混乱
初めて深いキスを交わしたその瞬間の美紗の反応は、仁の予想を超えたものだった。
体をよじるようにして、仁の腕から抜け出そうと彼女は暴れた。頭を押さえるように支えていたら、彼は舌を噛まれていたかもしれない。それくらいの勢いで、美紗は拒んだ。
「嫌!」
声が自由になった途端、そう叫んだ彼女に仁は愕然とした。抱き寄せていた腕を緩めると、美紗は自分を抱えるように丸くなった。
「ごめん。嫌、だったか」
ここまではっきり美紗に拒絶されるとは思っていなかった仁の声には応えず、彼女はうなり声をあげた。
「美紗。ごめん。もう触れないから」
丸まっていた美紗が、もぞっと動いた。
「なんで!? なんでなの!?」
彼女は仁の存在を忘れたかのように、泣き叫びながら自分の体を掻き毟りだした。
「こんな体、いらない!」
どうして? どうして!?
初めて好きになった人なのに。初めてのキスなのに。
もう、触れられても大丈夫だと思ったのに。
どうして? どうして!?
体が嫌な感じがする。体の中がぞわぞわして、私には耐えられない。
他の人と同じように、どうして感じることができないの?
どうして……どうして……
どうしたら、いいの?
そう言って泣きながら暴れる美紗に、仁が驚いていたのは数瞬のことだった。
「美紗。落ち着け。美紗」
手首を握り、それ以上体を傷つけないように拘束する。圧倒的な体格の差で彼女を押さえ込む。
「美紗、美紗。大丈夫だから」
昔のように大きな声が、よく通る声が出ないことがもどかしい。かすれた声では、錯乱している彼女に届かない。
ひたすら、彼女の名前を呼び続けるしか彼にはできなかった。
どのくらい経ったのだろう。叫びつかれたのか、美紗の出す声が悲鳴のような泣き声だけになった。
「美紗? 聞こえるか? 俺の声が」
引きつるように息を継ぎながら美紗が頷くのを見て、仁はやっと人心地付いた気がした。
「ゆっくり深呼吸してみろ」
『ほら、吸って。そう、吐いて』と、美紗の呼吸を誘導しながら、様子を見る。美紗は言わるがままに肩で息をしていたが、顔を上げることはなかった。
握っていた手首から、手を離す。細い手首を握りつぶさないようにかろうじて注意は払えていたらしい。怪我はさせていない様子に、仁はほっとした。
美紗に注意を向けたまま、立ち上がる。
その動きにハッとしたように、美紗が顔を上げた。
「ごめんなさい。ごめんなさい。嫌わないで」
新しい、涙があふれる。
「ん。大丈夫。落ち着け」
「でも。でも」
「大丈夫だから。な? 飲み物を取ってくるだけだから」
ぽん、ぽんと頭を軽く叩いて、キッチンに向かう。
冷蔵庫を開けて、冷やしてあった麦茶をコップに注ぐ。興奮している美紗にグラスを持たせるのがどこか怖く感じた仁は、互いが普段使っているマグカップを使った。
「ほら。持てるか?」
首を落とすように俯いている、美紗に声をかける。彼女の手が小さく震えているのを見て、仁は自分の分のカップをテーブルに置いた。床に腰を下ろし、カップを持たせた手を下から支えて彼女が飲むのを助ける。
二口ほど飲んで、息をついた美紗の顔を覗き込むと、目をつぶった彼女は何かに耐えるように眉間にしわを寄せて目を閉じていた。
彼女のカップを一度テーブルに置いて、改めて手を握る。驚かせないように、優しく。
そのまま美紗が動くまで、彼はじっとしていた。
「ごめんなさい。仁さん」
やっと口を開いた美紗から出てきたのは、謝罪の言葉だった。
「謝るな。美紗は、悪くない。俺が急ぎすぎたんだよ」
そんな仁の言葉に、美紗が首を振る。
「違うの。私が悪いの」
「何が、悪い?」
「私の体が。他の人と感じ方の違う私の体が」
握られた手を見るようにしながら、苦しそうに美紗が言う。
「つらいなら、話さなくっていいぞ」
「話さなきゃ」
目を合わせないまま、美紗は長いこと誰にも話したことのない話を始めた。
美紗が自分の体の異質さに気づいたのは中学一年生のときだったという。
当時、リーダー格の女子のスキンシップが激しかったらしく、何かの弾みで抱きつかれた。その瞬間に虫唾が走った美紗は、彼女を振りほどいた。
それがきっかけで、クラスの女子から無視をされるようになったという。『本間さんって、何か変』という言葉とともに。
そうして、自分と向き合うことを強いられた美紗は、いろいろと周りの人間と物の感じ方がずれていることに気付いた。
言葉では表しにくいらしいが、視覚的に我慢のできない物と、体に触れられて嫌悪感を感じる時とがあるという。
背中をぞわぞわとした感じが走り、嫌悪感がひどいと首の付け根から何かが吹き出してきそうで、じっとしていられないらしい。
自分の特異性に気付いた美紗は、物理的にも精神的にも他人をなるべく近づけないように気をつけるようになった。それを周りに悟られないように、常に穏やかに笑っている表情を作ることで、周囲と何とか折り合いをつけることを覚えた。
仁と出会った時、彼が不意打ちで驚かせたせいで美紗の作っている表情にわずかなヒビが入って、警戒心がこぼれた。それを仁が拾い上げてしまった。仁はそれを元に、押したり引いたりしながら六年の時間をかけて、美紗の心を開かせた。彼女の好きな声で歌うことで気を紛らわせ、少しずつ彼女に触れることに慣れさせた。
「仁さんに触れられるのは、平気だからもう大丈夫なんだって思ってたの」
途絶え途絶え話していた美紗はそう言って、話を締めくくった。
「よく、がんばったな」
仁はそう言うと、握ったままだった手を軽く揺らした。恐る恐る目を合わせた美紗に笑いかける。
「がんばった?」
「うん。お前は長いことがんばってきたんだよ」
仁は手遊びをするように、手を揺らし続ける。美紗はされるがままになっていた。
「これは、大丈夫だな?」
「うん。今まで仁さんが触れてきていたのは大丈夫になってる。最初、時々駄目なことがあったけど」
そう言って、美紗は仁の手を握り返した。
「ん。わかった」
仁はアーモンド形の目を細めて美紗の目を見つめた。
「それなら、きっと大丈夫。美紗のペースでいい。一緒に進んでいこう。な?」
泣き疲れたのか、どこかぼんやりしている美紗を見ていた仁が小さく声をかけて、再び立ち上がった。
「床は、座っているとしんどいな」
そんなことを一人ごちて、美紗の隣に座りなおす。
「これは、大丈夫か?」
一つずつ確認をしながら、彼女に近づく。暴れたせいでクチャクチャになった髪に手を触れた彼は、そっと毛先からもつれを解いていく。
しばらく無言だった二人の間に、紡ぎ唄のように小さな歌声が流れた。
「何の歌?」
歌が終わるのを待って、美紗がささやくように尋ねた。
「んー。俺が最初に作った歌。美紗が……小学生くらいか」
「そんな前に」
「そう。一番辛かったときのお前に届けばよかったのだけどな。美紗が中学生なら俺も学生だったし、住んでいるところも違いすぎた」
歌詞のように、時空を超えて逢えたら、よかったのに。
そう呟いた仁は、なんとなくマシになった彼女の髪から手を離した。
「今日は、歌えるのはこれが限界だな。落ち着いたなら、風呂入って寝ろ。な?」
彼はそう言って、二つのカップを持ってキッチンへ向かった。
それからの日々。仁は注意深く美紗の許せるスキンシップの範囲を探りなおした。
手を繋ぐのはOK。抱擁もほぼOK。だが、ちょっと下心を含ませて触ると、ビクッと強張ることが多い。
前の声なら、何とかなったのかな
今日もまた仁は、こわばる体を抱きしめるように俯く美紗を見下ろす。
一方の美紗の方は。
仁が意識的に触れてくるせいで、少々疲れていた。
今週はあと二日仕事なのに。気合を入れなおさないと、仕事にならないわ。
そう考えた美紗は、本棚から一冊の本を手に取る。彼の家出の前はこっそり読んでいたが、この本に手紙を隠した彼には、美紗がこの本で気合を入れていることがばれたように思えて、この日はリビングで読むことにした。
「どうした? 何か腹を立てているのか?」
ソファーで、ノートになにやら書き込んでいた仁が、美紗の手に持った本を見て顔を覗き込んだ。
「え? 別に怒ってないけど?」
「んー。確かに、いつもの顔か」
「いつもの顔って……」
「お前、顔を作れないときにその本読んでいるみたいだから」
俺の歌とセットで。
少し悔しそうな顔でそう言う仁に、美紗は小さく笑った。
「そう、思っていたんだ」
「違うのか?」
「うーん。正しくは、気合を入れるときに読んでるの」
あと二日、お仕事がんばらなきゃ。
そう言って、隣に座ってページをめくりだす美紗をしばらく眺めてから、仁はいくつかの言葉をノートに書き留めた。
そして、お茶を飲もうと立ち上がった。
十月のある日曜日。
いつものように、行き先も告げず出かけた仁は、昼過ぎに帰ってきた。
「どうしたの? その顔」
美紗は丸い目をさらに丸く見開いて、ほんのりと赤くなった彼の左頬に手をそっと添えた。
「んー。沙織さんにひっぱたかれた」
「お姉ちゃんに?」
冷たい美紗の手に気持ちよさそうに目を細めながら答えた仁に、さらに美紗が驚く。
「なんで?」
「一緒に住むときにな、『美紗を泣かすようなことはするな』って言われてたんだ。この前、沙織さんのところで泣いたって言ってたから。ちょっと謝りに」
「お姉ちゃんたら。やりすぎじゃない。傷になったらどうするのよ」
「女性の力で、傷ついたりしないよ」
のほほんと笑う仁に、美紗は姉の隠している特技を暴露した。
「お姉ちゃん。拳法の有段者なんだけど」
「あぁ。それで。キレイに平手が飛んできたはずだ」
変にスイングしないで、まっすぐ腕が伸びてきて。顔の横でスナップを利かせるように方向が変わって、パーンって。
身振りをつけながら、解説する仁に美紗は脱力した。
「冷やすもの取ってくるわ」
「thank you」
離れていった美紗の手の感触をなじませるように頬をさすりながら、仁は笑みを浮かべた。
あの日以来。初めて美紗の方から俺に触れてきた。
一歩。彼女に近づけた。