二.
外の空気はたっぷりと湿気を含んでいた。
日付が変わり、繁華街の活気はいっそう高まったように思えた。飯屋の提灯は明々とともり、怪しげなキャバレーの客引きの声がこだましている。
「こんなに遅くまでいるつもりはなかったんだがなぁ」
三笠は独りごちつつ、懐から小さな携帯端末を取り出した。金属と黒い木のパーツから組み上げられたそれは、俗にラジオベルと呼ばれている。
モノクロの画面には、【連絡ナシ】の文字が浮かび上がっていた。
「朝日姉さんからの連絡は無いか……仕方が無い、また日を改めて点検を頼もう」
三笠は肩をすくめると、ラジオベルをポケットにしまった。
ふと顔を上げると、街角に掲げられたスクリーンには『大襲来から三年』の文字が浮かんでいた。画面はすぐに切り替わり、乱れた映像が映った。
地上を這い回る無数の怪物、それに立ち向かおうとする少数の人間――。
「……あれから三年、か」
ほうとため息を吐くと三笠はスクリーンに背を向け、細い裏道へと足を進めた。
薄暗くゴミだらけで、どこか剣呑な雰囲気の漂う道だ。しかし、こちらを通ったほうが路面電車の駅には早く到着することが出来る。
三笠は足早に裏道を進んだ。不意にその背後でカサリと小さな音が響く。
「むッ!?」
ばっと三笠は振り返った。
その鋭い視線の先で、残飯をあさっていた黒猫がにゃあと可愛らしい声をあげる。。
「猫……猫か。ふむ、猫か……良いな」
ぶつぶつとつぶやきつつ、三笠は地面にしゃがみ込んだ。懐から小さな巾着を出し、その中に入っていた金平糖をいくらか手に取る。
カラフルな菓子の載った掌を、三笠はおずおずと伸ばした。
「そら……どうだ?」
黒猫は金の瞳を丸く見開いたまま、じっと三笠を見つめていた。その足は腐りかかった鯛の頭を押さえたまま微動だにしない。
より積極的なアプローチが必要か。そこで三笠は軽く手を揺らしてみた。
「どうだ、ちょっとこっちに来てみないか……そら、そ――ッ!?」
きん、と耳鳴りを感じた。
三笠は金平糖を一気に口に放り込むと、険しい顔で立ち上がった。薄汚れた裏路地を満たす異様な気配に、ざわざわと肌が粟立った。
口いっぱいの甘味を適当に噛み砕いて飲み下し、小さくつぶやく。
「……なんだ?」
細長い包みをしっかりと握り、三笠は鋭い視線をあたりに向ける。その足下を、タイの頭をくわえた黒猫が走り去っていった。
ごぼりと背後で何かが泡立つ音がした。
三笠ははっと振り返る。
地面から黒い泡がわき上がり、ほんの数秒で狒々のような姿へとまとまる。二対の目をぎょろぎょろと動かしつつ、怪物は三笠めがけて巨大なこぶしを振りかぶった。
「妖魔ッ――!」
三笠の目が鋭く光る。その手は考えるよりも先に動き、細長い包みを一瞬で解いた。
銀の閃光が闇に走る。
耳障りな悲鳴が響き渡った。狒々は泡をふきながら、背後に大きくのけぞった。その右腕は、肩口からばっさりと切り落とされている。
滝のように零れる赤黒い血を見つつ、三笠はふっと息をついた。
「……少し、カンが鈍ったかな」
三笠の左手には先ほどの包みの中身――長刀が握られていた。冴え冴えと輝く刀身には、【皇國興廃在此一戦】の名が刻まれていた。
刃から血をふるい落とすと、三笠はいったんそれを鞘に納める。
その鋭い視線の先で、妖魔がうなり声とともに体を震わせた。すると、だくだくと赤黒い血の零れていた肩口でぼこぼこと肉が盛り上がる。
徐々にそれが腕の形になっていくのを見て、三笠はスッと目を細める。
「治癒能力が高いのか。――ならば」
再生した腕で妖魔は胸を大きく打ち鳴らし、地響きとともに突進してくる。
「魄炉、起動」
三笠が低い声で呟くと、その瞳が赤く輝いた。
瞬間、煌めく風があたりに吹き荒れた。
赤く輝く粒子を載せた突風が、真っ向から妖魔にぶつかる。
妖魔はとっさに腕を交差させて体をかばいつつも、大きく後退した。しかし再び野太い咆哮を上げ、三笠めがけて突撃する。
三笠はそれを軽やかにかわし、三笠は素早く抜刀した。
冴え冴えと輝く刀身に風が絡みつく。
「とどめだ、行くぞ」
三笠が刀を振り下ろした。赤い風の刃が生み出され、妖魔の巨体を一瞬で両断した。
「――マキナの一刀、その身に刻め」
マキナとは、改造人間のことを言う。
それは人外の核を元に、無数の制御具を組み合わせた機関――【魄炉】を体に宿した者だ。彼らは人間を凌駕する身体能力を誇り、霊気を自在に操る事が出来た。
三笠もまた、その一人。
かつて、この神州皇国を救った英雄としてその名を轟かせたマキナだった。
妖魔の死骸がしゅうしゅうと音を立てて崩れていく。ゆっくりと地面に消えていくそれから視線をそらし、三笠はふと耳を澄ませた。
サイレンの音がかすかに聞こえる。
「霊軍か。……ずいぶん早いな」
三笠はぐっと足に力を込め、高く跳躍した。ビルの狭間を抜け、その屋上に軽やかに着地する。立ち上がると、眼下には帝都東京の夜景が広がっていた。
「この町も、ずいぶん大きくなったものだな」
煌びやかな摩天楼が雑然と夜空に積み上がり、足下を流れる自動車の川を見下ろしている。そしてそれらに紛れて、五重・八重の楼閣が赤い光を灯していた。
さらに遠くには赤い鉄骨の絡み合った、神州の象徴ともいえる巨大な鉄塔が見える。
「……む、いけない」
地上にいくつか赤い警報灯が瞬くのが見えた。同時にかすかに聞こえていたサイレンの音が、いっそうはっきり聞こえてくる。
もうじきここに霊軍――妖魔の討伐などを主な役目とする軍の警邏隊が到着するだろう。
「よいせ――っと」
軽く屈伸をしてから、三笠は隣のビルの屋上に飛び移った。