婚約を解消した元婚約者が、私の次の縁談だけは止めに来るのですが
一度終わらせた関係は、元には戻らない。
それでも、もう一度始めることはできるのかもしれません。
「その縁談は、待ってくれ」
三か月ぶりに会った元婚約者は、挨拶より先にそう言った。
私はティーカップを持ったまま固まった。
向かいには、今日の縁談相手であるマティアス伯爵。
隣には父。
そして応接室の入口には、杖をついたアルノー・ヴァレ侯爵令息。
父の執事が「どうしても本日中に」と取り次いだらしい。
それでも、よりによって今でなくてもいいはずだ。
「アルノー様」
父が低い声を出した。
「今日は娘の縁談の席だが」
「承知しています」
「承知していて来たのか」
「はい」
彼は以前より痩せていた。
左脚をかばうように立っている。
杖を持つ右手には力が入っていた。
その姿を見ただけで、胸の奥にしまったはずのものが動いた。
だから腹が立った。
「お父様」
「なんだ」
「二人で話してもよろしいですか」
父は嫌そうだった。
マティアス伯爵は困ったように笑った。
「私は庭でも見てきましょう」
「申し訳ありません」
「いえ。ここで続きを始められる方が困ります」
もっともだった。
◇
二人きりになると、アルノーは立ったままだった。
「座ったら?」
「平気だ」
「平気じゃないでしょう」
「ヴィヴィアン」
「何ですか」
「怒っているな」
「今、気づいたの?」
言葉が思ったより鋭くなった。
彼は黙った。
六年間、私はこの人の婚約者だった。
十五歳で婚約し、二十一歳の春まで。
家同士が決めた話だったけれど、嫌ではなかった。
アルノーは口数が多い人ではない。
人前で愛情を見せるような人でもない。
それでも、夜会では必ず私の好きな果実水を取ってきた。
冬の観劇では、私の席だけ先に膝掛けが置かれていた。
誕生日には毎年、花ではなく本をくれた。
私はそれを、十分に愛情だと思っていた。
国境紛争が起きるまでは。
◇
アルノーは近衛騎士として北の国境へ向かった。
半年後、負傷して戻った。
命は助かった。
でも左脚には後遺症が残った。
長く歩けば痛みが出る。
馬には乗れるが、以前ほど長時間は無理。
舞踏会で一晩中踊ることはできない。
帰還して一か月半ほどたった頃。
治療と歩行訓練が一段落したところで、彼は私を侯爵邸へ呼び、婚約解消を申し出た。
「君には、もっとふさわしい相手がいる」
それが最初の言葉だった。
「どういう意味?」
「そのままだ」
「私は誰かを探してほしいと言いましたか」
「言っていない」
「結婚したくないとも?」
「それも言っていない」
「では、どうして」
彼は私を見なかった。
窓の外を見たまま言った。
「私は以前のようには動けない」
「それで?」
「侯爵家の仕事にも支障が出る」
「家督は継げるのでしょう?」
「父はそう言っている」
「では?」
「君は王宮の夜会へ出ることも多い。領地へ行けば視察もある。子どもができれば――」
「アルノー」
そこで止めた。
「私の未来を、私より先に決めないで」
彼の肩が動いた。
「そういうつもりでは」
「では聞きます。あなたは私と結婚したいですか」
長い沈黙だった。
私は、はいと言ってほしかった。
六年一緒にいたのだから。
脚が悪くなった程度で、私まで手放さないでほしかった。
アルノーは言った。
「君には、もっといい相手がいる」
答えになっていなかった。
「分かりました」
それ以上、私は引き止めなかった。
婚約解消の書類に署名したのは、その三日後だった。
◇
「それで?」
現在の応接室。
私は腕を組んだ。
「二か月前、自分から終わらせた人が、今日は何をしに来たの?」
「謝りに」
「遅いです」
「分かっている」
「縁談を止めに?」
「……それも」
「もっと遅いです」
アルノーは反論しなかった。
以前なら、彼が黙ると私の方から話題を変えていた。
沈黙が続くのが苦手だったからだ。
今日は、そのまま待った。
「マティアス伯爵は、良い方です」
「知っている」
「私より先に調べたの?」
「調べた」
「最低」
「それも分かっている」
思わず笑いそうになった。
腹が立っているのに、この人は時々こういうところがずるい。
「なぜ今さら?」
聞くと、彼は杖の持ち手を見た。
「君が本当に別の男と結婚するかもしれないと知った」
「婚約を解消すれば、そうなるでしょう」
「頭では分かっていた」
「頭では?」
「実際に名前を聞いたら、思っていたのと違った」
「何が」
「嫌だった」
あまりに子どもっぽい答えで、私は言葉を失った。
「それだけ?」
「最初は」
「最初?」
「そのあと、自分が何をしたのか考えた」
アルノーは椅子へ座った。
やはり脚が痛かったのだろう。
「私は、君が私と結婚すれば不幸になると思った」
「勝手に」
「ああ」
「今さら認めるのね」
「三か月あった」
私の方にも、考える時間はあった。
◇
婚約を解消して最初の数週間、私は何をしても落ち着かなかった。
朝食の時に新聞を読むと、国境の記事を探した。
夜会へ行けば、無意識に入口を見た。
毎週水曜の午後になると、侯爵邸へ行く支度をしそうになった。
水曜になると侯爵邸へ行く支度をしかけてから、もう行かなくていいのだと思い出す。
そういう癖は、すぐには抜けなかった。
一か月を過ぎる頃には、それも少しずつ減った。
友人のロザリーと観劇へ行った。
母と三日だけ領地へ出かけた。
朝寝坊をした。
それなりに楽しかった。
アルノーがいなくても、生活は続いた。
だから父から次の縁談を見せられた時、断らなかった。
相手がマティアス伯爵だったことも大きい。
去年、妻を病で亡くした三十二歳。
子どもはいない。
穏やかで、領地経営の評判もいい。
マティアス伯爵に恋をしているわけではない。
けれど、条件の合う相手と穏やかに暮らす結婚もある。
婚約したばかりの頃の私なら、それで十分だと思えたはずだ。
◇
「あなたは」
私はアルノーを見る。
「私がマティアス伯爵と結婚したら、どうするつもり?」
彼はすぐには答えなかった。
「今日、縁談を止めろと言うくらいだから、何かあるでしょう」
「止めたい」
「それは聞きました」
「でも、君が決めたなら止められない」
「ずいぶん急に物分かりがよくなったのね」
「失敗したからな」
彼は左脚を軽く叩いた。
「これのことではない」
「分かっています」
「私は負傷した時、自分の人生から選べるものが全部減った気がした」
初めて聞く話だった。
「騎士団には戻れない。馬にも長く乗れない。以前なら当たり前にできたことができない」
「うん」
「だから、君だけは私が先に手放せば、少なくとも君を巻き込まずに済むと思った」
「立派ですね」
「嫌味だな」
「嫌味です」
彼は苦笑した。
「本当は怖かっただけだ」
私は黙った。
「君に、そんな私とは結婚したくないと言われるのが」
腹は立つ。
それでも、あの日には聞けなかった本音が、ようやく見えた気がした。
「だから、自分から終わらせた?」
「ああ」
「私に断られる前に」
「ああ」
「卑怯」
「その通りだ」
そこで彼は初めて、まっすぐ私を見た。
「すまなかった」
◇
その日の縁談は、結論を出さずに終えた。
マティアス伯爵には、私から延期をお願いした。
マティアス伯爵には、正直に話した。
「まだ元婚約者への気持ちが残っています」
かなり失礼な告白だったと思う。
彼は少し考えてから言った。
「それなら、今日は決めない方がいいでしょうね」
「怒っていらっしゃいますか」
「ええ。私もそれなりに緊張して来ましたから」
当然だった。
「ただ、結婚してから元婚約者への気持ちを知るよりはましです」
「申し訳ありません」
「ひと月だけ待ちます」
「ひと月?」
「それ以上なら、この話はなかったことにしましょう。私にも都合があります」
「はい」
「その間に、私と結婚したいのか、彼へ戻りたいのか、どちらでもないのか決めてください」
柔らかい人だと思っていたけれど、線を引くところは引く人らしい。
「伯爵は、それでよろしいのですか」
「私も妻を亡くしてから、次の結婚を少し急いでいたのかもしれません」
この人も、この人で事情がある。
私は頭を下げた。
◇
アルノーには、マティアス伯爵からひと月だけ返事を待ってもらったことを伝えた。
「だからといって、あなたに返事をする期限がひと月という意味ではありません」
念のため付け加えると、彼は困った顔をした。
それからアルノーは、週に一度だけ我が家へ来た。
最初の週、アルノーは花束を持ってきた。
「私、花より本が好きです」
「知っている。母に、まず謝罪なら花だと言われた」
「侯爵夫人の助言だったの?」
「もう少し自分で考えるべきだった」
翌週は本だった。
ただし、私が去年すでに読んだ本だった。
三週目、彼は何も持ってこなかった。
「今日は手ぶらなのね」
「何かを持ってくることばかり考えるのをやめた」
「それは進歩かもしれません」
その日は二時間ほど話した。
婚約していた六年間より、よく話したかもしれない。
脚の痛みのこと。
騎士団を辞めたあとのこと。
侯爵家の領地経営を父から教わっていること。
私も話した。
婚約解消後、初めて一人で観劇へ行ったこと。
意外と楽しかったこと。
毎週決まった予定がない生活も悪くないこと。
「戻ったら、それをやめる必要はない」
アルノーが言った。
「戻る前提で話さないで」
「……はい」
素直だった。
◇
四週目。
私はアルノーを庭へ誘った。
春の終わりで、薔薇が咲き始めている。
彼は歩くのが遅くなった。
以前なら十分で一周した道を、倍近くかける。
私は歩幅を合わせた。
「無理に合わせなくていい」
「急いでないもの」
「そうか」
「そうです」
東屋まで来たところで、彼が立ち止まった。
「ヴィヴィアン」
「はい」
「もう一度、婚約してほしい」
今度は、言葉を濁さなかった。
「脚は治らないかもしれない」
「はい」
「夜会で君と何曲も踊ることもできない」
「知っています」
「騎士には戻れない」
「それも」
「それでも、君と結婚したい」
私は息を吐いた。
三か月前に欲しかった言葉だった。
今聞くと、同じようには響かない。
「私は」
彼の顔が強張る。
「前と同じ婚約には戻りたくありません」
落胆が分かりやすかった。
「聞いて」
「……ああ」
「毎週水曜に必ず会うのもやめたい。私の予定を全部あなたの家に合わせるのも嫌。夜会で踊れないなら、座って話せばいい」
「うん」
「私が一人で観劇へ行っても、心配しないで」
「努力する」
「そこは、はいと言って」
「はい」
笑ってしまった。
「それなら」
私は手袋越しに彼の手を取った。
「新しく婚約するなら、考えます」
「考える?」
「すぐには返事しません」
「一月待った」
「知らないわ」
「……そうか」
その顔が少し面白かった。
◇
マティアス伯爵には翌日、縁談を断った。
「やはり彼ですか」
「はい」
「悔しいですね」
「申し訳ありません」
「でも、昨日よりは納得しています」
「昨日?」
「侯爵令息が、王宮の回廊で歩行訓練をしているのを見ました」
「訓練?」
「段差を上る練習を。療法士らしい方と一緒でした」
そんなことは聞いていなかった。
次に会ったら、本人から聞こうと思った。
「伯爵にも、良いご縁がありますように」
「それは余計です」
「すみません」
「今のは腹が立ちました」
「本当にすみません」
初めて、彼が笑った。
◇
二度目の婚約が正式に決まったのは、その話からさらに二か月後だった。
その間に、アルノーは私の父とも、私も侯爵夫妻とも改めて話をした。
前の婚約書をそのまま戻すのではなく、最初から作り直すためだ。
最初の婚約書は、両家の条件が先に書かれていた。
今回の書類には、私たちが追加した項目がある。
住居。
領地滞在の日数。
私個人の外出と交友。
アルノーの治療の予定。
父は読みながら言った。
「婚約契約に観劇の自由まで書く必要があるのか」
「あります」
アルノーも頷いた。
「あります」
「二人とも面倒になったな」
「一度失敗しましたので」
父は何も言わず、最後に署名した。
帰り際、アルノーが杖を持ち直す。
「来週の水曜は?」
「予定があります」
「何の?」
「ロザリーと観劇」
「そうか」
「木曜なら空いています」
彼は少し考えてから頷いた。
「では木曜に」
「はい」
以前なら、私が予定を動かした。
私は手帳を開いて、木曜の欄を確認した。
そこには、今のところ何も書かれていなかった。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
今回は、一度婚約を解消した二人が、改めて話し直す物語を書きました。
同じ関係へ戻るのではなく、前とは違う形でやり直せるのかを描いています。
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空席あり




