第8話 逆召喚
シンジャーが姿を消してからおよそ一年が過ぎた。
その後のファルファーダは大きな事件も災厄もなく平和が続いた。したがって召喚庁も暇であった。
くだんの鏡はまだカスの手元にある。
シンジャーと対峙したときの顛末は、鏡のことも含め報告済みであったが、上司のセブルはいま一つこの鏡の価値がわかっていないのか、「別の聖遺物を売ったからもういらない」とくりかえすのみだった。
「でもシンジャーは本物だと……」
「だが効かなかったんだろ?」
「まあ……でもイザというときの魔法除けにはなります」
「その手の危険の確率が日常生活でどれほどあるというのか。そのときの用心のためにこの重い鏡を常に持ち歩けというのかね? ならおまえが持っとけばいいじゃないか。お守り代わりにでもするんだな」
「はぁ……」
おそらくは返却するとき上層部にあれこれ説明するのが面倒くさいだけなのだろう。そこまで言われてはカスも無理に返す気にはならない。使うのにちょうどいい大きさで気に入ってもいたので、カスが持っておくことにした。
壊れた鏡のかわりにふつうの鏡として使うにも申し分ないし、材質が一般的な鏡とは違うせいか、丈夫でぶつけても落としても割れない。鏡を嵌め込んである台座だけは普通の素材のようで、どこにでもある木工細工だった。古めかしいがところどころに傷がついたり欠けているところもあるのでこれはこれで味になっている。
カスはこれを自宅の部屋に置いて日常的に使っていたのだが、ある日その鏡を暗がりで誤って床に落としてしまった。
「あっ!」
台座から外れた鏡面だけがコロコローとどこまでも床を転がっていく。
カスは慌てて後を追った。
鏡は壁に当たってとまり、その場にパタンと倒れた。
「よかった。ただ外れただけみたいだ。台座も鏡も、どっちも壊れていないようだ」と、元通りに嵌め込もうとして、「あれ? どっちが表だっけ?」
カスは鏡面を見て首をかしげた。ふつうの鏡は背面に像を反射させるための塗布材が塗ってあるものである。だが、これは違って両面とも光を反射している。
「まいっか」
と適当に嵌めなおした。
「ん?」
あらためて見ると像が少しゆがんで見える。
「やはり裏表逆に嵌めてしまったか……」と、いちど嵌めた鏡をあらためて外そうとするが、「と、取れない……」
しばらく格闘していたが、外れないのであきらめた。「ちょっとだけ見づらいがまあいいか」と、少し雲った鏡面を布で磨いてみる。
そのさいカスの頭脳にむらむらとある考えが湧きおこった。
「――この鏡……」
シンジャーの説明では、魔法を反射してはいるが対消滅しているから魔法を受けても鏡面では一見何も起こっていないように見えるということだったが、
「裏面に魔法を放ったらどうなるのかな……」
ごくり……。
「ち、ちょっとやってみるか……」
ほんの好奇心だった。
とはいえ、カスが使えるのは召喚魔法だけである。召喚もたしかに魔法の一種だが、あれは陣を敷いたうえ大人数で長丁場で行うものだし、自分ひとり程度の召喚魔法では何すらも起きないだろうと高をくくって、恐る恐る召喚魔法を鏡に向かって放つと……。
驚くべき現象が起きたのだった。
「う、うわーっ!!」
カスの体は物凄い力によって抵抗する間もなく鏡面に吸い込まれてしまった。
しばらく暗黒の世界をさまよって、彼の体はどこかにポイと吐き出された。
背中に感じる激痛。
背後の壁に激突したのだった。
動転していた。
ただ、辺りを見回したところ、見慣れた彼の部屋に間違いはなさそうだ。
どこも変わりはない。
さきほど食べ終わったばかりの夕食の残骸も残っていた。
「い、いま何が起きた?」
カスは今の現象を懸命に考えた。
◇
翌日、いつものように独り言をぶつぶつ言いながらカスは召喚庁の廊下を歩きまわっていた。
きょうは頭の中がいつになく冴えている気がして、意味もなく何度も廊下を行ったり来たりを繰り返す。
「まさか……いや待てよ……」
考えながらウロウロするカスの頭にとりとめもない考えが浮かんでは消える。
そこへ同僚のミジョンが近づいて、「働け……」と肩に手をかける。
「はっ!」
「どした?」
「ミジョン、ちょっと聞いてくれ」と、同僚を物陰に引っ張って行く。
「な、何だよ……」
抗議はしたが、取りたてて急ぎの用もないミジョンである。諦めてカスの話につき合うことにした。
「思ったんだが……」カスが顎に手を当てながら言う。「召喚てのはあれも魔法の一種である」
「まあ、召喚師になるまえに学校でそう教わったな……で、何の話?」
「鏡のことは話したよな」
「ああ……あの役立たずの鏡」
「シンジャーは言ったのだ。光の反射と魔法の反射は違うと。あの鏡だが……もともと光はふつうに反射するが魔法は反転して対消滅する」
「うん」
「実はきのう、鏡が台座から外れてしまって、嵌めなおしたんだが、どうやら逆にしてしまったようだ。裏返したらまた反応が違うんだ」
「なぜわかる……」とミジョンは眉をよせた。
「やってみたから」
「やってみた、だと?」
「鏡に向かって召喚魔法を撃ってみた」
「なんだと! まさか……で、どうなった?」
「鏡に吸い込まれたと思ったら」
「思ったら?」
「すごい勢いで吹っ飛ばされたよ」
「おいおい……大丈夫なのか? 体は」
ミジョンが言うのは、何か怪しげな魔法の効果を受けていないか、という意味である。
「たぶん、体は大丈夫だ。それからずっと、その反応の意味について考えている」
「うーむ……」ミジョンも困惑の表情で聞く。
「現象からみちびきだすとだ」カスは自らの考えをのべた。「表面は魔法を反転して等倍で返す。だから対消滅がおきる。一見何も起きないのは力が等倍だからだ」
「それは前にも聞いたな。すると裏面は……」
「裏は……そのまま反転して反射される……とそう仮定した」
「つまり……どゆこと?」
「いや、そのまま反転というのは語弊があるな。おれの微弱な召喚魔法があの威力になったのだから……増幅反転して反射されたというべきか」
「ばかをいえ! そんな理屈があるか!」とミジョンは抗議した。
「本来あの鏡はそういうふうに使われるべきものだったのだ。この鏡は、おれがシンジャーと闘ったときに期待したような効果、つまり相手の魔法を打ち消すどころか、反転したものをさらに何倍にもして跳ね返すことを目的として、つくられたのだと!」
カスは胸を張った。
「それがいつの時代か裏表逆向きにされたんだよ。おれは召喚魔法しか使えない。だからそれを撃ったわけなんだけど、それが逆位相となって、おれに反射したんだ。吸い込まれたとき、たしかに召喚魔法とは逆向きの魔法力を、感じたんだ。おれの体はいったん鏡に吸い込まれ、でも吐きだされた。つまりおれは自分で自分に逆召喚魔法を撃ちこんだことになったのではないかと」
「逆召喚? それは違うだろ。逆召喚というならおまえは今ごろあの勇者たちの世界に召喚されてるはずだ」
「いやいや」とカスは立てた指を左右に振って否定する。「おれが思うに召喚魔法は施術者と被術者がそれぞれ属する世界の相対関係があってこそ機能する。学校でも教えることだが、召喚魔法の本質は『ほんらいそれが存在すべき世界から存在すべきでない世界へ移動させる魔法』なんだ。逆召喚とは、それとは逆――つまり『ほんらいそれが存在すべきでない世界から存在すべき世界へと移動させる魔法』ということにならないか? 昨日おれに起きた現象はそういうことだ。おれはもともとこの世界の人間だから、元の世界に戻された。つまりこれも逆召喚といえるんじゃないかな……」
「んな馬鹿な! 詭弁だ! 屁理屈だ!」ミジョンはまくし立てた。
「まあまあ」とカスは同僚をなだめる。「その答えは、実際にやってみないと判らないよ」
「きさま……何か企んでるな?」
カスは不敵な笑いを同僚に向けた。
とはいえ、それを実際やってみるわけにもいかない。
もしカスの説が真実でも、ほんらい属するのがこの世界である者を対象にして行なったところでまったく意味がない。召喚しようが逆召喚しようが、鏡に吸い込まれて吐き出されるだけである。だから、実験対象は異世界からやってきた勇者でなければ仮説が証明できない。
◇
翌日、カスはセブルの執務室を訪れた。
いつものように扉をノックして言いたくもない台詞をドアの向こうの上司に伝える。
「失礼します」
「カスか。何用だね」
「頼まれていた書類を持ってきました」
「ああ……」
暇なときにやっておけと命令されていた書類をまとめて提出したのだが、どことなくセブルの顔色がよくないのに気づいた。
「どうかしましたか?」
「いや……おまえには関係のないことだ」
「そうですか、では失礼……」
「あ、いやちょっと待て」
踵を返しかけていたカスは立ち止まった。
「何か?」
「おまえもそろそろいい歳だ……」とセブルはなぜか同情的な目つきでカスを見つめてくる。
「何です気持ちの悪い。親戚のおっさんですか。見合い話ならおことわりです」
彼女がいなくなってもう一年以上も経つというのに、未だ傷心をひきずっているカスである。
「そうではない。おまえにだって、そろそろ昇進話があっていい頃だと思うわけだよ」
「傷心? おれがですか。おれは大丈夫ですよ」
「昇進したくないのかね」
「ですからおれのは傷心とかではなくですね……」
どうも会話がかみ合っていないことに二人とも気づく。
「つまり出世だ」
「出世? おれがですか?」
ここでカスはセブルの言葉を誤解していたことに初めて気づいたのだった。
「いや……そろそろそういう可能性だってある、という話に過ぎん」
「なんだ。仮定の話ですか。ぬか喜びさせて何が言いたいんです。目の前に餌をぶら下げるようなことして結局小言が言いたいだけですか」
「と、いうことは出世はしたいのだな」
「当たり前でしょう」
「だったら私の気持ちも少しは理解しておくれ。上に行けばいったなりの気苦労というものがつきまとうものなんだ。これでも相当キツイんだぞ。少しだけでいい、おまえにもそろそろそのへんを理解してほしいのだよ。ただ私をつき上げるだけでなく」
「そうはおっしゃいますが……」と面倒事の予感にウンザリする。「サッパリわかりませんな。そのへんとは、どのへんを解れというんです」
「予算が足りない」とセブルはついに本音を吐露した。
「上から何か言われたんですか」
「まあなあ……」
「また何か売ればいいじゃないですか」
「そうたびたびだと許可できないのだと。それに聖遺物を売ったところで焼け石に水だ」
「だからいつも言っとるでしょうが。勇者さまたちがわがままを言い過ぎるからですよ」
「まあそうなんだよな……だが勇者の費用を削るわけにはいかんのだ」
「どうしてです。一番手っ取り早い経費削減じゃないですか」
「先日も予算会議でその提案をしたのだが……大目玉をくらった」
カスは心の中だけでささやく。
――それは、上層部が勇者の遊興費の上前をはねているからだろう。
カスはそれをシンジャーから聞いた。彼女が自分の力で調べたのだという。彼女のことだからある程度根拠があるのだろう。だがそれも、今となっては嘘か真か。
「おれに一つ案があります」
セブルの顔がパッと輝く。
「なんだ言ってみろ」
「以前おれ言いましたね。逆召喚ができないものかと」
「ああ。しかし……」
「そのアテがあります」
「なんだって?」
「勇者を元の世界に返すんですよ」
「何寝ぼけたことを……」
「いまは仮説の段階で、もしかしたら違っているかもしれませんが……まあ違ってても影響はないでしょうが、一度やらせてみてもらえませんか」
「しかし……勇者さまが何と言うか」
カスにはしかし、心当たりの人物がいた。
「なんか燃え尽きた人の中に里心がついて向こうに残してきた彼女に会いたいとか言ってる人がいましたっけ……勇者本人の希望なら問題ないでしょう。聞いてみれば、ほかにも案外帰りたがっている人がいるかもしれませんよ」
「それが本当ならありがたい」とセブルはカスを拝むような顔つきになった。
「ダメ元ですがね」
「ダメ元でもいい。やってみろ」
「わかりました」