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【掌編小説】悪魔のいる天国

作者: 黒淵モコ


 

 男は嘆いた。

 どうしてこの世の中には不幸で貧しい人間が溢れているのか、と。


 男は願った。

 どうにかして、自らの信心をもって彼らを救えないだろうか、と。


 それは彼が聖職者故の悩みだった。


 世の中には貧しい人間が溢れている。心の貧しいもの、身体の貧しいもの、生活の貧しいもの、さまざまだが、すべてが神の救いの対象であり、自分の神への信心、帰依が、いつか、そうした人々を救うと男は強く信じていた。



 ある夏の、暑い日のこと。

 彼がいつもと同じ教会の礼拝堂で熱心に祈りを捧げていると、入り口に何者かの気配がした。


 男は信者かと思い、入り口に出迎えに行くと、男の目の前には、ひどく不気味な男が立っていた。

 

 その男は、夜の海みたいに真っ黒な大外套に身を包み、背中に毒々しい漆黒の翼を生やし、肌は暗く濁った色をし、耳は尖がっていて、いかにも邪悪そうな顔をしている。


「ここから俺を呼ぶ声がしたんだが?」


「何!?」

 男は、不遜な態度でいる目の前の者に、ある確信を抱いた。


「……馬鹿な! わたしがお前など呼ぶはずがない。お前のその邪悪な姿、悪魔であろう?」


 男は怒声をあげた。


 しかし、突如現れた青白い顔の男は、まるで怯むことなく、高らかに笑ってみせた。耳まで避けた口を開けると、そこには鋭く長い牙が光っていた。

「いかにも、いかにも、その通り。俺は悪魔だ。たまたまこの地上を通りかかったとき、何やら熱心な声が聞こえるから来てみたのだがな」


 すると悪魔は、教会の内部を見渡し、言った。

「……ははあ、なるほど、ここが人間の言う『教会』というやつだな」


 男は、物珍しそうな様子の悪魔に向かって、預言者の姿を象った十字架のお守りを振りかざした。

「去れッ! わたしは、貴様のような邪悪な存在を呼びはしない。ここは貴様の来る場所ではないのだ! さっさと地獄へ帰るがいい!」


 男は気炎を振りまいたが、悪魔はどこ吹く風といった様子で笑い声を上げた。

「ハハハ……愚かな人間だ。貴様には、何かとてつもない願い事があるのだろう? そんなものいくら神に願ったって無駄なことさ。どうだ、ここはひとつ俺がその願いを叶えてやろう」

「……なんだって?」

「偶然とはいえ、せっかくこうして貴様の元へ現われたのだ。何でも叶えてやるぞ」

 狡猾な悪魔の声が、しんと静まり返った教会のリブ・ヴォールトに響く。ステンドグラスから、七色の光が漏れ出している。


「そういって、わたしの魂をいただく気だろう?」

 男は息を呑み、額に汗しながら、強く悪魔を睨み付けた。

「馬鹿にしないでもらいたい。俺はその辺のちんけな悪魔なんぞではいんだ。対価など必要ない。貴様のどんな願い事でも聞いてやろう」

 悪魔はニヤニヤと青黒い唇を歪めている。男はしばらく俯いて考えていた。

 普通に考えれば、悪魔の甘言、何かの企みがあるに違いない。


 だが、もし本当にわたしの願いを叶えてくれるのなら……?


 ふと、そんな疚しい考えが、泡のように浮かんだ。

 もしかしたらこの悪魔をうまく利用できるかもしれない。


 男は長い時間考え込んだ後、神妙な様子で「スラム街の貧民たちに綺麗な衣服と食べ物を与えて欲しい」と願ってみた。

 すると、悪魔は実に嫌らしい笑みを浮かべ、たやすいことだと言ってその場から消え去った。

 まったく気まぐれのように、悪魔はすっかり姿を消してしまった。男は、きっ悪い夢でも見たのだろうと思った。

 しかし、しばらく経った後、そのうらぶれたスラム街を訪れてみると、確かに、以前より潤った生活をしているらしかった。


 男は唖然とした。信じられない気持ちだった。


 あの悪魔は、本当に自分の願いを叶えたのだ。

 自分がいくら信心をもって祈っても、決して叶わぬことを……。

 その後、男が教会へ戻ると、例の悪魔が教会で待ち受けていた。

「貴様の言っていたことは本当だったのか」

 開口一番、男は言った。

「当然だ。俺を誰だと思っている」

 悪魔は両手を組んで、高飛車な態度で答えた。

「しかし、今度は何をしにきたのだ? もう願いは叶えてもらったはずだぞ」

「いや、まだ願いは叶っていないだろう。貴様が願っているものはもっともっと大きなことではないのか」

 悪魔は、男を試すような澄ました顔で問いかけた。

 男は鋭い鏃で心臓を射抜かれたように、一歩、二歩、たじろいだ。

 確かに、悪魔の言うとおりだ。男の心の裡には、何か形容しがたいどす黒い靄がかかっていた。

 男の頬がいくつも冷や汗が伝った。

 悪魔は、こちらの考えなど最初から見透かしていたのだ。


 男は深呼吸をした後、この辺り一体の農村が旱魃で苦しんでいるから、雨を降らせてくれ、と頼んだ。


 すると、悪魔はその両耳まで裂けそうな口を、ニヤリと歪ませて、背中の艶々とした翼を目いっぱい広げると、礼拝堂からあっという間に飛び去った。


 男は茫然としてその場で佇んだ。

 すると、ステンドグラスから激しい光が漏れた。

 もしや、と思い、慌てて外へ飛び出す。すると、どうだろう、それまであんなに晴れ渡っていた空が、あの悪魔と同じように黒々とした厚い雲に覆われ、大粒の雨が降り出したではないか。


 男は雨に濡れながら立ちすくんでいた。


 自分の祈りが雨の恵みをもたらすことなど、今まで一度としてなかったのだ。


 これが……これが悪魔の力か。


 信心深い男にとって、悪魔崇拝など考えてもみないことだったのに、こうなると、あの邪悪な存在に感謝しなければならなかった。

 悪魔は、神ですら成し遂げないことを、平然とやってのけたのである。

 しばらくして、男はいつものように教会で祈りを捧げていた。

 しかし、男の祈りは、それまでの純真なそれとはまったく違っていた。鏡に写る自分の肌は、どこか青白く見えた。

 日も沈みかけた頃、男が想像したとおり、悪魔がやってきた。

「……来たな」

「ほほう、俺を待っていたのか。人間ごときの分際で」

 悪魔は、相変わらず高慢でしたたかな口調だった。

「まだわたしの願いを叶える気はあるか」

 しかし男も、全く物怖じせずに、悪魔に問いかけた。

「フフフ、当然だ。俺は悪魔だぞ」

 その言葉を聞いて、男はニヤリと笑みを湛え、言った。

「わたしに貴様と同じ能力を授けてくれ。そうすればわたしの大いなる願いは容易に叶うことだろう」

 これでもう悪魔を呼ぶ必要もなくなる、と男は密かに目論んでいたのだ。

「面白いことを言う人間だ」

 悪魔の、まるでこの世のものとは思えないような不快な笑い声が、礼拝堂に満ちていった。

 悪魔は静かに囁いた。

「よかろう。では少しの間目を瞑るといい」

 男は悪魔の指示通り目を瞑った。


 そして男が恐る恐る目を開けると、これまで生きていた世界とまるで変わってしまったように思えた。

 男は両手を強く握りしめた。自分の奥底から、これまで感じたこともないほど途方もない力が湧き上がってくるのを感じた。


 振り向けば、彼の背にはぎらぎら光る巨大な黒い翼が生えている。


 あの悪魔と同じ翼だ!

 男は歓喜し、教会いっぱいに轟くくらいの笑い声をあげた。

 男は悪魔に礼を言おうと思った。

 だが、彼に力を与えた悪魔はというと、何の痕跡も残さず、どこかへ消え去っていたのである。

 それからというもの、男は、悪魔から授かったその大きな黒い翼で各地に飛びまわり、絶大な力をつかって、ありとあらゆる奉仕活動、慈善活動に従事した。



 彼の行動によって、多くの貧しい人々は救われた。

 まさしく、彼の願いは叶ったのだった。

 しかし、英雄的な彼の活動とは裏腹に、その神懸った力を恐れ、憎む人々が少なからず現われた。

 特に、彼が悪魔のような巨大な翼を有していることが、彼に対する畏怖と憎悪を与える原因となっていた。

 それから何年か経って、男があるスラム街を訪問した際、ついに、猜疑心に満ちた民衆の暴動よって、男は呆気なく惨殺されてしまった。

 奇しくもそこは、以前男が地道に布教をしていた場所であった。

 太陽が彼方に沈み行く中、彼の遺骸は、広場の中央に見せしめとして吊るされた。

 彼の救済を受けた人も、今ではその無残な姿を、嘲笑の眼差しをもって見るばかりである。



 そんな様子を、遠巻きから冷ややかに見守る者たちがいた。

「あれかい? 君が力を与えた男というのは」

 斜陽が照らす赤煉瓦のアパルトマンの屋上。

 そこに座る、金髪を靡かせた天使は、静かな笑みを湛えて言った。

「どうだ? 随分おもしろいことになっただろう?」

 天使の隣で、悪魔は自慢げに腕を組んで、高らかに笑い声をあげた。

「まったく、君も人が悪いな」

「何を言っているんだ。俺は悪魔だぞ?」

「そうだったな。アハハ……しかし、人間とは、いつの時代も愚かだねぇ。その自身に宿す欲望こそが、最も罪深いというのに。やれやれ、救うに値しないや」

「そうだな、本当にお前に賛同するぜ。アハハアハハハ!!」


 天使と悪魔、二人の奇妙な笑い声が、夕暮れの空にいつまでもこだましていた。


  <了>

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― 新着の感想 ―
[一言] こんにちは。読ませていただきました。 面白かったです。聖職者が悪魔になって、貧しい人たちを救うなんて、皮肉ですね。 文章も読みやすく、ラストも、よかったです。
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