【14】
カビの胞子が漂ってきそうな、西日が遮られている薄暗い階段を、平地を歩くように上り、私はあっという間にビルの屋上に到着した。
担当者である私はテレビのスイッチ同様、エレベーターのボタンにも触れることが出来ない。
よって建物の上り下りには階段を使用することが多い。
それは乗り込む人間が、いつ現れるか分からないエレベーターを待つより、明らかに効率的だからだ。
地上にいたサラリーマン風の男の証言通り、柵を乗り越えたであろう対象者は、屋上の縁に座り、宙に足を投げ出していた。
今回の対象者は痩せ型で、目元が窺えないくらい長い前髪を垂らしている。
実際にベジタリアンかどうかは不明だが、いわゆる草食系、オタクと呼ばれる部類の若い男だ。
顔にはまだ幼さが残るが、スーツを纏っていることから、社会の一員であることが窺える。
そして傍らでは、男と一定の距離を保つ警察官がハンドマイクを使い、何やら説得を試みている。
「樋口さん、お話ししませんか?」
警察は男の身元を把握しているようだ。
男に対して『樋口』と呼び掛けている。
警察官は男に無視され続けているが、ビルの縁に座る男の方角から、携帯電話の着信音が途切れることなく聞こえてくる。
『おそらく、自殺を思い止まらせる警察からの電話だろう』
あの対象者の名前は樋口で間違いないようだ。
『お前たちも働いている最中か? 大変だな』
私は警察官に向け、決して届かぬ労いの言葉を掛ける。
そして、初めからそんなもの無かったかのように、私はビルの柵を通り抜ける。白い塗装が所々剥げ、錆びついている柵を通過する。
樋口の真横まで歩みを進め、私は言葉を投げ掛ける。
「今時珍しいな?」
「何のつもりだ?」
「人間お得意の自己顕示欲ってやつか?」
私は樋口の背中に向け、矢継ぎ早に質問を浴びせた。
中空を眺めていた樋口は、私に一瞥をくれたが、存在を否定するかのように視線を直ぐに空に戻す。
「何も…僕は自殺するなんて一言も言ってないけどな~」
私に対する発言なのだろうか、体勢を変えることなく、樋口は警察官には聞こえぬ声量でボソボソっと声を漏らした。
「では…そこに座っている理由は何だ? まさか…自分は鳥人間で、今から空を飛ぶ姿をギャラリーに披露するつもり、何て言い出さないだろうな?」
バックパックを背負う樋口の背中を、私は外斜視の瞳で凝視する。
「それとも…それはパラシュートなのか?」
私は地上にいる野次馬に顎を向ける。
「よく見てみろ!」
安全地帯にいる人間たちは、誰それ構わずスマートフォンを取り出し、ビルの屋上にいる樋口にレンズを向け、騒動の一部始終を録画し続けている。
「お前にとっては一世一代の行為かも知れないが、地に足を着けている部外者にとっては、日常のありふれたイベントの一つに過ぎないらしい。誰かに話す格好のネタ、或いは会話の場繋ぎ程度かも知れないな」
屋上に座る樋口が体を動かす度に、地上にいる人間たちは沸き立ち、今か今かとダイブするのを心待ちにしているように映る。
「このような騒動を引き起こした張本人のお前は勿論だが、自分たちのしている行為に何の疑問も持たない…自殺の決定的瞬間を逃すないと、お前にレンズを向け続けている不感症の傍観者たちも…私にはクズ人間に映るがな。ヘドが出るわ」
「フッ。クズってさ…おばさん…。警察の人がそんなこと言っちゃっていいの?」
私の方へ、くるりと向き直り、樋口は輪郭のはっきりした声を発した。
「ん? こんな格好をした…」ケースバイケースだが、時々私は法服で身を包んでいることを利用する。「…警察官がいるか? 私は通りすがりの者だ」
「フッ…その格好で通りすがりって…ここはビルの屋上だってば! 怪しいなぁ~…けどおばさん面白いね!」
私は地上にいる女子高生のように、ミーハー担当者となり、跳び跳ねたい衝動に駆られる。
『そう! 私は面白い!』
樋口の言葉を、冗談の通じない元プロ野球選手の尾崎に聞かせてやりたい。
『分かる人間には分かるのだ!』




