【17】
『他の生物』
自分が口にした、この語句によって記憶の扉が開いた。
二十年近く前の出来事である。
以前私は対象者として、人間ではなくアゴヒゲアザラシを担当したことがあった。
我々が担う対象者は必ずしも人間とは限らない。
イレギュラーなことではあるが、他の生物を担当することもごく稀にある。
元来、海に生息するアザラシが、東京と神奈川の県境を流れる多摩川に出没したのが、事の始まりである。
物珍しさからか見物人が大挙して押し寄せ、マスコミにも大々的に取り上げられ、大騒動になった。
住民票が交付されるなど、度か過ぎる面も見受けられたが、アゴヒゲアザラシが起こした騒動はブームとなった。
そして[近隣他県の自治体による暗黙の要請]が[騒動の結末]となり、後に神奈川県の鶴見川や埼玉県の荒川にも彼は出没することになった。
しかし良い意味でも悪い意味でも、注目されなくては騒動と認定されない。
そのため関心の目を向けられなくなった彼は、当然のように行方不明となり、私は担当者ではなくなった。
とても協力的だった彼は、私にとって忘れられない対象者である。
リラックスして陸地に横たわる彼の姿を、私は忘れることが出来ない。
過去の対象者…アゴヒゲアザラシに意識を向けていた私は、現在の対象者…樋口をほったらかしにしていた。
大人に構われない子供のように、私に対する苛立ちを隠すことなく、樋口は語調を強める。
「さっきから…お前たち人間は…人間は…人間は…って散々繰り返してるけどさ…おばさんだって人間じゃん!」
『ん? それは聞き捨てならない! 承服しかねる!』と言わんばかりに私は故意的に下唇を突き出す。
「えっ…違うの?」
「失礼な、一緒にしないで頂きたい! 姿形に違いはないが、お前たち人間と私は似て非なるもの」
私は憮然とした顔を意図を持って作り、突き放すように反論し、こう続けた。
「言わば私は…細部まで精巧に作られ、ショーケースに飾られている人間そっくりのマネキン。いずれ朽ち果てる生物のお前たちとは違う。私の旅路は幸か不孝か永遠…終わらない。使命とはいえ生物、とりわけお前たち人間と関わり続けなければならないと思うと…溜息しか出ない」
『模して作られたレプリカの方が価値がある』と言い放つ私の主張が理解出来ないのか?
或いは自分の物差しでしか物事を判断出来ないのか?
私の言葉を妄言と決めつけ、得体の知れない生物でも見るかのような、怪訝な表情を樋口は浮かべている。




