【16】
「もしかして、裏切られる以前の問題…。お前、心を許している存在がいないんじゃないか? そもそも自分を裏切る人間が存在しない…違うか?」
図星だったのか、樋口は再び黙り込む。
「お前がこのビルに来て、一時間以上は経過したはずだが…心配して誰かが駆けつけた形跡は見受けられないな…」
人間の真似をして、何も巻かれていない左手首を、私は眺めて見せる。
「何だ…やはりお前には友情や愛情を確かめ合える存在はいないじゃないか…ゼロだ! 樋口~は ひと~り アロ~ン アロ~ン 樋口~は ひと~り アロ~ン アロ~ン」
手を一定のリズムで叩きながら言葉をメロディーに乗せ、私は樋口を揶揄する。
そして…『はーっはっはっはっはっ』と夏空に笑い声を響かせた。
意気消沈したのか、樋口は貝になったまま、閉じ続けている。
「樋口、お前に訊ねるのはお門違い。それは重々承知しているが…なぜ人間は役割を限定するんだ?」
親子、夫婦、兄弟、恋人、友人 …
そして会社員、学生 …
人間は名称を、役割を限定し、その役目を果たそうとする。
同じように役割を果すことを相手に求め、十分でないと感じると非難する。
そして、ただのグループ分けに過ぎないのに、限られた期間にも関わらず、その名称や役職に属する自分に価値があると盲目的に思い込んでいる。
それをステータスと呼び。
どうして人間は年を重ねて行けば行く程、役割を脱ぎ捨てた、剥き出しの[一個人]として、互いに向き合うことが出来なくなるのか?
まだ立ち上がることが出来ない、四肢を使い這いずり回る赤子は可能なのに…無事に成長を遂げ、難なく二足で歩行し得る大人はどうして…。
人間には成長する過程で、何かを得たら何かを手放さなくてはならないという約束事でもあるのだろうか?
「よく見てみろ!」
身動きが取れず、静観せざるを得ない警察官に対して私は指を向けた。
「再三、お前に言葉を投げ掛けていた警察官の男。確かに、ビルの屋上にいるアイツは警察官だ。しかし家に帰れば夫かも知れない。父親かも知れない。今現在は不明だが、確実に息子だったはずだ。だが“呼び名”“肩書き”という衣を脱ぎ捨てれば、警察官であるアイツも、ただの…一人の…人間に過ぎない。一個人として向き合うことが出来ない者に、お前たち人間が定義する友情や愛情、そして信頼の真の意味が理解出来る訳がない」
「なんかさ~あれこれ偉そうなこと言ってるけど…おばさんが友達いないんじゃないの?」
理由は分からないが、突如として元気を取り戻した樋口は薄ら笑いを浮かべ、侮蔑を顔全体に表出させ、無遠慮にそれを私に向けてくる。
「友達? 友達ねぇ…お前たち人間に関わるようになって、初めてその概念が生まれたよ私の中に。お前たち人間以外の生物に、友達は存在しないぞ! 知能は低いが、他の生物の方が遥かに自心に忠実で本能的だ」
『私の友達はテレビだ~!』
そう叫んだところで、聞く耳を持たない人間の心に届く訳がない。
だから私は自制する。




