異界と繋がる裂け目を閉じる者。彼女は、江戸の虫送り師
夕暮れが田を金色に染める頃、村の広場に鐘の音が響いた。
「虫送りじゃあー!」
子どもたちが歓声を上げ、大人たちは手に手に提灯と松明を持って、あぜ道へと集まっていく。
虫送り。それは田畑を荒らす害虫を祓い、豊作を祈る年中行事。
だが、この村の虫送りには、もう一つの意味がある。
「お時様のお出ましだ」
誰かの呟きに、ざわめきが一瞬で止む。
村の端から現れたのは、白い作務衣に身を包んだ女性。
腰には二管の笛が差され、背には細長い包みを背負っている。年の頃は二十ほど。
整った顔立ちに、艶やかな黒い髪。さらにどこか影を宿した眼差し。
名を、お時という。
虫送り師──数えるほどしかいない、異能の者だ。
お時は何も言わず、田んぼの中央に立つと深く息を吸い込んだ。
そして、細長い笛を静かに吹く。
……ヒュウ……ヒィィ……
それは、人の耳にはただの風音にしか聞こえない。だが、田の中に潜んでいた無数の虫たちが、一斉に蠢きだした。
カメムシ、ウンカ、コオロギ、名も知れぬ虫たちが列を成し、あぜ道を這っていく。
まるで導かれるように、村の外れへ、闇の中へと消えていく。
その様子に、子どもがぽつりと呟いた。
「……気持ちわる……でも、すごいや」
「虫って、ほんとに音で動くのかねぇ」
「お時様の笛は特別だって、婆様が言うてた。人には聞こえん“音”が鳴っとるんだとさ」
お時は誰の疑問にも答えない。ただ、吹き続ける。
音は変わらず静かに、しかし確実に虫たちを遠ざけていく。
その目には、どこか哀しげな色があった。
かつて、笛を持たぬ者が虫を追い払おうとして、村が一つ消えたという──。
そんな話を、彼女は知っている。いや、目の当たりにしていた。
「……ふう」
笛を収め、背の包みから小さな鈴を取り出すと、それをあぜ道に点在する棒にそっと結びつける。結界の印だ。
鈴が鳴るたび、虫たちは“道”を間違えずに進む。
村人たちは遠巻きに見守るだけで、誰も近づこうとはしない。
それが、この地の掟であり、お時の望みでもあった。
「さて……ここは済んだし、明日は次の村へ行く準備でもするかね」
月明かりが現れ始める頃、一人歩き出す白い影。
その背に、誰も知らない責務と、笛の音が揺れていた
夜が更けた。
村人たちは虫送りの行事を終え、提灯の火を消してそれぞれの家へ戻って眠りにつく。
だが、お時だけは眠ることなく田の外れに残っていた。
──音に、違和感がある。
夕方は何事もないように見えたが、笛に反応しない虫がいくつかいた。それは、ただの虫ではない。
お時は腰からもう一本の笛を抜き取る。
細く黒い漆塗りの管。
その名を封じ笛といい、決して村人の前では吹いてはならないとされている。
「……ここかい、やっぱり」
田んぼの奥、林との境に、空気の“揺れ”を感じた。
草が波打ち、音もないのに風が渦を巻いている。
そこには目には見えぬ“穴”が開いていた。
音もなく、ただ存在している裂け目。
世界と世界の縫い目がほどけたような、奇妙な空間。
その奥から、それは現れた。
──虫、のようなもの。だが、違う。
脚は十数本。節ごとに金属のような硬質な殻をまとい、羽は半透明で、そこに模様のような回路が浮かび上がる。
目はなく、代わりに背中に不気味な光が灯っていた。
この世界には存在しない構造。
それは、こことは異なる世界の虫──異虫だった。
お時はそっと息を吸い、封じ笛を構えた。
──ピィィィ……
甲高く、だが人間には聞こえない音。
笛の音は空間の歪みに直接作用し、“穴”をわずかに縮ませる。
異虫はその音に反応し、じりじりと後退し始めた。が、笛を吹くごとに、身体の内側が焼けるように痛む。
「……数が増えてる。思ってたより……穴のほつれが深い」
かつて、この国に突如として“虫”があふれ出た時代があった。
飢饉と呼ばれた災厄の一部は、実はこの異界の虫によるものだったと、虫送り師の記録にはある。
虫送りとは、単なる祓いではない。異界の穴を封じるための技術であり、笛はそのための道具だった。
異虫が一匹、音を無視して迫ってくる。
お時は笛を中断し、腰から鈴を抜いた。
「──行け、音紋」
小さく振られた鈴から、目に見えぬ振動の文様が放たれる。それが虫の身体に触れると、虫は霧のようにふわりと消えた。
異虫の残骸は、草の上に細かな灰を残しただけ。
だが、お時は知っていた。
これはただの前触れにすぎない。
あの穴が完全に開けば、音も封じも効かない“もの”が現れるだろう。
そうなれば、どれだけの犠牲が出ることか。
師匠が最後に言った言葉が、脳裏によぎる。
『笛を持つ者は、音によって異界の穴を閉じる者。だが音が破れたときは──その身で代わりを務める覚悟が要る』
今の彼女には、その笛しか異界の穴を閉じる手段がない。
もしそれが壊れれば、音の代わりに何かを差し出さねばならなくなる。
お時は夜空を見上げた。満月が雲にかかり、風が止まった。
何かが、向こうで目覚めつつある。
「そろそろ、か……」
風が止み、月が隠れる。
村の田畑には、先程までよりもさらに異様な気配が漂っていた。
近くの草が枯れ、空気は重たく湿っている。あの“裂け目”が、じわじわと広がっていた。
お時は結界の鈴を再びあぜ道に並べながら、包みの奥から、最後の笛を取り出した。
それは、終の笛。
師から授かった封印の笛。
音の力で異界との“穴”を閉じることができる、ただ一つの笛。
「……これが最後になるかもしれないね」
お時は静かに構え、息を吹き込む。
──ピィィィィ……
風が逆巻き、空が軋む。
笛の音は次元の“ほつれ”を縫い合わせるように響き渡り、異虫たちは怯えるように身を引く。
だがその中に、一匹だけ音に抗う巨大な個体がいた。
羽音と共に襲いかかるその異虫を、お時は身を翻してかわし、最後の一吹きを──。
「くっ……届け!」
──ビィィン!
笛が、砕けた。
乾いた音とともに、漆塗りの管がひび割れ、破片が夜の田に散る。
だが、音は届いていた。裂け目は完全に閉じられ、異虫たちは一匹残らず霧散していった。
お時はその場に崩れこむように座り、静かに息を吐く。
「ふう、やれやれ……無茶したなあ、ほんとに」
月明かりの下、彼女の手には、砕けた笛の残骸と、一つだけ生き残った鈴があった。
翌朝、田んぼには静けさが戻っていた。
村人たちは不思議そうに囁き合う。
「なんか……虫、全然いねぇな」
「お時様がまた追っ払ってくれたんだろ」
お時は、村の端に腰を下ろし、砕けた笛の破片を見つめていた。
しばらくして、ぽつりと呟く。
「……また、作ってもらわないといけないか。今度はどんな小言が来るのやら」
風が吹く。どこか懐かしい音を運んで。
その音は、もう鳴らない笛の代わりのように、田を静かに包んでいた。