恋草優鬼物語
むかしむかし、鬼が住むと言われる山がありました。
近くに住む村人からは、山に行けば鬼に会う。鬼に会ったら喰われてしまうと、それは恐れられていました。
その山に住む、一匹の鬼。名は優鬼。その大きな体、頭に生えている二本の角。
村人のいう恐ろしい姿、そのものでした。
「ふぁー、 よく寝たな」
優鬼は起き上がると、家の扉を開けました。
「コケッ! コケッ!」
家の前に、数匹のにわとりが鳴き出していました。そして、とてもやさしい声でこう言います。
「おお、 すまぬすまぬ。 エサの時間だったな」
優鬼はエサを取り出すと、にわとりがいるところに向かってエサを投げました。
にわとりだけではなく、牛やイノシシと一緒に住んでいたのです。もちろん、鬼が喰うために飼っているわけではありません。
「おまえたちは俺にとって家族だものな。 長生きしろよ」
そう動物たちに話すと、優鬼は出かける準備を始めました。くわにオノ、必要なものを持って優鬼は出かけます。住む家から少し離れたところに、たくさんの木が生えているところで立ち止まりました。
優鬼はオノを手に持つと、木に向かって振るいます。
ーーバコン! バコン!
木を切り、小さく小さく割ってはその繰り返し。それが終われば、クワに持ち替えてせっせと土を耕します。
そうなのです。優鬼は人間となんら変わらず山で生活をしていたのです。村人が話すように人をさらって食べたり、人に悪さをすることは一度もしたことがありません。
「種をまいて、 水を上げよう」
その姿が鬼でなければ、なんと頼もしい存在だったでしょう。しかし、優鬼は人間ではありません。人間たちが恐れる鬼なのです。
そんな優鬼は、ずっとひとりぼっち。この山に住む前、近くの村に訪れたことがありました。
寂しかったのでしょう、きっと優鬼も話し相手が欲しかったのです。しかしどんなに人間たちに優しく話しても、返ってくるのはひどい言葉と投げられる石だけ。
それでも優鬼は人間に仕返しはしませんでした。
ーーきっといつか仲良くなれる。
そう考える優鬼は、あきらめずに何度も何度も村に足を運びました。
しかし、何度来ても村人たちは優鬼を向かい入れようとしません。
「鬼が人間と馴れ合えるわけねぇべ! こわやこわや」
人間にとって鬼はおそろしい化け物。
そうそう受け入れられるはずもありませんでした。
頑張った優鬼ですが、村人から追い出されて仕方なく山に住むしかなかったのです。そんなことがあっても、決してめげることはしません。
いつか必ず分かり合える。そう信じて、今日も山で頑張って生きているのです。そんなある日のこと、いつものように作業をしていた優鬼。
山に入ってくる人の気配を感じました。
「人間か? まさか、 討ちにきたのか」
ついに命をも奪いにきたのか。優鬼は、不安な気持ちになります。ビクビクしながら、気配がするところへ向かって行きました。
木に隠れ、そろりと辺りをのぞくと山の斜面に倒れている人を見つけます。
「大変だ! 怪我でもしたのだろうか」
すぐに駆け寄るも、途中で足が止まります。もしも助けようと声をかけても、怖がらせてしまう。またひどい言葉を言われるかもしれない。
そう考えてしまう優鬼は、警戒してしまいます。
「んん……」
倒れている人から、小さな声が聞こえてきます。とても小さく、どこか苦しそうな声。
見ると足や手に傷があって、とても痛そうです。優鬼はそれを見て、先ほどの考えが吹き飛びました。
「怪我をしているなら、 助けなければ!」
目の前に、怪我をして倒れている人がいる。それを見過ごすことは、優鬼にはできなかったのです。
勢いよく走り出す優鬼。倒れている人の肩をトントンとたたきました。
「大丈夫か? なにがあったのだ?」
返事はありません。気を失っているのでしょうか。
とりあえず持っていた手ぬぐいを破り、怪我をしているところに巻きます。
「飲み水もいるだろうか? 近くに川があったな」
急いで川まで向かった優鬼は竹筒に水を入れ、またすぐに戻りました。
優鬼は倒れた人の体を起こして、口に水を飲ませます。
小さく華奢な体、強く握れば壊してしまいそうな腕。それに長く黒い美しい髪。
優鬼は倒れている人が、女だと気づきました。
「人間の女か…… どうして一人で山に」
周りをみると、大きな布服が落ちていて、山菜やキノコが散乱していました。
「山に食い物を取りに来ていたのか」
「んん…… ごほっ、 ごほ」
水を飲んだ女はせきばらいをすると、意識を取り戻します。
「おお! 目が覚めたか、 大丈夫か?」
優鬼はほっとして、笑顔を浮かべます。
「ありがとうございます、 助かりま……」
そう言いかけた女は、優鬼の顔を見ておどろきます。
「ぎゃあああ! 鬼じゃあ」
無理もありません、まさか自分を助けたのが人ではなく鬼なのですから。
女は優鬼を突き飛ばして、勢いよく離れました。
やはりそうかと優鬼は、しゅんとした顔でうなだれました。
そんな優鬼に、女は大笑いをして話します。
「わっはっは! 冗談じゃ冗談、 そんな悲しい顔をするな」
女は優鬼に前に近づいていきます。優鬼はおどろきました。
他の人間は優鬼を見て逃げ出すのに、この女はそれをしません。まるで普通に人と接するように、振る舞うのです。
「おまえは俺を見て怖くないのか? 俺は鬼だぞ?」
「はっはっは! おらは鬼など怖くはない、 村のもんが勝手に怖がっているだけじゃ」
そう言って女はぺこりと頭を下げます。
「助けてくれてありがとう」
感謝の言葉に、優鬼はどういう反応をしていいかわかりません。なせならば、一度も誰かにお礼など言われたことがなかったからです。
「山で山菜を採ってたら、つい足をすべらせて……」
話の途中、女は足が痛むのか顔をしかめます。
「あっ、怪我はもういいのか?」
足や手の怪我が気になった優鬼は、心配そうに尋ねました。
「大丈夫大丈夫! おらは、体だけは丈夫じゃ。こんな痛みなど……」
とは言うものの、やはり痛みがあるのか足を引きずる女。
その足で山を降りるのは難しく、このままでは危ない。
「山菜だってまだ集めないと……」
きっと無理をしてでも、山菜を集める女はその足でまた山を回るのでしょう。
「その足では無理だ、俺に任せておけ」
布服に手をかける女に、優鬼はそう言うと布服を奪います。
「そこで待っていろ、すぐに戻る」
優鬼は女にそう言い残して、どこかへ走り出しました。
山の中を知り尽くしている優鬼は、目的のものがどこにあるかすぐにわかります。
一面に広がる山菜畑。布袋にいっぱい詰め込みます。そしてすぐに、女のいるところへ戻りました。
「どこへ行ってただ?」
「はあはあ……これだけあれば足りるだろう」
優さんは女の前にたくさん山菜が入った布袋を置きます。
「わあ! こんなにたくさん」
女はたくさんの山菜が入った布袋を見ておどろきます。
「こんだけあれば、村人たちもよろこぶだろう」
「そりゃそうだが……なしてこんなに良くしてくれるのじゃ?」
村人たちは優鬼にひどいことをしているのに、なぜ怒らず親切にするのか。
女はわかりませんでした。
「気にするな。それに困っているなら助けるのが当たり前だろう?」
鬼ともなしからぬ言葉に、女はさらにおどろきました。
「おーい! どこだー?」
遠くの方から、さけぶ声が聞こえてきました。
「村の男連中だ きっとおらが遅いから探しに来たんじゃな」
「そうか……ならば 早く戻らないと」
女が鬼に会っていたならば、きっと一大事になるでしょう。
「ここで俺に会っていたことは言うんじゃないぞ」
男たちがこちらに向かってきているのを察した優鬼はそう女に言います。
「でも、おらが話せばきっと……」
女の言葉に、優鬼は首を横に振りました。そして優鬼は山の中へ消えていきます。
「ここにいたか、 心配したぞ? どうした、 その怪我は」
「おお! こんなに山菜を採ってきたのか。すごいじゃないか」
村の男たちは、優鬼が女のために集めたたくさんの山菜を見てそう言いました。
「ああ……優しい人が介抱してくれて、山菜も採ってきてくれたの」
女は男たちに支えられ、山の出口へ向かいます。
「優しい鬼じゃったな」
女は小さな声で言うと、後ろを振り向き優鬼が去っていったほうを何度も見つめます。
「ん? なにか言ったか?」
「……なんもない」
遠くの方で、優鬼は女たちが去っていくのを見守っていました。
「不思議な縁だな、まさか俺が人間と話せるなんて」
優鬼は女たちが見えなくなるまで、ずっとその場所から離れませんでした。それからというもの、女は何度も優鬼に会いに山に行きました。
最初はおどろく優鬼でしたが、何度も会ううちに、二人は仲良くなっていきました。
優鬼はたくさんのことを知ることができました。
女の名が、カヤであること。村に住む村長の一人娘で、歳は十五。優鬼よりも、はるかに若い娘でした。
優鬼も自分のことをカヤに話します。しかし、鬼の話など聞いてカヤどう思うのでしょうか。
優鬼はとても心配になります。
「はっはっは! それはおもしろい話じゃ」
カヤは優鬼の話を聞いて、笑みを浮かべます。それを見た優鬼は、とてもうれしい気持ちになりました。
自分のことを話を、そこまで笑顔になって聞いてくれるのですから。
夕方になり、カヤは村へ帰ります。その際、優鬼はカヤに山菜や、自分が育てた野菜を持たせます。
それは、会いに来てくれたお礼がしたかったのでしょう。カヤは申し訳ないと断りますが、優鬼もゆずりません。
手を振り、カヤを見送る優鬼。その日の晩、優鬼はなかなか眠りにつくことができませんでした。
考えることはカヤのことばかり、優しく気さくで心の綺麗なカヤ。考えれば考えるほど、胸の鼓動が止まりません。
「こんな気持ちは初めてだ」
結局、優鬼は眠ることができずに夜を過ごしてしまいました。
カヤが山に来る日は毎日ではありません。
来ない日はいつものように、山の中で野菜を育て、動物たちの世話をします。
その中で、一つやることが増えました。
「よし、この辺に置いておこう」
山で採れた山菜やキノコを、カヤが住む村人が入ってくる場所に置いておくのです。
カヤのように、山に入って怪我をしたら大変。
食べ物を置いておけば、村人がわざわざ採りに来る必要がないからです。
優鬼の思惑通り、村人たちはその山菜などを見つけると大変よろこびました。
山に向かって手を合わせ拝みます。
「ありがたや、これも山の神さまのおかげじゃあ」
神さまではなく、それは優鬼のおかげ。
しかし、優鬼は満足しています。人と仲良くなることは難しい。みんながカヤと同じではないことを優鬼はわかっています。
けれど、こうしたことをして人間が笑顔になるならばそれだけで良いと考えたからです。
「カヤのような笑顔を見せてくれる人間が俺は好きだ」
カヤと知り合えたことで、優鬼はいっそう人間に優しくしようと思うのでした。
何日か過ぎた日、カヤが優鬼の住む家にやってきました。
「優鬼! 山菜を入り口に置いたのは、 おまえのしわざか?」
やってきてそうそう、カヤは優鬼に詰め寄ります。
「あ、ああ。カヤの村は食料が少ないと、前に来た村人が言ってたから」
何度か山菜を置きに行った時、村人がそう話していたのを聞いていた優鬼。
よかれと思い、最初よりも多めに山菜を置いていたのです。
「やはりか……はあ」
カヤは大きくため息をつきました。
「おまえはなんで、そんなに優しいのだ? いや、優しすぎる!」
「いやあ、そんなことはないぞ? みんなが喜ぶならば俺は嬉しい」
さらにため息をつくカヤは、どうしてか優鬼をにらみました。
「村のみんなが、なんて言ってるかわかるか? 山の神さまのお恵みじゃー!だぞ?」
カヤが怒ったような態度をとるか、優鬼にはわかりませんでした。
なぜ、カヤは怒っているのでしょう?
「山の神さまじゃなくて、優鬼のおかげじゃないか!」
どうやら、優鬼のおかげでうまい山菜が食べられるのに、それを知らない村人に怒っているようでした。
「おまえはいい鬼なのに……なぜ、みんなはそれに気づかないのじゃ」
くやしい顔をするカヤに優鬼は、笑顔で話します。
「そんなに気に病むな、俺がよかれと思ってやっているだけだ」
「だああー! それが甘いのじゃ、少しはいじわるな人間に悪さをしてもバチは当たらんぞ」
自分が悪いことを言われたり、されたりするのだから仕返しもしていいとカヤは優鬼に話しました。
しかし、優鬼は生まれたから一度も悪さをしたことがありません。優鬼はカヤに、自分の身の上話を始めます。
優鬼はもともと、この地に住み着く悪鬼の一族の出でした。
他の鬼は人に悪さをすることが大好き。人が苦しむのを見てよろこぶのが生きがいだったのです。
しかし、優鬼はなぜかそれをすることができずにいました。
「優鬼! なぜ、ぬしは人を食わぬ! なぜ、人を襲わぬ」
一族の長は、そんな優鬼に怒り狂います。
鬼は人間の悪しき心から生まれた化け物。人に危害を加えることのが、鬼の生きる意味なのですから。
「長……なぜ、鬼が人に良いことをしてはいけぬのだ? 優しくすることは悪なのか?」
長は、優鬼の話を最後まで聞き入れませんでした。
そして、何度も悪さをしに行けと言われた優鬼はそれを拒み続けたのです。結局、優鬼は一族から追い出されてこの地に行き着いたのでした。
「そりゃあ俺も人を襲そうとした時もあった。だって、鬼なのだから」
けれど、やはりできない優鬼。他の鬼とも違く、だからといって人と仲良くできる者でもない。
なにもかも中途半端だと、優鬼は感じるのです。
「はっはっは! 優鬼は優鬼でないか」
カヤは優鬼の話を聞いて、ニワトリにエサを差し出します。
「山でひっそりと暮らして、こうしておらとおしゃべりをして……」
先ほどの怒りはどこへやら、すっかり元気なカヤに戻ります。
「おらは……人を襲そうとするより人に優しくする優鬼が……好きじゃ」
そう小さな声で話したカヤは、足早に去っていきます。
「カヤ……」
走り去っていくカヤを、優鬼は黙って見つめました。
この時、優鬼はカヤを慕っていることを自覚します。
「今度会ったら……俺は」
優鬼は飼っている動物たちに見守られながら、その心に決めたのでした。
しかし、その日を境にカヤは優鬼のところへめっきり来なくなりました。
待てども待てども、カヤは優鬼に会いに来ません。
「カヤになにかあったのだろうか」
ここまで長く来ない日はなかったので、優鬼は心配でいてもたってもいられません。
村人に気づかれないように、そっと村の方へ様子を見に行きました。隠れて辺りを見回す優鬼はカヤを探します。そんな時、村の男たちがなにかを話していました。
優鬼はその声に耳を傾けます。
「これで村も安泰だなあ、カヤが助郎のところへ嫁いでよう」
「んだんだー、助郎は村で一番頼りになる男だしなあ」
優鬼は村人の話を聞いて、ひどくおどろきました。
「そうか……そうだものな」
そう一言口にすると、優鬼はしょんぼりして山へ帰っていきます。
家に着いも、優鬼はなにもやる気が起きませんでした。カヤが嫁にいったこと、もうこの山に来ること。
優鬼はまたひとりぼっちになると、思ったら悲しい気持ちになりました。なによりも、カヤに自分の気持ちを言えなかった。それがさらに優鬼を悲しくさせます。
「コケッ! コケッ!」
ニワトリが、心配そうに優鬼に鳴きます。
「心配するな……俺なら大丈夫。はは! 仕方がないことだ」
心配をかけまいと、優鬼は気丈に振る舞います。
ーードスン! ドスン!
すると突然、地面が揺れるほど大きな足音が聞こえてきます。動物たちはただならぬ気配に、震えて優鬼の後ろへ隠れました。
「見つけたぞ、優鬼!」
木をなぎ倒して現れたのは、優鬼のように頭に角、大きくたくましい腕。
鋭い牙がある、赤黒い色の体をした化け物。
「おまえは…… 激鬼!」
優鬼と同じ鬼。激鬼が現れたのです。
激鬼は同じ一族で、鬼の中でも恐れられた悪鬼。森の動物たちが怯えるほど、禍々しい気をまとう激鬼に優鬼はさけびます。
「なぜおまえがこの山に現れた? なんの用できた!」
「ははは! 長の命よ。ぬしのような鬼は、一族の恥だからな! 滅ぼせとのことだ」
そう答えた激鬼は優鬼に襲いかかります。
「おまえたちはどこかに隠れていろ!」
飼っている動物にそう言うと、優鬼は激鬼に向かって走り出しました。激鬼と優鬼は互いにぶつかり合い、激鬼は大きなこぶしを振り上げます。
「ははは、ぬしが俺に勝てると思っているのかよ」
激鬼のこぶしは優鬼の顔に、何度も当たりました。優鬼は反撃はしませんでした。なんとか動きを止めようと、それだけを考えていました。
「やはり、ぬしは人だけでなく鬼も殴れぬか。哀れだな……優鬼!」
激鬼は優鬼を持ち上げ、地面にたたきつけます。
「俺のことは好きにしろ。だが、 この山に住む動物たちには危害を加えぬでくれ……」
ぼろぼろに傷つく優鬼は、激鬼の足にすがりつきました。
「ははは! この期に及んで、まだ他の命を先に考えるか」
「頼む…… 後生だ」
激鬼は優鬼の願いを聞くと、いやらしくにやりと笑います。
「できぬなあ……できぬぞ優鬼。俺は悪鬼だからなあ」
足をつかむ優鬼の手を引き離すと、足で踏み潰しました。激鬼は、近くに隠れている動物に目を向きます。
「生きて喰うか……煮て喰うか」
ゆっくり歩き出した激鬼は、動物の気配を感じながら探します。
どこにいるかなど、激鬼はわかっています。しかし、あえてすぐに見つけずじわじわと探すのです。恐怖におびえる姿は、激鬼にとってよろこびであったからなのです。
「しかし、家を建て畑を作り暮らしていたとは……気に入らぬ」
優鬼が建てた家や畑を見た激鬼は、不機嫌になり壊し始めました。
「やめろ……畑は動物たちのエサにもなるのだ」
「黙れ! この、恥知らずが」
激鬼は追い討ちをかけるように、優鬼を蹴り倒します。
「さて……動物を喰うてから、ぬしを滅ぼすか」
再び隠れている動物を探す激鬼。すると、ピクリと足が止まります。
「くんくん……人間の匂いがするな。それも、女の匂いだ」
辺りを鼻でかくと、激鬼はそう口にしました。優鬼は激鬼の言葉に、はっとします。
「優鬼……まさかと思うが、人間を喰うたわけではあるまいな?」
激鬼は優鬼にそう尋ねますが、優鬼は答えませんでした。
もちろん、優鬼は人など食べません。それよりも、カヤがここに来たと知られたことに優鬼は焦ります。
「そうだよなあ、ぬしが喰えるわけないものな……となると」
激鬼は顎に指を当て、しばし考えます。そして、続けて話します。
「匂いからして……度々女と会うていたな? 人間の女にうつつをぬかしたか」
「違う! カヤとはそうではない!」
思わず口がすべる優鬼。それを見た激鬼は不敵な笑みを浮かべます。
「そうか……その女はカヤというのか。ははは! 気が変わったぞ優鬼」
そう言うと、激鬼は右へ左へなにかを探ります。
「近くに人が多くいる気配がするな……そこにカヤという女もいるな」
「な……なにをする気だ、激鬼」
「知れたことを……その村をぶち壊し、カヤという女を喰うてからぬしを絶望の中で滅ぼしてやる」
そう吐き捨てた激鬼は、ものすごい勢いで走り出しました。
「このままでは、カヤも村人も危ない……」
負いた体をひぎずりながら、優鬼は激鬼を追いかけようとしました。
そこへ、動物たちが出てきて優鬼を止めます。
「わかっているさ…… 村に行けば、 同じ鬼が攻めてきたと思われるだろう」
村に行っても、激鬼に滅ぼされしまうかもしれない。
激鬼を倒して村を助けても、おそらく村の人間は優鬼をそのまま討とうするでしょう。
それでも優鬼は村へ向かいます。
大切なカヤや、カヤが住む村の人たちを助けたいと思ったからです。
たとえカヤが嫁にいったとしても、もう山には来なくても。優鬼の気持ちは変わりません。
「俺が滅んでも気にするな……」
動物たちに別れを告げ、優鬼は激鬼の後を追い村へ向かいます。
「頼む…… 間に合ってくれ」
傷の痛みなど、優鬼は気にもしません。
頭の中は、カヤや村人のことでいっぱいなのです。
場所は変わって、カヤが住む村。
そこにはすでに激鬼が村を襲っていたのです。
「ははは! 怯え恐るる人間は、なんとも気分がよいなあ」
家々を壊し、村人に危害を加える激鬼は破壊のかぎりをつくします。
逃げまどう人、泣き叫ぶ人もいれば、それはまさに地獄のような光景でした。
「山に住む悪しき鬼め、 ついに村を襲うか」
村の若い連中は、激鬼に立ち向かいます。
しかし、鬼の前ではどうしたって敵うわけがありません。
「なんとも非力…… なぜ、 優鬼はこんな人間どもに優しくできるのか」
次々と倒れる人間を見ながら、激鬼は考えます。
人間からは恐れや怯えの他に、別の感情があります。
ーー憎悪。怨念。嫉妬。
それらをぶつけられても、優鬼が悪行をしないことを激鬼は気に入りません。
「考えてたら腹が立ってきた! カヤとかいう女はどこだ?」
激鬼は逃げまどう人間を払いのけ、カヤを探します。
「ちっ…… 火が上がって匂いがわからねえな」
すると、近くで女が子供たちを安全なところへ誘導していました。
「さあ、 早くお逃げ! こっちは火が来ないから」
その女はカヤでした。怪我をしたのか、体は傷ついています。
「カヤ! おまえも早く逃げろ、 鬼がすぐそこにいるんだぞ!」
「村の子供たちがまだ逃げておらぬではないか! それを放って逃げるなど、 おらにはできねえ」
カヤの旦那である助郎は、そんなカヤを放って逃げ出しました。
「優鬼が村を襲うわけねえ…… きっとなにかの間違いだ」
カヤは優鬼がそんなことをするはずがないと信じていたのです。
「みいつけた……」
激鬼はカヤを見つけると、にやりと笑います。
振り向いたカヤに、激鬼は腕をのばしてカヤをつかみました。
「優…… 違う、 おまえは誰じゃ」
「そうさ! 俺は優鬼ではない。 だが、 おまえには優鬼を滅ぼすエサになってもらおうか……」
燃え盛る炎が、村を覆う。
激鬼が村を襲っている同じ頃。
優鬼は、ようやく村までたどり着きました。
「これはひどい……」
あまりにも変わり果てた村の姿に、優鬼は呆然とします。
すでに生き絶えた村人、気を失っている村人が優鬼の目の前にありました。
「うう……」
小さく息が切れそうな声が、どこからか聞こえてきます。
崩れた家の柱に挟まって動けない村人を優鬼は見つけました、
「大丈夫か! 今、 助けるぞ」
崩れそうな柱をどかして、村人を助け出します。
「ひっ、 ひい! 鬼じゃ…… 食われてしまう」
優鬼に気がついた村人は、優鬼を見て怯えてしまいました。
「あまり動くな、 傷が深くなるぞ」
優鬼は怪我をしている村人の足に、手ぬぐいを縛り付ける。
「すまぬが村人よ、 カヤはどこか知らぬか?」
「なぜ鬼がカヤを……」
突然、カヤのことを尋ねられた村人はおどろきました。
「とりあえず、 このままでは危ない」
ひとまず優鬼は村人を抱え、安全なところへ運び出しました。
村人を運び終えた優鬼は、また村に戻ります。
村で同じような怪我人を見つけては介抱したり、燃えた火を消して周りました。
「この鬼が! おまえもあの赤黒い鬼と同じで村を襲うのか!」
助けている時、そのような言葉を村人から言われる優鬼。
そんな言葉を気にもせず、ただ村人を助けていました。
石を投げられたり、村人から殴られても優鬼はずっと我慢しています。
「すまぬが、 カヤはどこだ?」
助けた村人に尋ね回る優鬼でしたが、誰も答えません。
こうもしている間に、カヤが危ない目にあっているかもしれない。
優鬼は次第に焦り始めました。
その時でした。村人の一人が、優鬼に話します。
「カヤなら…… 村の子供が心配で見に行ったぞ。 たしか、 向こうの方だ」
村人が指差した方へ、優鬼は振り向きます。
「そうか、 ありがとう!カヤを助けにいかねば」
教えてくれた村人に頭を下げた優鬼は、急いで向かいました。
「おい…… なんで鬼なんかに教えてたんだ?」
「いやあ、 なんか悪いやつじゃなさそうだったからつい」
優鬼はカヤがいるところへ、急ぐ急ぐ。その速さは、まるで鳥のようでした。
激鬼の気配を感じた優鬼は、火で燃えている大きな家を見つけました。
そして、迷うことなく家の中に入っていきます。
「ははは! 遅かったなあ、 優鬼」
炎の中で、カヤの体を掴む激鬼は優鬼を待っていました。
「カヤ! 無事か? 怪我はないか?」
「優鬼…… 来てくれたのか。 おまえこそひどい傷じゃないか」
優鬼の傷を見ながら、カヤは心配そうに優鬼を見つます。
「おうおう、 実に泣かせる話じゃないか。 ええ? 優鬼よ」
激鬼は茶化すように、優鬼をにらみつけました。
「激鬼…… カヤを離せ」
「今からこの女を喰らうのよ、 俺が離すと思うか?」
優鬼は震えながら、こぶしを強く握りしめました。
おそらく、初めて怒りというものを覚えたのでしょう。
「しかしよく見れば見るほど美しい女だな、 優鬼がうつつをぬかすのもよくわかるわ」
激鬼はカヤの顔に近づけると、匂いを嗅ぎました。
「喰らうのも惜しいが、 優鬼を滅ぼすためよ。仕方あるまい」
激鬼は口を大きく開け、カヤを喰らおうとします。
「やめろ! 激鬼」
優鬼がさけんだ瞬間、 カヤは激鬼の頬を思いっきり平手打ちをしました。
「誰がおまえなんぞに食われてたまるか! おらは…… 食われるなら優鬼がいいわ」
なにが起こったかわからない激鬼。
鬼にもたたかれたことがなかった激鬼は怒り狂い出しました。
「この……女がああ!」
激鬼はカヤを地面にたたきつけようと、カヤごと腕を振り上げます。
「カヤ!」
優鬼は激鬼に向かって、こぶしを突き出しました。
生まれて初めて、誰かを殴る優鬼。
それは、カヤを守りたいと思う気持ちの表れだからです。
優鬼の放ったこぶしは、激鬼の顔に当たりました。
まるで岩のように固く、力強いこぶしに激鬼はよろめきます。
殴られたことで、激鬼の腕から離れたカヤを優鬼は受け止めました。
「優鬼…… おらは、 おらは」
「なにも言うなカヤ、 わかっている」
泣きながら抱きつくカヤを、優鬼は黙って見つめました。
「くそがあああ! 人間の女にだけでなく、 ぬしなんぞの鬼にも殴られるとはなああ」
優鬼に殴られた顔に手を当てた、激鬼は恨みまじりにそう話します。
「離れていろカヤ、 ここは危ない」
優鬼はカヤにそう言い、この場所から遠ざけました。
「人間を喰らうのはやめだああ、 今は優鬼…… ぬしを滅ぼしたくてたまらんわ」
「激鬼…… 俺はできるならば、争いたくはない」
優鬼の言葉は、さらに激鬼を激怒させました。
「争いたくないだと? 暴れて騒ぎ、 人間に恐れられるのが鬼だろうが」
争い、人を恐怖や絶望をもたらすこそが、鬼の本分。
激鬼には、きっと優鬼の言葉は届かないのでしょう。
それだけ激鬼は、純粋な悪鬼なのです。
優鬼は仕方なく両腕を構えます。
「やる気になったか! だが、 ぬしに俺を滅ぼせるのかあ?」
激鬼も腕を構え、そう優鬼に話します。
「滅ぼしはしないよ、 本当なら殴るなど俺はしたくはない……だが!」
優鬼は、またぎゅっと強くこぶしを握りました。
「おまえはカヤや村人を傷つけ、この村を襲った……俺はそれが許せない」
「ああ、 それでよいぞ優鬼、 それでいいのだ」
周りに火が舞う、お互いにこぶしを構える優鬼と激鬼。
二匹の鬼はにらみ合い、しばし沈黙が続きます。
先に仕掛けたのは優鬼でした。
優鬼は力いっぱいにこぶしを激鬼にぶつけます。
激鬼はこぶしを払い、逆にこぶしを優鬼の腹に食らわしました。
「ごふっ……」
腹を殴られた衝撃が痛みに変わり、全身に広がっていきます。
それでも優鬼はこらえて、鋭い爪で激鬼を引っかき返しました。
「痛え…… やるじゃないか、 優鬼」
その後も、お互いに殴っては殴り返します。
やはり強い激鬼。多くの戦いをしてきたのか、その力は優鬼よりも上でした。
しかし、優鬼も負けてはいません。
ここで倒れたら、カヤや村人がまた危険にさらされる。
そう考えた優鬼は、倒れるわけにはいかないのです。
「はあ…… はあ、 まだまだあ!」
優鬼は激鬼をつかみかかり、地面へと押し付けます。
「ちっ、 ぬかったわ! はあはあ…… まさか、 ここまでやるとは」
「ここまでだ激鬼…… 今すぐ、 この地から出て行け」
すでに優鬼も激鬼もお互いに傷つき、いつ倒れるかわかりません。
優鬼は激鬼にそう言いました。
どんなに村を襲った許せない激鬼でも、同じ鬼をこれ以上傷つけたくないと優鬼は思ったのです。
「ぬるいな、 ぬるいぞ優鬼。 そんなものでは、後悔するぞ?」
その時でした。
すでに逃げたと思っていたカヤの声が聞こえてきます。
「んん? どうした優鬼、 あの娘を助けにいかぬでよいのか?」
押さえつけた激鬼の体を離すと、優鬼は声が聞こえたところへ向かいます。
燃える家は大きく、広い部屋を探していると、カヤを見つけることができました。
「大丈夫か? カヤ、 なぜ逃げなかった」
「周りが火の海で…… それに優鬼が心配で」
「とにかく、 早く家から出よう。 ここは危険だ」
優鬼はカヤを連れ、崩れ落ちそうな家から出られる場所を探しました。
すると、人が入りそうな穴を見つけます。のぞくと、外へつながっているようでした。
優鬼はカヤを穴から出るように言いました。
「この穴を通れば外に出られるはずだ。 さあ、 早く」
カヤを外へ逃がそうとした時でした。
「だから言っただろう! 後悔するとな」
壁をを壊して激鬼が再び現れると、優鬼の首を強い力で締めました。
「激鬼…… 去ったのではなかったのか」
「去るわけなかろうが! 言ったろう、 ぬしを滅ぼすとなあ」
「きさま……」
激鬼が締める手の力が、さらに強くなっていきます。
次第に意識が遠のいていく優鬼。
ーーカヤや村人は助けることができた。後は、できるかぎり遠くに逃げてくれれば。
自分の死期が近いと悟った優鬼は、そう心の中で思いました。
「ははは! 覚悟せい……優鬼!」
激鬼はとどめを刺そうと、右手の鋭い爪を優鬼に向けます。
「所詮、ぬしは鬼だ。 ここで朽ちても、誰も悲しまんだろうな!」
その通りだだろう。人ではなく、人間が恐れる悪しき鬼。
どんなに優しくしても、どこへ行っても嫌われる存在。
優鬼はそう考えました。
ーーカヤはどうなのだ?
ふいに、カヤを思い浮かべた優鬼。
あの優しいカヤは悲しんでくれるだろうか?滅んだら、涙を流してくれるのだろうか。
思ったところで、カヤはもういません。
逃げて旦那と幸せに暮らせればいいと、優鬼は笑みを浮かべます。
「やるなら、早くしろ……激鬼」
「わかっているよ優鬼、 あの世でいくらでも優しくしているがいい!」
覚悟を決めた優鬼は、目をつぶりました。
「カヤ…… 幸せにおなり」
小さくつぶやいた声は激鬼には聞こえません。
激鬼の鋭い爪は、優鬼を引き裂こうとしていました。
「優鬼ー! 優鬼ー!」
今にも引き裂かれようとした時、自分の名前がさけばれていることに気づきます。
「優鬼、 無事か? 怪我はないか?」
心配する声は、カヤの声でした。
カヤは燃える火などおかまいなしに、優鬼に近づいていきます。
「カ……ヤ、 どうして戻ってきた」
「ばかもの! 優鬼が心配に決まっておるだろうが」
涙ぐみながら、カヤはそうさけびます。
優鬼は感じました。こんな自分にも涙を流してくれる人がいることを。
「やい、 そこの鬼! 優鬼を離せ、 この!」
カヤはがれきのつぶを、激鬼に向けて投げつけました。
「優鬼にはこんなところで死なれては困る! おらは…… おらは」
何度も何度も投げて、なんとか優鬼を助けようとしています。
「おらは、 優鬼に生きていてほしい! みんなに嫌われようとも、 おらだけでも優鬼に優しくしてやりたい!」
「おんなぁ…… これから優鬼を滅ぼすのに、 邪魔をするんじゃあねえ!」
激鬼はカヤに襲いかかろうとしました。
その爪は優鬼ではなく、カヤに向かって伸びていきました。
「カヤァァァ!」
優鬼は庇おうとカヤの前に立ち、激鬼の爪から守ろうとします。
「ぐふっ……」
激鬼の腕が、優鬼の腹を貫きました。
優鬼の腹からは、おびただしい血が流れています。
「おのれぇ…… 離せ、 離さぬか優鬼!」
「離さぬよ…… 激鬼、 俺はその腕を決して離さない」
貫かれてもなお、優鬼は激鬼の腕をつかみ離しませんでした。
「ああ…… はやく腕を抜くのじゃ優鬼! このままでは、 おまえが死んでしまう」
後ろにいたカヤは、すぐに優鬼のとなりへ近づきました。
傷を負う姿を見ながら、声を震わせています。
「ならばこれでどうだ! 俺にはまだ、 片方の腕が残っているのだぞ」
激鬼はもう片方の腕を伸ばし、なおもカヤを狙おうとしていました。
「激鬼ぃぃぃ!」
それを見た優鬼は、激鬼の名前をさけびながら爪を立てた手を激鬼に向かって突き出しました。
優鬼の手は激鬼の左胸を捉え、突き抜きます。
「がはっ…… ぬっ、 ぬしなんぞに、 やられるとはな」
「……激鬼。 すまぬ…… 兄者」
激鬼はその言葉を最期まで聞くことなく、ゆっくりとその場に倒れ込みました。
倒れた激鬼に、優鬼は涙します。
家の火はさらに増し、今にも崩れ落ちようとしていました。
先ほど見つけた穴も、すでにがれきでふさがって出れませんでした。
「カヤ…… ここはもう限界だ、 おまえは早く逃げろ」
「優鬼、 おぬしはどうするのじゃ! 逃げるなら一緒に……」
カヤは優鬼を腕をつかむと、優鬼から大量の血が流れているのに気がつきます。
「俺は…… 動けそうにない。 だから、 カヤだけでも逃げるんだ」
優鬼は腹に手を当てながら、カヤにそう話します。
「嫌じゃ! おらはおまえを置いてはいけない」
優鬼の話をカヤは聞かずに、その場を動こうとはしませんでした。
すると、家の外から声が聞こえてきます。
「カヤー! 無事か? 今、 出してやるからなあ」
外にいた村人でしょうか、 家のどこかでなにかを壊す音も聞こえました。
「中に鬼がいるんだろう? カヤ、 早く逃げるんだ! 」
村人が懸命に声をかけますが、カヤは優鬼から離れません。
「このままでは、 おまえまで焼け死んでしまうぞ…… カヤ、 早くゆけ」
「いやじゃ! おまえはおらだけじゃなく、 村人も助けたのだろう? そんなおまえを見捨てることはできね……」
燃え盛る炎の中で、しばらく沈黙が続きました。
すると、優鬼はカヤに笑顔を見せます。
「優しいカヤ…… おまえはここで死ぬような娘ではない、 カヤは誰よりも優しい」
そう言うと、優鬼はカヤの頬に手を当てます。
「俺は…… 人に恐れられる鬼だ。 みなは俺を恐れ、 憎むだろう」
「そんなことはねえ…… みんなに話せばきっとわかってくれる!」
カヤは優鬼の腕に触れ、そう答えました。
「だが、おまえのような娘に…… 人に感謝されたなら、 俺はそれだけで満足だ」
村人が近くの壁を壊し、中に入ってカヤを助け出そうとしています。
優鬼は壊れた壁に、穴が開くのをじっと見ていました。
そして、カヤの顔から手を離しました。
「……優鬼?」
自分の顔から手が離れたのに気がついたカヤが優鬼の名前を呼びます。
それと同時に、優鬼はカヤの体を前に押し出しました。
人間からならば、ほんの数歩ほど下がるだけでしょう。
けれど、鬼である優鬼に押し出されたカヤの体は勢いよく吹き飛びました。
カヤは壊された壁の近くまで吹き飛び、ちょうど中に入ってきた村人たちに受け止められます。
「大丈夫かカヤ! もう崩れ落ちる、 早く外へ出るぞ」
村人たちに抱えられながら、カヤはさけびました。
「まだ優鬼が残っているんじゃ! 離せ、 離せー!」
「なにを言っているだ! 鬼なんぞ、 そのまま焼けてしまえばいいんだ! ほら、 いくぞ」
暴れるカヤを無理やり外へ連れ出す村人たち。
カヤが見えなくなるまで、優鬼はそれを見届けます。
「今度こそ、 さらばだカヤ。 ありがとう……」
家の屋根が崩れ落ち、優鬼は炎の中に消えていきました。
「優鬼ぃぃぃ!」
カヤは優鬼の名前を何度も何度も、さけび続けました。
一夜が明け、カヤは優鬼がいた大きな家の前で立ち尽くします。
火は消し止められましたが、家は崩れ落ちて跡形の残っていませんでした。
カヤは優鬼を見つけようと、家の中を探していました。
しかし、どこを見ても優鬼の姿はありません。
「優鬼……」
カヤはその場で膝をつき、泣き崩れます。
「まったく、 鬼はなんてことをしてくれたんだ。 だが、 鬼が死んでよかったわい」
「そうじゃそうじゃ。 いなくなってくれたなら、もう鬼に怯える必要はないの」
村人たちの言葉に、カヤは怒りをあらわにします。
「なにがよかっただ! 優鬼は、村を守ってくれたのじゃぞ!」
村を襲い、村人たちに危害を加えたのは激鬼でした。
そんな村人たちを助け、被害が少ないようにしたのが優鬼なのです。
しかし、村人のほとんどがその事実を知りません。
ただ、村を襲った鬼が優鬼だと思っていたのです。
「それだけじゃない! 村に飢えがないように、毎日山菜を採って届けてくれたのは優鬼なんじゃ」
「そんな馬鹿な話などあるものか! 鬼だぞ? そんなことをする鬼など、 聞いたことがない」
カヤが話す言葉に、村人は誰も信じようとしませんでした。
「優鬼は…… みんなが思う恐ろしい鬼なんかじゃねえ! 心優しくて、 いい鬼なんじゃ」
優鬼がどんなに優しくしても、いいことをしても村人たちには届かない。
それがカヤにとって、もどかしく腹ただしいのでしょう。
「カヤの言っていることは、 間違ってねえ」
次第に集まってきた村人の中から、そんな声が聞こえます。
「たしかに鬼はいた、 だが一匹はおらの怪我を手当てしてくれた。 子供だって助け出そうとしていた」
「ああ、 おらたちだったら助けるのは無理じゃった」
その声は、優鬼が助けた村人でした。
「そうじゃ! 優鬼は村を襲っていた鬼から、 おらたちを守ってくれたんじゃ」
村人の犠牲が少なく済んだのは、優鬼のおかげでした。
「おら…… 悪いことをしちまった。 あの鬼にひでえこと言っちまったし」
「んだな、 わしは礼の一つ言わんかった」
もう優鬼のことを悪く言う村人は、他にはいません。
みんなが優鬼に感謝をし、そして後悔していたのです。
「けど…… 優鬼はもういない」
この場に優鬼がいたならば、きっと嬉しい気持ちになっていたでしょう。
せっかく村人が優鬼の優しさに気づいたのに、それは叶いません。
カヤは深い悲しみの中、涙が枯れるまで泣き続けました。
それから少し長い年月がたちました。
村人たちは、山に一つの社を建てました。
優鬼の善行に感謝して、村を守ってくれた神さまとして祀ったのです。
多くの人は社を訪れ、優鬼に祈りと感謝を伝えます。
「あの出来事が、 まだ昨日のように感じるぞ…… 優鬼」
カヤは社で手を拝むと、そう口を開きました。
優鬼がいなくなった後も、カヤは毎日のように山に行き、社の前でその日のことを話すのが日課になったのです。
「おらももう十八じゃ、 あの根性なし亭主と離縁して自由に生きておるぞ!」
カヤはせいせいしたような口ぶりで、笑いながら話します。
「今では鬼嫁じゃ! 元鬼嫁じゃとからかわれているわ」
誰もいない社で、カヤは一人話し続けました。
「優鬼…… おまえが生きていたら、 なんと言うだろうか」
カヤの声は次第に暗くなります。
どんなに年月が過ぎようとも、優鬼がいなくなった悲しみが消えることはありません。
気がつけば、カヤの目には涙が浮かんでいました。
「ああ! こんなところで泣いていたらまた優鬼に心配されてしまうわ!」
涙を拭い、またいつもの明るいカヤに戻ります。
「さてと…… そろそろ行くかな! たくさん山菜を採っていかなきゃ」
カヤもまた、山菜を見つけては村人たちに分け与えていました。
優鬼がいなくなってから、優鬼と同じように村人のためになにかをしようと思ったからです。
「……また明日来るからの」
カヤはもう一度手を拝み、社を後にします。
すると、どこからか優しい風が吹き出しました。
どこか懐かしい、温かく優しい風。
「今まで…… どこにおったのだ?」
カヤは振り向かず、目を閉じてそう誰かに尋ねました。
「……」
「はは! なにも言わぬか。 おまえのことだ、 どうせどこかで誰かに優しくしていたのだろうさ」
ゆっくりと目を開け、カヤは振り返ります。
「カヤ……」
その声に、カヤが微笑んで言いました。
「……おかえり」
むかしむかし、鬼が住むと言われる山がありました。
近くに住む村人からは、山に行けば鬼に会う。
鬼に会ったら喰われてしまうと、それは恐れられていました。
しかし、それは間違いでした。
本当は心優しく、人のために良いことをする鬼。
その鬼の名は……。
完。