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番外編 愚者たちの夢の終わりと、極北の地獄における永遠の贖罪

「ああ、なんて素晴らしい夜なのだ! 王国の空気がこれほど澄み切って感じられるのは、生まれて初めてだ!」


王宮の豪華なプライベートサロンで、第一王子レオンハルトは最高級のヴィンテージワインが注がれたグラスを高々と掲げた。

暖炉の火が赤々と燃え、部屋中を温かな光で満たしている。彼の隣には、桜色の髪をした可憐な少女、マリアベル男爵令嬢が寄り添い、甘い香りを漂わせていた。

つい数時間前、レオンハルトは長年の婚約者であったセレナ・ヴァン・アシュクロフトを公衆の面前で断罪し、極寒の死の森へと追放したばかりだった。


「本当に、殿下のご決断は英断でしたわ。あのような魔力ゼロの陰気な女が次期王妃だなんて、王国の恥ですもの」

「全くだ。あいつはいつも薄暗い地下の書庫に引きこもり、俺が命令した書類仕事をこなすだけの機械のような女だった。しかも、その手柄をさも自分の功績のように見せかける厚顔無恥さ。俺の偉大な才能に嫉妬していたとしか思えん」


レオンハルトは本気でそう信じ込んでいた。

彼にとって、複雑な政策立案や各領地の予算配分などという退屈な作業は、王子である自分がやるべきことではなかった。だからセレナに押し付けていたのだが、いつの間にか周囲の重臣たちが「セレナ様は優秀だ」と彼女を褒め称えるようになっていたのが、我慢ならなかったのだ。

俺は未来の王だぞ。有能なのは俺であって、あの地味な女ではない。

マリアベルはそんなレオンハルトの虚栄心を、見事に満たしてくれた。「殿下は素晴らしい」「殿下こそが天才」と、彼女は常にレオンハルトを崇拝するような眼差しで見つめてくれたからだ。


「それにしても、アシュクロフト伯爵も思い切ったことをしたな。実の娘をあっさりと切り捨てるとは」

「殿下、あのような出来損ないは我が家の娘ではありません。私にとって真の娘と呼べるのは、マリアベル様のような光り輝く聖女だけです」


向かいのソファに座っていたアシュクロフト伯爵が、卑屈な笑みを浮かべて揉み手をした。

彼はセレナという魔力の供給源を手放したことの重大さに、まったく気づいていなかった。これまで王家から支払われていた莫大な『結界維持の補助金』は、セレナの魔力があってこそのものだったが、伯爵は「王子と親戚になれば、補助金以上の権力と財産が転がり込んでくる」と皮算用をしていたのだ。


「うむ。マリアベルよ、お前のその美しい光魔法で、この国を永遠に守ってくれ」

「はい、殿下! 私の聖なる祈りで、魔物なんて一匹も入れさせませんわ!」


マリアベルが両手を胸の前で組むと、キラキラとしたピンク色の光の粉が宙を舞った。

レオンハルトはそれを見て満足げに頷いた。

これこそが真の魔法だ。地味で何も見えなかったセレナの結界とは違う。目に見えて美しいこの光こそが、王国を守る力に違いないと、彼は微塵も疑っていなかった。


だが、彼らの思い描いていた輝かしい未来は、その夜を境に音を立てて崩れ始めた。

セレナが死の森へ追放されてから一ヶ月が過ぎた頃、レオンハルトの執務室には、毎日信じられないほどの量の報告書が積み上げられるようになった。


『北部の国境地帯で魔物の群れが目撃されました。村が二つ、すでに壊滅状態です』

『帝国からの輸入物資が突如としてストップしました。食糧価格が先月の五倍に跳ね上がっています』

『国庫の残高が底を尽きかけています。至急、緊縮財政への移行と増税のご決断を』


「ええい、鬱陶しい! どいつもこいつもうるさい蠅のように喚きおって!」


レオンハルトは苛立ちに任せて、分厚い羊皮紙の束を暖炉の火の中へ放り込んだ。

炎が報告書を舐め尽くし、黒い灰に変えていくのを見つめながら、彼は舌打ちをした。


「無能な役人どもめ。魔物が出ただと? マリアベルが結界を張っているのだから、そんなはずがあるか。辺境の野蛮人どもが怠けている言い訳に決まっている。物価の高騰も、強欲な商人どもが価格を吊り上げているだけだ」


レオンハルトの脳内では、自分とマリアベルに責任があるという発想は完全に欠落していた。

セレナがいた頃はこんな報告書は一枚も上がってこなかったが、それは「たまたま平和だったから」だと解釈していた。まさか、あの魔力ゼロの女が裏で莫大な魔力を注いで結界を維持し、徹夜で帝国との裏取引を取りまとめて経済を回していたなどとは、夢にも思わなかったのだ。


「殿下ぁ……どうしたの? 怖い顔をして」

「おお、マリアベル。いや、何でもない。下等な虫どもが騒いでいるだけだ。それより、私たちの結婚式の準備は進んでいるか?」

「はい! ドレスは帝国から最高級のシルクを取り寄せましたし、大聖堂には十万本の白薔薇を飾る手配をしましたわ! ただ……お父様が、資金が少し足りないかもって」


マリアベルの言葉に、アシュクロフト伯爵がもじもじと進み出てきた。

伯爵家もまた、火の車であった。王家からの補助金が打ち切られたことで、これまでの贅沢な生活が維持できなくなり、帝国の『闇の商人』から法外な利子で莫大な借金を重ねていたのだ。


「心配するな、伯爵。俺の結婚式だぞ。国庫にある金はすべて自由に使え。それでも足りなければ、さらに借りればいい。俺が王になれば、税を上げていくらでも返せるのだからな」

「おお! 殿下、寛大なお言葉、感謝いたします!」


国が滅びかけているという現実から完全に目を背け、彼らは前代未聞の豪華絢爛な結婚式を開催することに全力を注いだ。

自分たちの権威と幸せを見せつければ、民衆の不安も消え去るだろう。レオンハルトは本気でそう信じていた。


そして迎えた、大聖堂での結婚式当日。

レオンハルトは純白のタキシードに身を包み、マリアベルの腰を抱きながら、参列した貴族たちを見下ろしていた。

完璧だ。俺の人生は今、最高の絶頂にある。

この国の頂点に立ち、真の聖女を妻とし、永遠の栄華を約束された存在。


そこへ、大帝国の全権大使が到着したという知らせが入った。

レオンハルトの心臓は歓喜に跳ねた。あの強大な帝国すらも、俺の威光にひれ伏し、祝福に訪れたのだと。

しかし、重厚な扉が開かれ、漆黒の外套を纏った冷酷な帝国の黒幕宰相ルーファスと共に現れた女性を見た瞬間、レオンハルトの思考は完全に停止した。


深紅のドレスを纏い、圧倒的な美しさと覇気を放つ女。

見間違えるはずがなかった。あの冷ややかな紫水晶のような瞳は、間違いなくセレナ・ヴァン・アシュクロフトのものだった。


「な……なぜだ? なぜ、生きている……!?」


死の森で魔物に喰われて死んだはずの女が、なぜ大帝国の宰相の腕に抱かれているのか。

しかも、その姿は以前の地味で陰気な彼女とはまるで違っていた。息を呑むほどに美しく、気高く、そして恐ろしいほどの威圧感を放っている。

レオンハルトの胸の奥で、言い知れぬ恐怖と、それを上回る激しい嫉妬が渦巻いた。

俺の元婚約者だった分際で、俺よりも上の男に媚びを売って這い上がったというのか!


「き、貴様! まさか俺に許しを乞うために、大帝国の使者の袖に縋ってここまで這い戻ってきたのか!」


恐怖を隠すために、レオンハルトはありったけの怒鳴り声を上げた。

セレナは俺に惚れている。俺に捨てられたのが悔しくて、帝国を利用して気を引こうとしているだけだ。そうだ、そうに違いない。

だが、セレナの口から紡がれた言葉は、レオンハルトの浅薄な妄想を粉々に打ち砕いた。


経済制裁による物資の完全遮断。

アシュクロフト家の莫大な借金の一括返済要求。

そして、彼女こそが結界を維持していた『真の聖女』であったという残酷すぎる真実。


「私の魔力は、一滴たりともあなた方にはくれてやりません」


セレナが冷酷にそう言い放ち、指を鳴らした瞬間。

空が割れた。

大聖堂のステンドグラスを突き破り、王国を覆っていた結界が完全に崩壊する音が響き渡った。

空を赤黒く染め上げながら、無数の魔物たちが王都へ向かって雪崩れ込んでくるのが見えた。


「う、嘘だ……嘘だろ……?」


レオンハルトは膝から崩れ落ちた。

自分の足元が、文字通り崩れ去っていく感覚。

彼は狂ったように隣にいるマリアベルを掴んで揺さぶった。お前が聖女だろう、早く結界を張れと怒鳴りつけた。

しかし、マリアベルは鼻水と涙で顔をぐしゃぐしゃにして、「私には無理!」と醜く叫ぶだけだった。


「お前っ……ふざけるな! お前が聖女だと言ったから、俺はセレナを追放したんだぞ!」

「殿下が勝手に勘違いしたんじゃないですか! 私のせいじゃありません!」


愛し合っていたはずの二人は、その場でみっともなく責任を押し付け合い、泥沼の口論を始めた。

そして、彼らは絶望の中で理解した。

自分たちは世界の中心でも何でもなく、ただ一人の少女の自己犠牲の上に胡座をかいていた、滑稽な寄生虫でしかなかったのだと。

彼らがすがりついて命乞いをしても、セレナの瞳には一欠片の同情も、かつての愛情も残っていなかった。ただ、ゴミを見るような冷徹な眼差しで、彼らを永遠の地獄へと突き落としたのだった。


それから数年後。

王国の跡地から遠く離れた、極北の『魔石鉱山』。

太陽の光が決して届かないその分厚い暗雲の下で、猛吹雪が吹き荒れる中、岩を砕く鈍い音だけが絶え間なく響いていた。


「はぁ……はぁ……っ……」


レオンハルトは、凍りついたツルハシを震える手で振り下ろした。

かつて磨き上げられていた金髪は抜け落ち、泥と煤で灰色に汚れ切っている。純白だった肌は重度の凍傷で黒ずみ、所々が腐り落ちて骨が見えていた。

彼が着ているのは、薄っぺらい麻布で作られた粗末な囚人服一枚だけだ。足元には重い鉄の鎖が繋がれ、一歩歩くごとに皮膚が削れて血が滲む。


「動け、ゴミども! 今日のノルマが終わるまで、飯は抜きだ!」


背後から、毛皮のコートを着た帝国の看守の怒声が飛び、硬い革の鞭がレオンハルトの背中を容赦なく打ち据えた。


「ぎゃあっ!」


皮膚が裂け、鮮血が雪の上に散る。激しい痛みに耐えきれず、レオンハルトは雪の中に倒れ込んだ。


「殿下ぁ……もう無理、もう無理ですわぁ……」


すぐ隣で、マリアベルが岩にすがりついて泣きじゃくっていた。

かつての愛らしい面影は完全に消え失せていた。顔は凍傷で醜く腫れ上がり、目は虚ろで、手足は木の枝のように痩せ細っている。彼女もまた、重い魔石の運搬を強いられ、毎日血を吐きながら労働させられていた。


「黙れ、この疫病神が……! お前さえいなければ、俺は今頃……セレナと……王宮で……っ!」

「何よ! 殿下が無能だからこうなったんじゃない! 私は被害者よ! おうちに帰してぇぇぇっ!」


二人は雪の中で転げ回りながら、互いの顔を引っ掻き合い、醜く罵り合った。

もう何百回、何千回繰り返したかわからない不毛な争いだ。

少し離れた場所では、アシュクロフト伯爵とその妻、妹が、岩の下敷きになって潰れた足を引きずりながら、虚ろな目で魔石を掘り続けていた。彼らはすでに正気を失い、「セレナ、許してくれ」「私がお前の妹だぞ」と、誰もいない空に向かってうわ言を繰り返し続けている。


レオンハルトは仰向けになり、灰色の空を見上げた。

腹が減って狂いそうだ。寒さで手足の感覚はとうの昔にない。背中の傷からは血が流れ続け、意識が遠のいていく。

あぁ、これでようやく死ねる。この地獄から解放される。


そう思った瞬間、看守が彼の傍に歩み寄り、冷酷に杖を振り下ろした。


「《中級治癒ミドル・ヒール》」


淡い光がレオンハルトの体を包み込むと、背中の裂傷が強制的に塞がり、凍死寸前だった体温が無理やり引き上げられた。

肉体的なダメージだけを回復させ、精神の疲労と空腹はそのまま残すという、悪魔のような治癒魔法。

帝国の『黒の女帝』は、彼らが死んで楽になることすら許さなかった。労働力として使える限り、治癒魔法で無理やり生かされ、永遠に魔石を掘り続けさせる。それが終身強制労働の真の恐ろしさだった。


「ほら、傷は治してやったぞ。さっさと立って岩を砕け!」


看守の蹴りを腹に受け、レオンハルトは泥水を吐き出しながら立ち上がった。

また、地獄が続くのだ。明日も、明後日も、一年後も、死ぬまで永遠に。

痛みに歪むレオンハルトの脳裏に、かつての大聖堂で見たセレナの姿がフラッシュバックした。


美しく、気高く、絶対的な権力を持って自分を見下ろしていた彼女。

そして、彼女を愛おしそうに抱きしめていた、大帝国宰相ルーファスの姿。

風の噂で、セレナは今、帝国の正式な第一夫人として迎え入れられ、皇帝すら凌ぐ権力を持つ『裏の女帝』として、ルーファスから狂気的なまでの溺愛を受けて暮らしていると聞いた。

彼女は温かな宮殿で、最高級のドレスを着て、美味しい食事を楽しみ、誰よりも愛されている。

それに引き換え、俺は。


「あぁ……ああああぁぁぁぁぁぁっ!!」


レオンハルトは、凍てつく空に向かって血を吐くような絶叫を上げた。

後悔ではない。自分が犯した罪への反省でもない。

ただひたすらに、なぜ自分がこんな理不尽な目に遭わなければならないのかという自己憐憫と、今のセレナの幸福に対する、発狂しそうなほどの嫉妬だった。

だが、彼がいくら叫ぼうが、猛吹雪の音にかき消されるだけだった。


「動けと言っているだろうが!」


バチィィッ!

再び看守の鞭が唸りを上げ、レオンハルトの顔面を切り裂いた。


「ぎぃぃぃっ!」


這いつくばり、涙と鼻水と血を流しながら、彼は再び重いツルハシを握りしめる。

彼らがかつて、セレナという一人の少女から搾取し、踏みにじってきた代償。

それは、死ぬことすら許されない極寒の地獄における、永遠の贖罪だった。

愚者たちの見る夢は完全に終わり、彼らにはもう、這い上がることのない絶対的な絶望だけが残されていた。

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