21 躊躇い
それから数日。
窓辺に佇んだキャロリンは、物憂げに息を吐いた。あれきり、何の音沙汰もないままただ時は過ようとしている。
バートへ伝言すると息巻いていたビリーからも、きっとそれを聞き及んだであろうバートからも、文の一つもなにか言付けられることさえない。
日課のように続いていたバートからの便りが途切れたのは、つまり、彼がビリーの伝言を聞いてキャロリンの意思を受け入れてくれたということだろうと思う。
一時の同情もしくは親近感などといったものから、我に返って冷静になった、ということだ。
どうしようかとあれこれ考えていただけに、肩透かしを食らった気分だった。
直接お断りしたいという意思もビリーは伝えてくれたと思いたいが、ぱたりと何もなくなってしまうとあちらはそうは考えなかったのだろう。
親切な申し出に断りを入れてしまったので、あの気のいいバートもさすがに気分を害したのだろう。
家格差があるというから、もし仮に今後キャロリンが積極的に社交界に顔を見せたところで、簡単には声をかけられないのではないだろうか。そう考えると、きちんと自分の口から最後に様々な配慮についてお礼を伝えたかったところだけれど。
「ビリーお兄様がうまく伝えてくださったからこそ、最後下手にお会いして流されることがなかったと喜ぶべきなのかしら」
ぽつりと口にして考えをまとめようとしても、どうにもうまくいかない。
思えば日課の便りが絶えてしまったことに気付く前から、そうだった。
ビリーとステファニーが口々にバートは諦めそうにないのだと脅すようなことを言っていたものだから、口下手な自覚のあるキャロリンはさんざん悩んだのだ。
バートは口が達者だ。いつの間にか思いもしない提案に頷いてしまった実績のある自分が再び同じように首肯する未来は十分にあり得た。
出会った当初から、バートはキャロリンを丸め込む自信がありそうなそぶりだったから余計に。
だから、何の労もなく彼が音信を途絶えさせてくれたことを、喜ぶべきなのだ。そう感じつつも素直に喜ぶ気持ちには、なぜかなれない。
短い期間だったけれど、一日も欠かすことなくやってきたバートの便りがすっかり日常の一部になっていた。その日常が無くなってしまったのが、寂しい気がしていた。
領地であれば、キャロリンにも母と共にするべき責務もあり、かわいい盛りの弟と遊んでやることも姉としての大事な役目なのだけど。
つかの間の王都暮らし、するべき社交も控えていればやることがキャロリンには特になかった。だからといって数少ない使用人たちには掛け持ちする仕事も多く、自分が暇だからと話し相手になってもらうこともためらわれた。
毎回何を返そうかと悩んでいた一見無駄そのものだった返信をしたためる時間も、今思えばキャロリンにとって案外いい暇つぶしだったのだろう。
「もう、領地に帰ろうかしら」
手慰みにする趣味の一つくらい、キャロリンにもある。読むのは早くはないが読書は好きだし、得意と胸を張れるほどではないが刺繡も好む。
ただ、今それをするほどの元気はなかった。
それよりももっと、すべきことがあるとも思う。
キャロリンは自分の至らなさに気付いたのだ。社交は苦手だと怖気づくのをやめて、もう少し前向きに動くことをやるべきだ。
だが、今すぐそうするには、たくさんのものが足りない。
実際に人脈が広がるかはさておき、派閥以外は主だった家しかわからないなどと言い訳できなくなるように学ぶべきだ。
膝に置いた貴族名鑑の表紙を撫でて、キャロリンは深く息を吐いた。
父の書斎から持ち出した少し古いものだが、そもそも頻繁に編纂されるものでもない。最新の情報ではなくとも、現状はこれ以上ない教本になるだろう。
出来ることから学ぶべきだと考えながらも、表紙をめくることにすら至っていないのが現実だった。
いずれバートの家柄にたどり着いてしまうことに、躊躇いを覚えていた。
キャロリンには、とにかく時間だけはあった。だからゆっくりと、その躊躇いの理由について考えることができる。
理由の一つは彼がどれほど高みにある方なのか、知るのが恐ろしいというものだ。
バートが気安いのをいいことに、キャロリンは色々失礼なことを口にした自覚はあった。仮にも恋人という関係の間はそれが許されたかもしれないが、最後に身に余るような求婚の言葉に断りを入れてしまった。
もしもバートがそれで気分を害してしまっていたら……と考えると、少し怖い。
あの気のいい方はそんなことで権力をふるうようなことはないだろうけれど、知ることで余計に現実的な恐怖を覚えそうだ。
力ある家がその気になって動けば抵抗の余地なくぺしゃりと潰れそうなのがパウゲン家なのだ。当主不在の今ならば、より簡単に何もかもを失えそうだ。
ビリーの気安い口ぶりを咎めるでもなく受け入れているくらいだから、きっと大丈夫だとは思うけれど。
二つめは、一つめとも通じるが、単純に知ることが怖い。
つかの間関わった程度のキャロリンのことなどあちらはすぐに忘れられるかもしれないけれど、こちらはそうとはいかない。
仮初といえどデートした初めて男性なのだ。最初は強引なところがあり嫌なところが目についたけれど、ふたを開けてみれば彼は親切だった。
それは知り合って間もないキャロリンの、会ったこともない家族を思いやってくれるほど。
家格の差が保証されているのだから、きっと高みにある人だ。恵まれたものゆえの余裕なのかもしれない。恵まれていない方のキャロリンは、自分が真実を知った後でどう感じるかがとにかく怖い。
想像ほどの高みでなければ手を伸ばせばよかったと後悔するのだろうか?
これは十分にあり得そうだった。素性を明かしてくれないこと以外、これまでのところバートには大きな瑕疵はなかった。喋り方は柔らかいのに言葉の内容が厳しいところもあり、また押しが強く強引なところもあるけれど、基本的には大らかで気前が良い。
思った以上の高みでも、地位の高さに目が眩んで彼の手を取ればよかったと思うこともあるかもしれない。シンデレラストーリーに憧れる気持ちは、キャロリンのような娘でも持っているのだ。自分の目が眩むなんて想像がつかないけれど、いざとなればわからない。
どちらにしろ、今となればもう意味のない妄想だった。
そもそもがキャロリンがそうなることを恐れて、バートは自らについてを伏せていたのは明白だ。彼がキャロリンを気に入ってくれていたにしろ、万一彼女が目の色を変えた時点で早晩破綻しただろう。
だからあれこれ考えたところで無意味だ。
「あーあ」
キャロリンのため息は、ついつい大きくなってしまう。
後悔というのは先に立たない。
免疫がなさ過ぎて自覚できなかったけれど、幼なじみの言う通りに自分が思っていた以上にバートを好ましく感じていたのだと、だんだんわかってきてしまった。
今更そんな風にバートのことで頭をいっぱいにしてどうするというのだ。苦く自嘲してため息を吐くことしかできない。
貴族名鑑の表紙をキャロリンは再び撫ぜる。どうしても中に目を通すつもりには、まだなれない。
躊躇いの三つめは、ビリーの残した言葉も忘れることができないことだった。
急になしのつぶてになったのは、同僚のビリーのようにバートが忙しくしているかもしれないというわずかな可能性にすがりたいのだろうと、キャロリンは自分を分析している。
あらかじめ断りが入れられたことでこれまでのような気楽な文の一つ書くこともできないまま、直接会う機会を彼が探しており――そしてキャロリンの口から否定の言葉を聞く前にビリーの忠告を受け入れたバートが自ら素性を明かしてくれるだなんて奇跡のようなことを、想像しているのだ。
あちらがキャロリンを信頼してすべてを明かしてくれるならば、家格の差がどれほど恐れ多くてもキャロリンは彼を信頼することができるような気がするとまで思えてきていた。
夢みたいなハッピーエンドを現実にするためには、これまでと同様バートの家柄を探って知ることは避けた方がよいはず。
そこにこそ、きっと信頼が生まれる……はずだ、多分。
キャロリンは貴族名鑑を持ち上げて自室を出た。下手に誘惑にかられないように、これを今は父の書斎に戻そう。
空想の世界で想像の翼を広げるのは楽しいが、現実は寒々しい。
バートからの便りがなくなり、使用人たちは先日までと同じに特にキャロリンには何も言わないが気遣うような気配を見せている。
それがまた居心地が悪くて、彼らを話し相手に呼ぶわけにいかない別の要因ともなっていた。
キャロリンは早めに領地に帰る算段を付けようかと、改めて考える。
シーズン終わりに身分に関わらず広く招待状の配られる建国祭に付随した夜会があるから、そこならば従兄のエスコートで参加することも難しくはないと思うけれど――大規模な夜会で突然壁の花から卒業できるとは思えない。
さらには、そこで新たな出会いに恵まれるとも考えがたかった。
仮にあったところで、すぐに領地に帰るというのに関係が発展するとも思えなかった。




