接近
退院の翌日。仁は予定通り午前中から外出をした。
美紗は、仁の冬布団を片付けるために干したり、カバーを洗ったりしながら休日を過ごした。
今日は、仁さんの好きなコロッケでも作ろうかな。
そう思うと、夕食の買出しも楽しみだった。
「今日は、コロッケか」
夕食の席で、仁がうれしそうに微笑んだ。
「病院の飯って、まずくはないんだけど。どうしても冷めているんだよな」
それに、コロッケなんて出なかったし。と、箸でコロッケを割って口に運ぶ。
「うん。美紗のコロッケだ」
「よかった。喜んでくれて」
美紗は、サラダにドレッシングをかけながら、仁の声に目を細めた。
「お前、料理ができないわけじゃないのにな。何で、いい加減な食事になるんだ?」
「うー。自分の分だけだと、めんどくさい?」
「腹、減るだろうが」
「それが、腹が立つのよね。私は、ご飯が食べたいんじゃなくって、本が読みたいのに! って」
「俺の分作るのも負担になってるか?」
「ううん。それは楽しい。食べてくれる人が居るって、やる気につながるのね」
凝り性で、手をかけ過ぎるのかね。どうも、両極端にはしる傾向があるんだよな
仁はそう思いながら、断面から色とりどりの野菜が覗く美紗の特製コロッケを眺めた。
休日の早めの夕食のあと。
作らなかったほうが皿洗い、という二人のルールに則って片付けを終えた仁は、二人分のお茶を淹れた。ソファーで本を読んでいる美紗の前に置く。本を置いて顔を上げた美紗の隣に彼も座った。
「ありがとう。仁さんのお茶も久しぶりね」
「コーヒーばっかり飲んでいたんだろ?」
コーヒーを飲まない仁に合わせて、普段は美紗もお茶や紅茶を飲んでいた。だが、本来コーヒー好きの彼女は仁が居ないときには、コーヒーを飲んでいた。この二ヶ月は特に、ひっきりなしに。
「ふふ。ばれた?」
「コーヒーと、ビールって。俺の飲まないモンばっか留守中に飲んでたのか」
クスクス笑いながら、舌を出す美紗の頭を軽く小突く。
「美紗」
湯飲みをテーブルに置いた仁が声をかけた。
「なあに?」
「お前、手紙読んだんだよな?」
昨日から、聞けずにいたことを美紗に尋ねる。
「うん」
「どう、思う?」
「ごめんなさい」
「そうか、ごめんなさい、か」
「気づかなくって」
同じように湯飲みを置いた美紗が仁を見た。一瞬目を合わせたあと、自分の手を見るように視線を落とした彼女は言葉を足した。
「あなたに見守られていたことに気づかなくって、ごめんなさい。ずっと、妹のように見られていると思ってた」
それで私は満足してたの。
再び顔を上げた彼女から涙の一粒と一緒に、そんな言葉がこぼれた。
「そうか。俺もごめんな。そばに居てくれるお前に甘えていた。自分の気持ちを伝える努力もせずに、お前を縛り付けていた」
「縛り付けてなんか……」
「いいや、お前を他の男に取られないように囲い込んでいたんだ。指輪をつけさせて、一緒に暮らして」
「ううん。誰よりも仁さんの近くに居られるこの位置で、私も満足していたの。これ以上望むのは身の程知らずだって」
「美紗は、俺の近くにいたい?」
「うん」
「美紗の好きな声じゃなくなったけどいいのか?」
「うん。”JIN”じゃなくっていい。仁さんに居て欲しい。誰よりも近くに。今度のことで思い知ったわ」
仁は美紗をそっと抱き寄せた。
「ありがとう。美紗」
そして、彼はそのままの姿勢で話を続けた。
「今日な、みんなと相談して、バンドはこのまま続けることになった。でも、リハビリとかで本格的に活動するにはしばらくかかると思う。また、しばらく待たせることになるけど、俺と結婚を前提に付き合ってくれるか?」
仁の腕の中で、美紗はひとつ、コクリとうなずいた。
腕を緩めた仁は、そんな美紗にうれしそうに笑いかけた。
週があけてから、仁は不規則に外出するようになった。
もともと同居開始からこのかた、仁のスケジュールを美紗が確認することはなかった。互いに、何時に家を出て、何時に帰ってくるか。それだけ伝えれば生活は流れる。そんなスタンスで三年間、生活をしてきた。なので、今回も美紗は彼が何のために、どこへ出かけているのかはまったく把握していなかった。
美紗は彼が再び歌えるようになるのか心配ではあったが、ファンから同居人を経て彼女に昇格したばかりの身としては尋ねるのが憚られた。
きっと大丈夫、とは思うけど。プレッシャーになりたくはないわ。それに、毎日ちゃんと帰ってきてくれるのが何より大事。
そう思って、今までと同じように「いってらっしゃい」「おかえりなさい」を言うだけに留めた。
仁は、入院前に納得のいかないままレコーディングを終了していたCM曲を取り直すチャンスを与えられ、主治医やボイストレーナーの下で相談と訓練を繰り返していた。
この曲が、きちんと歌えたら、絶対再起できる
そんな、根拠のない確信を抱いて、準備にいそしんでいた。
そして、美紗に交際を申し込んだあの日。今回のレコーディングが上手くいってから、彼女との関係を進めようと心に決めていた。美紗は『JINでなくってもいい』と言ってくれたけど。できれば彼女に新しい声のJINを認めてもらえたら……。そんな思いで、自分の中にひとつの区切りを設けていた。
恋人としての一歩は、CMかCDで美紗がこの声の歌を聞いてから。
そんな風にそれぞれがJINの声に思うところを持ったまま。
季節は夏を過ぎて九月に入っていた。
新しい歌声でのCMがオンエアされるという日曜日。仁は事務所でメンバーとそれを見た。
悪くない、よな?
声の変わる前と後。それぞれ日本語と英語の計四曲をミニアルバムに仕立てて、その後はしばらく新しい声に合わせた音楽の方向性を探るのと、JINの声の安定を待つために活動を休止。そんな今後の活動の予定も立った。
待っていてくれる人たちのために一日でも早く。
仁は、”JIN”として、再び歌うその日を手繰り寄せる。
改めて再起への決意を固めた仁が帰宅したとき、美紗は留守だった。留守だということは、彼女は今日のCMを見ていない可能性が高い。
美紗の評価を得られるのは、明日? 来週? それともCD待ち?
ちょっと、がっかりしつつ、洗濯物を取り入れていると玄関の鍵が開いた。
「おかえり、って。どうした?」
仁が洗濯物を取り入れ終えてキッチンを覗くと、帰宅した美紗は目を赤くしていた。
「あ、ただいま」
なのに、彼女はどこかまぶしげに仁を見上げた。
「何があった? 泣いただろ?」
美紗に近づいてさらに声をかけた。彼女は買い物袋から荷物を出す手を止めて、仁にしがみついた。
「CM聞いたわ」
「どこで?」
「お姉ちゃんの家に行ってて。タカがテレビをつけたら丁度流れてきたの」
「そうか」
「歌えてるね。新しいJINだね」
顔を上げて、美紗は花が開くように笑った。
「前のJINの声と同じ」
「?」
「つかまれた。胸の奥を、ぎゅっと」
そういいながら、美紗は服の胸元を握り締めた。
”つかまれた”
それは、美紗の最上級のほめ言葉。
よし。俺はやれる。もう一度この声で勝負できる。
「それで、泣いたのか?」
「うん。なんだかホッとしちゃって」
そう言ってニコッともう一度笑った美紗は再び買い物袋に手を入れた。
「洗濯物ありがとう。夕飯の支度、するね」
一汁三菜、美紗の言うところの”名もなきメニュー”の夕食を済ませ、いつものように二人はくつろいでいた。
仁はいつものように傍らに創作ノートを置いてテレビを眺め、美紗は姉の家を訪ねる途中に立ち寄った図書館で借りた本を広げていた。本の世界に入っているのか入っていないのか。美紗は時折チラチラとテレビに視線を投げていた。それをさらに仁が横目で眺める。
この感じだったら、本の邪魔しても怒らないかな?
新しい歌声を聴いた美紗の反応は合格だった。仁が勝手に設けた目標がクリアされた。
一段階、進んでも良いよな? 仁は、自分に尋ねた。答えはYES。
それでも、同居に踏み切る前。下心を持って触れたときの美紗からの無言の拒絶の記憶がチクチク刺さる。
でも。ここで立ち止まったら、また進めなくなるだろ。俺?
「美紗?」
「はーい?」
本に入り込んでいない証拠のように彼女はあっさりと顔を上げた。
よし、これなら邪魔しても怒られない。
心の中で小さくガッツポーズをした仁は、瞳に想いをこめて美紗を見つめた。
何かを感じたらしい彼女が、ふっと俯く。
小柄な体をそっと抱き寄せる。
あごに手をかけ、顔を上げさせる。一瞬彼の目を見た美紗が目を伏せた。そのまま、互いの顔を近づける。
初めて触れた彼女の唇は柔らかかった。舌先で撫でると、背中がこわばるのを感じた仁はゆっくりと顔を離した。
「嫌か?」
ゆるく頭を振る美紗にほっと息をついた。再び、唇を合わせる。かすかに開いた彼女の口の隙間に舌を差し込んだ。
仁の予想もしない激烈な反応を美紗が見せた。