第7話 鏡の秘密
カスにはある程度予想済みのことだった。
自分が召喚庁の職員であることを告白したら、彼女は容赦などしないだろうと思っていた。
シンジャーの掌から先ほどと同じ雷撃が放たれる。
ぬかりはなかった。
カスは密かに隠し持っていたそれを胸の前で掲げた。
「鏡よ!」
魔法を跳ね返すという鏡。ほかならぬ目の前のシンジャーが本物だと太鼓判を押した鏡である。彼女は自分へ跳ね返される雷撃を果たして受け止めることができるだろうか。
轟音。
だがシンジャーの魔法はまるで鏡に吸いこまれるように消えていくだけで、跳ね返されない。
「ど、どうして?」
「ふふ。やはりまだそれを持っていたのね!」
「ああ……まあ当然そのくらい気づいていたろう」
「そうね」
間髪なく、連続でさらに数発の雷撃が襲ってくる。
耳が遠くなるほどの爆音。
だが魔法はいっこうに跳ね返されない。
「やはりおかしい……」
カスはおそるおそる鏡面を覗き込む。そこに映っていたのは自分の焦った顔だけである。光は反射するが、魔法は反射しない。
「なぜだ!」
宙に浮いたままのシンジャーが可可と嗤った。
「あははは! その鏡で私を斃すのは無理」
やはりシンジャーの術が何かはたらいて、鏡の効果を阻害しているのだ。
シンジャーはカスの表情を読んだかのように、
「その鏡は正しく機能している。それが正しい反応なのよ」
「そ、そんなはずは……」
「わからないの? 言ったでしょう。鏡面の物質組成が重要だと。その鏡は魔法をただしく反転させて返す鏡なの」
「何か……カラクリがあるのか?」
「いま言った通り。それ以外何もないわ」シンジャーは勝ち誇ったような顔で髪をかき上げた。「光の反射と魔法の反射は違うのよ。私の雷撃はまったくの逆位相となって、反射するそばから鏡の表面で魔法が対消滅しているの。だから一見何も起きていないように見えて、鏡面で魔法の消滅が起きているだけ」
「な……そうなのか……」
「だからその鏡では私を斃すことなんかできない。永遠にね。あはははっ!」
「しかし……」カスはその言葉を振り払うように言った。「そういうことなら、おまえもこの鏡を持つおれを斃すことはできないな。永遠に……」
しばらく睨み合いが続いた。
来るなら来いという気合でカスは中空のシンジャーを見つめている。
カスにはそれ以上の策などもうなかった。
もし彼女が何か鏡の回避策を仕掛けてくるようなら、おそらくはそれで簡単に決着がつくだろう。彼女にやられるのなら本望だった。潔くやられようと覚悟を決めていた。
だが、先に根負けをしたのはカスでなく彼女の方だった。
「私の負けよ……」
「え?」
驚いた顔でシンジャーを見上げる。
「あなたがその鏡を持っている限り私の持ちうるどんな強力な魔法を使っても私の勝ち目はない。このまま攻撃を続けたら、やがて魔法が尽きて空中に浮いてもいられなくなる。地面に落ちたらもう体で戦うしかない。そうなったら力の強いあなたのほうが勝つに決まっている。魔法の使えなくなった私なんて、ただの女だから」
彼女の態度があまりにもあっさりしすぎていて、カスは逆に戸惑ってしまった。
「ち、ちょっと待て……それでいきなり諦めてしまうのか? 拍子抜けもいいところだ」
「何度も言わせないで。私の負けよ」
彼女はすでに決意を固めたようだ。
「いや……敵にこう言うのも何だが……もっとなんとかあるだろう? おれを呪うとか、鏡をおれから無理矢理奪うとか、そこの捜査員の意識をのっとっておれを襲わせるとか」
「してほしいんですか」
「いや、そういうわけじゃないけど。おれは相打ちするくらいの覚悟だったのに……」
何だか変な駆け引きになってきたぞ、とカスは思った。
「おまえは、この鏡が欲しかったんじゃないのか?」
彼女は自分を嘲笑するようにフッと短い笑いを吐いた。
「信頼していたお兄さんに裏切られてしまったからね」
彼女の言葉がカスの胸に刺さった。
「そ、それは……」
それを言われるとカスには何も返す言葉がない。
「謝らなくたっていいわよ。どうせ私が復讐なんて最初から無理だったんです。もう諦めました。今日限り悪の魔導師シンジャーは廃業します」
「おいおい……」
なんだか拍子抜けしてしまった。
「私はひっそり田舎にでも引っ込んで暮らします。まあ、田舎暮らしもいいものですよ。これからは毎日海でも眺めながらのんびり歳をとることにします」
その言い草にカスは呆れかえった。
「ずいぶん物分かりがいい悪の魔導師だな。あれほど召喚庁を相手に息巻いていたのに。本当におまえはシンジャーなのか?」
カスはまだ信じられず、相手を煽るようなことを重ねて言った。
「生まれ変わったら性格だって変わります」
「そ、そういうもんなの?」
「そういうものです」
「なあ……」とカスはまるで意気消沈した仲間をなだめるような調子で、「おれが言うのも変だが……とにかくまあ元気出せよ」などと馬鹿な台詞を吐いた。
「何言ってるんですか召喚庁が」
たしかにそうだ。おれはどうして悪の魔導師を励まさねばいけないのか。
「ではさようなら」
「あっ!」
シンジャーが空中に弧を描くと、先ほど彼女が広場に現れたときのような空間の滲みが発生し、夜の漆黒より黒い闇が口をあける。彼女はスルリとその中へ身を隠した。
「お、おれ、あの酒場で待ってるから! また来いよ!」
カスはなぜかそう叫んでいた。
もうあの酒場にシンジャーがのこのこ現れるはずなどないというのに。
そして彼女の魔法の痕跡も、すべては闇に溶けるように消えてしまった。
◇
「うう……」
うめき声の主は、彼女の雷撃にやられた捜査員たちだった。カスはいそいで彼らのもとへ駆け寄り、介抱した。
「だ、大丈夫ですか」
抱き起こすと捜査員の一人は大きく息を吐いて、また吸った。
「あ、ああ……」
どうやら大丈夫なようだ。
「頭がクラクラする……」
隣で倒れていた男もやがて息を吹き返した。
「シ、シンジャーは……」と聞くので、
「消えていなくなりました」と答える。「彼女は勇者たちと召喚庁を相手に復讐を企てていました。召喚庁の壊滅をもくろんでいたんです。しかし、それはもう断念するそうですよ」
「ほ、本当か……」
◇
シンジャーが消えて何週間か過ぎた。
シンジャーの呪いによって瀕死状態だった勇者ケータスは奇跡的な回復をとげ、死の呪いさえも克服する勇者伝説をあらたに広めることとなった。
そしてカスはきょうも相変わらず酒場通いを続けていた。
無駄だと知りながら、酒場で彼女をずっと待っているが、いまだに彼女が訪れる気配はない。
それはそうだ。自分が召喚庁の人間であることを隠していたカスである。何をどう取り繕おうが、彼女に対して裏切り行為を働いたことは否定できない。それでもカスは期待を持ち続けながらこの酒場で彼女を待たずにはいられなかったのである。
セブルと上層部は悪の魔導師シンジャーを野放しにしておいては世のためにならぬといって、いまだに血眼になって探している。しかし彼女の足取りはおろか、手がかりひとつつかめぬまま、日々が過ぎていた。
彼女のいない日々は寂しいものだった。
いつしかカスの心の中は彼女でいっぱいだった。
いまだに解せないのはあの引き際だ。
なぜあんなにもあっさり彼女は引き下がったのか。
それからしばらくのち、レンネールの地竜が何者かによって討伐されたという報告があった。
「彼女に違いない!」
そうカスは確信した。
そうしてカスは、なんとなく納得をした。
どうして彼女が地竜を斃したのか。
それはまったく身勝手なひとつの想像にすぎなかったが、腑に落ちないでもなかった。もう敵意などないことをあらためてカスに伝えるためだったのではないだろうか。
根拠などない。ただそう思ったのである。
いや。
実際、彼女はすべて最初から諦めていた気さえする。
復讐さえも、勇者の遊興っぷりが気に食わぬと言ったカスのためだったのかもしれぬ、と。
草地での戦いも、捜査員たちの手前わざと敵対しているように見せかけて。
自分はカスとは結ばれぬものと諦めて、自ら身を引いたのではないのか、と。
「いやいや、そんなわけあるか!」
自ら妄想を掻き立てるだけ掻き立てて、慌てて振り払うのだった。