【8】
あれからどれ程の年月が経過したのだろうか…
逮捕される直前の元プロ野球選手、尾崎 千央との会話は印象深く、今でも私の脳裏に刻まれている。
やれ人生はゴルフみたいなものだ、とか。
将棋こそ人生、であるとか。
自分が心血を注いできた事物を人生に例える者が、人間の中には一定数見受けられるが、野球についてアレコレ教授してくれた尾崎も、そのような種類の人間だった。
「人生とは野球だ」尾崎の言葉。
『どういうことだ…』
彼の人となりを知るために、私は発言の意図をさり気なく訊ねてみることにした。
不倫騒動から金銭問題、そして薬物疑惑まで…多方面から様々な疑いの目を向けられ、四六時中マスコミに追い掛け回されていた尾崎が、一時的な避難場所としてホテルに身を隠していたときのことである。
私はルームサービスを運ぶホテルの従業員に扮し、尾崎の部屋に入った。
黒い法服を着て、労働に当たることを義務づけられている私たち担当者は、対象者に十中八九、怪訝な眼差しを向けられる。
しかしその時季は、運良く10月下旬のハロウィーン・シーズンで、私は「ホテルの従業員は皆、思い思いの衣装を選び、ハロウィーン仕様の格好で業務に当たる」とうそぶいた。
どう贔屓目に見ても騙せ通せたとは到底思えなかったが、非日常の生活が尾崎の判断力を狂わせていたのか、或いは牙をむく敵と私は認識されなかったのか…「しばらく、ここにいていいか?」と訊ねる私に…「お好きにどうぞ」と彼は客ではない私に対してソファーに座るように促した。
人間の行動は説明のつかないものばかりだが、そのときの尾崎は平常心を失っていたのだろう。
その年の、日本で一番強いプロ野球チームを決める試合を見ながら、私たちは話をすることになった。
騒動の渦中にあった尾崎は、警戒心からか、唯一の得意分野である野球に関する問い掛けにも、始めはポロポロと話す程度だった。
しかし彼の口は次第に軽くなっていった。
単純に話し相手が欲しかっただけ、かも知れない。
「人生は野球か…どういうことだ…」
私は独り言のように呟く。
私には尾崎が呼応する確信があった。
野球の話題を向けられ、プロ野球のスター選手だった男が、口を噤み続けることは困難に思えたからだ。
「そう野球は人生そのもの。あの投手は逃げ続けている。これ以上ない大舞台にも関わらず…勝負していない。あいつは野球だけじゃなく、きっと人生も逃げ続けるよ。よく知らない人間でも野球選手なら、プレーを見ただけで、その人間の本質は見極められるってことだ」テレビを眺めながら尾崎は何度も頷く。
テレビ画面いっぱいに、大写しにされたその投手の顔からは、大粒の汗が滴り落ちている。
『ホテルの客室にいる我々にも飛散してきそうだな』
限界を迎えているのは素人目にも明らかだが、それでも尚、男はマウンドに立ち続けている。
そして彼は、捕手の構えたミットから大きく外れた、とんでもない場所にボールを投げ続けている。
それが…今彼が出来る唯一のことであるかのように。
バッターボックスに立つ対戦相手はバットを担いでいるものの、一度も振ることなく、塁上は相手選手で全て埋められた。
『尾崎、お前だって…マスコミから逃げまくってるじゃないか!』
そんな声が脳内に充満し溢れ、喉元まで出掛かったが、私は自重した。
人間は、自分が不利益を被る真実を他人に突きつけられると、黙り込んだり、言い訳に終始したり、その場から逃げ出したりする。最悪の場合、忠告者が逆ギレされる恐れもある。
それは私の労働にとってマイナスに作用することが多い。
だから取りあえず、こちら側が黙る。
「なるほど…」
言うべき言葉を見つけられない私は、機械的に相づちを打つ。
「完全に一人相撲だよ」
「相撲か…あの投手…まわしは着けていないが?」
「フンッ…マジか? おばさん…教養ゼロだな」
野球一筋、野球バカの尾崎に私は鼻で笑われてしまった。
冗談を真剣に受け止められること程、悲しいことはない。
世の中にある悲しい出来事のワースト3に入る。
テレビが見られなくなるのと同じくらい辛い。
『おばさん・・・か?』まただ。
私の容姿は、どうやら人間の中年女性に見えるらしく、対象者と対峙すると『おばさん! おばさん!』と呼ばれることが多い。
しかし、私たち担当者に性別の概念は存在しない。
よって、その呼称は誤りである。
ただし、[人間は自らの目を疑うことのない生き物]と理解している私は肯定も否定もせず、ひたすら無視することにしている。
そして人間は空気を読む生き物でもある。
話し相手が黙っていると、その事柄に触れなくなる。
その習性も理解している私は、ただ黙って時が過ぎるのを待つ。
余談だが…『いったい私はどう見られているのか?』と人間は他者の目を必要以上に気にするくせに、対象者は私の容姿に関することはズケズケ容赦なく訊ねてくる。
私の右目は眼球が外側を向いている、いわゆる外斜視なのだが…「どうしたの? それ…。何か怖いんだけど…」と対象者は目を合わせることなく、言葉の暴力を浴びせてくる。
私が外斜視になってしまったのは、哀れな人間を直視し続けたことが原因であるのに…何という冷淡な問い掛けだろうか?
人間全般に言えることだが、特に対象者だった者には少しくらい責任を感じて欲しいものだ。
まぁ自分の外観に、私は一ミリも関心がないので、どうでも良いことではあるが。