【26】
救急車が走り続けている間、言葉を口走り続けていた私の口を塞ぎたかったのだろうか、樋口と私を乗せた救急車は停車した。喧しいサイレンも止められる。
車窓から外に目を向ければ、要塞然としたご立派な建物が見える…病院に到着したのは間違いないようだ。
そして[恐竜の口]のような救急車の後部ドアは開かれ、車外には青い術衣を纏った医師や看護師が待ち構えていた。
この場で直ぐにでも、手術を施しそうな勢いで…彼らはまるで手招きしているかのようだ。
以前、対象者だった寿司屋の大将が、手のひらに酢を塗りたくり、カウンターの客に対して注文を促している光景が重なった。
『お客さん…何から握りましょう?』
病院側にとってみれば、マスコミに取り上げられている事件事故の患者を…『簡単に死なせる訳にはいかないだろうな』と私は医療従事者の彼らを慮る。
樋口は無事に白い恐竜の口から吐き出され、暗い病院の敷地内を進む。先を急ぐ医師たちの手に後押しされ、薄暗く、しんとした病院の廊下をストレッチャーに乗せられた樋口は更に進む。
『樋口の未来を暗示しているかのような暗さだ』などと馬鹿の一つ覚えの人間が言い出しそうな景色だが、単に夜だから暗いのだ。そして診療時間外で患者がいないから静まり返っているだけである。
初めての病院で、待合ホールの場所が分からない私は、取りあえず樋口について行く。
切迫した空気を醸し出すために、必要以上に声を立てる医師たちの後ろから私も続く。
50メートル程進んだだろうか、広く開けたスペースがあり、そこには黒革の長椅子が規則正しく並べられていた。そしてその前方には、スイッチは消されているものの、大画面テレビが、その場の主のように置かれている。
『樋口! 私はここでテレビを見て行く。ここで…お別れだな』
答えないことと知りながら、私は惜別の言葉を樋口に送る。
地上に転落してから、一貫して私の言葉に無反応だった樋口。
しかし私の最後の言葉に呼応したかのように、樋口の右手がストレッチャーからだらりと落ちた。
『何だ樋口! その手は…私に手でも振っているつもりか?』
『手・・・手・・・手・・・手・・・か?』
『手だ!』
私は新たな対象者と対峙したときに訊ねようと思っていた事柄を思い出した。
樋口との遭遇場所が、比較的緊張感のあるビルの屋上ということもあり、頭の片隅から“それ”はすっかり消えていた。
クイズ番組司会者の藤堂が口にした最終問題の解答を・・・
身勝手にテレビのチャンネルを変えた兼子のお陰で、見そびれた10000点の正解を・・・
対象者から何とか聞き出せないものか、と私は考えていたのだ。
しかし新しい対象者である樋口に会ったとき、開口一番訊ねようと、脳内に保管していた“問題”は一時的に私の中から忘却されていた。
『正解は・・・』
数時間前、定食屋のテレビの中にいた司会者の藤堂が、待合ホールの真っ黒いテレビ画面に現れ、そこから外に這い出てこようと上半身を乗り出している。そして私に解答を急かしてくる。
『正解は・・・』
『樋口!』
私は慌てて声を上げる。
『樋口!』
ストレッチャーに寝そべる樋口に向け、声を立てる。
『樋口!』
『おい樋口! ジャンケンで負けない手があるらしいのだが…お前知らないか?』
『正解は・・・』
『おい樋口! ジャンケンで負けな・・・』
静まり返る待合ホールで、私の声は私の鼓膜だけを震わせる。
先を急ぐ樋口を乗せたストレッチャーは、廊下を左に折れ…樋口は口を噤んだまま救急外来へと消えていった。
けれど・・・
私は樋口を追わない。
私はテレビを視聴するために、この病院に来たのだ・・・から。
樋口が私の視界から消えるや否や、待合ホールのテレビ画面から飛び出そうとしていた藤堂の姿も消滅した。




