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朝が来る前に


 目が覚めました。

 気が付くと、青年は泣いていました。頬を暖かくて塩辛い涙が伝っていきます。

 あれは、夢だったのでしょうか。


 青年がエトワールだったのです。

 青年自身が、人形だったのです。


 何百年も昔に、実際にこの部屋で、一人取り残された悲しい人形だったのです。

 乗り移り、と言うものだったのでしょうか。それにしては生々しい感情が、あの人形の悲しさが胸を掻き毟ってきます。

 彼女自身の絶望が、悲しみが、辛さが青年の心を満たします。それは他人のものとして見るのには強すぎるもので、エトワールの目を通して彼女の人生を味わった青年には尚更苦しく感じられるものでした。自制できない感情に流されて、目からは涙、そして口からは嗚咽が漏れます。

 とめどなく後から溢れ出てくる涙を拭って、青年はカンテラを拾い上げました。もう部屋は蝋燭で照らされていないの――いえ、元々そんなものはなかったのです。あれは、今、ではなく昔、だったのですから。幻覚、と思うのが一番早いでしょう。

 エトワール……最後の望みを、叶えて、あげなきゃ……。最期は確か、この部屋で……。

 それに、あの夜に、エトワールには聞こえなかった、ですが彼女と同化していた青年には聞こえた、アルハサンの言葉を伝えなければなりません。彼女が安心して休めるように。

 彼女は、助けてと青年に言いました。助けて欲しかったから、自分の記憶を見せたのでしょう。だから青年が、彼女を救わなければなりません。

 カンテラに火を灯し、青年はそれを掲げました。明るい暖色の光が部屋の奥まで届きます。

 そして見つけました。造られたときと同じ机の上で、倒れてうごかない、そして足が割れているからくり人形を。青年が夕方見かけたものと同じドレスを着た、黒髪の歌姫を。もう部屋には、アルハサンというあの若者も、美しかった人形もいません。あるのは、動かなくなった壊れかけの人形だけです。

 滲む視界の中、青年は人形に近づいて、そっと抱き起しました。元はあんなに綺麗だった黒髪は艶がなくなり、なめらかな陶器の肌にはひびが入っていました。色がくすんでいるのは砂のせいでしょう。

 青年が見た通り、人形を動かす元となるぜんまいがすぐ近くに落ちていました。

 風化して折れてしまいそうなそれを拾い上げ、慎重にエトワールの背中にある穴に差し込みました。ゆっくり、ゆっくりと、折れてしまわないように回します。

 五回回すと、ぜんまいは回らなくなりました。それだけでは動けないのでは、と青年は思いましたが、その意に反して、エトワールの体がピクリと動きました。

 いかにも人形といった動きで、首を上げ、腕を持ち上げます。昔のあの滑らかな動きはどこへ行ってしまったのでしょうか。見ているだけで辛くなってくるような動作です。

 エトワールは顔を上げ、瞼を開きました。青く綺麗な目がのぞきますが、その目には何も映していないのでしょう。目の前にいる青年も、何もかも。

 少女はぎくしゃくとした動きで自身の胸に手を当て、歌おうとします。開かれた口から掠れて甲高い機械音と、砂が大量にこぼれてきました。

 思わず飛びのきそうになった青年は必死で我慢し、涙をこぼしながらそんなエトワールを抱きしめました。

 青年のぬくもりに反応せず、エトワールは歌おうとします。しばらく不協和音を奏でた後、ようやく声ととれる音を発しました。初めは小さく震えていたそれも、数分歌い続けるとそれも立派な歌声となって、静かな室内に響きだしました。

 高音が空を切り裂き、低音は優しく体の芯を揺さぶってきます。エトワールの声は長い年月が経っても衰えず、身震いするほど美しいものでした。

 耳元で彼女のそんな神がかった歌声を聴きながら、青年は涙をこぼしていました。

 その涙の意味は何でしょう。当の本人である青年にもよく分かりません。ただ、後から後から溢れてくるのです。

 独りぼっちの人形は、歌い続けます。

 知らない青年の腕に抱かれて。

 それを青年は泣きながら聞いていました――。


 どれくらいそうしていたのでしょうか。突然エトワールの声が止まりました。

 耳元で紡がれていた歌声が止まったのにハッとして、青年が顔を上げます。ぜんまいが止まったのかと思いましたが、どうやらそうではないようです。

 というのも、細い陶器の腕が、自分の背中に回されていることに気が付いたからです。

「エトワール……」

「……アル、ハ、サン?」

 確かに、確かにエトワールはそう口にしました。

 青年はてっきり、長い年月に薄れて、もう人形は生まれ持った役割しか果たさないものかと思っていました。大好きな人々との記憶も、奇跡だという感情も、なくなってしまったのだと思っていました。

 しかしそうではないことが証明されて、青年の目からまた新たな涙がこぼれてきました。

「…………そうだよ」

「泣い、てるの? どうし、て? ……泣かな、いで」

 限界が近づいているのか、少女の形をとった人形は切れ切れにしか喋りません。

 本当に、何で泣いてるんだろう、俺……。

 自分でも不思議です。自分は当事者ではないことは、ちゃんと青年は分かっています。例え夢で現実を見ようと、幻覚を見ようと、乗り移っても、青年は本当のエトワールではないですし、アルハサンでもありません。

 それなのに、こうも嬉しくて、悲しくて、苦しいのは何故なのかは、分かりません。

「……エトワール」

「なあ、に?」

「置いていってごめん……ごめんよ……」

 顔は見えませんが、エトワールが微笑んだ気配がしました。

「……いい、の。今、こうして、戻って来て……くれたのだから」

 安心しきった人形の声に、ちょっとした罪悪感が青年の胸をチクリと刺しました。

「それと……」

 続きの言葉に一瞬詰まりました。本当にこれは、自分が口にしていいことなのかと。ですが、ちゃんと伝えないといけません、アルハサンのためにも、エトワールのためにも。

「……愛してる。愛しているよ、エトワール」

「……――私も、よ」

 青年はエトワールに気づかれないように息を吐き出しました。

「歌ってくれないかな、エトワール。僕は君の歌声が好きなんだ」

「……ふふっ。いいわよ」

 そう言って、壊れかけの人形は歌いだしました。

 先程とは違う歌を聞いている間、絶えず青年は涙を零していました。

 月日とこの環境が迎えさせた本当の限界が、エトワールを蝕んでいきます。その歌声は徐々に掠れていき、音程も怪しく、また機械音が混ざってきました。

「……ありがとう」

 唄の最後にそう言って、孤独な人形は、動かなくなりました。青年の腕の中の身体は力が抜けてダランとしました。

「あぁ……」

 青年は泣きました。

 声を上げて泣きました。

 朝日が昇るまで、ずっと……。


 このお話は、青年しか知りません。

 誰もいない寂れた遺跡に、一体の心を持つ人形がいたことは。

 その国が滅びた理由も、その土地の住民の生活も、人々が愛し合っていたことも――。

 一人以外、誰も知りません。


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