見放された理由
エトワールがアルハサンに造られてから、およそ二年が経とうとしています。
その間にアルハサンはまた成長し、立派な男性になりました。エトワールは人形ですので成長はしませんが、偶発した感情は多彩になり、また人間らしい表情もうまく作れるようになりました。唄や踊りが上手になったのは言うまでもありません。
最近は、アルハサンに起こされなくても自分で起きられるようになりました。それをからかった彼に文句を言ったら笑われたのは、結構新しい思い出です。
箪笥から黄色の服を出して着ます。エトワールは黄色も好きです。何故ならアルハサンが好きだと言った色だからです。
今日は何があるかな……。
ちょっとした楽しみを抱えながらリビングへ行くと、そこにはいつも通りアルハサンがいました。少し疲れた表情で、朝食を取っています。
「あぁ。おはよう、エトワール」
こちらに気づいてくれた彼に笑顔を見せ、エトワールも挨拶を返しました。
「おはよう、アル」
そんな人形に、アルハサンは優しく目を細めました。
昔からの日課で、隣に座ったエトワールの黒髪をアルハサンが梳きます。人形であるエトワールの髪はもちろん人工のものですので、伸びることはありませんが砂と日光で痛むことはあります。それを毎日手入れしてくれるのが生みの親であるアルハサンです。
「どうしたの? 最近アルは浮かない表情をしているわ」
二年という歳月の中で、エトワールの喋り方は人間味を帯びてきました。
「あー……。気づいていたのか」
「人形の目だってなめたら痛い目に合うわよ」
「それは怖いな。エトワールって怒ったら怖いもんね」
笑いながら言った彼の頭でも小突こうかなと思って、振り返ろうとしますが、なにせ髪を掴まれているのでそれは叶いませんでした。むくれて拗ねた声を上げます。
「どういうことよ、それ」
「そのままの意味だけど」
含みのあるアルハサンの声に溜息が零れました。最近は何気ない動作が自然にできるようになったので、少し嬉しいです。また一歩人間に近づいたような気がするからです。
「まあいいんだけどね。それでね、アル。最近どうしたのかな? 皆元気がないの」
エトワールが再びそう問いかけると、アルハサンは渋い顔をしました。答えるのをためらっているようです。
「……この間、地震あったでしょ」
少しの沈黙を挟んだのち、アルハサンはそう切り出しました。
確かに地面が大きく揺れた日がありました。大地がそうやって動くことを地震というそうです。この地方では珍しく、国民全員がパニックになっていたことを覚えています。
「それで、その揺れで地下水路が塞がれてしまったみたいなんだ。今国の若い者で元に戻そうと掘ったりしてるんだけど、全然水が見つからないんだ」
「え……。それじゃあ、飲み水とかも」
エトワールが振り向くと、アルハサンは少し悲しそうな顔をしていました。
「そうだよ。飲み水だけじゃない。野菜も取れなくなるし、家畜も少なくなるだろうね。だから国は、もう既に節約を進めているよ」
そう言われたので、改めてアルハサンの前の朝食を見てみると、確かに以前より量が減っています。
「大丈夫なの……?」
不安に駆られて、エトワールは彼を仰ぎました。
「大丈夫さ。その内元に戻るよ」
その時、彼はそう言いましたが、その“その内”は永遠に来ませんでした――。
この国が食糧危機に陥り始めてから半年が経った、ある日の夜のことです。
その日も、ずっと少なくなった夕飯を食べるアルハサンの隣で歌を歌っていました。彼が好きなのはゆっくりとした曲調のものですから、浮かんでくるメロディーの中から選んで歌います。
食糧危機に陥ってから、国の命令で夕食後にすぐに寝るという決まりができたので、アルハサンが食べ終わるまで待って、エトワールは自分の寝室に行こうとしました。
と、そこでアルハサンに腕を引っ張られます。
「?」
何だろうと思い、振り返ると、彼の寂しそうな顔が目に映りました。彼のそんな表情は初めて見ます。
「どうしたの? アル」
「ちょっと」
アルハサンはそれだけを言って、いきなり抱きしめてきました。とっさのことでどうしたら良いか分からず、エトワールの体が固まります。彼はそんなことにも構わず、人形の脆い陶器の身体が壊れないように、そっと優しく、ですが同時に力強く。
「あの、えっと……アルハサン?」
しばらくされるがままに抱きしめられ、ようやくエトワールはそう口にしました。今まで頭を撫でるなどのスキンシップはありましたが、抱きしめられたのは初めてです。
「どうしたの?」
エトワールがそう問うと、アルハサンは何でもない、と言って体を離しました。そのときの彼の表情が、なんというのでしょうか、とても……そう、とても、寂しそうなものでした。何かを決心したような、ですが同時にそれを後悔しているような、今にも泣きそうな、そんな顔でした。
それが意味するところを、エトワールは理解することができませんでした。何故なら彼女は所詮人形に過ぎなくて、心を持つと言ってもそれは完璧なものではなかったからです。
「……?」
少し眉をひそめて見てくるエトワールに、アルハサンはもう一度何でもないんだよ、と笑いました。その笑いも、なんだか無理をしているように見えました。気のせいかもしれませんが。
「……そう?」
「うん、そう。何でもない。……おやすみ、エトワール」
「……おやすみなさい」
短いやり取りを交わして、エトワールは彼に背を向けました。寝室の扉を開けたときに振り向くと、アルハサンの唇が動いたのが見えました。ですが声は小さく、エトワールは何て言ったのか理解できませんでした。
首をかしげると、彼は諦めにも似た表情で、おやすみ、とだけもう一度言いました。
今夜のアルは、ちょっと変だな。
疑問に思いながらも、エトワールもおやすみの挨拶を返しました。
それが――彼、アルハサンと交わした最後の言葉でした。
……翌朝、起きると、この国には誰一人として、人間はいませんでした。