三.
家に着いた頃には、もう深夜一時を過ぎていた。
住宅街には人影はなく、家々はしんと静まりかえっている。三笠は音もなく通りを歩き、『晴波』の表札を掲げた門をくぐった。
晴波桜――それが、三笠の人間としての名前だ。
暗い家の中に足を踏み入れた三笠は、居間の電灯をつけた。ちゃぶ台の上に鞄を置き、障子戸を開けて庭の様子をうかがった。
目を凝らしてみても、人影は見えない。
「はぁ……」
ようやく緊張を解き、三笠は深々とため息をついた。
刀もちゃぶ台に載せ、畳の上に腰を下ろす。ガラス戸にもたれかかり、三笠は目を閉じた。着物の帯を軽く緩め、胸元もややくつろげる。
「……三年ぶり、かな」
妖魔と戦ったのは久々のことだった。以前は毎日のように妖魔を倒していたが、ここ最近は皆無に等しい。
三笠は目を開け、畳の上を四つん這いで進む。
その先には、小さなスクリーンがある。キネマラジオと呼ばれる装置だ。ラジオ局から音声だけでなく映像も受信し、画面に投影することができる。なかなか高価な娯楽道具だ。
三笠は手を伸ばし、装置の隅についたダイヤルをカチリと回した。
スクリーンに白黒の映像が映し出される。
『――淑女の嗜みにミフネコロン』カチッ『帝都タワーはまさに東洋の――』カチッカチッ『――から盗み出された【万魔の剣】の行方は未だ――』
ひたすらチャンネルを回した後で、三笠はキネマラジオの電源を切った。
そして、ぼんやりと真っ白なスクリーンを見つめる。
出雲のバーで夕食を取ってしまったので、夜食を食べる気分にもなれない。特に読んでいる本もなければ、のめり込んでいる趣味もない。
ならば寝ようか――と想ったところで、三笠はふっと笑った。
「……出雲の言う通りかもしれない、な」
毎日、こんな調子だ。ただひたすら流されるようにして、惰性で生きている。
三年前から、何もかもおかしくなってしまった。
――赤い凍土――火の雨――無残に殺された者達――。
「う……」
ずきりと頭が痛んだ。
三笠は額を押さえ、ちゃぶ台の上に目をやる。
そこにはわずかな錠剤とガラスの水差し、そしてコップが置いてあった。
「……今日はもう、寝よう」
三笠はそう決めて、ちゃぶ台に近づいた。
名称をしっかりと確認しつつ錠剤の包みをあけ、水差しからコップに水を注ぐ。
そしてそれを、口に運ぼうとしたときだった。
キン、と鋭い耳鳴りを感じた。
「――ッ!?」
三笠の手から錠剤が零れ落ちる。
とっさに刀を掴み、三笠はあたりに鋭い視線を向けた。
空気がわずかによどんだように感じる。それは妖魔出現の前兆だが、先ほど狒々の妖魔に襲われた時とはその具合が若干異なった。
「ここじゃない、な」
三笠は刀の柄から手を下ろした。
妖魔の気配はやや離れた場所から感じる。この近所が危険にさらされる事はないだろう。
だが、放っておくわけにはいかない。
妖魔は欲動のままに人間を襲う。そしてその瘴気に体を汚染された者を、妖魔に化えてしまう。妖魔に対しマキナが有力なのは、その瘴気を自力で浄化できるからだ。
「――私が行くか」
三笠は立ち上がると明かりを消し、刀を手にきびきびとした足取りで部屋を出た。
暗闇の中で、その赤い瞳はかすかに光っていた。