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Gazing  作者: 園田 樹乃
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新生

 二人の間で一進一退の攻防が続いている間に年が明けた。

 いつもの年と同じように元旦だけはそれぞれの実家に帰り、二日からはまた二人の生活に戻る。

 そして、それぞれの実家から貰ってきたおせち料理を食べ、毎年この時期に行われる高校サッカーにチャンネルを合わせる。

 珍しいことにインドア派の美紗が、これだけは毎年欠かさずに見ていた。

「特別、ひいきのチームがあるわけじゃないんだけど」

 と言いながら、今年もお茶を片手にテレビを眺めている。

「高校野球と一緒で、やっぱり出身県とか、ここの県とか。縁のあるところを応援しちゃうわね」

「野球は見ないのに何でサッカー?」

 自身は高校時代バレーボールをしていた仁が尋ねる

「大学のころに、Jリーグがブームだったでしょ。仲の良い子が嵌ってて。一緒に応援に行ったこともあったわ」

「そうか。そういう世代か。俺は、デビュー直後で余裕のなかったころだな。ああ、でもドーハの悲劇は見たか」

 メンバーの一人がサッカー部出身だったことで、夜中に一緒に見た覚えがある。

「一緒にサッカーに行くような友達も居たんだな」

「うん。大分、周りに合わせられるようになってたし、その子はベタベタしてこない子だったから、楽だった。そういえば、春になったら結婚するって、式にも呼ばれているの」

 そういって楽しそうに笑う美紗に、なんとなく仁は目をそらせた。

 お前に、ウェディングドレスを着せてやれるのは、いつになるのかな。


 そんな彼に気づかなかったのか、美紗は試合に意識を戻し息をつめるように画面を見つめている。

 お茶を口に運びながら彼女の横顔を眺めた仁は、ふと、いたずら心を起こした。

 後ろで束ねてある彼女の髪を一房つまんで、美紗の首筋をくすぐってみる。美紗は、キュっと彼を睨んで、首をすくめるようにして首筋を両手で押さえた。

「や、それ」

「ん? くすぐったかったか?」

 クツクツ笑いながら、手を離す仁に美紗は

「ぞわぞわくる」

 と、相変わらずの答えをした。

「お前、美容院とか医者とかは大丈夫なのか?」

「それは、不思議と比較的大丈夫。病院はほとんど行かないし」

「なんだ、それ? ありなのか?」

「うん。セルフメディケーション ってね」

 プロですから、と胸を張って笑う。首筋を押さえたままなのが、どこか滑稽だが。

「美容師さんはくすぐったがりだと思ってくれているから、なるべく触れないようにしてくれてるみたい」

「くすぐったがりとは、違うよな?」

「全然」

 あー、気持ち悪かった。と、片手で首をさすりながら、美紗がお茶に手を伸ばす。

「くすぐったいより先に、ぞわぞわが来るから、くすぐったいって……感じたことないかも?」

 性的感覚と、くすぐったいのは表裏一体と聞いたことがあるが。この場合はどうしたら良いものかね?

 誰か教えてくれ、と、自棄を起こしそうになりながら仁は、ソファーにもたれた。



 仁にどうしたら良いか教えてくれる者もないまま、日は過ぎて。

 仁は仕事のほうでも、もう一山が超えられない感じで足踏みをしていた。

 『癒しの低音』と呼ばれた声に代わる”何か”を得ることができずにもがいている感じ。家族持ちのメンバーに迷惑をかけている。そんな思いで焦るが、求めるモノが自分でもはっきり掴めず、バンドの方向性が誰にも決められない。

 何もかもが行き詰っていて、もどかしい。

 一体どこへ向いて、進めばいいのだろう?



 そんなある日。

 帰宅した美紗の表情に、仁は彼女が腹を立てていることに気づいた。

「何があった?」

「痴漢」

 言葉少なに答える美紗に、彼はかける言葉を見つけられなかった。

 無言のまま、夕食を終えて。

 ポツリポツリと彼女は話を始めた


 朝の電車の中で体を触られたという。彼女があえて左手で相手の手を捻りあげるようにすると、薬指の指輪を見て、顔色変えて逃げたらしい。

 憮然とした顔で、美紗は首筋を撫でていた。自分の贈った”ゴツイ”指輪が(おとこ)除けだけでなく、美紗の身を守ることもできたことに、仁は少しだけほっとした。

「帰りの電車はすいていたけど、もうとにかく人がそばに立つのが嫌で」

 そう言って顔をしかめながら、彼女は食器をシンクに運んだ。

「今日は、片付けは良いから。風呂行って来い」

 仁がそう言うと、美紗はおとなしく彼の言葉に従った。 


 入浴を終えた美紗は、ストンとソファーの仁の横に腰を下ろした。

「こんな近くて、大丈夫なのか?」

 心持ち腰を引きながら尋ねる彼に、美紗は黙ってうなずいた。相変わらず、首元を押さえている。

「無理、するなよ」

「無理はしてないつもりだけど。気持ち悪いのが続いてて」

 そう言いながら、いつかのように掻き毟りそうな彼女の雰囲気に、仁はどうしてやればいいのか分からず、

「俺にできることはあるか?」

 と、尋ねる。少し考えた美紗は意外なことを口にした。

「ぎゅっと、抱きしめて。上書きして欲しいの」

 その答えに面食らいながら、美紗を抱き寄せる。『ぎゅっと』とは言うが、体格の差を考えながら少しずつ力をこめる。腕に力が入るにつれて、美紗はほっと息をついて体の力を抜いた。

「よかった。仁さんなら、大丈夫」

 その言葉に安心した仁が洗い髪の上から、美紗が押さえている首筋に手を当てる。美紗は、少し首をすくめたが、されるがままになっていた。


 なんだろう? ゾワゾワの感じがいつもと違う。

 今朝の痴漢に触られたときは、いつものようにゾワゾワした感じが背中を駆け上った。それが帰りの電車でもよみがえって、体を洗っても取れなかった。

 なのに、いま仁に触れられたときには体の中を下向きに駆け下りた。駆け下りたゾワゾワが、そのまま体の中で雪のように降り積もる。その今までにない感覚に美紗は戸惑った。

 何が起きているの?



 二人がそれぞれの体と声を持て余していた、四月。

 風呂上りの美紗は図書館から借りた本を読みきってしまい、寝るまでのひと時に読む本を自分の本棚から選んでいた。


 うーんと。最近これ、読んでいなかったし。これにしようかな?

 目に付いた一冊を取り出して、パラパラと立ち読みを始めた。

 

 うっかり本の世界に入り込んだ美紗は、背中から抱きこまれて我に返った。

「仁さん?」

 つむじにアゴを乗せるようにしている彼を呼ぶ。

「美 紗」

 彼が姿勢を変え、耳に声を吹き込むように名を呼ばれた。

 いつもと違う声音に、ガクンと全身の力が抜けた。手から本が落ち、腰が砕ける。

「おっと」

 倒れそうな体を仁に支えられて、二人で腰を下ろした。そのまま、後ろから彼に抱えられるようにして。

「どうした?」

 耳元で話す彼の声に、体の内側を拭われる感じがした。

「腰が抜けた」

「は?」

「なんだか、力が入らないの」

 仰向いて訴える美紗を、仁がじっと見つめる。ふっと、彼が目を細めたと思うと

「愛してる」

 そのままの声でそんな言葉を流し込まれ。つるっと首筋をなめられた。

「やっ」

 体を駆け下りるゾワゾワが、美紗の中で今までとは異なる形をとった。美紗は力の入らない手で、一生懸命に仁のパジャマの袖を掴んだ。彼女の声に今までにない”色”を感じ取った仁は、首筋から顔を上げる。彼女の手元と表情を見てニッと笑い、横抱きに抱きなおすと彼の唇が美紗の口元へと移動する。

 この半年、二人を悩ませてきた美紗の体感が、オセロの駒がひっくり返るように快感へと姿を変えた。

「捕まえた」

 仁は、そうつぶやく。

「進めそうか?」

 そんな問いかけに美紗が無言で小さくうなずくのを見た仁は、よっ、と小さく声をかけて彼女を抱き上げ、自分の部屋へと向かった。



 美紗にとって、初めての時間が過ぎ。

「大丈夫か?」

 そう問いかける仁に、シーツの中から美紗が恥ずかしげにうなずく。

「あの”声”は、なに?」

「今日、練習していてたまたま見つけた」

 美紗の横でひじを付き、半身を起こして話す彼の声はいつもの声だった。

「ふっと、歌いやすい声が出て。トレーナーと『これかもしれない』って」

「腰の抜ける声って本当にあるのね」 

 ため息のようにつぶやく美紗の額にひとつキスをして

「お前の方は、”ぞわぞわ”が急に無くなったのか?」

「うん。なんだかね、体中のセンサーがきれいになった感じ」

「センサー?」

「うん。触覚神経のセンサー。今までは汚れていて感度が悪かったのを、あなたのあの声に磨いてもらったみたい。ノイズが消えて、嫌な感じが無くなった、って言うのかな?」

 ふふっと笑った美紗の顔は、仁が今まで見たどの表情よりも美しかった。

 作っていない、本当の美紗の顔だ。

 今夜、この部屋で見た美紗の表情すべてが、仁だけに見せる本当の美紗。




 美紗の感覚センサーを磨いた仁の声は、それから一年と少しの準備期間を経て世に出る。新しくなった織音籠(オリオンケージ)を印象付ける”RE-birth”というアルバムになって。

 


 ”RE-birth”が店頭に並ぶ直前に、美紗は仁が持って帰ってきたCDを聞かせてもらった。今までは美紗自身が、『自分で買うから』と受け取らなかったが、今回は一日でも早く聴きたい誘惑に負けた。

 さすがに横で聴かれるのは照れくさい、と仁が先に入浴している間に美紗はコンポにヘッドホンを繋いで聴いた。

 風呂から上がった仁が、お茶を片手にリビングに入ると、美紗がコンポの前で床に倒れていた。

「おい、美紗? 大丈夫か?」

 お茶をテーブルに置いて慌てて抱き起こす。彼女は意識を失っていたわけではないようで、丸い目を潤ませて仁を見上げ、ヘッドホンをはずした。

「どうした?」

「何? この声? まるっきり”夜の声”じゃないの」

 美紗はそう言って、赤い顔を手で覆う。

「は?」

「色っぽすぎ」

 仁の胸に顔を伏せる彼女に、仁はワンテンポ遅れていつものようにクツクツ咽喉声で笑った。

「うん。新しいJINの武器はこれだよ」

 

 失くした『癒しの低音ボイス』の代わりにJINは『魅了のハスキーボイス』を武器に新たなファンを獲得する。



 翌年の三月。六年の同居生活に終止符を打ち、二人は家族になった。



 それから更に三年。


「ただいま」

 という、仁の声にリビングから返事が返る。手を洗った彼は、リビングのソファーに腰を下ろす。隣には胸元をはだけた美紗が赤ん坊に授乳をしていた。

「今日は、ご機嫌か?」

 息子の柔らかいほほを仁の大きな手がつつく。そんな父親に頓着せず、息子はンクンクと食事を続ける。

「もう、仁さん。邪魔しないの」

 美紗の丸い目が、メッと叱る。そんな妻に咽喉で笑った仁は彼女の頭を抱えるように抱き寄せ、つむじにキスを落とす。


 二人が出会って、十二年。このソファーで、錯乱した美紗を抑えてから六年。

 自分の感覚の異質さを周囲に気取られぬよう、作った表情を仮面のようにかぶっていた美紗の表情は、いつしかやわらかく変化した。


 だが、美紗の”他人”に触れられることに対する嫌悪感は、結婚しても完全には無くならなかった。仁だけが特別だった。

 そのため、初めての出産を前に妊娠中は不安だったらしく

「わが子に触れられて嫌だったらどうしよう」

 そんな事を気にして、鬱々としていた日もあったが、”案ずるより生むが易し”とはよく言ったもので。

 実際に我が子と顔を合わせると、舐めそうな勢いで可愛がった。双方の祖父母が

「抱き癖が……」

 と、言うのをまるっきり無視し、息子を抱いて、あやして、頬ずりをして。


 胸元をはだけたままげっぷをさせようとした美紗から、仁が息子を取り上げる。  

「相変わらず、両極端に走るな。お前は」

「両極端って?」

 おなか一杯になった赤ん坊はげっぷもさせてもらって、彼の腕の中でウトウトし始めていた。

「自覚ないのか?」

「私?」

 身じまいをしながら首をかしげる彼女を、おかしそうに仁が眺める。むぅ。と、口を尖らせる美紗に息子を返すと、二人をその広い胸に抱きよせる。

「何か歌ってやるから、すねるな」

「すねてない」

「ん。ほら、美紗。なにがいい?」

「じゃあね」

 美紗が、リクエストをする。

 仁はうたい始めた。いつか、彼女に聞かせた初めて作った歌を。


 六歳という年齢の差も、隣り合う県に産まれ落ちた距離も。すべてを越えて二人は出会い、手を取り合った。互いの存在を知らなかった二十年以上前に、仁が作ったこの歌のように。


 美紗は、体を通して響く彼の声に擦り寄る。低く通る声が失われる前、彼の歌声でうたた寝から目覚めるときの至福の瞬間のように。

 仁は、彼女をやさしく包む。声を無くす前、まなざしと歌声だけで包んでいた美紗を更に全身で守るように。

 


 だが夫婦の幸せの時は長くは続かない。

 母の胸に抱かれて眠っていたはずの赤ん坊がむずかって泣きだした。

「んー。コイツには不評だな」

「あなたが歌う子守唄も嫌うしね。この子も、何か違うのかしら」

 変なところが、母さんに似ちゃいましたねー。

 そう言いながら、美紗は息子をあやす。



 JINの”色っぽい”歌声を息子が嫌がっていたことを知るのは、まだ数年先のこと。


 END   

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