クリスマスの奇跡
『もし、今欲しいものがあるならば、それを手に入れるために、あらゆる手段を使いなさい、決してためらってはダメよ』
椿の愛読書「エルパコ通り」に登場するキャラクター、スカー婦人の言葉だ。これを初めて本文で見た時はただのかっこいいキメ台詞だと思っていたが、今の椿にとっては肩に重くのしかかる、そんな言葉だ。
冬休みを目前に控えた教室はいつも以上に浮足立っていた。その主な原因は冬休みをどう過ごすかということではなく、冬休みを誰と過ごすかということだ。いわゆる恋人作りである。
クラスの中では日陰者の椿も、毎日のようにこの手の話が耳に入ってくると、少しくらいは意識してしまう。彼女がひそかに思いを寄せている相手は、彼女と同じ読書家の男の子、葵である。彼もまた、休み時間になると自分の席から一歩も動かず一心不乱に読書にいそしんでいる。
しかしそのルックスの良さゆえに、彼は女子からひそかに注目を集めている。なので彼のことを気遣ってか、表立っての行動こそないが、水面下では激しい抗争が起こっている。
そんなことなど、つゆ知らず等の本人はいつものように、そのさわやかな横顔で女子たちを魅了しながら、最近新しく買ったであろう文庫本を広げている。そんな彼のことを今日も後ろからただ眺めている。そうしているうちに授業が始まり、一日が終わっていった。
期末試験を終えるとすぐに冬休みが始まった。結局椿は誰も誘えないまま、一人ボッチの冬休みを迎えることになった。いくら防寒具を身に着けようとも、外に出れば白い息が口から漏れ出す。色とりどりのLED電球に彩られた街を、行きつけの書店の紙袋を手に歩いている。
たまたまネットで見つけて興味を持った作品の発売日がクリスマスイヴであったがために、こうして今一人、むなしい思いを抱えている。ならばクリスマスイヴが明けるまで待っていた方がよかったのだが、心のうちに秘めたはやく読みたいという欲を抑えることができなかった。
しかしながら、街中は大変冷え切っており、とても自宅まで寒さに耐えることができない。なのでどこか屋内で暖を取ろうと思ったが、あいにくどこに行っても、カップルたちが彼らだけの世界に浸りこみ、満喫している。それを片目に常に入れ続けなければいけないのは、なかなかにつらい。
それでも早足で歩きながらあたりを見渡していると、路地の端に小さなネットカフェがあるのを見えた。椿は迷うことなくそこへ走ると、体当たりでドアを開けそのまま勢いよく閉めた。
あまり広くない店内は、すでに暖房によって暖かい空気に満たされていた。そのおかげで息を吐いても、まったく白くはなく。目に見えないほど透明な気体が口から出ている。
「椿さんどうしたの、そんなに慌てて」
膝を抱えて息を切らしていたせいで、一切前が向けていなかったが、いきなり名前が呼ばれたので、顔を上げるとそこには厚手のコートをまとった葵が立っていた。驚きのあまり思わず後ずさってしまった。そんな椿の動作を葵はにこやかな笑顔で見守っていた。
「あ、葵くん」
「葵でいいよ、ところでどうしたの、そんなに慌てて飛び込んできて」
「いや、その買い物に来て、帰る途中で、寒いなって、思って、それでたまたまここの看板が見えて、それでつい」
突然のことにしどろもどろになりながらも、ここに至った経緯を説明する。椿の話を聞いた葵はなるほどね、と一言だけ返した。
「それで、葵くんはどうしてここに来たの?」
「ああ、僕はね、父さんが会社の人たちを呼んでクリスマスパーティーを開いているんだけど、ほら僕あまり騒がしいのは得意じゃないからさ、抜け出してきちゃった」
先ほどから終始柔らかい笑顔を見せている葵だが、今はどちらかというと苦笑いに近い表情を浮かべていた。普段後ろからしか彼のことを見たことがないが、こうしてみるとただかっこいいだけなく、こんな表情もできるのかという新たな発見があった。
「いらっしゃいませ、二名様ですか?」
話しているうちに奥の天幕から、エプロンを身に着けた店員が出てきて二人に問う。椿はとっさに一人だと答えてしまった。しかし本心では、全く反対のことを思っていたが、それよりも気恥ずかしさの方が勝ってしまった。
「そうなりますと、申し訳ないのですが。今は一部屋しかご用意できないんですけど…」
「なら、二人で。それでいい椿さん」
「はい、葵くん。いいや葵がいいなら」
「うん、ありがとう。じゃあ行こうか、何番の部屋ですか」
「二十九番になります」
「ありがとうございます」
葵は店員からカギを受け取ると、それをそのまま椿に手渡した。
「先に行ってて。僕はいろいろ借りてから行くよ」
「うん、わかった」
普段あまり家から出ないせいで、ネットカフェのシステムについてあまり詳しくはないので、とりあえず言われた通りに部屋に向かう。
カギを使いドアを開けると、そこには椿が見たことのないような大きなパソコンとスピーカーが机の上に並べられており。さらにその正面には、二人で座ってもまだスペースが余るほど大きなソファが備え付けられていた。勢いに任せて入ったが、もしかするととても高い場所だったではないかと、財布を開きながら思っていたが、幸い中にはそれなりにしっかりした額が入っていた。
「お待たせ。ってどうした、の入り口で立ち止まって」
「あ、実は私、ネットカフェ使うの初めてで」
「そうなんだ。じゃあ一緒に入ろっか」
葵に肩を押され、部屋に入る。葵はすぐに上着を脱いで、壁のハンガーにかける。そして借りてきたヘッドホンをスピーカーに刺す。
「音楽聞いてもいい?」
「いいよ」
パソコンの電源を入れ、コートから本を取り出すとあっという間で、ネットから音楽を探し出し、それを聞きながら読書に励んでいる。つられて椿も買ってきた本を開く。
お互いに会話のないまま、ページをめくる音だけが、小さな部屋に響く。せっかくのチャンスなのだから、何か話をしなければと焦る気持ちばかり募り、本の内容が入ってこない。
「ごめん、邪魔して悪いとは思うんだけど椿さんが買った本貸してもらえないかな。一応持って来てはいたんだけど、読み終わっちゃって」
「うん、いいよ」
椿は紙袋から買ってきたものをすべて、テーブルに広げてみせる。葵は隣に椿がいることなど全く気にならないほど真剣な表情で吟味していたが、やがて、一冊の本を指さしたどうやらこれに決めたようだ。
「そういえば、椿ここに来てからまだ何も飲んでないけど、大丈夫?冬場は暖房のせいで乾燥するから、定期的に何か飲んだ方がいいよ」
「ありがとう、じゃあどこで飲み物買ったらいいのかな」
「別に買いに行かなくてもいいだよ。ドリンクバー付きにしたから、ディスペンサーまで案内するよ」
「ディスペンサーって?」
「ああ、ドリンクバーで飲み物をついでくれる機械のことだよ。最も僕も最近になって知ったんだけどね」
そう言って葵は椿の前を歩きだした。いつも今日で眺めている後ろ姿のはずなのに、この短い時間の間で知りえた彼についての情報が、今目の前に見えているものを全く別のものに変えていた。
教室ではただ静かにたたずんでいるだけだが、今はとても優しく、そして知的で温かそうに見える。そのせいかただ彼のあとを追っているだけなのに鼓動が高まっていく。
「へー最近のドリンクバーってスープまで飲めるんだ。初めて知ったよ」
葵は多少驚きながらも、その場の状況を楽しんでいるといった様子で、コーンポタージュをカップに注ぐ。カップから上る煙に息を吹きかけその軌道を変える遊びを一人で楽しんでから、葵は一口ポタージュを飲むと、満足そうな顔でその場に背を向けた。椿もココアを持って彼のあとを追う。
二人が借りた部屋までそこまで距離があるわけではないので、帰りは特に会話のないまま、戻ってきた。
戻ってからというものの葵は膝に毛布を掛け、読書に埋没し始めた。そんな彼の雰囲気に押され、椿も自然と口を開きづらくなる。それでもこんな機会はめったにないことは、彼女が一番分かっていた。なのでどんな些細なことでもよいので何か会話の種になるものはないかと視線を泳がせた。そして彼が使っていた毛布に目が行った。
「あ、あの」
「どうしたの椿」
「いや、どうってことはないんだけど。少し足が冷えてきて、だから葵の毛布に私も入れてくれないかなって思って」
「いいよ、じゃあもちょっとこっちによってきて」
葵は読んでいた本を閉じると、その手で椿の肩に手をやり、自分の方へと引き寄せる。その仕草があまりにも自然でためらいがないため、椿は体をこわばらせながら彼の誘導に体を委ねるしかなかった。
「はい、これで大丈夫?」
葵の言葉で我に返ると、すでに彼女の膝には葵の毛布が覆いかぶさっていた。
「うん、大丈夫ありがとう」
「どういたしまして」
簡単な会話が終わると再び読書に戻った。少し体を傾ければお互いの肩が触れ合う距離にいるにも関わらず、葵は先ほどから何も変わらない様子で、熱心に本に向き合っている。ほんの少し体を動かせば触れ合えるのに、それをすることは彼の好きなことを邪魔することになる。だから全く動けないでいる今の状況がもどかしい。
それでも体を押さえつけながら、買ってきた本を読んでいると、突然バサッという紙が宙を舞う音がした。椿の手の中にはまだ読みかけの本があるので、彼女が落としたものではなかった。
「ああ、いけないつい指が滑っちゃって」
床に落ちた本を苦笑いで拾い上げ、傷や俺曲がりがないかなどをざっと確認する。
「葵もしかして疲れてる」
「あはは、確かにちょっと寝不足かも」
「な、なら私の肩使ってもいいよ」
「えっ?」
「私の肩、枕がわりに使ってもいいよ」
思わず大声に叫んでしまったことで葵は返答の前に唇に人差し指を当てる。そのことで我に返った椿は慌てて外の様子をうかがうが、どうやら誰も葵以外の誰かに聞かれているということはなさそうだ。
「ごめん葵つい大声出しちゃって」
「別に、気にしないで。それで思ったんだけど膝じゃないんだ」
「あっ」
確かに肩を枕がわりに使う場合、大概は眠りによって片方が無意識になった状態で行われることであり、お互いがしっかりと意識を保っている状態ならむしろ膝枕の方が自然だ。
それでもいきなり膝枕は恥ずかしいので、妥協案として肩枕を提案した。
「別に膝枕がいやって言うことではないんだけど、そのやっぱり恥ずかしいと言うか、それならそもそも言うなって話だよね」
しどろもどろになりながら必死に弁解するが、葵はその様子を声を抑えながら笑っていた。
「いや、ごめんね。いじわる言って、別に他意はないんだ。ただ少し気になっただけだから。慌てなくても大丈夫だよ」
頭を傾け、そのまま椿の肩に乗せる。突然なことに顔を真っ赤する彼女とは対照的に、葵は子供のように無邪気に微笑んでいる。その間椿は全身の神経が肩に集中したように、葵の髪の毛の感触や頭部の重量を敏感に感じ取っていた。
「あ、あの葵。このまま寝ると風邪ひいちゃうし。やっぱりちゃんとしたところで寝た方がいいよ」
今更になって臆病風に吹かれ、葵の頭に手を添え自身の肩から離そうとするが、先ほどよりも彼は明らかに重くなっていた。それどころか自らの意思によって動くことはなく、椿が加えた力か、重力によってのみ彼の体は動いていた。
もしやと思い、彼の顔を覗き見ると、葵はほんのり空いた唇の隙間からスース―と浅い呼吸が聞こえてくる。まさかと思い椿は彼の頬をつつくが、何の反応もない。
「ねえ葵、葵」
「…」
「葵起きてってば、ふりだよね。ねえ葵」
「…」
必死に声をかけるが全く反応がない。どうやら薄々椿が心のうちに思っていたことが的中したようだ。どうやら葵は椿の肩の上で夢の世界へと旅立って行ってしまった。
眠たいとは言っていたが、自分の肩の上というどう見ても良環境とはいえない場所で眠りついてしまうとは思っていなかったので、これからどうすればいいのか困惑していると、頭の中に悪魔のささやきが鳴り響く。
『今がチャンスよ。彼の事好きなんでしょ。私知ってるんだから』
好き…言われてみれば、彼にそれに近い特別な感情を抱いているのは事実だ。だからこうしてここで彼に会えたことを内心とても喜んだし、彼と今こうして一緒にいられることを幸福に思う。ただしそれは恋愛感情とは何か違う気がする。
それでも脳内の悪魔が告げる通り彼のことを好き勝手出来るのは事実なので、椿は葵の頭を自身の肩から離すとより、柔らかい膝へと運ぶ。そして二人で共有していた毛布を掛ける。正直暖房のおかげでだいぶ温まっていたので、椿には必要のない物になっていた。だから眠っている彼が風邪をひかないようにかぶせてる。
「ねえ、葵。私今日ほんの少しでもあなたといれて、正直うれしかった。君は私なんかに興味はないってことは分かってる。でも君が寝ている今だからわがまま言わせてね。こんな時間を、なんでもないこんなひと時を君と過ごしたいな。なんてね何言ってるんだろ私」
今こうして彼と触れ合っていることに、椿は言いようのない幸福を感じていた。それは決して肉体的接触ではなく、精神的接触。もしかするとこれは椿の勘違いかもしれないが。彼はきっと椿に自分に変なことをしないと信じているから、こうして目の前で意識を手放し、椿に身を預けているのかもしれない。椿も又、彼にそれなりの好意を持っているからここに彼を置いて帰ろうとはせず、むしろ彼が再び目を覚ましてからも可能な限り同じ時間を過ごしたいとそう思う。
「やっぱり聞かなかったことにして。あ、そっか寝てるから聞こえないんだった」
「ううん聞こえてるよ」
「うわ、って葵どうして」
先ほどまで閉じていた目が急に開き思わず飛び上がりそうになったが何とかそれを抑え
恐る恐る目線を元の位置に戻す。
「ど、どこから聞いてた」
「ごめん割と最初の方から」
訊かれていないからと好き勝手言っていたので、それを聞かれていたとなると途端に恥ずかしさがこみ上げて来た。それを悟られまいと表情を殺す。
「ごめん。忘れて」
「ううん忘れてあげない」
「いじわる言わないで、このこと誰かにしゃべったら許さないから」
「誰にも話さないよ」
「本当」
「うん本当。それにちょっとうれしかった」
葵はただ単純に読書が好きだった。それに深い理由はなく、ただ昔から本の虫なだけだった。それなのに彼の周りには恋のうわさが絶えなかった。それに何回か告白されたこともあった。しかし、きっと葵とその子ではやりたいことが違うのだと感じていた。葵はただデートなど特別なことをしたいのではなく、ただ普通の日常を一緒に過ごしたいだけだった。それを彼女は受け入れ、癒してくれるのではないか。葵は椿の言葉のうちにそれを垣間見ていた。
「だからさ、さっきの言葉取り消さないでね」
「わ、分かったわよ」
椿が欲しかったのは彼の心、葵が欲しかったのは自分の心に寄り添ってくれる人。一見違うように見えて、二人は互いの需要と供給を満たしていた。
「じゃあ、改めてこれからもずっとこんな感じでずっと一緒にいてくれる」
「はい、喜んで」
「ありがとう椿」
聖夜のネットカフェの一室である小さな約束が交わされた。それをこの二人はずっと守り続けるだろう。その証拠に
「葵明日、葵の好きな作者の新作が出るだけど一緒に買いに行かない」
「うん、もちろんいつも通り店の前に集合でいい?」
「分かった楽しみにしてる」
「いつもありがとう葵」
「こちらこそだよ椿」
今日もこうして二人は当たり前の日女を共にする。これこそが二人が一番欲しかった物、欲しかった時間なのだった。それを満たした二人は幸せに満ち溢れていた。