31 現実はこんなもの
「あり、がとう……ございます」
両肩に添えられた手に支えられたキャロリンは、どうにかお礼の言葉を絞り出した。
「大丈夫?」
肩越しに振り返ったところには、心配そうなバートの顔。足には力が入っていないし、相手はこれまでになく近距離で覗き込んできている。
大丈夫かと問われて素直にうなずける心境ではないというのが真実だけど、キャロリンはゆっくりとうなずくことを返事にする。
妙にどぎまぎしている。
「そう? それならよかった」
言いながらも後ろから覗き込むようにしているバートは真相を探っているかのようにじっと自分を見つめるので、キャロリンはどうしてくれようかと思った。
足に力を入れ一歩踏み出して、彼の支えから離れることでなんとか視線を外すことに成功する。胸を押さえたのは何となく、鼓動を鎮めたかったからだ。
それから深呼吸をして、彼を振り返る。
「助かりました。さすが騎士様ですね」
倒れる前に助けてもらえるなんて思えなかったとキャロリンが口にすると、これでも騎士位は得ているからねとバートは口角を上げる。
細身で見た目からも全然強そうには見えないしビリーの評価もいまいちだけど、支えてくれたバートの手は王子様らしからぬ堅さを持っていた。きちんと鍛えているからだろう。
「バート様が騎士になられたのは」
改めて、キャロリンはまじまじとバートの姿を見ながら口を開いた。
突出するような特徴が全くない、街歩きに備えたこざっぱりとした生成りのシャツにパンツ。
今日は寝癖を付けてこなかった髪はくすんだ金色をしていて、瞳は青い。常時笑顔で愛嬌のある人だからわかりにくいけれど、顔立ちは整っている。
いつだか見た仕事中の幼なじみの姿を思い起こしながら、彼にそのイメージを重ねてみる。
王子という肩書がなくても、きちんと装った騎士というだけで彼はモテるのではないかなとキャロリンは思った。
言いかけた自分の言葉の続きを待つバートに、
「お姉様が騎士様に嫁がれたからですか?」
キャロリンは思い付きで問いかける。
面白そうに眉根を上げて、彼がまず口にしたのはやっぱりというべきか「否定はできないな」という言葉だった。
「否定しないのかよ……ッ。キャロをお前の姉君の変わりにするつもりじゃないだろうな」
苛立った様子で口を挟むビリーをちらりと見て、バートは何言ってんのと呟いた。それとほとんど同時にステファニーが乱暴に恋人の口を物理的に封じにかかった。
「だから不敬が過ぎるぞ、ビリー。口出しを許されているといっても、人の恋路に口を出す愚かさも知らないわけではないだろう」
諭されて諦めた様子のビリーが両手を上げる。ステファニーはうむとうなずいて「続きはお二人で」と先を促した。
苦笑交じりに彼女に感謝の言葉を告げ、バートは再びキャロリンに向き直ってきた。
「誤解のないように言い添えておくと、俺は姉上のことは大好きだけど、別に恋愛感情があるわけじゃないからね」
「ああ、ええと……はい、そうですね」
何と答えていいものかわからないキャロリンの相槌が不満だったのか、バートは続けて様々なことをまくしたてた。
それは。
国で現在重婚を許されているのが国王ただ一人である以上前例を遡るのは大変だけど、異母兄弟間の婚姻は禁じられていないこと。
とはいえ、姉に対する親愛の情は恋愛のそれではないと思う――いやもしかしたら物心ついた後に初めて出会った姉に初恋的な何かを多少は感じたかもしれないけれど……でも、姉だし年も離れているし、ちょっとした憧れで理想の相手になるのは仕方ないよね、みたいなことだった。
前例を遡り異母兄弟間の婚姻の可能性を探った気配があるだけに語るに落ちているのではと感じなくもないが、あえて指摘するほどのことではないだろう。
王子様との恋物語をかつて妄想していた自分だって、同類だろう。
それに本人が屈託なく甥姪を可愛がっている様子もあるのだからすでに吹っ切れたことと思われる。
「俺が騎士になったのは、現実的な側面も大きいんだ」
しかしなんと言えばいいかわからないままキャロリンが黙り込んでいると、彼女が納得していないものと感じたのか、バートはさらに続けた。
「僕らの近隣諸国はおかげさまで仲良くやってるし、長らく戦争とは縁がないから文官に比べて武官の力が弱まっている。王族が一人所属することで多少は力も強まるでしょ?」
そういうものかもしれないとキャロリンは素直にこくりとうなずいた。
「それに、第三王子とはいえ王族は、有事の際は旗印にもなれるからね」
特別な覚悟もないかのように、あっさりとバートは続けた。
戦争なんてものに何十年も縁がない国の人間だからこその気楽な物言いにも聞こえた。
ツァルトの北方に位置し広大な国土を担保として大きな力を持っているのは王妃殿下の母国である。その大国が婚姻によるつながりで近隣諸国を緩やかにまとめあげているので、ツァルト国は今のところ平穏ではある。
それでも文官に比べて立場を弱くしているとはいえ、騎士団を持ち武力を保とうとしているのは平和が恒久のものではないことを逆説的に証明している。
現在は他国との争いではなく、もっぱら自国内の問題に駆り出されているのだろうけれど。
「まあ、有事が起きそうな気配は今は全くないから、臣に下った後に元第三王子って肩書がいざって時にどれくらい威力を発揮するかわからないけど」
のほほんとバートは続けた。
「バート様の肩書が威力を発する未来なんて、なければいいですね」
「そうだね。今のところ、王子が自ら出張るような案件には巡り合ったことがないから、今後もないものと思いたいけど」
キャロリンはうなずいた。
王族が関わらなければならないほどの事態がこれまで起きなかったのならば、それは幸いなことだった。今後もなければない方がいいだろう。
「有事の際には前線に出ることになるであろう男に嫁ぐのは不安なこともあるかもしれないけど、政治をする兄上たちは俺よりもよほど優秀なのでそんなことが起きないよう注力するはず。だから、心配はいらないと思う」
他力本願にも聞こえる発言はむしろ堂々としていた。
「義兄のように婚姻と同時に騎士位を返上して生涯君だけの騎士であり続けると誓う方が本当は格好はつくんだろうけど」
バートは眉尻を下げてそれはできない、と続けた。
「これまで王族としてそれなりの恩恵を受けてきたから、臣に下ったとしても多少の貢献はしていきたい。だからしばらく騎士は続けるものと思ってほしい」
有事の際は旗印になるのだと言った時よりもよほど覚悟の決まった顔が決意の言葉を述べ。
「なので、領地を頂いたところで領地経営に専念もできないから、現在母君と一緒に子爵領を守っている君との出会いはやっぱり運命的だと思った。いずれ妻として支えてくれると嬉しい」
そのまま真顔で言葉を紡ぐ。
「婚姻と同時に爵位は譲られるけれど、ストラード領は今は優秀な代理人が立てられているので、今すぐにどうこうという話ではないから安心してほしい。代理人はそろそろ引退したがっているけど、君の弟君がいくらか成長するまでの数年はこれまで通り続けてくれると思うから」
将来の話に舵を切ったバートはあくまで真剣な顔だ。
キャロリンはあわあわとした。笑顔だと愛嬌が先に立って気にもしなかったが、真顔のバートは美形が過ぎる。免疫のない娘にはたまったもんじゃない。
それに、真顔で着々と将来の構想を垂れ流しているのもどうなのだ。
彼が素性を明かしてくれた暁には、大いに前向きに今後を考えようという心づもりはキャロリンにもあった。そして、その今後はバートがつらつらと並べ立てるほど具体的ではなく、ふわっとしていた。
少しばかり立場の違いがあっても、人として好ましいバートが支えてくれるなら何とかなるかなと。
彼は家族にキャロリンのことを好意的に告げてくれているようであったから、その点も安心していた。
将来構想のうち「ご実家のことを考えるなら、君が一時的にでも子爵位を継いでくれれば愛する妻を後見してパウゲン家を盛り立てることも不可能ではない」などと言い出した時、そういえば、自分が何かを憂うことがないようにするためバートが動いているというようなことを以前幼なじみが言っていたと、キャロリンは不意に思い出した。
妙に具体的な幾通りものアイデアを聞くに、実際に考えうる限り様々な対策を練っていそうだった。
それは、下手をすると断りそうな言動をしていたキャロリンを翻意させるためなのだろうか?
それにしては、悪手に感じられる。ありていに言えば、ドン引きものの言動だ。
こちらはまだ求婚に頷いてもいない。
最大限の利益供給を餌に頷かせる気満々、囲い込む気合ばかりを感じる。
もっとこう、他にもうちょっと、何かないのだろうか。
可愛いとも言ってもらえたり、理想だとも告げられた。バートからの好意は十分に感じる。
それらは地味でパッとしない自分には過分なほどの言葉ではあったけれど。
他に、何か。
キャロリンが彼の兄弟をモデルとした恋物語を好んでいると知っているのだから、乙女が心をときめかせるような言葉を紡ぐことはできないものだろうか?
実際口にされたら、赤面して動揺するのがせいぜいであると思い至ると、現実を素直に受け入れるのが一番だとも思うが。
そうだ、恋物語の主役のモデルであり乙女のあこがれにたる求婚劇を演じたはずの兄たちのことを、恋愛下手であるようにバート本人も以前言っていたではないか。
それはつまり、現実はこんなもの、なのだろう。
受け入れるとなんだか笑いたくなってしまう。
「バート様」
キャロリンは、意を決した。
上手いやり方ではないように思えたけれど、気持ちは十分伝わった。
彼女は静かに物好きな求婚者に呼びかける。
「求婚、ありがたくお受けしたいと思います」
平穏を望むのならば、雲の上の王族の求婚に子爵家の娘が応じるべきではないとは思う。
だけど様々な障害への対処をあらかじめ考えているバートを前にして、不安を並べ立てる必要はなさそうだった。
仮に今後想像しえない障害が目の前に立ちふさがったとしても、何とかしてくれそうな情熱も感じる。
「ほんとっ?」
途端にバートは喜色満面となり、あっという間に見慣れた愛嬌を見せた。
ぐっと顔を寄せてくる彼に、キャロリンはうなずいて見せる。
「バート様が口にするのをためらわれていただけあって、家格の差はかなり恐ろしく思えますけど」
でもと言葉を継ぎながらも、彼女はどう続けるべきか少し迷った。
バート様に守っていただけると思った、それが事実に沿った言葉ではあったけれど、そのままを口にするのは躊躇われたからだ。
彼は騎士だから、懐に入れた人間を守るのは本意かもしれないけれど、それだけでは嫌だった。
「バート様も、私をお支えくださるのでしょうから、堂々とありたいと思います。微力ながら、私も貴方をお支え致しますから」
先ほどバートが口にした言葉を思い出し引用して口にした瞬間、しっくりとする。確信に似たものを感じて、キャロリンは胸を張った。
うん、うんとバートはうなずいて、感極まったようにもちろんと叫びながらキャロリンに抱き着いてきて――そして。
「正式に! 婚約するまで節度を守ろうな!」
その直後に割って入ったビリーによって引き離されることになった。




