30 かつて憧れた恋物語の
それにしたってそもそも婚姻する気も爵位を継ぐ気もなかったかもしれない人が、その主張を曲げて自分なんぞに求婚してくれた事実をどう飲み込んでいいのか、キャロリンにはさっぱりわからなかった。
いずれ臣に下るとしても現在は王族の一員である王子の伴侶の座は、本人が以前言った通りに同情などで簡単に与えられるような軽いものではない。
そう。軽いものではないというのに、キャロリンにはそれが簡単に与えられそうになっているとしか思えなかった。
「ほら、君は王子様との恋物語を夢想したことがあるって言ってたでしょう」
長く続いた沈黙が耐え切れなくなったのか、バートは唐突に口を開くととんでもないことを言い出した。
途端にキャロリンは弾けるように後ずさりして、顔を赤くする羽目になった。
「ちょっ、ま、待ってください、それは!」
キャロリンは大いに慌てた。両手を挙げて続く言葉を制しながら、どうすればいいのかさっぱりわからなくて途方に暮れそうになる。
彼に向けて確かにそう口にしたことがあると、思い出してしまった。
誰もいなかったら大いに叫んでその羞恥を発散できただろうに、目の前には幼い少女が夢を見た王子様当人がいて、その背後にはかつて幼い少女の夢物語を呆れた様子もなく聞いてくれた幼なじみがいる。
幼なじみは何も覚えていませんという顔で紳士的に沈黙を守っているが、もしかすると、これは、もしかするのだろうか。
飲まされた挙句に自覚なく酒の肴に散々キャロリンの話をしていたらしい人が、キャロリンの憧れの物語を何も語っていないのだと信じきるのは難しい。
ビリーはキャロリンにとっては身近にやりとりのあった貴重な人であった。遠縁とはいえ、王都に居を構えてしまった母方の親族とはまた違った親密さがあるのだ。
年齢も離れているからキャロリンが一方的に兄のように慕っていたといっても良いが、ビリーも自らが兄に偉ぶられている反動からかキャロリンのことを兄ぶって可愛がってくれていた、と思う。
酒の肴に話したらしき幼い頃のキャロリンの話をバートやステファニーが好意的に受け止めてくれていたようだから、きっと間違いなく。
素敵な物語――他ならぬバートの兄姉たちをモデルとした恋物語――から派生した世も知らぬ過去の自分が妄想した夢物語を、一体どれほど幼なじみに話したのか、残念ながらキャロリンは全く思い出せなかった。
話していない可能性は、期待するだけ無駄だ。
ビリーは幼い少女の益体もない話を、聞いてくれる人だった。きっとだからこそ、兄のように慕っていたのだ。
今思うと、話半分に聞き流していたこともあったのではないかと思いたいところだ。
現在幼い弟に対していい姉を心掛けているキャロリンではあるけれど、だからといってたどたどしかったり、脈絡もなく、意味不明なことも多い弟の話を一から十まですべて聞いているわけではないから。
ビリーは、果たして話したのか話さなかったのか?
話したとしたらどの程度の内容なのだろうか?
幼子の話など笑い話として捨ておいてくれて、話していないならいいのだけど。
どちらにしろ、幼子がかつて妄想の中で憧れた王子様当人に、自らそのことを告げたも同然だから意味もないのだけど。
キャロリンは羞恥に身震いした。
それは違うなんて今更言い訳など出来ない。成長し現実を知った今、そんなものを求めてもいなかったとも、言いにくかった。
しがない子爵令嬢が王子様と巡りあえることなんてないはずだったのに、現在目の前にいるのは自称第三王子様だなんて信じられない。嘘だと思いたい気持ちがむくむくと膨らんでくる。
しかし、諦め悪く自称だなんて付け加えてみても、それは真実なのだろうから意味はない。
王族であるなどと身分を詐称するのは重罪であり、それを王家に忠誠を誓ったれっきとした騎士であるビリーやステファニーが見逃すわけがないのだから。
「君が昔憧れたような恋物語そのまんまなぞるようなことはできないけど、これでも一応王子なので君の幼い頃の夢を多少は叶えることができるんじゃないかと思うんだよね」
「なななな、なにを言ってるんですかバート様!」
駄目だこれはビリーがどれだけ微に入り細に入り自分の過去の妄想を話しているかわからないとキャロリンは頭を抱えたくなった。
頭を抱える代わりにちらりと見たビリーは相変わらずしれっとしている。自分が詳細を話したのだと自覚していない様子だった。
隣にいるステファニーの方が無表情ながら居心地悪そうに見えるし、キャロリンにどこか同情的な視線をくれている。
キャロリンは気持ちを落ち着けるべく深く息を吸って、吐いた。
「幼い少女の言ったような戯言を真に受けるのは、責任あるお立場としてどうかと思います」
「そうだね」
あっさりとうなずくバートにキャロリンは「でしたら」と勢い込む。
なのに彼はにこりと笑って、続く言葉を制した。
「そりゃあ俺も一応は王子なので、自分が女性に憧れを持たれる立場だってことは十分知っているとも。それにいちいちいい顔をして回るつもりは毛頭ない」
笑顔なのに、口をついて出てきた言葉には鋭さが潜んでいた。
「欲得ずくですり寄ってこられてもいい気がしない」
ぴしゃりと言い放つバートに、キャロリンは咄嗟に何も言えなくなった。
欲得ずく、と心の中で繰り返す。
他ならぬ本人が以前教えてくれた話を、キャロリンはぼんやりと思い出した。
長らく身を固めなかった兄が伴侶を定めた途端にそれまでまったく彼に興味がなかった女性たちがバートに目を向けたという話だ。
彼が第三王子ならば、長らく身を固めなかった兄というのは王太子殿下だ。彼の兄たちは双子ということもあってか、幼い頃から婚約者を定められることもなかったという。
現実にそうなったように第一王子が世継ぎの君になると早くから目されていたようだが、第二王子の政治の才は兄に勝るとされていて確実ではないとも思われていたとかいないとか。
主だった家の年頃の令嬢たちが将来の王妃を目指すのは当然の流れだったけれど、第一王子殿下が長じてから立太子ののちもなかなか伴侶を定めることをしなかったのは有名な話だ。
優秀な弟の第二王子が先に成婚される際には、さすがに継承権の移動もあるのではないかと噂されたりもしたらしい。第二王子は兄の治世を支えると常から公言しており、その伴侶は後見の弱い伯爵令嬢だったので実現はしなかったのだが。
お相手は第二王子の年上の幼なじみだった。王子としては兄の成婚を待っていたらしいのだが、とうとう待ちきれなくなって猛アタックした話も世に知られている。
王位争いを起こす気がないのだと知らしめるために――と言われている――名を変えつつもお二人をモデルとして記された物語は市井に広く出回っているからだ。財政状況の怪しい田舎の貴族令嬢ですら手に入れることができるくらいなのだから、相当広まっていると考えて間違いない。
まあ、キャロリンが本を手に入れることができたのは、王都住まいの祖父母が孫娘のために贈ってくれたからというのも大きいのだけど。
第二王子の恋物語の流布に前後して、長く独り身を貫いていらっしゃった王太子殿下については、異母姉を思慕しているだとか男色なのだとか、不敬そのものの噂が流れたのだということも、今のキャロリンは知っていた。
現実は、取り繕って言えば年下がお好みだったようだ。不敬を承知で言うとしたら幼女趣味だったともいえる。しかし、今現在、すでに成人されて立派に公務を励まれている王太子妃殿下のお噂を聞く限り、王太子殿下は先見の明がおありだったのだろうと思われる。
こちらはこちらで、キャロリンのあこがれの恋物語となって今では広く知られている――今考えるとろくでもない噂話を払しょくするためのことだったのだろうけれど、素敵な物語だったのでこちらもキャロリンは好んでいた。
真実はいかなるものかわからないにしろ、現在のキャロリンには次代の王の伴侶が定まらない間は様々なことがあったのだろうと想像できる。
王太子殿下と同年代の有力な貴族家の令嬢方がそのうち王妃となるのを諦めた事実はよく知られた話だし、そのあとにもう少し若い令嬢たちが浮足立ったであろうことも想像ができる。
最終的に王太子妃となったのが第三王子と同じ年の伯爵家令嬢だった事実を考えあわせれば、第三王子ことバートが多感な年頃になにがあったのか推して知るべしというところ。
キャロリンは申し訳なさに身を縮めた。
彼が女性不信になったトラウマをついてしまったかもしれない。
ごめんなさいと頭を下げようとするのを、苦い顔でバートは止めた。
「俺はね」
気を取り直したようにバートは口を開いた。
「ビリーから色々話を聞いていたのもあって、なんとなく最初から君に親近感は抱いてたんだよねえ」
キャロリンは虚を突かれた気持ちで、ぼんやりと「親近感」と繰り返した。
以前そのような予測を立てていたステファニーの言葉は、あながち間違いではなかったらしい。
だけど。
「そうであった割には、初対面での発言はひどかったと思うのですけども」
親近感を抱いていた割には仲良くする気は毛頭なさそうな言葉ではなかったかと、キャロリンは思う。
壁の花にもなりきれず周囲に埋没していたキャロリンに名乗りもせずに「最近ビリーを連れ回している幼なじみって、君?」だ。
連れ回してもいないし、ビリーとは十分以上の距離を取っていたにもかかわらずそんなことを言われたキャロリンは言葉を失ったし、少なからず気分を害した記憶がある。
すでに謝罪は受け取ってもいるし、根に持つというほどでもないけれど、キャロリンはそこに引っ掛かりを覚えてしまう。
「言葉選びを間違えたなあと、反省しています」
「もう謝罪は受けましたので責めるつもりはないのですけれど」
しょんぼりして神妙に謝るバートにキャロリンは首を横に振った。ほんとに、と問いかける彼にこくりとうなずく。
ほっとしたように胸をなでおろすバートの姿には真実味があって、だけど違和感に首を傾げそうになったけれど。
貴族たるもの、内心を露わにするのは慎むべきものだ。末端貴族のキャロリンでさえ、そのように教育されている――できているかと問われると、自信はまったくないが。
国の頂にある王族ならば、その辺りはより厳しく学んでいるものではないのだろうか?
それなのに、彼は様々なものがあけすけすぎる。
王子だと明かしたのに、そんなに簡単に頭を下げるなんて大丈夫なのだろうか。
「動揺しててもあれはなかったなって自分でも思ってるんだ」
言い訳するようにつぶやくバートはまだしょぼくれているのを隠そうともしない。
以降の交流で薄れかけている初対面の時の彼の様子をキャロリンは何となく思い出そうとした。
動揺などしていたようには思えない、名乗りもせず失礼なことを言ってきた場違いな男そのものだったはずだ。
夜会服こそ身に着けていたもののそもそもサイズも合っていなかった。その上、身なりもろくに整えてさえいない様子が脳裏に思い起こされる。
そんなだから、まさかその正体が一国の王子殿下だなんて想像なんてできなかった。
あんな身なりでやってきたバートはもちろん正体を隠しての参加だったのだろう。だからその場で正式な名乗りを上げることはできなかったのは仕方ない。
もしそうしてくれていたとしても、信じる要素がただ一つもなかった。
しかし、それならそれでのちにキャロリンに名乗ってくれたようにその場では偽名の一つでも名乗るというのが本来のあり方だっただろうと今では感じる。
「動揺、されていたんですか」
うだつの上がらない身なりの失礼な発言の男はうさんくさくはあったけれど、とても動揺しているようには見えなかった――というのは、キャロリンの記憶違いだろうか?
「あんまり噂がひどかったのでだいぶ誤解をしてて」
バートは信頼するビリーから好意的に話を聞いていた彼の幼なじみが、自らの窮状を打破するためにステファニーから彼を奪おうと考えるとしか思えなくて義憤に駆られていたのだ、というようなことを語った。
「なのに実際見たら、俺好みのめちゃくちゃかわいい子がビリーに付きまとう素振り一つ見せずに、大人しく独りで壁の花してるじゃん?」
とんでもないことをさらりと口にしたバートは、驚いて目を見開くキャロリンに気付いた様子がない。なぜか眉間にしわを寄せて、何かを思い出したそうに虚空を見据えていた。
「ビリーに纏わりついているようだったら引き離そうと思ってたのに、その必要すらないからびっくりだよね。思わずふらふらと近寄って、想定していた一番ひどいパターンの場合の言葉が口から出ちゃうし。終わったかと思った」
バートははあと息を吐いてから、キャロリンに視線を戻して微笑んだ。
そこに「終わってりゃよかったのにな」と口を挟んできたのは、バートの後ろで真面目ぶって控えていたはずのビリーだった。
「なんだよお前、好みのめちゃくちゃかわいい子って」
咎めるように自分の名を呼ぶステファニーを無視して、ビリーは仏頂面を隠そうともしない。
「もちろんキャロリン嬢のことだよ」
ちらりと彼を振り向いたバートは平然と言い切った。
「君の話から好感を持っていたのに、噂で幻滅しそうになってたけど、いざ本人を目の前にしたら理想そのものだったんだよね」
「理想……って、お前それ……」
迷いなく言い放つバートの後ろ頭をキャロリンはただただ呆然を見る。その向こう側でビリーが顔を引きつらせているのがぼんやりと見えた。
「シンプルな装いの異母姉殿下が好きなだけじゃねーの? キャロはそれに似せて装ってたわけだし」
「否定はしない」
「しないのかよ」
あっさりとうなずいて、
「わかってないなあ、ビリーは。俺が姉上のことを好きなことは歴然とした事実じゃないか。俺が生まれた時にはすでに遠くで療養生活をされていたけど、兄上たちから姉上がどれだけ素晴らしい方か聞いて育ってきた」
バートは淡々とした口ぶりで話し始めた。
それを聞いたビリーは苦いものでも食べたような顔になる。何か言いたげに口はもごもごしたが、結局何も言えないようで押し黙ってしまう。
それをいいことに、バートは話を止めるつもりはなさそうだ。
「姉上が華美なものを好まれないのは、以前の生活が忘れられないからじゃないかな。慎ましく、静寂を好まれる、大人しい方だ。俺は長じるにつれ、姉上こそが理想の女性なのだと確信を得るに至った」
バートは彼に対して左右に位置するビリーとキャロリンの真ん中、自分の真正面に視線を据えた。
「正反対の立ち位置にいる、時々の情勢で尻尾を振る先を変えるような権力欲の強い女性は苦手だ」
「王女殿下の降嫁先は、派手派手しい国内有数の権力を誇る筆頭公爵……ムグッ」
とうとう突っ込みを入れてしまったビリーの口をステファニーが素早く手で塞ぐ。そんな彼らちらと見てバートは肩をすくめた。
「愛し愛された相手がたまたまルガッタ家の人間だっただけで、姉上はそうじゃなかったら一生独り身でいらっしゃったと思うよ。父上も手元に置いておきたがっていたことだし」
文官の家系ながら愛ゆえに王女殿下のための騎士となった公爵家の嫡男の物語を、キャロリンはよく知っているつもりだった。
療養生活から戻られた王女殿下と王城生活になかなか慣れない彼女を側で守る騎士が少しずつ心を通わせる物語だ。
物語の終盤近くに、騎士は王に切々と王女への愛を訴えていた。長き療養生活を送っていた愛娘を手元に置いておけなかった王は散々渋った後で、彼に娘を嫁がせることの許可を与えていた。
騎士が自らの騎士としての忠誠を生涯妻となった王女にのみ捧げることを誓う結婚式を迎えてからの大団円。
幼い頃のキャロリンが憧れた騎士こと王女の夫である公爵家の嫡男が、一応形だけ騎士の位は得ていたもの実際は出仕当初から有能な官吏として名をはせているのだと知ったのは果たしていつだったか。
物語の裏側の知らなくていい真実を知ってしまった気持ちだった。
物語は物語、そして現実は現実。
書き記されなかった真実のうちに自分があこがれたものはどれほどあったのだろう。
成長したことによってわかってしまったことを、いつまでも幼くいられなかったキャロリンはそういうものだと飲み込んだ。綺麗な恋物語に憧れの気持ちに蓋をして、大人になったつもりで。
しかしその一連の物語の主人公たちの弟が目の前に実在して、地味にもほどがある自分をめちゃくちゃ可愛くて理想そのものなどと口にした。
その上、自分が一番憧れていた王女様を理想としていると追加情報まで口にして。
混乱しながらもなんとかしっかりと状況把握に努めようとしていたキャロリンだけれど、とうとう混乱の極致に達し。
そして、まるで体力のない深層の貴族令嬢のごとくふらりとよろけたところを素早く駆け寄ってきたバートに支えられることになった。




