第2話 酒場の女
カスは今年で三十五歳になるが、いまだ独身、意中の相手さえもいない。もう何年もの間、女性にときめいたことがない。いまの職場にはその手の縁が全くないのだ。女性はいるが、カスの眼鏡にかなう女性は皆無――いや、彼を相手にしてくれる女性など、ただの一人も存在しない、と言ったほうが正しかろう。
職能、技能は熟練者、ベテランといえば響きはよいが単なる古参だ。新人からは疎まれ同僚はどんどん偉くなって上司になる。今の上司セブルも同期の入庁者だった。
ファルファーダの召喚師という職業は、特殊な職のわりになぜかステータスが低い。召喚の儀式を全体的に統括する祭儀師や上級職の権力はべらぼうに高いのだが、召喚師は彼らにしかできない技能を持ちながら雑用なども当たり前に割り振られる。それが当たり前と言えばそれまでで、疑問の余地もないのだが、おそらくそれだけでなく、原因のほとんどはカスの資質によるものだ。
「おれはこのまま召喚師として勇者のお世話をして一生を終えるのだろうなあ……」
最近の楽しみと言えば一人で飲みに行くくらいしかない。
なじみの酒場にいりびたるのが頻繁になっている。
いけないと思いつつ、きょうも酒場に足が向く。
扉を開けると、
「ああ、カスさんいらっしゃい」
カウンターの中の亭主が出迎える。
「どうも」
カスはいつものカウンターに座り、いつもの酒を注文した。
亭主が酒を作っている間にふと見ると、カウンターの隅で飲むひとりの女がいる。
年のころは三十そこそこか。
こんな場末の安酒場にはそぐわない不思議な感じのする女性で、何故か目を奪われた。
この店には通い詰めているが、初めて見る顔だった。
どことなくただ者ではない雰囲気。
カスも特殊能力者のはしくれである。
そういった匂いに敏感であってもおかしくない。
まさかこんな女性には相手にされまいと思うが――。
しばらく黙って飲んでいたが、なんとなくその女性もカスをちらちらと意識しているように思えたので、勇気を出して話しかけてみた。
「こんばんわ。はじめてお会いしますね」
女はこんどはハッキリとカスに目を合わせたが、声を発することもなくただ会釈を返す。それはそうだろう。こんな状況で唐突に話しかけたら下心見え見えと思われるに決まっている。しかし女はしばらく逡巡したのち、意外にもきちんと受け応えしてくれた。
「……このお店の常連のかたですか?」
「ええ。このところずっと入り浸りでして……ハハ」
それから二、三言交わすうち、なんとなくぎこちなさが抜けてきて、ついに自然と席を詰めて女の隣へ移動し、話しを続けるようになった。
「久しぶりにお酒が飲みたくなって、ふらりと入ってみたのですが……」
「そうでしたか」
思った通り、初見の客だった。
女はこの店が初めてであるばかりか、この界隈にもまったく不案内だという。
長い間よその土地にいたらしいが、つい先日ひとりでこの町にやってきたらしい。
なんとなく気になって、なぜこんなところへやってきたのかと遠回しに聞いてはみたが、その理由がどうもはっきりしない。人にはいろいろ事情があるものだ。立ち入ったことを聞くのも失礼かと思い、当たり障りのない話に切り替えることにした。
それから何杯か飲み交わすうちに打ち解けて、酔いも回ってきた。
女もそうとう酔ってきたとみえ、ろれつの回らなくなった舌足らずな口調で、
「お兄さん!」
ドンとテーブルを叩く。
「は、はい。なんです?」
そういえばまだ互いに名乗っていなかったとあらためて思った。
「お兄さん口は堅いれすか」
「口は……堅いと思いますが。自慢じゃないけど人から聞いた秘密は今まで一度もよそへ漏らしたことがありません。そのへんは信用してもらっていいかと。まあ、自分の話なんか聞いてくれる人がまわりにいないだけってのもありますけどね……」
酔ったいきおいでつい寂しい本音を吐露してしまった。
「そうれすか!」と女は声をひそめて「あらたには見ろころがある。なら、とっておきの私の秘密を教えてあげますれす」
と身を乗り出してきた。
女は口元をカスの耳によせ、声をひそめて、
「むかしこの国で暴れまくった魔導師シンジャー、知ってますか?」
「も、もちろんです」
また物騒な名が出たものである。
「ち、ちょっと席を移動しませんか」
亭主にことわって、人のいない隅の方へ女を引っ張っていった。
「なんれすか……ヒック」
女はいぶかしく思ったのかカスに抗議したが、「あんなところでその名前を大っぴらに出しちゃあいけませんよ。たとえ冗談でもね」とたしなめた。
悪の魔導師シンジャーとは、カスでも知っている超有名な悪徳魔導師の男。五十年ほど前、ファルファーダに忽然と現れて暴れまくった男である。祈祷によって天地より災厄を呼び、また王室に取り入って宮廷魔導師に昇りつめ、陰でこの国を疲弊させ滅ぼそうと謀った極悪人だ。挙句の果てに、いにしえの魔王軍を呼び覚まし、北の砦に立てこもって反乱をくわだて、最期は召喚庁が喚んだ勇者ミスティーによって斃されたという。
席を移ると、女は気にもとめず再び話し始めた。
「そのシンジャーは生前、自分が死んで十七年後、この世にふたたび生まれ変わるような術を自分自身にかけておいたのれす」
なんだ、よくあるトンデモ話か、と思わず笑みがこぼれた。
――いるよね。こういう話題が好きな人。
だから適当に話を合わせて、
「大変だ。それが本当ならもうすでに生まれ変わっているはずですね。あの魔導師が勇者ミスティーに斃されたのは五十年も前ですから」
たいして大変だとも思って言っていないが、大仰に身振りを交えながら受けこたえる。
「フッ」女が嗤う。「いい所に気づくじゃあないれすか」
「ということは、すでにこの国のどこかにあのシンジャーが」
「そうれす……」女はいくぶん自慢のこもったような声を出して、「お兄さん歳はおいくつれすか」
「さ、三十五ですが」
「それすか、私はことしで三十三れす」
「それが何か?」
「フフフ、簡単な算数れすよ」
三十三――思ったより年だった……。
などと考えながら、指を折って真面目に考えてしまっている。
シンジャーが滅びたのが五十年前。
十七年後に復活する術。
彼女の年齢は三十三。
「召喚庁では召喚者のことを転生者とも呼ぶらしーけろ」女は誇らしげに胸を張って、「私こそが本当の意味で『転生者』というわけれす!」
「う、うそでしょ……」
酔った女の話である。いくらなんでも信じがたい。
「三十三年間、とある場所でひっそりと生きてきたれすが……そろそろ動き出すころあいだと思って景気づけに一杯やろうとこの店にやって来たのれす」
ここは話を合わせてやるべきだろう。しかしながらへースゴイなんて驚いたフリをしてみたところで何の面白みもない。
「この世に魔法は多々あれど――生まれ変わりなんてきいたことがありません。俄には信じがたいですよ。というかあなた女性じゃないですか。かの魔導師は男でしょ」
かわりにそう言って反論すると、
「女らからといって前世も女とは限らないれしょう。ヒック」
「そういうものなんですか?」
「そういうもの! まあ信じなくてもいいれすが」女は杯をグイっとあおる。「べつに信じろとか信じてくれとか言っているわけじゃないれすし」
女はぐでーと腕を枕にテーブルに突っ伏した。
「私を斃したあのミスティーに復讐してやりたかったけど……奴はとっくに死んだみたいれすね」
「ええ。エイス町に墓がありますね」
「他愛もない……」
シンジャーを名乗る女はそれからしばらく訳の分からぬくだをまいていたが、突然がばっと起き上がって、
「私はこうして復活した! そしてハタと気づいたというわけ!」
「な、何にですか」
「すぐに寿命が尽きてしまう勇者なんかもうろうれもいい。根本の原因は召喚庁ら! セゴリエが勇者さえ召喚しなければよかたのらと!」
「そ、そうですね……でもちょっと落ち着いて……」
「私の敵は召喚師ら! セゴリエをぶっ潰~す!」
「なんですって……」
「何よ何か文句ありますかお兄さん」
「そ、それは思いとどまったほうが……」
「何故」
ジロリと視線を向けられる。
「何故……と言われてみると反対する理由はありませんが。あそこでは最近もいろいろ強い人をつぎつぎ喚んでるみたいですからね。相当手ごわいかもです」
「そか! なら手始めに今までセゴリエが喚んだ勇者ろもを斃してまわるとしましょう! 肩慣らし肩慣らし」
「そ、それがいいと思います」
カスは思う。自分の属するセゴリエを潰すとか言われたらたとえ冗談でもちょっと躊躇するが、あのぐうたら勇者たちについてはあまりその感情はない。この女に勇者が斃せるならとっとと斃されてほしいとさえ思う。
「お兄さんやけに詳しいじゃあないれすか」
「ええ……まあ」
しかしここで自分の職業について言及しないほうがいいだろう。自分がそのセゴリエの召喚師だなんて言ったら、それこそ彼女がブチ切れてしまいかねない。
「おれも勇者さまたちの遊興っぷりはちょっとどうかと思っていたところでしてね」
「それすか! 私たち馬が合いますね!」
悪の魔導師(自称)から馬が合うと言われてしまった……。