プロローグ
心地のいい風が吹き桜の花びらが宙を待っている。暦の上ではもう春らしい。窓の外を覗くと中庭の至る所に青春真っ只中のカップルが見える。楽しくおしゃべりしていたり、口喧嘩をしていたり、木陰で寝転んでいたり。
当時の俺は自分にもいつかそういう青春の1ページに刻み込まれるような淡い思い出ができるんだろうと思っていた。でも現実はそんなに優しくはなかった。
遡ること5年前。
親の都合で海辺の街に引っ越した。当時は根暗で唯一の趣味といえば絵を描くことだった。初めてこの街に来て海を見た時の衝撃は今でも忘れない。シルクのように真っ白で滑らかな砂浜、燦々と輝く太陽に照らされエメラルドのように光り波打つ水面。青い空を自由に羽ばたく鴎の群れ。全てが新鮮で俺はすぐに心を射抜かれてしまった。
「描きたい」
背負っていたリュックサックからスケッチブックとペンを取り出し砂浜に腰掛けてすぐにペンを走らせる。この一瞬を忘れないように、この湧き上がる気持ちを忘れてしまわないように必死に描く。俺は時間を忘れてひたすらその光景を脳裏とスケッチブックに写した。
「その絵、君が描いたの?」
ハッとした。絵を描くことに集中しすぎて人が近づいていることに気が付かなかった。集中しすぎると周りの声が聞こえなくなるのは普段から父親からも注意されている。俺の悪い癖だ。
声のする方を見るとそこにはこのシルクのような砂浜に引けを取らない、いや、砂浜よりも白く透き通った肌の少女が優しい眼差しを向けていた。真っ白なワンピースに黄色いリボンのついた麦わら帽子を被っているその少女は初対面なのに気にせず俺の隣に腰掛ける。
「海が綺麗だったから。忘れたくないと思ったんだ。それで夢中になって描いてた。」
俺は描く手を止めて彼女にそう答えた。ちょっとロマンチックな台詞を吐いてしまい羞恥心が込み上げてきたがそんな俺をみて彼女は
「すごく綺麗だよ。君の絵も、この海も。宝石みたいだね?」
と天使のような笑顔で微笑んだ。
その瞬間、胸の鼓動が速くなり彼女の澄んだマリンブルーの瞳から目が離せなくなった。一目惚れだ。
それが俺の初恋だった。
それからしばらく彼女と談笑しながら夕陽が沈む様子を眺めていた。先程までエメラルドだった海がルビーに変わりやがてサファイヤのような輝きを放った。水面に反射した月がとても綺麗で見惚れていると彼女が呟いた。
「月が綺麗だね。」
「それ、普通キザな男が言うやつだよね?」
「もう!別に良いじゃん!」
なんて言いながら2人でしばらく笑い合った。やがて辺りは暗くなり夜の帷が降りた。今日ほど時間の進みが速いと感じたのは初めてで、それほど彼女と過ごした数時間を心から楽しんでいる自分がいた。
流石にそろそろ帰らないと親父が心配するな。そう思っていると彼女の小さな手が俺の腕を掴む。
「今日はありがとう。楽しかったよ。またいつか会えたら良いな。」
そう言いながら小さな貝殻を渡してきた。とても綺麗で白く傷ひとつないそれを見つめていると俺の手を優しく包むように握った。
俺は何故か今日出会ったばかりの何も知らない彼女に惹かれていた。その綺麗な瞳に吸い込まれそうになりながら精一杯気持ちをぶつけた。
「あ、あの!また会おう!絶対!約束!」
「うん!絶対!約束!」
そして俺たちはお互い別れを告げて砂浜を後にした。
それ以降彼女と会うことは一度もなかった。