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Gazing  作者: 園田 樹乃
2/5

帰宅

 七月上旬のある金曜日。仁は、二ヶ月ぶりに住み慣れた町に戻った。

 町を出たときはいわゆる過ごしやすい春の日だったのに、入院している間に季節は梅雨に入り、更に夏に向かおうとしていた。

 そういえば、衣替えしてないな。部屋の布団も、厚いままだし。着いたら、まずはそこから生活を戻さないと。


 一日働いて帰ってくる同居人の美紗のために、夕食の用意くらいはしてやりたいところだが。時間は足りるだろうか。

 帰ってこれた喜びに浮き立つ気持ちで、仁は駅からの道をたどった。


 鍵をシリンダーに差し込んだ時。

 『この鍵を、再び開ける日が来ますように』

 二ヶ月前、そう祈りながら鍵をかけたことを思い出し、ふっと背筋が伸びた。


 ありがとうございます。無事に帰ってこれました。


 さっきまでの浮かれた気持ちがすこんと抜けた仁は、どこか粛然とした心持ちで鍵を開けた。



 久しぶりの部屋は。

 空気の入れ替えをしていてくれたらしく、埃も落ちていなかった。仁が書き物をするのに使っていた小さなテーブルの上には、大学ノートが置きっぱなしになっていた。

 家を出たときに置いていってしまった、作詞のための創作ノート。デビューの前から通算でどれだけの言葉を書き溜めただろう。詞を書くようになったときから、常に一冊、仁の傍らにはノートがあった。入院中は特に筆談だったので、新しく売店で二冊のノートを買い求めた。会話用と創作用に。


「また、お世話になるな。よろしく」

 ノート相手にそう挨拶をして、置いていったノートと入院中に使っていたノートをそろえて今までに書き溜めたノートたちと一緒にカラーボックスに立てる。

 そこで、違和感に気が付いた。誰かが、触ってる形跡があった。

 並んだノートの背表紙を指でたどる。なんだろう。この並んでいる感じ。どこかで確か……。

 

 立ち上がって、物置のように使っている部屋に入る。本棚に並んだ美紗の本の背表紙を指で撫で、くっと力をこめてみる。一冊がすっと数ミリ奥に沈んだ。

 本が傷むことを嫌う美紗は、いつも本棚の奥まで本を押し込まず、少し前に出して置く癖があった。仁のノートも奥まで入っていなかったので、数冊浮き出るように前に出ていた。

 美紗か。って、それ以外に居たら怖いな。しかし、なんで創作ノートを?


 そう首をひねったところで、仁は思い出した。一番最近に作った歌のことを。


 結婚をイメージした曲を作る過程で、美紗への思いの丈を手紙を書いた。

 声が出ない自分を見せられないと思いつめて家を出るときに、その手紙を書き置きの代わりに美紗の本に挟んだ。

 他人に感情を見せたくないらしい美紗が、対外用の表情を作りきれないとき。自分を立て直すために読んでいるらしい一冊の本の存在に、一緒に暮らすうちに仁は気づいていた。仁の家出に美紗が動揺することを、若干の期待とともに予想して手紙をその本に託した。

 あの手紙は、どうなった? 

 電話で、彼女は手紙のことに一度も触れなかったが、読んだのだろうか。


 本を探して、手に取る。パラパラとページを繰ったが、手紙は残っていなかった。


 英語の苦手な美紗とはいえ、二ヶ月の留守の間に読み終わっただろう。それだけでは足らず、活字中毒の彼女は、創作ノートを読んでいたのだろうか。

 『私は声を音としてインプットして、頭の中で字幕を音声として再生できるから』

 昔、一緒に映画に行った時にそう言っていた美紗。どんな気持ちで、”JIN”の歌詞(ことば)の溢れるノートを読んだのか。再生される声は、失われた声なのに。

 仁は改めて、なくした自分の声を惜しんだ。



「考えない、考えない」

 でないと、心の中でぐるぐる回って、落ち込んでいってしまう。頭をひとつ振って切り替え、物置部屋に来たついでに、押入れから夏用の上掛け布団とタオルケットを取り出した。

 ベッドの上に布団を放り込んでから、リビングルームでカレンダーを見る。いつもの習慣で美紗のシフトが記入してあった。今日は……遅番。ということは、帰ってくるのが午後八時くらい。昨日も電話の直前に帰ってきたくらいだったのだろう。

 衣替えの前に、ひとまず冷蔵庫を覗いて。

 仁は思わず、うなり声を上げてしまった。


「コラ、美紗。お前、何食ってた。この二ヶ月」

 美紗に聞こえるわけでもないのに、仁は冷蔵庫の中に向かって話しかける。

 仁が居るときには無かった缶ビールが二本に、使いかけの牛乳と玉子と調味料。賞味期限まで間があるので、まったく食べていないわけではないらしい。野菜室も、しなびた野菜が融け切って……という状態ではないので、それなりに使っている気配はある。とは言うものの。

 見事なくらい、スカスカの冷蔵庫だった。冷凍室も、同じく。冷蔵庫以外のインスタントなどの保存食のストックも、あと二つ三つ残っている程度。

「学生の頃の俺のほうがまともな冷蔵庫の中身だったぞ。野郎の冷蔵庫だろうが。これは」

 何かに熱中すると食事を抜くことがある美紗を心配して、手紙の追伸に日本語で『食事を疎かにしないで』と書いたというのに。

「まずは、買い物。か」

 財布を手に、仁は靴を履いた。



 その日の終業を迎えた美紗は、仁からのメールが着信していることに気づいた。【夕食の買い物はしておいた。そのまま、まっすぐに帰ってくればいいから】

 その文面を目にして初めて、美紗は冷蔵庫の悲惨な状態を思い出した。

 うわー。しまった。昨日の今日で、隠滅できてないわ


 食事を疎かにしがちであることに仁が気づいていたことを、彼からの手紙を読んで美紗は初めて知った。そして、美紗が気づかない程ひそかに見守っていてくれていた、仁の愛情のようなものを『食事を疎かにしないで』の一言で実感した気がした。

 五月の連休中は食欲がないのを言い訳に、かなりだらけた食生活をしていた。彼からの手紙を見つけるまでは。


 仕事に支障が出るのを防ぐためと、部屋に残っている気がする彼の気配に心配をかけないようにするために料理を再開した。それでも、一人で使う食材は限られている。使い切るために買い物を減らしていたため、週末を迎えた今朝の冷蔵庫はすっからかんだった。

 にっこり笑って、お帰りなさいって言いたかったのにな。失敗したわ。怒っているかしら?

 それでも、一秒でも早く彼に会いたくて。

 美紗は、駅へと急いだ。



 玄関ドアの鍵を開ける音がした。

 自室で衣替えをしていた仁は、手を止めて玄関へ向かった。

「ただいま」

「お帰り。美紗」

 二ヶ月ぶりに顔を合わせて、いつものように出迎えたあと。

「お帰りなさい。仁さん」

「ん。ただいま。美紗」

 室内で待っていた方が『ただいま』と言う、妙な挨拶を交わして。見詰め合ったのは一瞬だった。

 

 両手で、口元を覆った美紗の目から涙が溢れた。

「ごめん。美紗。ごめん」

「もう黙っていなくなったりしないで」

 感情を他人に見せるのを厭う美紗の初めての泣き顔に、仁は彼よりはるかに小柄な体を抱き寄せた。美紗はむずかる子供のようにイヤイヤをしながら、仁の胸をぶった。

「野良猫に、餌付け、して、また捨て、るようなこと、しないで」

「うん。ごめん」

「一人が、こん、なに寂し、いなんて思っ、たことなか、ったのに」

 いつかの電話のようにしゃくりあげながら、美紗は言った。

「もう、会え、ないか、と、思った」

 そう言うと、あとは嗚咽だけが残った。


 美紗が落ち着くまで、二人して玄関の狭い土間に立っていた。

「とりあえず、あがろう。な?」

「うん」

 泣いてグズグズになった顔を俯けて、美紗は靴を脱いだ。その手から美紗の荷物を取り上げた仁は、

「かばん、テレビの前に置いておくから」

 と、美紗を洗面所に送り込んだ。そして、美紗のかばんを置いた彼は、キッチンで夕食の仕上げにかかった。



 二人で久しぶりに摂る夕食は、美紗の好きな親子丼だった。

「おいしい。仁さんの親子丼、久しぶりだわ」

 真っ赤になった目を細めて、美紗が頬を緩める。そんな美紗に少し怖い顔を作った仁が尋ねた。

「ちゃんと、飯、食ってたのか?」

「うん。今日はたまたま、使い切っていただけなの」

「酒も飲んで?」

「うーん。たまに、眠れなくって。寝酒は逆効果って聞くけどね。薬は持ち越しそうだから」

「持ち越し?」

「次の日も眠気が残りそうなの。学生の頃、風邪薬飲んだら眠くって。立ち話をしながら眠りかけたことがあったし」

 医療職がそれでは人命に関わるわ、と、美紗は笑って見せた。 

 

 一口ずつご飯を口に運び、噛みしめる。そんな美紗の様子を見ていた仁は、吸い物椀を手にとって口をつけながら上目遣いに見てきた彼女と目が合った。

「どうしたの?」

 お椀をテーブルに戻してから、美紗が尋ねた。

「ん、帰って来れたんだな、って」

 アーモンド形の目を笑いの形に細めながら仁が答えると、美紗が口を尖らせた。

「何よ。他人事みたいに。そもそも、出て行かなかったら良かったんじゃない」

「そうだな。そうだよな」

「そうよ。なんで、黙って出ていったわけ?」

「んー。あの日、朝起きたら、声が出なくって。ヤバイ、って思ったらここに居られない気がして。今思うと、パニックを起こしてたんだろうな」

「だからって……」

 黒目がちの丸い目で睨んでくる美紗に、仁は話を変えた。

「お前、この二ヶ月で感じが変わったよな」

「は?」

「泣いたり、怒ったり。忙しくなった」

「誰のせいだと思ってるのよ!」

 泣いて、怒って、ふらふらよ! と、箸を握り締めてふくれる美紗に、仁はクツクツといつものように咽喉声で笑った。

「笑い事じゃないわ。連休に遊びに来ていたタカの前で大泣きしたから、あの子に気を使わせたわ」

「そうなのか?」

 笑いを飲み込んで、仁が聞き返した。

「うん。あなた、あんなわかりにくいところに手紙を隠してたから、あの子が見つけてくれたの。それを見た途端に涙腺決壊よ」

「自分で、見つけたんじゃなかったのか?」

「そうね。いつかはあの本を手にとってたと思うから、見つけられなかったわけじゃないと思うけど。でも、あれを仕事の前日に見つけたら、次の日は仕事にならなかったと思うわ」

 もう、泣きすぎて、次の日は寝込んだし。

 そう言って、最後の一口を美紗は口へ運んだ。




 食事の後片付けや、仁の衣替え、そして入浴などそれぞれの用事を終え、リビングルームでくつろぐ。ルームメートに過ぎないはずの二人なのに、同居を始めてすぐから当たり前のように、用事のないときはリビングで一緒に過ごしていた。


 この日も、二ヶ月ぶりにソファーに並んで座った美紗は、隣に人が居ることに言いようのない安堵感を覚えていた。

「仁さん、亮さんたちとは会ったの?」

「明日の午前中に、一度会ってくる」

「まだ会ってなかったんだ」

「退院が決まったのが昨日だろ? 今日はそれぞれサポートの仕事を入れててさ。明日の午前だったらみんな揃うから。明日改めて」

「そう」

「この声で、あいつらがまだ歌わせてくれたらいいんだけどな」

 開けたままの窓からの夜風がカーテンを揺らすのを眺めながら、仁はぽつりと言った。美紗は、何も言わずコテンと彼の肩にもたれかかった。

 

 しばらく無言で、仁は美紗の柔らかな髪を撫でていた。

 

 ふわっと、美紗がひとつあくびをこぼした。

「一週間、仕事で疲れてるんだろ? もう寝な」

「うん」

 目をこすりながらも立ち上がろうとしない美紗に、仁は

「もう、居なくなったりしないから」

「うん」

「ほら。オヤスミ、美紗」

「おやすみなさい。仁さん」

 居なくなる前の日までと同じ挨拶を交わし、同じ笑顔の彼をみて。美紗は自室へと引き取った。

 それを見送った仁も明かりを消して、自室に戻った。 

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