3 馬車の中で
夜会帰りの馬車内の空気は主にビリーが原因で重かった。
男と別れた後、平常心を取り戻したようにいつも通りキャロリンと帰途についたものの、乗り込んだフェルド家の馬車が動き出すや腕を組み、ビリーは渋い顔をしている。
キャロリンはそんな幼なじみに自分から話しかけることができなかった。
尋ねたいことはいくつもあった。
それは無論キャロリンに対して名乗りもしなかったあの男のこと。姓は不明だが、名前はバート。ビリーと社交辞令なしに会話ができる関係だということは見ていてわかった。
あの礼儀のなさと、身丈の合わない借り物で平然と社交の場に出るところから考えると、貴族家の出身ではなさそうに感じられる。ビリーの交際相手のことも知っていそうな雰囲気だったから、平民出身の騎士団の同僚なのだろうか。それにしてはビリーに比べて線が細かったし、あまり強そうには見えなかった。身丈に合わない大きめの服装が体型を隠していたのだろうか。
(あの人のエスコート、ねえ)
キャロリンはあの無遠慮で礼儀のなかった男の姿を思い出す。
着飾るつもりのあまりないキャロリンと、身なりを整える意欲のあまり感じられなかった男は、並べば案外お似合いかもしれない。
今シーズンにビリーの助力を求めたのは、他に頼れる相手がいなかったからだけなのだから。
キャロリンの父、グリードがこの世を去ったのは二年前の話だ。領地の視察中の事故だった。
父に加えて同じ馬車に乗っていた執事と御者まで亡くした痛ましい出来事だった。
子爵もまだ若く、後継と定めた息子――キャロリンの弟クリフは当時三歳。弟が生まれるまでは家付き娘として教育される予定であったキャロリンは、本格的なそれが始まる前に弟を得たためにきちんと学ぶことなく、領地の内情をほとんど知らない状態。
子爵夫人たる母ケイティは商家の出であり、嫁いで以降子爵を支えていたものの、夫と共に亡くなった老執事の方がよほど家の事情に通じていた。
パウゲン子爵家はひどく困窮しているわけではないが、残念ながら裕福と言うほどでもない家柄だった。
祖父の代に水害にあったため困窮していたらしいが、息子の妻に裕福な商家の娘を迎えることでどうにか危機を脱したのだそうだ。
そういう家だから、急に主人を亡くした子爵家は再びの危機に襲われたようなものだった。
老齢の執事の跡を継ぐべく彼の息子にある程度引継ぎをされていなければ、この二年のうちにどうにかなっていたかもしれない。
キャロリンも母を支えて一生懸命に過ごす日々だった。
しかし今年になって、結婚適齢期にさしかかった娘の行き遅れを心配した母が急に将来の伴侶を探すようになどと言い出したのだ。
弟が成長するまでは家を出るのが不安だというキャロリンと、娘の先行きを心配する母が折り合ったのが、今シーズンだけでも社交に精を出すことだった。
やる気のないキャロリンのお目付け役に抜擢されたのが、エスコート役でもあるビリーだった。
もっと近しい親族があればよかったのだが、パウゲン家の親戚周りにめぼしい人間はいなかった。
本来ならば一番近しいのは父の弟だが、キャロリンの叔父は実家のすねをかじって生きていて、自ら働くということをしない男だった。
多少なりとも使える人間であれば、父の代役として何かを任せられたのだろうが、子爵家の当主であったキャロリンの父グリードが存命の頃から兄を支えるべく働くことはなかったらしい。弟が全く役に立たないので、領主ながら父は自ら領内を飛び回るしかなかったくらいなのだから。
叔父はただ祖父が亡くなった際に与えられた屋敷で自堕落に生活し、金の無心をする時にしか顔を出さないありさまだった。
なのに自分の兄の葬儀にやってきて「これで子爵家は私のものだ」などと小躍りせんばかりに言ったような男だったのだから救われない。
真っ当なら幼い次期子爵の後見役にでもなれただろうが、貴族の血が流れていることだけを鼻にかけ、爵位も持たないのにろくに働かない怠惰な男がなれるはずもない。
兄の葬儀の場でのあまりの良識のない言動を目にした派閥の貴族たちが醜聞を避けるべく排除に動いてくれたおかげで今では縁を切ることができたことだけが幸いだった。
母方は爵位のない商家なので、年回りの合う従兄がいて彼らとの関係が良好でもエスコート役としてはやや軽い。
祖母の代になると出身地が遠く、派閥違いの家からの嫁入りだったこともあり、今ではあまり付き合いがない。昨年は喪が明けた頃にキャロリンのデビュタントにだけ助力を願ったが、それ以上に助力を願うのは難しかった。
だからこそ遠縁ではあるが領地が近いことや王都におけるタウンハウスも近所であることもあって幼い頃からキャロリンと交流があり、年齢は離れているものの独身で騎士爵を得て独り立ちしているビリーしかエスコートの適任が思いつかなかったのだ。
親しくしていたといっても、キャロリンがまだ十にもならなかった頃の話だ。ビリーはキャロリンの九つも上だから、少年――あるいは青年に幼子の相手は大変だったろうと思う。
それでも親交があったのはあの頃のキャロリンにはまだ弟がいなかったから、両親としては継ぐべき爵位のないビリーをキャロリンの婿にする腹案でもあったのかもしれない。
それが具体的な話になっていなかったのは、やはり年が離れているからだろうか。
他にもいくらか婿候補であったと思われる男児のいる家と交流があったので、父としては判断に迷っていたのかもしれない。
そうこうしているうちにビリーは身を立てるために騎士を志して家を出て行ったし、キャロリンには弟ができて婿を取る必要などなくなったのだけど。
幼い頃こそ親しくしていたけれど、今ではほとんどビリーのことを知らないのだよなあとキャロリンは兄のように思っている幼馴染の横顔をこっそりと見つめる。
(昔も、知っているような気がするだけで知っていなかったのかも)
精悍な横顔にそんなことに気づいて、ついため息を漏らした。
キャロリンの前でのビリーは、かつて優しい兄のようであり、いちおう今はパートナーを気遣う紳士らしさを見せてくれていた。
私的な場では崩した言葉を使うことだってあったが、あんなに感情的にまくしたてるビリーなんて今日まで見たことがなかった。
あの男の前での今夜のビリーは、対等な相手に本音で向かっていたのではないか。気付いてしまった事実が心苦しい。
恋人がいるのにキャロリンのエスコート役を買って出てくれたのも、同情心が大半ではないだろうか。
ビリーの同僚には有望な騎士がたくさんいるはずだからもしかすると紹介してもらえるのではと母のケイティはこっそり期待を寄せていた。
父が亡き今、子爵家には他家への伝手がないも同然。自分ではキャロリンに縁談を持ってくることは難しいからと、母は一縷の望みをかけている。
弟のためにも家に残りたいと意向を告げたキャロリンに同情的だったビリーは誰かを紹介するわけでもなく、母の手前夜会に出席した実績だけを積み上げてくれていた。
一応、少しは社交に精を出した方がいいんじゃないかと年長者らしく苦言を呈しながらも、壁の花となりたいキャロリンを離れたところで見守り続けてくれていたのだからありがたい。
その同情が、あの男に誤解を植え付けたのだとしたら申し訳なかった。
顔には笑みを浮かべて愛想がよさそうな男だったが、思い返せば最初に声をかけてきた感じは友好的ではなかった。ほんの数回のエスコートを「連れ回す」などと言ったのだから。
ビリーから事情を聞いていたようなのにわざとそんな声をかけてきたのは何故だろう。
(牽制、かしら)
例えば、あの男がビリーの恋人に横恋慕しているとか。
二人はお似合いだから身を引いていたのに、ぽっと出の幼馴染がビリーの周りをうろつき始めたから気に入らないという推測はどうだ。
継ぐべき家は持たないビリーだが、一代限りの騎士爵であっても貴族の一部。キャロリンのような拠り所もあやうい娘にとって彼は十分魅力的な立場の持ち主だから、ビリーを狙っているとでも思われたのかもしれない。
だからこそ急にあんな提案をしてきたのだと考えたらしっくりする。
常識的な様々な段取りを飛ばしたのはどうかと思うが、お似合いの二人に亀裂を入れたくなかったからこその暴走だとすれば許せるような気もした。
「キャロ」
難しい顔をして黙り込んでいたビリーが不意に声を出した。
「……なぁに、ビリーお兄様」
キャロリンは居住まいを正してそれに応じる。
「俺のせいで面倒な奴に目を付けられて、悪かったな」
「元をただせば私のせいなのだから、お兄様が謝るようなことじゃないわ」
「いや――俺がうまく立ち回れば、回避できたことだ」
ビリーはため息を漏らした。
「バートは悪い奴というわけでは決してないんだが。浮世離れしていて暴走しがちでな……」
「それは、お兄様を思えばこそのことじゃないかしら」
苦々しく黙り込むビリーにキャロリンはあえてにこやかに微笑んだ。
「私をエスコートすることでお兄様に不名誉な噂が出るのを避けたかったとか、そういうことじゃないかなと思ったのだけど」
キャロリンの推測を聞いたビリーは大げさに首を左右に振る。
「不名誉な噂? そんなものが出るほど俺たちは目立ってもないし、いつも離れて過ごしてるじゃないか」
ハッとビリーは大きく息を吐いて、
「おかげで、今日はすぐに傍に戻れなくて悪かった」
一転、神妙に頭を下げる。
「ううん。せっかく夜会に出たのだから、ビリーお兄様だって知り合いと出会ったのならお話しすることもあるでしょう」
「うん……まあ、それはそうだが……うん」
「ところであの方、どういった方か私にはわかりませんけど」
「当然あいつはちゃんと名乗ってないんだろうって知ってた。知らなくていいと思うが」
そういうわけにいかないのではと思う反面、お互い名乗りあってないのだから知らない人間だということにしておいた方がいいという気もしてきて、キャロリンは「そうね」とうなずく。
「でもあの方、なんだかとても強引で自由な方のような気がするわ」
「君が人を見る目があるようで安心したよ」
「また今度とおっしゃっていたから、日を改めてやってきたりするのではないかしら」
「そうだな」
ビリーはどこまでも渋い顔で、嫌々首肯する。
「一応、どういう方なのか聞いておいていいかしら」
キャロリンの問いかけに、すぐには答えが返らない。ビリーは何かをのどに詰めたかのような表情で、ギリと奥歯を噛み締めながらそっと目をそらす。
「うーん、あいつは、俺にとっては騎士団の後輩でな……」
「やはりそうなのですか」
「俺が勝手に君に身元を明かすのは差しさわりがあるような、建国当初からの由緒正しい家柄の出身で」
「えっ、あれで? もしかすると平民の出かしらと思ったのだけど」
思わず問いかけると、ビリーは苦々しい顔で、やたらと重々しくうなずいた。
「そう、あれでもな。あんなんだから、余計に口にしかねるような大したご身分なんだ。だから、あいつがキャロのエスコートするなんて正気の沙汰じゃない」
驚いて「そんなに?」と問いかけるキャロリンに、「そんなにだよ」とビリー。
「――そんなにお偉い方に対する態度には見えなかったけど、お兄様大丈夫なの?」
「非公式の場での会話をやり玉に挙げるような奴じゃないさ。言ったろ、あいつは俺の後輩なんだ。あいつが俺より弱いうちは、先輩風を吹かせてもいいことになっている」
そういう問題だろうかとキャロリンは思ったが、自信満々のビリーに疑問を差し挟むほどの勇気はなかった。
彼がこの場で気楽に素性を明かすことのできない由緒正しい家柄だという男に対してあまりにぞんざいな態度だったくらいだから、騎士団内では身分よりも実力の影響が大きいのだろうと予想することで疑問を抑え込む。
「できるだけ、余計な手出しをしないように釘は刺すつもりだが……」
ビリーの苦々しい口調から予想がついていたが、釘を刺されてもめげなかった男がキャロリンの前に再び姿を現したのは、夜会の日からわずか二日後のことだった。