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「サムライー日本海兵隊史」(外伝等)

戦艦スワロフの最期の航海

作者: 山家

 作中の描写から分かるとは思いますが。

 拙作の「サムライー日本海兵隊史」世界の外伝になります。

「お父さん、まだ耳は聞こえますか。スワロフが月にもうすぐ到着しますよ」

 半分泣きながら、長男が耳元で半ば怒鳴っていた。

 その後ろでは、ラジオが実況中継をしている。

「将来の人類の月面着陸計画の一環として、ロケットを月面に打ち込むという計画はもうすぐ成功します。カウントダウンを始めたいと思います」

 

 1959年、イワン・ネボガトフ(元)ロシア海軍大佐は、医療用の痛み止めの麻薬により得られた末期の安息の下、その二つの声を確かに聴いていた。

 月に打ち込まれるロケットは日本製だが、そのロケットの材料の一部は、今は海に沈んでいる、自分が最後の艦長を務めた戦艦スワロフから作られたものだ。

 もう、長男に返答することもできない状況だが、ネボガトフ大佐の脳はその言葉が意味するものを理解して、長年の戦艦スワロフと共に歩んだ人生を思い起こしていた。


 ネボガトフという名字を持つが、別にバルチック艦隊で艦隊司令官の一人だったネボガトフ提督と親戚関係にある訳ではない。

 お互いの系図を細かくたどっていけば、ひいひいお祖父さんが兄弟だったとかかもしれないが、そんな遠縁関係等、掃けば捨てるほどあるもので、親戚付き合い等全く無かった。

 だが、ネボガトフ大佐は個人的にはネボガトフ提督に単なる同姓以上の親しみがあった。

 それは共に日露戦争時のバルチック艦隊のウラジオストク回航に参加したことからくるものだった。


 自分はあの日露戦争時にバルチック艦隊の旗艦である戦艦スワロフの航海士官の一人として、海軍大尉の身でウラジオストク回航に参画していた。

 リバウ軍港からウラジオストクまで本当に生きてたどり着けるのだろうか、と余りにも壮大な大航海に出発時から既に自分は気が遠くなりかけた。

 実際、英の様々な妨害もあり、同盟国の筈の仏はろくに援けもせず、という有様で、あの大航海は悲惨極まりないものだった、と自分は記憶している。

 もし、あの小村寿太郎とウィッテが直前に結んだ停戦協定がなければ、バルチック艦隊はどうなっていただろうか、日本の連合艦隊の迎撃を突破して、ウラジオストクにどれだけがたどり着けただろうか。


「絶対に主砲も副砲も全ての砲を日本の軍艦に向けてはならん。ここ対馬海峡を我が艦隊は無害に通航しているのだ」

 対馬海峡通航時のロジェストヴェンスキー総司令官の厳命が今でも耳元に木霊してくる気がする。

 そうは言っても、というのが自分を含むバルチック艦隊の乗組員の総意だったろう。


 周囲は完全に日本の連合艦隊に固められている。

 公然と日本艦隊の戦艦や巡洋艦の主砲や副砲は自分達に全てが向けられ、駆逐艦や水雷艇はあたかも自分達を襲撃目標としているかのような行動をしてくる。

 本音では、自分達も主砲や副砲を日本の軍艦に向けたいという想いがこみ上げてくる。

 しかし、現在は停戦協定を結んだ状況だ、それに下手にこちらから挑発しては、こちらが不利になるだけだ、それが理性では分かっている。

 我々バルチック艦隊の乗組員は極度の緊張の末に対馬海峡を通航した。

 通航を終えた後、何人かの乗組員は胃に穴が開いて亡くなったという噂が艦隊内で流れた程だった。

 バルチック艦隊を尾行して、日本の連合艦隊主力はナホトカまで付いてきた。


 停戦協定でウラジオストクに入航しないと決まったので、ナホトカに入航する。

 詭弁といえば詭弁だ。

 だが、奉天会戦で陸軍が大敗した祖国ロシアにとって、バルチック艦隊が無事に太平洋艦隊になりかわれるかどうかということは、日露戦争を大敗から小敗北にできる半ば最後の手段だったのだ。

 こうしてナホトカを臨時の母港とした新太平洋艦隊の無言の圧力が存在することにより、ポーツマス条約は無事に締結された。


 自分は日露戦争の後も太平洋艦隊勤務が続いた。

 そして、ウラジオストクで結婚してそこに居宅まで構えた。

(第一次)世界大戦が勃発して暫くが経った頃、自分は海軍大佐にまで昇進し、あの日露戦争時に乗り込んでいた戦艦スワロフの艦長に任命された。

 それが自分のロシア海軍の軍人としての(結果的には)経歴の頂点になった。

 既に戦艦スワロフは前ド級戦艦として時代に取り残された存在になっていた。

 日本でさえも超ド級戦艦の「扶桑」を保有する時代になり、ロシアも同様に超ド級戦艦の建造を行おうとする時代になっていた。

 何れはロシアも超ド級戦艦を保有するだろう。

 その時は、その艦長になりたいと自分は夢見ていた。

 しかし。


「艦長。第13番命令を実行せよとの旗りゅう信号が地上の司令部に掲げられました」

「了解したと旗りゅう信号を掲げよ。本艦は最期の航海に出航する」

 自分自身が涙を浮かべているのが分かる。

 視界が歪んでいるのだ。

 その歪んだ視界の中にいる乗組員全てがすすり泣いていた。

 だが、この命令は遂行されねばならない。

 これがロシア帝国海軍の最後の誇りを保つ唯一の行動だからだ。


 第一次世界大戦の果てに、ロシア革命が起こったのだ。

 そして、ロシア全土は内戦状態となり、それに諸外国も介入を図った結果。


「ロシア太平洋艦隊は、我が韓国が管理する」

 ウラジオストクに進駐してきた韓国軍の将軍は、そのように言って来た。

 自分の本音を言えば、ロシア帝国側のいわゆる白軍が確保している軍港に、太平洋艦隊を脱出させるべきだったが、この当時にロシア太平洋艦隊にとってそのような軍港は、安住の地は既にどこにも無かった。

 そういった状況に鑑み、自分も含めたロシア太平洋艦隊の幹部が討議の末に選んだ方法が。


「この位置ならば、本艦は完全に水没する水深に達しました」

「よし。キングストン弁開け。全隔壁を開放せよ」

 航海長の報告を受け、そう自分は命じた。

 第13番命令、それはロシア太平洋艦隊の全ての軍艦を自沈させよ、というロシア太平洋艦隊司令部の命令だった。

 その命令を自分は自分の信念に従って実行した。


「スワロフ、お前はロシア帝国海軍の軍艦旗以外は掲げたくないだろう。いや、お前に掲げさせたくない」

 そう最後に呟いて、自分は戦艦スワロフから退艦した。

 既にこの時には、スワロフにまともに戦闘行動出るだけの乗組員はいなかった。

 ロシア革命後の様々な混乱により、スワロフに乗り組んでいた多くの将兵が脱走しており、スワロフは第13番命令を実施するのが精一杯な有様に堕していた。

 艦長として、自分が預かった軍艦がそのような状態に陥ったことを恥じ入るしかなかった。

 そして、それがロシア太平洋艦隊の旗艦を長年にわたって務めたことのある戦艦スワロフが水上での最後の航海を終えた時だった。

 最後まで残っていた一握りの乗組員たちと共に、自分は戦艦スワロフが海底への更なる最後の航海に赴くのを涙を浮かべながら見送った。


 その時、自分達の周囲には似たような光景が広がっていた。

 スワロフの姉妹艦3隻もスワロフと共に海底への航海に参加していた。

 まるで、妹1人だけを逝かせては天国で妹が寂しいだろう、お姉ちゃん達も一緒に天国に逝くよと姉達も一緒に揃って天国へ逝くことを決めたようにさえ自分には思われた。

 他にも多くの戦艦が巡洋艦がスワロフと共に死出の旅路に、海底への最後の航海に出航していった。

 そして、その軍艦の周囲には何隻もの小型艇が浮かび、ロシア海軍の軍服を着た軍人が思い思いの方法で乗り組んでいた軍艦の海底への最後の航海を悼んでいた。

 ある者は敬礼しながら、ある者は号泣しながら、ロシア太平洋艦隊の最期を見届けたのだ。


 第13番命令に従った全ての軍艦が自沈を果たしたのを見届けた後、自分はウラジオストクに戻った。

 ウラジオストクでは折角の戦利品を失った韓国軍の将軍が怒り狂っていて、自分達ロシア帝国太平洋艦隊の主な幹部を適当な罪名をでっち上げて逮捕した。

 更に処刑までしようとしていた(らしい)。

 だが、日米両国が介入し、ロシア帝国太平洋艦隊のこの行動は海軍軍人として立派な行動であると弁護したために、我々は釈放された。

 後で知ったが、どうも我々の行動は日米両国の暗黙の了解が事前にあったらしかった。

 それで、このようなことになったらしい。


 ともかくこのような状況になった後、釈放された我々は四散していった。

 極一部の者はそれでも祖国の大地から離れがたかったらしく、ウラジオストク等に残ったが。

 自分も含めた多くの者が国外亡命の道を選んだ。

 自分は妻子と話し合った末に日本へと亡命することにし、日本へ亡命した後は何回か引っ越した末、最終的に何故か故郷を自分に思わせる札幌に妻子と共に定住することにした。


 ロシア帝国という祖国、故郷を失った自分や妻子は無国籍者だった。

 そのために辛酸をなめ、長男は18歳になり次第、日本海兵隊への入隊志願書を出した。

 少しでも早く日本国籍を家族の為に取得したいと考えての長男なりの行動だった。

 幾ら事情があるとはいえ、無国籍なので志願してもはねられるのではないか、と私は思っていたが、懇意にしていた近所の人達が動いてくれたらしく、長男は日本海兵隊に一兵卒として採用された。

 そして、長男は真面目に務め上げ、兵から下士官へと昇進していった。

 長男が下士官になる直前に、長男は日本国籍を取得し、自分達も日本国籍を取得することが出来た。

 でも。


 ネボガトフという姓を自分も長男も(そして妻や他の子達も)変えられなかった。

 日本国籍を取得した以上、日本風の名字にしても良かったはずだが。

 だが、姓を変えることはかつての祖国、故郷を捨て去るような気がして、どうにもできなかったのだ。


 そして、1907年に生まれた長男は1927年の南京事件から始まった日(英米)中限定戦争を皮切りに日本海兵隊の一員として数々の武勲を挙げた。

 更に満州事変が一段落した後、長男は日本人と結婚して子どもを儲けた。

 他の子も相次いで日本人と結婚していき、いつか自分(と妻子)にとって日本は第二の祖国になった。


 満州事変が一段落した後も、日本は完全に平和を中々楽しめる状況にはならなかった。

 スペイン内戦への義勇兵派遣、中国内戦介入、そして、第二次世界大戦への参戦。

 半ば当然のことながら、長男は海兵隊の一員として戦い抜き、下士官から(特務)士官へと昇進した。

 そして、長男は最終的に(特務)大尉にまで昇進して、第二次世界大戦の終結を見届けることになった。

 次男や三男も日本人として陸軍に徴兵されて戦い、結果的に次男は戦死し、三男は心を病んで帰還した。

 懸命に自分や妻は、他の子や三男の妻子と共に、三男をまともにしようと努めたのだが、三男の心の傷は大きかったのだろう。

 最期は大量の酒と睡眠薬を飲むことによる半分自殺同然の事故の末に、第二次世界大戦から数年後に三男は天国に旅立った。

 それから10年余りが経つが、三男が遺した妻子と今でも自分達は交流があり、妻子は今でも三男を死なせたことを気に病んでいるようだ。


 走馬灯のようにかつての人生が浮かんでくる。

 そして。


「どうも物を食べる際に物がつかえる気がする」

 そう言って、半年程前に自分が病院に行った時には、すでに手遅れだった。

(最初に食道に発生したらしい)ガンは、体内の何か所かに転移した末期ガンの状態で、手術も不可能で余命は月単位という有様だった。

 その頃に新聞記事で知ったのだ。


 月面に向かうロケットの材料の一部として、戦艦スワロフの鋼材が使われるというのを。

 ウラジオストク港の傍に大量に自沈している旧ロシア太平洋艦隊の軍艦群は、微弱な放射能汚染さえ許されない宇宙開発等に使われる特殊な機材の鋼材として注目され、海底から一部が回収されているらしい。

 そして、今回の月に向かうロケットの材料には、戦艦スワロフから回収された鋼材が使われるというのがその記事の内容だった。


 もう充分に長生きした筈だった。

 もう80歳を過ぎたのだ、夫婦揃ってこの激動の時代を生き抜いたが、息子2人に先立たれた。

 ガンの告知を受けた際には、いつ死んでもいい、別に安楽に息子達の下に逝ければ、とさえ思っていた。

 だが、その記事を見た瞬間に自分は思った。


 戦艦スワロフの鋼材が使われた月面へ向かうロケット、それが月面に打ち込まれるのを見聞きしてから死にたいと。

 ある意味、戦艦スワロフが月への航海に赴くようなものではないか。

 戦艦スワロフの最後の艦長を務めた自分は、それを見届ける義務がある。

 だが、自分の余命宣告からすれば見届けられない可能性が高い、何とか見届けたい。


 私の決意を聞いた主治医は余りいい顔をしなかった。

 主治医の判断では、私の末期ガンの状況からして、化学療法等、様々なガン治療法を試みても、私のガンによる苦痛を延ばすだけで却って痛みによる生活水準の低下をもたらすだけだというのだ。

 だが、医師として延命治療を望む患者本人の希望は無視できない。

 渋々、主治医は私に化学療法等を試みてくれた。


 その結果。

「3、2、1、0。今、月面に打ち込まれた筈です。正式な成功発表は今少しお待ちください」

 ラジオの実況中継が叫んでいる。

 何とか末期の息の下、自分は月面に向かうロケットが月に到達するのを見届けることが出来た。

 良かった、スワロフ、お前は月への航海を無事に果たせたのだな。


 イワン・ネボガトフはラジオ放送を聞きながら、そう想いを巡らせて息絶えた。


 イワン・ネボガトフの長男、ミハイル・ネボガトフ予備役日本海兵隊少佐は、父が息を引き取るのを見届けた後、自然と敬礼をしていた。

 本来なら母と共に父が亡くなるのを見送りたかった。

 だが、母は息子2人、自分からすれば弟2人に先立たれたショックから、認知症になってしまい、更に今では息子3人とその家族に包まれた夢の世界の住人になっている。

 父の長い人生の航海は、自分が中心になって見送るしかあるまい。


 それにしても、戦艦スワロフか。

 ウラジオストクで生まれ育った自分にとって、ロシア太平洋艦隊の艨艟は憧れの存在だった。

 その中心にいたのが戦艦スワロフだ。

 父は戦艦スワロフと共にウラジオストクに来て、家庭を築いた。

 勿論、軍艦である以上、何れは廃艦等の運命を迎えるのが必然だが。

 まさか、戦艦スワロフが自沈という運命を辿るとは、その自沈命令を実行するのが父になるとは。

 父にとって断腸の思いがする出来事で、それもあって家族と共に国外亡命という道を父は選んだのではないだろうか。

 国外亡命した後、父や自分達は様々な人生の辛酸をなめた末に札幌に定住し、日本人になった。


 そして、戦艦スワロフが自沈して約40年余り、まさかその一部の鋼材が月に向かうとは。

 スワロフの鋼材が月に向かうことがある等、父も自分も思いもよらないことだった。

 戦艦スワロフの最後の艦長を務めた父が、それを見届けてから死にたいと願った気持ちが自分には分かる。

 

 父さんの瞼には浮かんでこなかったかい。

 戦艦スワロフが月への最後の航海に旅立った姿が。

 自分の瞼には浮かんでくる気がする。

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