンも美咲たちもその顔は知らなかったが、超感覚の見えないアンテナを伸ばす事でその男の裏ポケットに警察官身分証明カードを感知することができた。だが何のためにここへ来たのかまでは読み取れなかった。

 上の階には他に職員はいない。綾乃が対応のため、まず先に一階に戻っていった。

 美咲は地下室の部屋を出るとき、カイエンを呼び止めた。

「カイエン、訊きたい事が、あるんだけど」

「何だい? スケジュールは超過密だが、君の為ならいつでも空けるよ」

「ゼノという魔道士を知ってる? 今朝の、私の試験官だったんだけど……」

 カイエンは何だそんな事かと落胆したように答えた。

「知っているよ。最近は顔を合わせていないけどな。俺がまだハナタレ小僧だった頃からの知り合いさ」

 カイエンは何気なく言ったが、美咲の目は丸くなった。

「それって、同じ世界の出身という事?」

「そうだ。この世界によく似ているが、より亜空間に近いかな。いい所だよ。今度、観光旅行に行くかい? もっとも俺もこの千年、帰ってないけどな」

「私が亜空階位になったら考えるわ。その……ゼノは、独立系?」

 その時、カイエンの眼が遠くを見ているように固定され、一呼吸の間を置いた。片方の眉をあげながら答える。

「いいや、彼にはボスがいる。何故そんな事を訊く?」

 その返事に、美咲は一瞬、言葉に詰まったようになり、考え込む表情になった。

「いえ、ありがとう」

 美咲は礼を言って階段を登っていく。カイエンは少し怪訝な様子で美咲の後ろ姿を追い、すぐに思慮深い目つきになった。



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