第3話 愚者たちの宴と女帝の鉄槌
王国の王都に位置する大聖堂は、かつてないほどの熱狂と喧騒に包まれていた。
空は薄暗く、どこか淀んだ空気が漂っているにもかかわらず、聖堂の内部は目を開けていられないほどの眩い光と、むせ返るような薔薇の香りに満たされている。
天井まで届く巨大なステンドグラスは七色の光を床に落とし、壁際を埋め尽くすように飾られた何万本もの純白の薔薇が、この結婚式がいかに常軌を逸した予算で執り行われているかを物語っていた。
参列している貴族たちは皆、これ見よがしに豪華な絹の礼服や宝石を身に纏い、シャンパングラスを片手に談笑している。彼らの足元には、最高級のペルシャ絨毯が敷き詰められていた。
「いやはや、素晴らしい結婚の宴ですな。これほどまでに豪華絢爛な式は、建国以来初めてではないでしょうか」
「ええ、第一王子殿下とマリアベル様の門出にふさわしい。あの忌まわしい『魔力ゼロの無能令嬢』がいなくなってからというもの、王宮の空気まで清浄になった気がいたしますよ」
「まったくです。それにしても、最近辺境で魔物が増えているという噂は本当なのでしょうか? 商人たちの間でも、物資の流通が滞っていると不満の声が上がっているようですが……」
「ははは! 案ずることはありません。真の聖女であられるマリアベル様が、この国を強固な結界でお守りくださっているのです。それに国庫の件も、殿下が新たな政策を打ち出される予定だと聞いております。一時的な不具合に過ぎませんよ」
貴族たちの間では、都合の悪い現実はすべて「一時的な不具合」として処理されていた。
実際には、セレナが追放されてからというもの、王国は急速に崩壊への道を突き進んでいた。マリアベルの薄っぺらい魅了魔法と微弱な光魔法では、国全体を覆う大結界を維持することなど到底不可能だった。辺境の村々はすでに魔物の襲撃を受け、悲鳴と血に染まっているという報告が毎日のように王宮へ届いていた。
さらに、セレナが血を吐く思いで裏から回していた流通網や経済のパイプラインも、彼女の不在により完全に機能停止していた。国庫は底を尽きかけ、本来であれば緊縮財政を敷かなければならない状況だった。
しかし、レオンハルト王子はそれらの報告書を「無能な役人の言い訳だ」と一蹴し、暖炉の火に放り込んでいた。彼は自分の権威を示すためだけに、残された国費のすべてを注ぎ込み、この常軌を逸した豪華な結婚式を開催したのだ。
ファンファーレが鳴り響き、大聖堂の巨大な扉が開いた。
参列者たちの視線が一斉に注がれる中、純白のタキシードに身を包んだレオンハルトと、ダイヤモンドが散りばめられたウェディングドレスを着たマリアベルが、腕を組んでゆっくりと歩みを進めてきた。
レオンハルトは誇らしげに胸を張り、マリアベルは計算し尽くされた可憐な笑みを振り撒きながら、参列者たちに手を振っている。
「おお、なんというお美しいお姿……!」
「これぞ我らが次期国王と王妃! 真の聖女様、万歳!」
歓声と拍手が巻き起こる中、二人は祭壇へと進み出た。
祭壇の脇には、アシュクロフト伯爵一家が特等席に陣取っていた。セレナの実の父である伯爵は、娘を死の森へ追放したことなど欠片も気にしていない様子で、満足げに頷いている。
彼らもまた、破滅の足音に気づいていなかった。セレナという魔力供給源を失ったことで、王家からの裏金の支給は完全にストップしていた。生活水準を落とすことができない伯爵家は、身の丈に合わない莫大な借金を重ねていたが、「マリアベル様と殿下が結婚すれば、我々も王家の親戚として恩恵に与れる」と、現実逃避のどん底に浸っていたのだ。
「皆の者、よく集まってくれた!」
祭壇の上に立ったレオンハルトが、両手を広げて高らかに宣言した。
「今日この日、私は真の聖女マリアベルを正妃として迎える! かつて私の隣には、セレナという魔力ゼロの役立たずが蔓延り、この国の発展を阻害していた! しかし、我々はその癌を取り除き、完全なる浄化を成し遂げたのだ! マリアベルの聖なる力により、我が王国は永遠の繁栄を約束されたのである!」
「殿下……私、殿下とこの国のために、全身全霊で祈りを捧げますわ」
マリアベルが潤んだ瞳でレオンハルトを見上げると、彼は「ああ、私の可愛い聖女よ」と甘く囁き、彼女の肩を抱き寄せた。
大聖堂は感動の拍手と歓声に包まれ、まさに悪役たちの絶頂期と呼ぶにふさわしい光景が広がっていた。彼らは自分たちが世界の中心であり、何一つ間違いを犯していないと信じて疑わなかった。
その時だった。
「――大帝国より、全権大使閣下がご到着なされました!」
大聖堂の入り口に立つ衛兵の、震えるような大声が響き渡った。
その言葉に、歓声に包まれていた大聖堂が一瞬にして静まり返った。
大帝国。それは、この王国など数日で地図から消し去ることができるほどの圧倒的な軍事力と経済力を持つ、大陸最大の覇権国家だ。そんな大国から、なぜこのような小国の結婚式に全権大使がやってくるのか。
レオンハルトの顔に、驚きと同時に隠しきれない歓喜の色が浮かんだ。
「おお! 大帝国までもが、私の結婚を祝福するために使者を送ってくるとは! これぞ我が王国の威光が大陸中に知れ渡った証拠だ! さあ、丁重にお迎えするのだ!」
レオンハルトが指示を出すまでもなく、重厚な大聖堂の扉が、ゆっくりと、しかし圧倒的な威圧感を伴って開け放たれた。
その場にいた全員が、息を呑んだ。
扉の向こうから現れたのは、漆黒の軍服の上に最高級の毛皮の外套を羽織った、長身の男だった。氷のように冷徹な銀色の瞳と、周囲の空気を凍りつかせるような絶対的な覇気。
大帝国の宰相であり、世界最強の魔導師と恐れられる『黒幕宰相』、ルーファス・ヴォルフガングその人であった。
ただ一歩、彼が大聖堂に足を踏み入れただけで、数万本の薔薇の香りが吹き飛び、空気が重く冷え込んだ。貴族たちは本能的な恐怖に震え上がり、誰一人として言葉を発することができなかった。
しかし、人々の驚愕はそれだけでは終わらなかった。
ルーファスが歩みを進めるその傍ら、彼のエスコートを受けるようにして、一人の女性が姿を現したのだ。
深紅のシルクで仕立てられた、息を呑むほどに美しいドレス。首元には、王国の国家予算すら凌駕するであろう巨大な真紅の宝石が輝いている。
美しく結い上げられた艶やかな髪、透き通るような白い肌、そして、感情の一切を排除した冷徹で鋭い眼差し。
彼女が一歩足を踏み出すたびに、足元から目に見えない圧倒的な魔力の波紋が広がり、大聖堂のステンドグラスがビリビリと共鳴音を立てた。
その女性の顔を見た瞬間、レオンハルトの顔からスッと血の気が引いた。
マリアベルは目を見開き、アシュクロフト伯爵は持っていたワイングラスを床に取り落とした。
「……せ、セレナ……?」
レオンハルトの口から、信じられないものを見るような声が漏れた。
そう、そこに立っていたのは、数ヶ月前に「魔力ゼロの無能」として死の森へ追放されたはずのセレナ・ヴァン・アシュクロフトであった。
しかし、かつての擦り切れたドレスを着て俯いていた哀れな令嬢の面影はどこにもない。そこにあるのは、圧倒的な力と権力を身に纏い、他者を見下す絶対的な『女帝』の姿だった。
「お久しぶりですね、レオンハルト王子。それに、マリアベル男爵令嬢」
セレナの唇から紡がれた声は、まるで氷の刃のように冷たく、大聖堂の隅々にまで響き渡った。
静まり返っていた聖堂が、一気にざわめき始めた。
「なぜ、あの忌み子が生きているんだ!?」
「死の森に追放されたはずでは……! しかも、なぜ大帝国の宰相閣下とご一緒に!?」
パニックに陥りかける貴族たちの中で、レオンハルトは顔を赤くして怒鳴り声を上げた。
「き、貴様! なぜ生きている! いや、それよりもその姿はなんだ! まさか、俺に許しを乞うために、大帝国の使者の袖に縋ってここまで這い戻ってきたのか! この厚顔無恥な女め!」
レオンハルトの浅薄な思考は、目の前の現実を直視することを拒んでいた。彼の中では、セレナは永遠に自分にすがりつく哀れな存在でなければならなかった。
マリアベルもまた、震える声でそれに同調した。
「お、お姉様……なんて見苦しい。自分から追放されたというのに、大帝国の方を騙してまで私たちの結婚式を邪魔しに来るなんて。殿下、恐ろしいですわ……!」
二人の滑稽な言葉を聞いて、ルーファスが低く、しかし地の底から響くような声で笑った。
「くっ……はははは! 傑作だな。これほどまでに脳が腐りきった道化を見たのは初めてだ。我が帝国の女帝に向かって、這い戻ってきただと?」
「……女帝、だと?」
レオンハルトが間の抜けた声を出した。
セレナはルーファスの腕からそっと手を離し、祭壇に向かって数歩進み出た。彼女の冷酷な眼差しは、レオンハルトたちを道端の石ころを見るような目で射抜いていた。
「勘違いしないでいただきたい。私は今日、大帝国の全権大使として、並びに帝国裏社会の全権を掌握する者として、この王国に『通達』をしに参りました」
「つ、通達だと……? 何の真似だ、セレナ!」
「真似ではありません。現実です」
セレナは指をパチンと鳴らした。すると、彼女の背後に控えていた帝国の黒服の部下たちが、大量の書類の束を持ち込み、祭壇の前にドサリと投げ捨てた。
「一つ目の通達です。本日をもって、大帝国および大陸全土の裏社会における流通網は、貴国への一切の物資輸出を完全停止いたしました」
「な、なんだと!?」
「私がこの国にいた頃、血を吐く思いで裏から回していた経済のパイプラインは、すでに私が帝国側で掌握し、すべて断ち切りました。食糧、魔石、日用品に至るまで、他国からの物資はもう二度とこの国には入りません。貴国は数日以内に完全に干上がるでしょう」
レオンハルトの顔が青ざめた。貴族たちの間からも悲鳴のようなざわめきが上がる。
セレナは表情を変えることなく、次なる事実を突きつけた。
「二つ目。そこに転がっているのは、アシュクロフト伯爵家が帝国の闇金業者から借り入れていた莫大な借金の借用書です。その総額は、王国の国家予算の三年分に相当します」
「ひぃっ!?」
アシュクロフト伯爵が喉の奥で悲鳴を上げた。
「私はその債権をすべて買い取りました。本日この瞬間をもって、全額の一括返済を要求します。もちろん、払えませんよね? したがって、アシュクロフト家の領地、財産、および一族の身柄はすべて、私の所有物として差し押さえさせていただきます。もはやあなた方は貴族ではなく、ただの債務奴隷です」
「ば、馬鹿な! 私はお前の父親だぞ! こんなことが許されるはずがない!」
「父親? 私を魔力タンクとして搾取し続け、不要になれば死の森へ放り込んだあなたが、どの口で父親を名乗るのですか? あなたがたには、塵ほどの価値もありません」
伯爵の叫びを冷たく切り捨てたセレナは、最後にレオンハルトとマリアベルに視線を向けた。
その瞳には、かつて宿っていた善意の欠片もなく、ただ絶対的な絶望を与えるための冷酷な光だけが宿っていた。
「そして三つ目。これが最も重要な通達です。レオンハルト王子。あなたは、マリアベル男爵令嬢がこの国の結界を維持していると仰いましたね?」
「と、当然だ! マリアベルこそが真の聖女! お前のような無能とは違う!」
「では、証明して差し上げましょう。この国を覆っている結界の『魔力所有権』が、一体誰にあるのかを」
セレナが右手を高く掲げた。
その瞬間、彼女の体から、大聖堂のステンドグラスを突き破るほどの凄まじい純白の光――神級の起源魔法のオーラが爆発的に噴き出した。
あまりの魔力の密度に、重力すら歪み、参列していた貴族たちは次々と床に這いつくばった。レオンハルトも膝をつき、マリアベルは恐怖で顔を引き攣らせてその場にへたり込んだ。
「あ、ああ……なんだ、この魔力は……!」
「私に刻まれていた呪縛を通じて、この国の土壌に染み込んでいた私の魔力。それが今も微かに結界を維持していたようですが……もう不要ですね。私の魔力は、一滴たりともあなた方にはくれてやりません」
セレナは高く掲げた右手の指先を、ゆっくりと握り込んだ。
パリィィィィィィンッ!!
空が砕けるような、鼓膜を突き破る巨大な破壊音が王都全体に響き渡った。
それは、何百年もの間、王国を魔物から守り続けてきた大結界が、完全に消滅した音だった。
大聖堂の窓から見える空が、一瞬にして不気味な赤黒い色に染め上げられていく。
「な、何が起きた……!?」
「空が! 空が割れたぞ!」
「あ、あれを見ろ! 魔物だ! 空を飛ぶ魔物の群れが、王都に向かってきている!」
窓の外を指差した貴族が、絶望の叫び声を上げた。
王国の空を覆い尽くすほどの、巨大な翼竜や異形の魔物たちが、結界の消失を感知して怒涛の勢いで王都へと押し寄せてきていたのだ。遠くからは、すでに防壁を突破された街の悲鳴と爆発音が響き始めている。
「う、嘘だ……嘘だろ……?」
レオンハルトは震える手で頭を抱え、床に崩れ落ちた。
彼は狂ったようにマリアベルの肩を掴み、激しく揺さぶった。
「マリアベル! 早くしろ! 早く新しい結界を張るんだ! お前は真の聖女だろう! 早くこの国を救え!!」
「い、いやっ! 痛い! 離して殿下! む、無理です! 私にそんな力なんてありません! 私の魔法は、ただ光るだけで……結界なんて張れるわけがないじゃないですか!」
マリアベルは鼻水と涙で化粧をドロドロに溶かしながら、みっともなく泣き叫んだ。偽聖女のメッキが完全に剥がれ落ちた瞬間だった。
その醜態を、セレナは感情の動かない冷たい目で見下ろしていた。
「おわかりいただけましたか? これが、あなたたちが切り捨てた『無能』の真実です。あなたたちは自らの手で、国を守る唯一の盾を破壊したのです」
「せ、セレナ……頼む! 悪かった、俺が間違っていた! 俺にはお前が必要なんだ! お前を正妃にしてやるから、頼むから結界を戻してくれ!」
「お姉様! ごめんなさい! 私が全部悪かったの! だから助けて! 殺さないで!」
レオンハルトとマリアベルは、泥にまみれた床に這いつくばり、セレナの足元にすがりつこうと手を伸ばした。
しかし、その手はセレナに届く前に、ルーファスが放った目に見えない魔力の壁によって弾き飛ばされた。
「気安く私の女に触れるな、下等生物め」
ルーファスは冷酷な笑みを浮かべ、虫けらを見るような目で彼らを見下ろした。
セレナは弾き飛ばされて呻く彼らに向かって、氷のような声で最終宣告を下した。
「今更すがりついても遅いです。あなたたちに与えられるのは、絶望と破滅だけ。せいぜい足掻いて、無様に散りなさい」
王都に響き渡る魔物の咆哮と、逃げ惑う人々の悲鳴。
豪華絢爛だった大聖堂は、今やパニックと絶望のるつぼと化していた。
調子に乗っていた悪役たちが自らの愚かさに直面し、奈落の底へ突き落とされる光景を、セレナはただ静かに、そして冷徹に見つめ続けていた。反撃の鉄槌は、あまりにも完璧な形で下されたのだ。




