止まり木で眠る
ナイフが、胸に刺さっていた。
ナイフが、心に刺さっていた。
それは、彼女を刺したものと同じナイフだった。
◆
雨は、少し苦手だ。湿っぽいし、外出する気が萎えてしまうから。
「雨の匂いは好き。でも、ここの雨の匂いはちょっと苦手」
それが、雨が降る度に君が呟く、言葉。
「もう少し寝ようよ」
「もう朝だよ?」
少し肌寒い、秋の終わり。横になっている美羽の肩を、布団の中で抱いた。
「構わない。てか、眠いし」
「夕べ何時に寝たか覚えてない? 寝過ぎだよ」
だって、昨日は金曜で会社の飲み会で案の定ベテラン酒癖激悪先輩にお気に入りのサワーをトイレに行った隙に飲まれて悔しくて飲み過ぎたから疲れたんだ。
「自業自得じゃん。学んでないなー」
「うるさい。みゅうは黙って抱かれていればいいんだ」
「私の意思はガン無視かよ」
互いに口が少し悪い。でも、美羽は布団から出ない。今のが下手くそな甘え(おねだり)であると知っているから。
「ちょうどいいじゃん。雨だし」
「都会の匂いがするね」
都会の匂い。山に囲まれた田舎とは違う、ガスとコンクリートと人の匂いを吸った雨が、美羽はあまり好きではない。
「窓、閉めようか。湿気が篭るし」
「そうだね」
布団から出たがらない身体に鞭打ち、何とか起きて窓を閉める。
再び布団に潜って、美羽を抱きしめた。雨の音が、背中越しに響いてきて眠気を誘う。
「寒い。死ぬ」
「いやいや、その程度じゃ死なないって。てか、そう思うなら服着なよ」
下着姿の美羽に言われても、説得力がなかった。……いや、脱がせた張本人の言う台詞でもなかったな。
「でも、確かに寒いね。ちょっとだけいい?」
「ん」
美羽の言葉に促され、彼女の背中に回していた腕を解く。美羽は寒い寒いと繰り返しながら、スウェットを着込んだ。
それから、何故か布団に戻らずに台所に向かおうとする。
何故か言いようのない悲しみなのか怯えなのか分からない感情に駆られ、美羽のスウェットの裾を掴んだ。
「寝ようよ」
「お腹空いたんだもん」
欲求に素直な美羽の言葉は、好きだ。食欲にしろ、性欲にしろ、美羽は欲しいと思ったらすぐに口に出す。もちろん、時と場所を考えて小声で囁くこともある。そんな彼女の素直で甘い言葉に、大抵コロンと堕ちてしまう。
案の定、今回も何故か大人しくスウェットの裾から手を離してしまっていた。
「目玉焼きでも作ろっかな〜」
「ベーコンエッグとブロッコリー、ポテトサラダ、みそ汁の具は長ネギ」
「……はいはい」
いつもと同じやり取り。料理は専ら美羽の担当だ。別に作れないこともないが、今は布団の中が天国なので却下。
美羽とは、一緒に暮らしているわけではない。美羽のアパートにたまにこうして転がり込むというだけ。で、気が向けばセックスをしたり、一緒に買い物へ行ったりしている。
美羽は、恋人ではない。美羽に対する感情は、恋慕ではない。その感情は、美羽ではない女性に向けられている。そして、美羽はそれを知っている。
知っている上で、この関係を続けていた。
「できたよ。起きな」
「……寒いじゃん。嫌だ」
「冷めるじゃん。早く」
数秒ほど睨み合った後、美羽に布団を引っぺがされた。酷い。コイツは鬼だ。朝ごはんを作って貰っておいて言う台詞ではないが、コイツは鬼なんだ。
「寒い」
「着ろ」
美羽の投げたスウェットが、頭にヒットした。観念して、もぞもぞとそれを着る。美羽は小さなテーブルに、二人分の朝食を並べた。
「いただきます」
「いただきます」
二人で手を合わせて挨拶。何となく、日本人のこの文化は素敵だなと思った。
◆
朝食を食べ終えて、また布団の中に潜った。雨はまだ降り続いているらしく、また背中越しに窓を叩く音が聞こえた。
「牛になるよ」
「うるさいなぁ」
美羽とまた少し睨み合う。美羽のスウェットの裾を掴むと、彼女は小さな子供をあやしているかのような顔でこちらに微笑みかけてきた。
「なぁに?」
「抱きまくらが欲しいんだ」
できれば人並みの体温を持ったもの。つまりは美羽。美羽は小さく吹き出すと、やれやれといった風に布団に潜り込んだ。
「ん」
「ん」
ほとんど無言のうちに、美羽の身体を包み込む。温かい。美羽も腕を背中に回してきたから、ちょうど抱き合う形になった。
美羽は、例えるならば止まり木だ。巣ではない、一時的な仮の寝床。
本当の巣は――巣になって欲しい場所は、遠く手の届かない所にいて、でもそれは実際、止まり木のすぐ近くにあったりする。
「あ、そういえば、春香ったらまた別れたみたいだよ」
なんとなく思い出したから口にしたのだろう。美羽の口から『彼女』の名前が出てきた。
「へ〜、そう」
普通に、返す。すると、数秒ほどして美羽が首筋に噛み付いてきた。
「……ん」
甘んじて、それを受け止める。美羽の不器用な愛情表現であり、また憎しみを込めた行為であることは知っていた。
美羽の舌が、首筋を這う。小さく呻くと、噛む力が少しだけ強くなった。言葉に出さない、美羽の感情が激流の如く流れ込むような、甘噛みとは既に言い難い行為。
好き。
でも、殺したいくらい君が憎たらしくて堪らない。
少し前に、美羽が言った言葉。
セックスの後に、脱力しきった身体を軽く叩かれながら聞いたのを覚えている。
殺さないの?
殺さない。だって、殺したらもう会えないもん。そんなのやだ。
矛盾じゃないか。そう思ったけど、でも美羽の気持ちが分からない訳でもなかったから、言うのは止めた。
美羽が与えてくれるのは、甘ったるいものだけではない。だからこそ、美羽を選んだ。美羽の気持ちを知った上で、利用した。
もちろん、美羽はそのことに最初から気づいていた。美羽の気持ちを利用して、快楽と甘えを手にしていることも。それに対して全くと言って良いほどに、後悔も反省もしていないことも。
だから、美羽は代わりに首筋に噛み付くのだ。
寒い。多分、雨のせいだ。雨のせいだ。雨のせいだ雨のせいだ雨のせいだ雨のせいだ雨のせいだ雨のせいだ雨のせいだ雨のせいだ雨のせいだ雨の雨の雨の雨の雨の雨の雨の雨の雨の……。
美羽の歯型が、いくつも残る肌。既に消えているものもある。でも、覚えている。一つ一つの場所も、その時に感じた痛みも。
美羽の心にナイフを刺して、その挙げ句、枷まで括りつけて。決して離れないように。どこかに消えてしまわないように。
気づいたときには、美羽の唇を吸っていた。応えてきた彼女の中に、更に強く潜り込む。温かい粘膜同士が絡み合って、感覚を麻痺させる。理性を鈍らせる。
もっと深く繋がりたい。美羽と。もっと、もっともっともっと。
せっかく着た服も、一時間としないうちに床に転がっていた。
美羽。君が好きなんじゃない。君は止まり木で、本当の巣ではない。本当の巣がどこにあるのかも、分からない。
けれども美羽。君とこうして抱き合って、体を重ねることは本当に心が安らぐんだ。君以外としたいなんて、到底思えないほどに。
君の心に酷い傷をつけて、今もなおつけ続けて。それでも、君と一緒にいる事をやめるなんて絶対に出来ない。したくない。想像したくない。実現させたくない。
こんな関係を、二人はいつまで続けるつもりなんだろう。
美羽は、もう見切りを付け始めているのだろうか。抱き合いながら、新しい恋人探しを既に始めているのだろうか。
こんな関係がいつまでも続くとは到底思えない。でも、抜け出せない。抜け出すつもりも毛頭ない。
美羽の中で最後を迎えて、美羽に新しい傷をつけて、ゆっくりと彼女の体に覆いかぶさった。美羽の手が、優しく体を受け止めてくるのを、感じていた。
自分をナイフにして、自分を枷にして。
今日も僕らは、二人で過ごす。
雨の音に包まれながら。雨の檻に囲まれながら。
テーマ。
『恋愛感情は一方通行』
『相互依存。相互利用』
少し今までとは風合いの違う少し汚い恋愛物を書いてみたくなりました。
今までと違う書き方をしたので文章が微妙&言いたいことがまとまっていないというあれですが、最後まで読んでくださった方々、本当にありがとうございます。
少ししたら、いったん修正しようかと考えております。
ではでは!