29 そして、真実を2
言うべきことは言い切ったのだと言わんばかりにバートが口をつぐむと、辺りには静寂が満ちた。
未だ跪いたままのバートは、まるでお伺いを立てるような期待に満ちた眼差しで見上げてくる。
彼の正体を知っているビリーとステファニーも、何も言わない。ようやく硬直を脱したキャロリンがつと視線を向けると、二人は微動だにせずバートの後ろに控えている。
二人ともピンと背を伸ばし、口を真一文字に結んでいる。その姿は直立不動とはこういうものだという見本のようだ。市井に紛れる普段着姿だけれど、本業である騎士の本分が垣間見える。
キャロリンは何も言えず、バートは彼女の反応待ち。加えて残りが口をつぐめば、周囲に満ちるのは沈黙と言っても過言ではなかった。
先ほどまであったはずの、浮かれたような祭りの喧騒も今は遠い。何も聞こえないわけではないけれど、切り離されたかのようにここは静かだった。
少し冷静さが戻ったキャロリンはその理由を不思議に思い、そして原因について閃いてしまった。
キャロリンの目の前にいるのは恐れ多くも国の王子であり、後ろに控えるのは騎士なのだ。本人は気楽にふらふらしているようであったがこれまでの街歩きにも、もしかしたらこのように密やかに護衛の一人や二人つけられていたのかもしれない。
あるいは今回その身分を明かすつもりであるからこそ、関係のない人間にお忍びが漏れないようにより厳重に周囲に人が配置されているのかもしれない。
一応はお目付け役であるはずの侍女をビリーが言葉巧みにこの場から離したのがその証明であるような気がしてきた。
キャロリンは息をのんだ。それは、とても恐ろしい気がする。
王族は末端貴族にとって遥か高みにある。当主ですら簡単にお目通りが叶うような存在とは言えないのだ。
そんなことを言えば、つい先ほど自分でいずれ臣に下ると口にしたいたくらいだからバートは全力で否定しそうな気がしたが。
不意に風が二人の間を駆け抜け、キャロリンは思わず身震いをした。
「なーんにも! 心配することは! ないからね!」
それを見たバートが急に立ち上がって声を張り上げた。
「半分平民の血が流れているなんて君は奥ゆかしく尻込みするかもしれないけど、父上が溺愛する姉上もそうだからね! 父上がもし血迷ってそんなことを理由に反対したら姉上に告げ口するから大丈夫だから」
何がどう大丈夫なのかキャロリンにはさっぱり理解できなかったが、バートが必死であることだけは理解できた。
あまりの勢いに押されてつい後ずさるキャロリンに彼は一歩前進した――が、そこで急に動き出したビリーが足早に近づいてきてバートの襟首をつかんだ。
「女性に不用意に近づくのは紳士のすることではないのでは?」
「それはそうだが、殿下に手を出す前に口で制止すべきではないか?」
慇懃無礼に言い放つビリーの手首に、彼を追ってきたステファニーが手刀を落とす。ビリーはさほど痛みを感じた様子もなく、降参するようにひらりと両手を挙げた。
「度を越したことがあれば止めるように言われてたもんで」
「それは決して御身に手を出すことへの許可ではないと思うが」
恋人の言い訳にステファニーは目を細める。それを「まあまあ」とやんわりと押しとどめたのは、ビリーに襟首をつかまれた時に苦しげな顔をしたはずのバートだ。
若干どころか大いに引いてしまったキャロリンから距離を取ってごめんねと軽い調子で彼女に向けて謝罪を口にし、次いでステファニーに向けて「この件に関してはビリーに全権を委ねてるから」と簡単に言ってのける。
「全権を委ねるって言うのならそもそもキャロに手を出してほしくなかったし、王族の婚姻に口を出せるほど俺はお偉くないんだが」
眉間にしわを寄せてぼやいたビリーは、「それはそれ、これはこれ」と呟くバートにますます苦い顔をつくった。
その上で、隠すことなくうんざりとため息を吐き出した。
仮にも王子に対して不敬にもほどがある言動にキャロリンは身震いし、だけど思い直す。
不敬そのものの言動は、自分の心情を思いやってのものかもしれないと。
今のビリーは不敬も不敬だが、キャロリンだってそれを偉そうに指摘できるものではない。一体どれだけのことをしただろう……考えただけで、めまいがしそうだ。
自分が気に病む前に先回りしてフォローしてくれているのではないかとキャロリンは前向きに考える。
バートはここで不敬だなんだと言い出すような人ではないのだ。それだけはしっかりと分かった。
キャロリンはごくりと息を飲んで意を決し、覚悟を決めて口を開くことにした。
「あのう、バート様」
覚悟を決めたくせに出てきたのは気弱な呼びかけにしかならなかったが。
バートは彼女から距離を取ったままうんとうなずきを返してくれる。
「本来であれば、これまでの不敬をお詫び申し上げなければならないと思いますが」
「こちらが礼を失していたのに、遡って非礼を詫びるようになんて言うわけないからね」
「そうかなと思いました」
「もちろん、時と場合にはよるけどね」
続いた言葉に、キャロリンはさもありなんとうなずいた。
つまり、こうして市井にあるうちは許されるということだ。確か、ビリーが非公式の場での会話をやり玉に挙げるような奴じゃないと言っていたと思う。
それにしたってビリーはやりすぎなように思えたし、それに負けず劣らず何も知らなかったキャロリンもやらかしている。
「念のため、これまでとこれからのご温情に感謝申し上げます」
どこまでが許されるか探りながら頭を下げるキャロリンの言動は、好意的に受け止められた感触があった。
ビリーの失礼な物言いを気にしないそぶりからして、大仰にされるのがお好みではないのだろう。
きっとそういうところを気に入られてしまったのだ、キャロリンが兄のように慕う幼なじみは。
男爵家の次男坊の分際で、第三王子殿下に。そう考えると、やっかまれて妙な噂を立てる輩も出るはずだ。事実無根の噂を収めるために、その原因の一端を担う王子が自ら出てくる必要はまったくなかったのだろうが、それでも出てきてしまったバートは何を考えていたのだろう。
ステファニーが先日言っていたように、ビリーが語った自分の話で好意を抱いてくれていたなんて楽観的に考えるのは柄ではなかった。
ビリーとステファニーの仲を裂きかねなかったお邪魔虫を排除したいと動いたという方がまだ得心が行く。
いずれ臣に下る将来を見据えてのことか、騎士として働いているのにしても、王子でありながら一臣下の恋愛沙汰に手足を出すのは軽率ではないかと思える。
しかしそういうところが、なんだかんだ文句を言いながらビリーがバートを買っている理由のようにも感じられた。
「家格差も大きく知り合って間もない私に、過分なお話をくださったのは、やはり不思議です」
何度考えても力のない家の娘を伴侶としたところで、彼には何の利もないとしか思えなかった。利がないどころか幼い弟の後見にならねばならないくらいだから、どう考えても不利益の方が大きいはずだ。
考えれば考えるほどわからなくなって、キャロリンは素直な気持ちを口にした。
不利益を埋めるほどの燃え上がる愛情が短期間で芽生えたとはとても思えない。
なにせ、相手が地味で特別器量が良いわけでもないキャロリンなのだから。
「俺は君に運命と感じたと言ったよ」
なのに、バートはさらっと言い切った。
「君の人となりはビリーから聞き及んでいたし、他愛ない文を交わすことで実際の人となりも知ったつもり。本人と面と向かっても嫌な感じが全然しない。俺にとってはそういう相手は貴重なんだ」
「それだけで?」
キャロリンが小首を傾げながら問うと、バートはわずかに顔をしかめる。
「それだけってわけでもないけど」
難しい顔でつぶやいた彼に、キャロリンはますます首を傾げる。
「こちらにも、利がないこともないってことだよ」
「つまり、あるのですか?」
バートは唇をひんまげて、ひとつうなずいた。
「好意が先だからね? でもさっきも言った通り、そもそも俺がいずれ継ぐのは伯爵位だってことを考えると家格差はあまりない。それに、妻の実家が強すぎるのは俺としては困るので、現状君の家に力がないのは逆に助かる」
「助かる、ですか」
「下手に野心家の姻戚ができると、第二妃腹の第三王子は困るんだよね」
そんな風に言われてしまうとキャロリンは気の抜けた声で「そういうものですか」と得心するしかなくなってしまう。
第三王子の母は第二妃と称される、呼び名の通り国王の妃のうち二番目に遇されているお方だ。
つまり国王の正妃である王妃に比べて明らかに弱い立場にある。王妃は他国の王族であった方なので、お二方の間には元の身分から考えて大きな隔たりがあるとみて間違いない。
それに比べると平民出身で下女上がりの第三妃より一応身分は上なのだが、相手が国王の寵妃となれば名目上の二番目の妃の実質の立場が弱いのはなんとなく想像がつく。
いずれバートが受け継ぐという第二妃の実家は今は国王預かりということは、現状第二妃とその息子に後ろ盾がないも同然だ。
キャロリンはなるほどとうなずいた。
彼が自分に対して随分同情的なのは、後ろ盾のなさで苦労する母を見て育ったからかもしれない。
そのお立場もあってか、物静かな方だとも聞く第二妃の唯一の子は、王妃腹の王子たちや第三妃腹の王女と少し年齢が離れた末っ子の第三王子――つまりはバートしかいない。
輿入れから長い時間を経ての子であるという事実からすると、政治に疎いキャロリンでも何となく彼の母君のお立場の弱さがわかるような気がする。
そもそも王位継承争いになりようのない立場と年齢差があるというのに、力も野心も抱えた高位貴族と第三王子が結びつくのはなんとなくよくないのも想像の範囲内なのだろう。
そうだ。それに、本来ならば王族と結ばれるのは他国の王族か国内の公爵家や侯爵家が望ましいとされているというのに、王太子殿下や第二王子殿下が伴侶に選んだのは伯爵家のご息女だったのだ。
王族の正妃となるための最低限の地位は伯爵家だという暗黙の了解があるけれど、ここで末の王子が伯爵位より高い相手と結びつくことを恐れる気持ちもなんとはなくだがわかる気がした。
本人も言動から考えると、あまり地位にこだわりがない風でもある。
いずれ臣に下る王子の伴侶だからこそ、義姉より下の爵位の方が望ましいとそもそも考えていたのかもしれない。王族の妻に求められる暗黙の了解も未来の伯爵には意味のないことであろうから。
第三王子妃というものは、ツァルト王家には基本的に存在しないのだ。
慣例として、王族に残るのはいずれ王となる者と、その補佐を務める大公位を得る者だけとされている。それ以外の王子あるいは王女は自らの婚姻もしくは次代の王の即位をもって王族から離れることと定められているからだ。
例え王家を離れても王の兄弟として一定の敬意を払われるらしいが、簡単に爵位は与えられない。
王家はもちろん国で一番の力を持つけれど、だからといってすべての王族に爵位を与えられるほど資産を抱えているわけではない。
そんなわけで王族を離れることになる王子王女の行く末は、他国への輿入れが少々、残りの大半が王家と縁付きたい貴族家に婿入りもしくは嫁入りすることと相場が決まっている。
ごくまれなんらかの才能を発揮して自ら身を立て、爵位を与えられる元王族もあるにはあるという。
独身を貫く元王族もいないわけではないが、多くないようだ。誰にも望まれない王族は大抵が何らかの問題を抱えているのだ。王家を離れる際に与えられた資産で生涯を慎ましやかに過ごすものだとされているが、実態はわからない。
以上を踏まえると宙に浮いた母の実家の爵位があるからいずれ爵位を譲り受けるというバートは、第三王子ながら随分と恵まれている。
王家を離れる際に自らの地位が確約されていることはそれほどに大きいものなのだ。
しかし、その爵位も伴侶を得たらという前置きと、そもそも女性不信だという本人の弁を考え合わせると、恵まれた地位に拘ることなく元々は婚姻などせずに騎士としての職務を全うしていくつもりですらあったのかもしれない。
キャロリンが世間に疎いことを差し引いても第三王子が騎士になった話など噂でさえ聞いたことがない。だとすれば彼が得ているのはごく一般的な一代限りの騎士爵であろうけど、独身を貫くならばそれでもよかったのだろう。
同じ一代騎士のビリーに気安いやり取りを許しているのも、その前提があってのことかもしれなかった。
ぼんやりとしたキャロリンがそうやって自分の中で諸々を消化していくのを、バートは静かに待ってくれていた。




