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春の鼓動

作者: 十名巨登

二作目の短編です。よろしくお願いします。



 春、あなたを思い出す。



 誰もいない音楽室、窓辺から、ひらりと桜の花びらが舞い散る。

 ピアノを触るのは何年ぶりだろう。もう弾くこともないと思っていたのに。

 私は今、ここにいる。確かに、ここに存在している。

 その事実が不思議で、嬉しくて、切なくて。

 あなたの笑顔を想い浮かべる。純粋で、ただひたすらに眩しかったあの笑顔を。










 死を考えたことはあるだろうか。


 誰しも、死んだ後はどうなるのか、死後の世界はあるのか、といった疑問を一度はもったことがあるだろう。それ自体は特別珍しいことではない。しかし、そんな疑問を中学生の、それも二年生にもなってまで抱いているというのは異常であろう。


 そう、私、高木恵は難病に侵されている。


 幼児の頃は友達と普通に外で遊ぶこともできた。しかし、小学三年生になる頃、足は動かなくなり、食事は喉を通さなくなっていた。


 筋萎縮性側索硬化症、それが憎むべき私の病気の名前だ。

 普通は六十歳~七十歳というような高年齢で患う病気なのだが、まれにそれよりも若い年齢でかかることがある。手足が動かせない上に、喉の筋肉も衰え、喋ることも、食事を取ることもできなくなる。


 医者からは後一年だと通告された。


 死ぬのが怖い。

 どうしても怖い。怖くて仕方がない。死ぬとはどういうことなのだろう。今でさえ話すこともできず、手足も動かない不条理に苦しんでいるのに。もう、この苦しみも、悲しみも、感じることすらできなくなるのだろうか。春、恨みたくなるほど美しい桜が見える病室で、恵は恐怖に苛まれていた。


 すると、病室に一人の少年が入ってきた。


「あなたはだれ?」


 パソコンの音声ソフトを使い、同年代位の少年に質問する。


「僕は宮永翔。覚えてる? めぐちゃん」


 名前を言われ、記憶が蘇る。恵は寝ぐせで髪がぼさぼさしているこの少年のことを知っていた。


 天才少年ピアニスト、宮永翔。

 今やテレビでも取り上げられるほどの有名人でありながら、恵の幼少期の親友でもあった。恵は特別上手かった訳ではないが、ピアノを弾くことも、聞くことも大好きだったから、翔とはすぐに打ち解け合った。


 特に翔の弾く「メンデルスゾーン作、春の歌」は格別だった。

 優しく包みこむような音色に恵は恋をしていた。

 卒園する頃、親の転勤で引越していたが、今年戻ってきたらしい。

 恵の家へと挨拶に行った時に真実を告げられ、この病室へと向かったそうだ。


「全部聞いたんだ。めぐちゃんの病気のこと。でも、その上で僕は君との夢を叶えたい」


 夢? 手も足も動かせない私に、夢なんて……。


「小さい頃からの夢なんだ。君といつか、一緒に演奏したいっていう、僕の勝手な夢」

「無理よ、こんな体じゃ……」


 恵の発する声は、音声ソフトによる電子音。

 しかし、その声は確かに寂しそうで、押し殺されていた。


「そんなこと無い。きっと何とかなる。だから、僕の夢を叶えるために頑張ってほしい」


 翔の言葉に、恵の中の何かが切れた。


「きっと何とかなる? どうにもならないんだよ。頑張って? もうとっくに頑張ってる。何年も会ってないくせに、知ったような口聞かないでよ。ふざけないで」


 怒りが込められた声に翔は答える。


「それでも、立ち上がることを諦めないでほしい。前例が無いなら、めぐちゃんが前例になればいい」


 それから、恵は心のずっと奥深くにあった自分の闇の部分をさらけ出していた。何と言ったかは覚えていない。きっと、死ねとか、馬鹿とか、そんな罵詈雑言だ。


 恵は翔に怒りをぶつけていた。

 しかし、同時にすこし嬉しくもあったのだ。


 時々見舞いに来る友達も、家族でさえも、恵自身の心に踏み込むようなことをしてこなかったから。皆が 皆、遠慮して、言葉を選んでいた。恵はその行為にありがとう、ありがとうと繰り返すことしかできなかった。


 翔の夢は現実的ではない。不可能なことだ。塵ほどにも、希望なんてない。

 でも、たった後一年の人生なんだ。

 生きる目的ぐらいあってもいいじゃないか。


 だから。


 恵は、その日、自らの運命に必死に抗うことを心に決めた。













 翔は毎日、恵の病室に足を運んでいた。いつしか、翔との会話が恵の日常になっていた。


「めぐちゃん、僕、今度の文化祭で「春の歌」を弾くんだ。だからその時までには外出できるくらいになってよ」

「……後、三か月で?」

「大丈夫大丈夫、なんとかなるって」

「無茶苦茶言うわね」


 季節は夏。桜の木も葉が生い茂り、日光が反射して輝いている。日差しがやけに眩しい。


「……分かったわよ。やれるだけのことはやってみる」

「うん、頑張れ!」

















 奇跡が起きた。


 それは十月のこと。恵は立ち上がることに成功したのだ。筋力は対して戻っていない、非科学的で非現実的なことだが、恵は立ち上がったのだ。


「やったね、めぐちゃん!」

「……自分でも、まだ信じられない。本当に、こんな奇跡って起こるものなの?」

「起こるんだよ、起こったんだよ、奇跡が。よかった、本当に、本当に、よく頑張ったね」


 昨日、立ち上がれた時は、状況が理解できずに、ただ茫然としていた。家族が恵に抱きつき、号泣してもその実感がなかった。


 翔が涙を流したこの瞬間、恵はようやく判断できた。これが夢ではなく、現実だということに。


 恵の瞳からは大粒の滴が、何度も何度も流れ落ちていた。














 文化祭当日。医者から外出の許可が出た。もちろんつき添い人として、翔も同行することが条件である。


 肌に吹き抜く風は冷たく寒い。翔は学校へと向かう道をゆっくりと歩く。車椅子に乗る恵の負担を少しでも減らす為に。


「今日は楽しんでいってね、めぐちゃん」

「うん、今度は翔が頑張る番」


 とはいっても、すでに園児のころから弾けていた曲だ。翔が失敗することなどないだろう。


「今日はめぐちゃんのためだけに弾くから。観客席から、絶対に目を離さないでね」


 恵は頬が熱くなる。よくもそんな恥ずかしいセリフを言えるものだ。ふと、恥ずかしさを紛らすために翔から視線を外した時である。







「避けて! 避けて!」






 甲高い女性の声が聞こえた。瞬間、翔に抱きつかれる。恵の目線の先には道路を外れ、突っ込んでくる鉄骨を積んだトラックの姿があった。

 激しい衝撃と圧迫感。瞳を開けると、頭から血を流す、翔の姿が見えた。

 その翔に手を伸ばして恵は気付く。口から多量の血を吐いていることに。


 恵の背中には鉄骨が落ちており、心臓は押しつぶされていた。


 意識が消えてゆくなかで、必死に翔に手を伸ばす。

 だが、いくら手を伸ばしても、翔に届くことはなかった。




 ――――意識が、暗転する。














 ここはどこだろう。


 地面には雑草が茂り、空には無数の星が輝いている。遠くを見ると川が流れており、橋の向こう側には、誰かがいる。


 その人影には見覚えがある。否、彼以外にはありえない。

 車椅子も、音声変換するためのノートパソコンもない。

 立ち上がるだけで精いっぱいのはずなのに、恵は二足で歩くことができた。

 雑草を踏みつけながら橋まで走ると、彼の姿がはっきりと見えた。


「めぐちゃん、僕もうダメみたいだ」


 橋の先には自分を責めるかのように笑みを浮かべる翔がいた。

 ダメって何、どういうこと? 死ぬってことなの? 嫌だ、嫌だよ。

 不安と緊迫感が、一秒の内に何度も何度も恵の胸を打ちつける。


 とにかく、何か、何か言わないと!


「あ……あ……あ……」


 恵は翔に声をかけようとするが、声を発することができない。何年も声を出していなかったせいで、どのようにして声を発すればよいのか、分からないのだ。


「ごめんね、勝手なこと言って、めぐちゃんを振り回して。その結果、こんなことになっちゃって。でも、大丈夫、めぐちゃんを死なせはしないから」


 恵は反論しようとする。だが、どうしても呂律が回らない。


「もう、そろそろみたいだね」


 川の流れが荒くなる。繋がれていた橋が、その濁流に飲み込まれ、流されてしまう。


「ありがとう。大好きだったんだ。僕の、初恋だった。だから、あんな身勝手なことを」


 今にも壊れてしまいそうな笑顔を浮かべている。



 ――――私だって、私だって。



 恵はどうにかして言葉を紡ごうとしたけれど、ついぞ叶わなかった。

 翔が見えなくなり恵は跪く。


 足に触れる雑草の感触。その感覚が消え、真っ白な光に照らされる。













 恵はそれから、慣れた薬品の臭いと医者の声かけで目が覚めた。


 当時の記憶はないが、医者によると、一筋の涙を流して覚醒したらしい。

 そして、また奇跡が起きた。

 恵の体調はみるみる内に力を取り戻し、今では話すことも、食事を取ることもできるようになったのだ。


















 たった数ヶ月前の出来事なのに、とても昔のことのように感じる。


 それはきっと、もう、彼がいないからだ。


 放課後、誰もいない音楽室で恵は、椅子に腰をかけ、恐る恐るピアノに触れる。約七年振りに聞くその音は、恵の体を優しく満たしてゆく。


 いつか彼と一緒に演奏できるくらい上手くなろう。


 桜の花びらが舞い散る季節に、恵は決断をする。

 前例がないのだから自分がいつ死ぬのかは分からない。

 けれど、死ぬことがとても怖いことだと知っている自分だからこそ、できることがあるはずだ。



 胸に手を当てる。彼の、初恋の人の鼓動が今も鳴っている。






「あなたのことが、大好きです」






 鍵盤を眺め、もう一度触れる。誰が見ている訳ではないけれど、今日は彼のために弾こう。彼だけのために。

 あの、ただひたすらに眩しかった笑顔を思い出しながら。













 指先から、春が鳴る。


最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

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