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つまをかく

作者: 阿部凌大
掲載日:2022/02/18

 妻が死に私の前には、筆や紙だけが残った。自分の肉体の一部がそのままぽっかりと失われてしまったような、そんな感覚だけがいつまでも続いていた。ありとあらゆる活力はそこからただ流れ落ちていく、もはやこのまま最後の一滴まで私から抜け出て、死んでしまえればどれほど楽かろうかとすら思っていた。

 絵描きなんて生活は、あまりに無機質で無色のものだった。そこへ鮮やかな色を差し込んだのは、紛れも無く彼女だったのだ。確かに考えて見れば、私は欠落から一時的に満たされ、そしてまた欠落へと戻っただけだ。だが今私の目の前にある欠落は、ほとんど私を飲み込み全てを潰してしまうほどのものだった。

 私は妻の喪失を、一人きりで感じているほか無かった。耐え切れないほどの悲しみを、誰かと共有することは選ばなかった。それで多少心が楽になるとしても、それを誰かと分かち合うことはしたくなかったのだ。悲しみは一人で背負いたかった。誰かと共有することは、それが希薄されていくような気がして、凄まじい拒絶感が私を襲うのだった。

 私には結局、紙と筆しか無かったのだと思う。気づけば私は鉛筆を握り、白い紙の上に妻の顔を描き始めるのだった。始めに書いた線はすぐに消した。記憶の中の妻の姿を、私は少しでも正確に描かなくてはならないと思ったのだ。描かなくてはならなかった。妻の姿を鮮明に描けば描くほど、私は妻に再び会える気がした。

 私はそれから妻の姿を描いては、消し続ける作業を繰り返した。何も食べず、飲まず、ひたすらに線を引くことに全ての神経を注ぎ込んだ。時間の感覚は消失し、私の前にはただ線だけがあり続けた。そして私は妻の姿を描き終えた。私を見据え穏やかに微笑む美しい妻の姿がそこにはあった。

 そして奇跡は起きた。紙の上の妻は動き出し、私に白い歯を見せたのだった。

 その瞬間私はその奇跡に対する感謝に打ち震えた。頬を流れる熱い涙の線を感じた。そしてその涙が紙の上に落ちてしまわないよう、両の手で顔を覆い、その隙間から彼女の姿を眺め見た。彼女は少し気まずそうな表情を見せながら、ぎこちなく私に向かい手を振っていた。

「あ、あぁ、あ、ああ、あ、」

 私から漏れ出る声は言葉の形を成しえない。絵である彼女も何やら口をパクパクさせているが、どうやら声までは出すことが出来ないようだった。

 絵に描いた妻の姿は、上半身をうつしただけの絵だった。私が彼女に出来ることは、もう絵しかなかった。私は彼女が消えいらないよう、震える手でその薄い紙を持ち上げると、その後ろにもう一枚の紙を入れ込み、セロハンテープを使って無理矢理に彼女の上半身の下に白い面積を延長した。彼女はその間もじっと私を見つめ微笑み続け、私は彼女がそうしていつまでも動き続けることを祈りながら、彼女の上半身の先に伸びる下半身を描いていくのだった。既に動いている彼女の身体の続きを描くために、私はその時持ちえていた集中力の残渣を振り絞ったのだった。この時ばかりは描き直しは許されない。私がそれを描き終えると、全身を手に入れた妻は、白い紙の上で歩き回れるようになった。

 嬉しそうに動き回る妻の姿を、私はいつまでも眺め続けた。強烈な眠気を感じ始めたが、目が覚めた時妻がただの絵になっている可能性を考えると、その恐怖に私はその眠気を力づくで押さえつけるのだった。その顔を見た妻は私を心配そうな顔で見始めた。

「……すこしだけ、ねむたく、て、だけどまだ、眠らない、から」

 それを聞いた妻は私に向かってゆっくりと口を動かした。だ、い、じょ、う、ぶ、と言っている気がした。妻がそれを何度か繰り返したのを見ると、私は少し考え、そのまま床に倒れ込むようにして眠った。妻の言葉は、信じるだけだった。

 ぴんと伸びた糸を切ったみたいに目が覚めた。その瞬間に私を襲ったのは、眠る前の出来事が全て私の虚構だったのではないかという激しい恐怖だった。私は飛び起きると、すぐに紙の上に描かれた妻の姿を確認した。突然目の前に飛び出してきた私に驚いたのか妻はその身体をぶるっと震わせると、くしゃりと柔らかい笑顔を私に向けた。安堵した私はよろめき、後ろの壁に頭をぶつけた。それを見て妻はまた笑った。

 それから私は妻のために、余白の部分に様々な物を描いていった。彼女のために椅子やベッドを描き、彼女の好物であるフランスパンやチーズバーガーを描いた。妻はその度に嬉しそうにはしゃいでくれるのだった。私は机いっぱいに紙をつぎ足し、遊ぶための滑り台やジャングルジムなども描いていくのだった。

 私のアトリエの中には、私と妻だけがいた。私はその中に他者が入り込むことでこの状況が破壊されてしまう気がして、仕事の電話にも出ず、全ての電源を切って遮断した。私はアトリエの外にも出ることも拒み、週に一度程度食料を

買いに行くほかは、一切としてアトリエから足を踏み出すことは無かった。

 いつまでも私は妻を眺めた。一方的に声をかけ、目の前で生きる彼女の姿だけが私の全てになった。私は妻が寂しくないよう、ウサギや猫や犬やハムスターなどを描いた。動物たちを描いても、それらは紙の中で楽し気に飛び跳ね始めた。妻が好きでよくグッズなどを集めていたパンダも描いたが、気合を入れて描きすぎたためにそれは思っていたよりも大きく、リアルな動物らしくなってしまった。万が一にでも妻を傷つけそうだと思った私は大きな檻を描いてその中にパンダを押し込んだ。後々スペースの邪魔になるとその檻ごと消しゴムで消してしまった。そうすれば全ては消えるのだった。私は絶対に妻を消さぬよう、どんな時でもその作業に細心の注意を払った。妻を楽しませるために描き続けるそれらのためには、机いっぱいに広げたその紙でも少なすぎた。

 一方的に声をかけ続ける私に対して、妻はその表情や身振り手振りのジェスチャーで私に向けて表すのだった。ある時に妻は、私に向かってまた何かパクパクと口を動かした。え、ん、ぴ、つ、と言っている気がした私は、頷くと彼女の手元に小さな鉛筆を描いた。そして彼女はそれを握ると、周囲の余白に向かってその鉛筆を動かした。

 彼女の傍らにある余白の上に、彼女は線を引き始めた。それは文字だった。私達はこうして、意思疎通の新たな手段を手に入れたのだった。

 これで、ようやく話せるね。彼女は初めにそう書いた。

「……なんで気づかなかったんだろう、これで、これで話せるのに」

 あ、また泣いてるの?

「ずっと、君に、謝らなくちゃ、いけないと、思ってた。けど声を出せない君に、一方的に、それをぶつけるのは、なんだか良くないことのような気がして、ずっと、ずっと、」

 謝らなきゃいけないことなんか何も無いよ。むしろ私の方、先にいなくなって、ごめんね。

「いいんだ、そんなの、いいんだよ。……だって君は、今こうして、目の前で動いてくれてるじゃないか、それだけで、君の元気そうな、その顔を見てるだけで、十分なんだ。十分なんだ」

 うん。だからあなたも謝ったりしないで?

 私は頷いた。

 あとさ、すぐに紙が埋まっちゃうと思うから、消しゴムも描いてもらっていい?

「そんなことぐらいやってあげるさ、その方が早いし」

 いいのいいの、私もやりたいから。そしたら二人で一緒にやったほうが早いでしょ?

 私は彼女の傍らに消しゴムを描いた。すぐには無くならないよう、少し大きめに。

 それから私達は、他愛も無い会話を続けるのだった。あの日突然に分断された会話の続きを始めるように。あの日から妻が再びこの紙の上に現れるまでに生じた穴を、今から再び埋めていくように。目覚めてから眠るまで、それをいつまでも繰り返していた。

 そしてそれが何度か繰り返された後、目が覚めた時にはもう妻はいなかった。

 私は声が出なかった。その中には一本の腕があった。それは消しゴムを握る妻の腕で、もうぴくりとも動かなかった。それはただの絵となっていた。

 鉛筆と消しゴムを求めた妻は、おそらくは初めからこれをするつもりだったのだろう。妻は自分自身を、消しゴムで消してしまったのだ。会話の邪魔になっていたためにその絵の中からは既に椅子や遊具、動物たちは消失していた。そこにあったのは妻の消しゴムを握る腕と、最後に妻が書き残した文章だけだった。


 あなたへ

 まずは、突然いなくなってしまって本当にごめんなさい。せっかくあなたに、こんなに綺麗に描いてもらえたのに。

 あなたの目の前にこうして現れることが出来てから、そして特にあなたに鉛筆と消しゴムをもらって、こうして自由な会話を交わせるようになってから、私は本当に本当に幸せでした。あなたとまだ話したかったことや、伝えたいこと、感謝など、私の書きたいこと全てをこうして書くには、この余白はあまりにも狭すぎるようです。ですから最後にもう少しだけ、書きたいと思います。

 私はあなたと出会えて、少しの間だけど一緒に過ごせて、結婚できて、一緒に笑えて、何度だって言うけど本当に、本当に幸せでした。ありがとう。

 そしてあなたはそろそろ、前に進まないといけません。いつまでも私に構っている暇はないのです!

 だって、私は本当は、もう死んじゃってるんだから。あなたは画家として、才能の塊だと思います。それは私が保証するよ。だからあなたは、これからもっとたくさん絵を描いて、素晴らしいその絵で、たくさんの人達に元気を与えてください。あなたの絵は誰かを救うことが出来るすんごい絵です!私もあなたのおかげでちゃんと救われました。

 大好きです。さようなら

 

 ぼたぼたと落ちる涙は、紙の上のその文字を滲ませた。私は鉛筆を握ると、妻の腕から先を描いて、もう一度妻に会おうと思った。だがそれが出来ないことは、震えるその線を見てすぐに理解した。

 漏れ出る私の嗚咽の音は、一人きりのアトリエに不自然なほどによく響いた。

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